第20話:また行きましょう、じゃなくて
翌朝、蓮からメッセージが来たのは昼前だった。
『昨日はありがとうございました。ちゃんと帰れました。今日は休みにしました』
花は返した。
『良かったです。ゆっくり休んでください』
少し間があって、また来た。
『花さん、昨日のこと、SNSに書いてもいいですか。サブ垢で。コメントは拒否にして、記録として残しておきたくて』
花は少し考えた。
『いいと思います。信じてもらえるかは分からないけど、同じ経験をした人には届くかもしれないので』
『そうですね。書いてみます』
それだけのやり取りだった。
花はスマホを置いて、コーヒーを淹れた。
昨夜のことを、頭の中で整理した。
蓮が迷い込んで、電話してきて、花がサボリの言葉を伝えて、蓮が眠って帰れた。
それだけのことだった。
でも花は、電話を切った後もしばらく、スマホを握ったまま動けなかった。
声が、震えていた。蓮の声が。
「花さん、ずっといてくれたんですか」という声が。
コーヒーを一口飲んだ。
好きかもしれない、という気持ちが、昨夜から少しだけ、輪郭を持ち始めていた。
数日後、蓮からメッセージが来た。
『サブ垢に書いたら、思ったより反応があって。同じ経験した人が何人かいるみたいで、DMが来てます』
『どんな内容ですか』
『異界の駅に迷い込んだことがある、とか、眠ったら帰れた、とか。あとは、降りてしまって長時間彷徨った人も。その人は気づいたら朝になってて、気力が戻ったら出口が見えたらしいです』
花はそれを読んで、ラジオのことを思った。サボリが言っていた脱出法のどれかが、実際に機能している。記録として残していくことに、意味がある。
『蓮さんって、発信するの得意ですね』
『え、そうですか』
『龍水川の小豆洗いのこともそうだけど、記録しておこうとする。それって大事だと思います』
少し間があって、返信が来た。
『花さんに言われると、なんか、照れますね』
花は少し止まった。
照れる、と書いてきた。
花もなんとなく、照れた。自分で書いておいて、照れた。
『そういうつもりで言ったわけじゃないです』と送って、すぐに、なんか違うと思った。でも送ってしまった。
『どういうつもりで言ったんですか』
花はしばらく考えた。
『そのままの意味です。大事だと思ったから、言いました』
『……ありがとうございます』
それで終わった。
でも花は、スマホを置いてから、みやびに「何見てるんですか」と言いたくなった。
みやびは別に花を見ていなかった。ロフトで何かをしていた。
一人で照れていた。
年が明けて、一月の最初の週末だった。
蓮から「初詣に行きませんか ちゃんとした神社に」とメッセージが来た。
花は「いいですよ」と返した。
待ち合わせは神社の鳥居の前で、蓮はまた約束の時間より少し早く来ていた。コートの上からマフラーを重ねて、手袋をしていた。
「あけましておめでとうございます」と蓮は言った。
「おめでとうございます」と花は言った。
二人で参道を歩いた。初詣の人出があって、いつもより賑やかだった。屋台が出ていて、甘酒と焼き団子の匂いが混じっていた。
本殿でお参りをして、おみくじを引いた。
蓮は大吉で、「やったー」と言った。声が大きかった。
花は小吉だった。
「何が書いてありましたか」と蓮が聞いた。
「『待ち人来たる』と書いてありました」と花は言った。
「それいいじゃないですか」と蓮は言った。
「誰かを待ってるんですか」
花は少し考えた。
「分からないですけど」と言った。
「来るなら、来てほしいとは思います」
蓮が、少し黙った。
それから、また歩き始めた。
帰り道、屋台で焼き団子を買って、二人で食べながら歩いた。
人通りが少ない道に入ったとき、蓮が言った。
「花さん、聞いていいですか」
「何ですか」
「俺のこと、どう思ってますか」
花は団子を持ったまま、少し止まった。
どう思っているか。
ラジオの話ができる人。見えなくても来る人。神社が好きな人。声が大きくて、よく笑う人。異界の駅から電話してきた人。「花さん、ずっといてくれたんですか」と言った人。
「……友達、だと思ってます」と花は言った。
「でも、それだけじゃないかもしれないです」
蓮が、花を見た。
「それだけじゃない、というのは」
「好きかもしれないです」と花は言った。
言ってから、少し驚いた。自分の口から出た言葉が、思ったより素直だった。
でも、取り消す気にはならなかった。
蓮が、笑った。いつものよく笑う顔だったが、今日は少し違った。目の端が、わずかに赤かった。
「……俺も、花さんのことが好きです」と、蓮は言った。
「龍水川で会った日から、ずっと。ちゃんと言えなかったけど、昨日の電話で、決めました。言おうと思って、今日来ました」
花は焼き団子を一口食べた。
甘かった。
「……付き合ってもらえますか」と、蓮は言った。
「いいですよ」と、花は言った。
蓮が、また笑った。今度は声も出た。
「なんかあっさりしてますね」
「あっさりしてますか」
「してます。でも、そういうところが好きです」
花は少し笑った。
道の端で、二人で焼き団子を食べた。冬の風が吹いて、二人のコートの裾を揺らした。
家に帰ると、みやびがリビングにいた。
「どうでしたか」とみやびが聞いた。
「初詣に行ってきました」と花は言った。
「小吉でした。待ち人来たる、って」
「来ましたか」とみやびは言った。
花は少し間を置いた。
「来ました」
みやびが、静かに微笑んだ。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
コートを脱いで、こたつに入った。
スマホを開くと、蓮からメッセージが来ていた。
『今日はありがとうございました。帰り道、ずっとにやにやしてます』
『私もです』
と送ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、もう取り消すつもりはなかった。
その夜、棚の上の古い防災ラジオのツマミを回した。
ザザ……ザー……プツッ。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……あー、今夜はお前の部屋、また空気が変わりましたね。なんというか、現世の、春先のような締まりのない浮ついた匂いがします。詳しくは聞きませんよ、お前の私生活など欠片も興味はないのでね」
花はこたつの中で、小さく身を縮めた。
いつもならここで「じゃ、閉店」と気まぐれに終わるはずの電波の向こうで、パサリ、ときつく紙をめくる音が響いた。サボリの気配が、一瞬で凍りつく。
「……ただ、仕事の話は別です」
だるさが完全に消えた、低く、冷徹な猫の声だった。
「お前のその『連れ』、異界の駅の話をインターネットの泥海に流しましたね」
花は心臓が冷たくなるのを感じた。
言い訳をしようと口を開きかけ、けれどラジオは無情に先を越す。
「『サブアカウントだから』とか、『記録として少しだけ』とか、『同じ目に遭った人を助けられるかもしれない』とでも、そのぬるい頭で言い訳する気でしょうがね。……あそこは、波長が合って『迷い込む』場所です。それを現世の不特定多数に教えれば、どうなると思う?」
ラジオの向こうで、サボリが苛立たしげにツメを机に立てた。
「興味本位で『探そうとする』奴が必ず現れる。オカルトマニア、配信者、現実の生活に退屈して刺激を求めている人間。……ただ迷い込んだ人間なら、今夜のお前のように現世から引っ張り上げることもできたでしょう。だが、自ら進んで異界の境界を覗き込み、探そうとして近づく人間は、迷い込んだ人間より、ずっと深く、瞬時に引きずり込まれます。お前たちのしたことは、現世に『蟻地獄の看板』を立てたのと同じですよ」
花は息を呑んだ。そんなつもりは、蓮にも自分にもなかった。
ただ、二度と同じ恐怖に怯える人が出ないようにと、善意のつもりだった。
「……すでにね、その書き込みを見て境界を跨ぎ、二度と戻れなくなっている間の抜けた人間の気配が、こちらに届き始めています」
サボリの声には、もう一切の容赦がなかった。
「お前たちが始めたことです。……次からは、きっちり仕事をしてもらいますよ、眠れない会社員。……じゃ、閉店」
プツン。
砂嵐すら残さず、ラジオの電波は完全に切られた。
花は棚の上のラジオを見つめたまま、しばらく指一本体かせなかった。プラスチックの筐体が、いつもより少しだけ冷たい気がした。
自分の小さな一歩が、蓮との関係を近づけてくれた。それは間違いなく、あたたかい光だったはずなのに。
その光が、現世のどこかで、別の誰かを底なしの闇へ突き落とす引き金になってしまった。
ロフトの上から、みやびが静かに顔を出した。
「おやすみなさいませ、花さん」
「……おやすみ、みやび」
花は電気を消し、布団に入って目を閉じた。
今夜は、すぐに眠れた。
眠れたけれど、胸の奥に冷たい澱みが溜まっていくような、そんな夜だった。




