第19話:異界の駅(後編)
『おかしい、というのは』
花は受話器を強く握りしめ、声を絞り出した
『乗り換え案内のはずだったんですよ、終電で。でも、乗り換えた電車が、なんか違くて……
駅に着くんですけど、知らない駅で。アナウンスもないし、他の乗客もいないし、ホームに人もいない。一回降りたんですけど、なんか怖くて、また乗りました。今も走ってます、電車が』
花は、深呼吸をした。
『蓮さん、聞いてください。落ち着いて』
『うん』
『今あなたがいるのは、普通の電車じゃないです』
少し間があいた。
『……やっぱりそうですか』
と、蓮は言った。
『なんか、そんな気がしてた。ラジオで聞いたことある感じがして、だから花さんに電話しようと思って』
『正解です』と花は言った。
『よく電話してくれました』
花はラジオを見た。砂嵐のままだった。
でも、花には今、蓮に伝えられる情報がある。
サボリが言っていた。
脱出の方法は、いくつかある。
『蓮さん、脱出する方法を教えます。三つあります。聞けますか』
『聞けます』
『一つ目。煙か紙を燃やすこと。でも火は持ってますか』
『持ってないです。ライターも、マッチも』
『じゃあ一つ目は無理です。二つ目。電車に乗り続けること。降りないで、ずっと乗っていると、波が戻るかもしれない』
『波が、戻る?』
『あなたがあそこに引き込まれたのは、波長が合ったからです。その波が戻れば、現世に繋がる駅に着けるはずです。ただ、いつ戻るかは分からない』
『……うん』と蓮は言った。
『三つ目は』
『夢だと思い込んで、深く眠ること。眠れれば、現世に引き戻されるかもしれない。でも、あそこで眠るのは怖いですか』
少し間があった。
『……怖いですね』
と蓮は言った。
正直な声だった。
『最初はちょっとワクワクしてたんですよ、異界の駅だ、って。でも一回降りて、ホームで一人で立ってたら、急に怖くなって。ここでずっと彷徨うのかと思ったら』
『降りて戻れたんですか』
『電車がまだいたので、また乗りました』
『それは正解でした』
と花は言った。
『降りないでください。絶対に、一人でホームに留まらないでください』
『分かりました』
花はどうするか、考えた。
乗り続けるか、眠るか。
火がない以上、その二択だった。
『蓮さん、体力的にはどうですか。ずっと起きていられますか』
『……正直、眠いです。残業続きで、今日も遅くて』
『じゃあ』と花は言った。
『眠ってみてください』
『眠れますかね、こんな状況で』
『眠れなくてもいいです。目を閉じて、夢だと思い込んでください。怖くても、これは夢だ、と繰り返してください』
『花さんは、そこにいますか』
花は少し止まった。
『います。電話、繋いだままにしておきます。ここにいます』
『……分かりました』と蓮は言った。
『じゃあ、やってみます』
電話が、沈黙した。
蓮が目を閉じているのだろう。電車の走る音が、かすかに聞こえていた。
花はスマホを耳に当てたまま、ラジオを見た。砂嵐のままだった。でも花は、サボリがどこかで聞いていると思った。
時計が、午前二時四十分を指していた。
花は待った。
みやびが、ロフトから静かに下りてきて、花の隣に座った。
何も言わなかった。ただ、そこにいた。
電話の向こうで、電車の音が続いていた。
午前三時を過ぎた頃、電話の向こうの音が変わった。
ガタゴトと響いていた不気味な重低音が消え、プシュー、と錆びついた空気が抜けるような現実の音がした。
『おい! 君、そこで何してるんだ!』
強い怒声と、カツカツと迫る安全靴の音。回送電車の点検員らしき男の声だった。
蓮が、激しく咳き込みながら寝惚けた声を出した。
『あ、すみません、寝過ごして……ここ、どこですか……』
それから、バタバタとシートから立ち上がる音がして。
『花さん』
蓮の声が、戻ってきた。
いつもの、少し高くて、
でも今は激しく震えている蓮の声だった。
『います』と花は言った。
『……帰れました。真っ暗な、どっかの車両基地の線路の上です。でも、街の明かりが見えます』
『良かったです』
蓮が、深く息を吐く音がした。
『花さん、ずっといてくれてたんですか』
『います、と言ったので』
少し間があった。
『……ありがとうございます』
声が、少し震えていた。
『気をつけて帰ってください』
と花は言った。
『今夜は真っ直ぐ帰って、ちゃんと眠ってください』
『はい』
と蓮は言った。
「……帰ります。……また、連絡します」
ブツッ、と静かな電子音を立てて、通話が切れた。
液晶のバックライトが消え、ワンルームに本当の闇が戻る。
花はスマホを膝の上に置いたまま、ゆっくりと深く、溜まっていた息を吐き出して天井を見上げた。
背中が冷たい汗でびっしょりと濡れていることに、今更気づいた。
みやびが、ロフトのはしごから音もなく下りてきて、花の隣にちょこんと座った。
何も言わなかった。ただ、冷たくなった花の小さな手を、自分の両手でそっと包み込んでくれた。
その手は、花の部屋に用意されたふかふかのお布団のように、とてもあたたかかった。
「……良かったですね、花さん」
「……うん。良かった」
花は棚の上の、まだザーザーと砂嵐を上げている防災ラジオに近づき、そのツマミを少しだけ回した。
「……フニャ。ハイどうも。時刻は午前三時を回ったところです。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです」
スピーカーから聞こえてきたのは、いつもの、低くて眠そうな、やる気のない猫の声だった。
ツメをカリカリと机に立てる音も、さっきまでの張り詰めた空気も、もうどこにもない。
「……あー、なんか急に電波の通りが元のどんよりした重さに戻りましたね。お前の部屋のノイズも、やっと大人しくなった。……まったく、人の忠告を無視して余計な電波を横流しするリスナーがいるせいで、今夜はひどく無駄な毛づくろいをする羽目になりましたよ」
花はラジオの前で、ふっと小さく笑った。
サボリは全部、分かっているのだ。
電話の向こうで何が起きて、蓮がどうやって帰還したのかも。
「まあ、現世の境界を踏み外しかけたマヌケが、自力で泥船から飛び降りられたなら結構なことです。怪異の神様も、たまには気まぐれを起こすということで。……ただね、眠れない会社員」
サボリが、ふいにとんとんとマイクを叩いた。
「今夜のお前は、ちょっと余計なエネルギーを使いすぎました。部屋の空気は私がちゃんと冷やして、綺麗にしておいてあげますから。いいからさっさと布団に入りなさい。……じゃ、閉店」
プツン。
砂嵐すら消えた完全な沈黙の中で、花はしばらくラジオを見つめていた。
「部屋の空気を冷やして綺麗にしておく」というのは、ラジオの中に移ったあの古いエアコンの付喪神への、サボリなりの伝言だったのかもしれない。
棚の上で、ラジオの金属の表面が、心なしかほっとしたようにじんわりと熱を帯びていた。
「おやすみなさい、サボリ」
花は小さく呟いて、ラジオをそっと撫でた。
みやびが再びするりとロフトへ上がっていき、上から「おやすみなさいませ」と微かな声が降ってくる。
「おやすみ」と花は言い、電気を消した。
今夜は、神経が昂ってしまって、なかなかすぐには眠れなかった。
でも、それでよかった。
「ここにいます」と自分が言った場所に、ちゃんと留まって、誰かの帰る場所になれた。
それだけのことが、これまでの自分の人生にはない、とても大切なことのように思えたから。
エアコンの代わりにラジオから流れる、かすかで、でも澄んだ冷たい風を感じながら。
やがて、花は深く、穏やかな眠りへと落ちていった。




