第22話:コテツ
それから少し経った、春に近い二月の週末のことだった。
花は一人で、近くの神社にお参りに行った。
特に理由はなかった。
ただ、なんとなく行きたかった。
蓮を誘うことも考えたが、今日は一人で行こうと思った。
参道を歩いていると、前に人影があった。
小柄な女性だった。
白髪を丁寧にまとめた、背の小さな人。
ゆっくりとした足取りで、参道の石畳を歩いていた。
花は、足が止まった。
見覚えのある後ろ姿だった。
供養祭で見た、あの人だった。
女性が本殿の前で立ち止まって、手を合わせた。
花も少し離れたところで、手を合わせた。
お参りを終えて、女性がゆっくりと振り返ったとき、ふいに目が合った。
女性は花をじっと見つめ、それから小さく首を傾げた。
「……あなた、あの時の。供養祭に来てくれていましたよね」
花は、思わず息を呑んだ。
「はい」
と、声を絞り出すように言った。
「覚えていてくださったんですか」
「覚えてますよ」と、女性は言った。
目元の皺を優しく深めて、穏やかに微笑む。
「あの地域猫の供養に、若いお嬢さんが来てくれるなんて珍しいから。嬉しくてね。……コテツのこと、知っていたの?」
コテツ。
その名前を、花は初めて聞いた。
けれど、なぜだろう。
初めてなのに、ずっと前から知っていたような、身体の奥がじんわりと熱くなるような奇妙な感覚がした。
「……コテツ、というのが、あのラジオを……猫ちゃんのお名前ですか」
「そうよ」と、女性は小さく頷いた。
「うちでずっと飼っていた子。……何をするにも、いつもサボってばかりの、本当に困った子だったんだけどね」
サボってばかり。
――サボリ。
花の胸の奥で、何かが静かに、けれど激しく波打った。
「フニャ。ハイどうも。サボリです」
毎夜、スピーカーの砂嵐の向こうから聞こえてくる、あの気怠くて、意地悪で、けれどどうしようもなく優しい猫の声が、女性の言葉と完全に重なった。
あのラジオは、コテツちゃんの依り代だったんだ。あの子は今も、サボりながら、あそこでラジオを続けているんだ。
私が眠れない夜、ずっと繋がっていてくれたあの声の主は、この小さなおばあさんに「コテツ」と呼ばれ、深く愛されていた猫だった。
「……あの、もしよろしければ」
花は、トクショクと高鳴る鼓動を抑えながら、女性の目を見つめた。
「コテツちゃんの、お話を聞かせていただけませんか」
女性は少しだけ驚いたように花を見た。
それから、まるで我が子の思い出話をせがまれた母親のように、とても柔らかく笑った。
「いいわよ。あそこの角に小さな甘味処があるの。お茶でも飲みながら、ゆっくり話しましょうか」
花は何度も、深く頷いた。
参道の出口に向かって、二人の小さな背中が並んで歩き出す。
冬の終わりの、春に近いあたたかな風が、境内の木々を優しく揺らして二人を包み込んでいった。




