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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆもニャ
第二章 居場所のないもの

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第18話:異界の駅(前編)

 その夜、サボリの声がいつもより遅かった。


 花がツマミを回したのは午前一時を少し過ぎた頃で、砂嵐が長く続いた。


 いつもなら三十秒もすれば繋がるのに、今夜は五分近く待った。


 ようやく声が来たとき、いつもとは違う気配があった。


「……フニャ。ハイどうも。時刻は、午前一時十七分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです」


 いつものだるい声だった。


 でも、その下に何かが張り詰めているような、そういう空気があった。


「今夜は……少し、厄介なメールが届いています」


 紙をめくる音。


 それから、爪が机をゆっくりと叩く音。


 考えているときの音だ、と花は思った。


「ラジオネーム、『乗り換え案内』。……幽霊、ですね。拝読します」


 サボリが、ゆっくりと、いつもより幾分か低い声で読み始めた。


「『サボリさん、はじめてメールします。私は異界の駅に住んでいる幽霊です。この駅は、現世と異界の境界にある場所で、ごく稀に波長の合った人間が迷い込んでくることがあります。ほとんどの人間は、駅のホームでパニックになり、やってきた次の電車に飛び乗ってしまいます。そうすると、もっと深い異界に引き込まれて、二度と戻れなくなります。今も、ホームのベンチに一人、うなだれたまま迷い込んでいる人間がいます。私はその人を助けてあげたいのですが、私の力では電車を止めることも、出口を教えることもできません。どうしたらいいでしょうか』……以上です」


 読み終えて、受話器の向こうのような、重苦しい沈黙が横たわった。


 いつもの「知らんがな」は、来なかった。


 花はこたつの中で、毛布の端を強く握りしめた。


 ラジオのスピーカーから、サボリがギリ、と奥歯を噛み締めるような音が聞こえる。明らかに、苛立っていた。


「……チッ、最悪だ」


 苦い舌打ちが、容赦なく電波に乗る。


「……これは、完全にアウトですよ。その『駅』は、私もよく知っています。現世の土地の澱みに当てられた人間が、夢と現実の隙間で踏み外す底なし沼だ。そして、あそこは私の管轄外だ。契約上、私が直接手を出して引きずり戻せる場所じゃない」


 爪が机を激しく叩く音が響く。


 焦っているのだ、あの猫が。


「……いつもならね、眠れないお前に丸投げして『ちょっと行ってこい』とパシリにするところなんですが。今回ばかりはそれも無理だ。あそこに人間を生身で送り込んで、もし『次の電車』が来ちまったら、私にはお前を引っ張り上げる手段がない。……それは、絶対にさせない」


 サボリの声から、だるさが完全に消えていた。剥き出しの、冷たい拒絶。


「今夜あそこに迷い込んでいるマヌケが誰かは知らないが……もう、どうしようもない。自力で『これは夢だ』と強く念じて泥のように眠るか、あるいは夜明けまでホームのベンチにしがみつき続けるか、どちらかだ。だが、それを現世から伝える手段はない。……詰みですよ」


 サボリが、深く、重い吐息をついた。


「……花」


 花は、心臓が止まるかと思った。


 今まで「お前」か「眠れない会社員」としか呼ばなかったサボリが、初めて、明確に自分の名前を呼んだ。


「今夜は、絶対にそこから動くな。ラジオのツマミも回したままにしておけ。私の電波でお前の部屋の境界だけは固定しておく。……いいな、絶対に寝るなよ」


 プツン。


 強制的に切られた電波のあと、静まり返ったワンルームに、ザー……という砂嵐の音だけが虚しく響いた。


 花は棚の上のラジオを見つめたまま、浅い呼吸を繰り返した。


 サボリが私の名前を呼んだ。動くなと言った。それだけで、今、世界の裏側で起きていることの異常さが、肌を刺すような冷気となって伝わってきた。


 ロフトの上から、みやびが音もなくはしごを下りてくる気配がした。


 彼女の顔も、見たこともないほど青ざめている。


「花さん、空気が……外の空気が、完全に凍りついています。どこかで、大きな穴が空いたみたいに……」


 そのときだった。


 こたつの上に置いていたスマホが、ブー、ブー、と異常な振動を始めた。


 画面を見ると、チャットアプリ『RAIN』の無料通話の着信画面が光っている。


 相手の名前は、――「香山蓮」。


 だが、着信音が狂っていた。


 いつもの軽快なメロディではなく、まるで古い電子機器が壊れたような、ジー、ジーという不快なノイズと、遠くで"「カン、カン、カン、カン……」"と踏切が閉まるような金属音が、スピーカーの奥から漏れ聞こえていた。


 花はごくりと唾を飲み込み、震える指で、通話ボタンをスライドした。


「……もしもし、蓮さん?」


『あ、……はな、さん……?』


 蓮の声だった。けれど、いつものハリのある大きな声ではない。


 酷く怯えた、凍える直前のような、掠れた声。その背景から、シューッという、電車のドアから空気が抜けるような、あるいは古い駅のホームに響くような不気味な音が、凄まじいノイズと共に響いてくる。


『……つながっ、た。よかった、スマホ、画面がバグってて……誰にも、繋がらなくて……』


「蓮さん、今どこにいるんですか!?」


『おれ、……わからないんです。仕事の帰り、あの、この前言ってた嫌な感じの部屋の確認に行って……そのあと、気づいたら、電車に乗ってて。でも、誰も乗ってなくて。……今、駅に、降りたんです。誰もいなくて、看板の文字が全部かすれてて読めない。……花さん、おれ、どうしたら……』


 花の脳裏に、サボリのあの苦い警告が、鮮烈に蘇った。


 ――あそこに一人、迷い込んだ人間がいます。


 次の電車に乗ったら、二度と戻れなくなる。




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