第17話:好きかもしれない、の手前
蓮からメッセージが来るのは、大体、深夜だった。
残業が多いらしく、帰り道や帰宅後に送ってくることが多かった。
内容はたいてい、ラジオが繋がったかどうかの報告か、神社に行ってきた話か、仕事で疲れたという愚痴か。
どれも短くて、返信しやすかった。
花はそれが、思ったより苦ではなかった。
誰かとメッセージをやり取りすることが、以前はどこか疲れた。
何を返せばいいか分からなくて、長く考えて、それでも送った後に「余計なことを言ったかも」と思うことが多かった。
でも蓮とのやり取りは、そういう感じがしなかった。
たぶん、ラジオの話ができるからだ、と花は思っていた。説明しなくていいから、楽なのだと。
十二月のある夜、蓮から珍しく長いメッセージが来た。
『今日、担当のお客さんに物件を紹介したんですけど、その人が「この部屋、なんか嫌な感じがする」って言い出して。俺には全然分からなかったんですけど、なんかそういうの、花さんなら分かりますか』
花は少し考えて、返した。
『分かるときと分からないときがあります。でも、そのお客さんの感覚は正しいかもしれないですね』
『どうすればいいですかね』
『その部屋を紹介するのをやめればいいんじゃないですか』
少し間があって、返信が来た。
『それ、営業としてどうなんですかね』
『お客さんが嫌な感じがすると言ってるんだから、別の部屋を探す方が良い営業じゃないですか』
また間があった。
『……確かに。ありがとうございます、花さん』
それだけのやり取りだった。
でも花は、スマホを置いてから、少しだけ温かい気持ちになっていた。
ありがとうございます、と言われることは、職場でも増えていた。でも蓮のありがとうは、少し違う温度がある気がした。
気のせいかもしれない、と花は思った。
初めて会ったのは、引っ越しから少しした頃だった。
蓮が「近くに良い神社があるので行きませんか」と誘ってきた。
花は少し迷って、「いいですよ」と返した。
待ち合わせは駅の改札前で、蓮は約束の時間の五分前に来た。
コートを着て、マフラーを巻いていた。龍水川で会ったときより、少し普通の人に見えた。双眼鏡を持っていないせいかもしれない。
「寒いですね」と蓮は言った。
「そうですね」と花は言った。
それだけで、歩き始めた。
神社は駅から十分ほどのところにあった。
住宅街の中に突然現れる、こんもりとした木立の中に、古い社があった。観光地ではないので、参拝者は地元の人がぽつぽつといるくらいだった。
「ここ、好きなんですよ」と蓮は言った。
「なんか、空気が違うんです」
「分かります」と花は言った。
「木の種類が変わって、光の入り方が変わるところで、空気が切り替わる感じ」
蓮が、少し驚いた顔をした。
「そうそう、それです。うまく言えなかったけど、そういうことです」
二人で参道を歩いた。石畳の隙間に苔が生えていて、木々の間から冬の空が見えた。
花は、この道を歩いたことがある気がした。
でも、それは全然違う季節の、違う神社だった。夏祭りの夜の、暗い木陰の記憶。
今は冬の昼間で、隣に人がいた。
帰り道、二人で甘酒を飲んだ。
境内の端に出店が出ていて、寒い日だったので自然にそうなった。
紙コップを持ちながら、蓮が言った。
「花さんって、ラジオ聴く前から、こういうの見えてたんですか」
「ラジオを聴く前から、というより」と花は少し考えた。
「小さい頃から、なんとなく気配みたいなものは感じていたと思います。でも、見えているとは思っていなかった」
「俺は全然見えないんですよね」と蓮は言った。
「感じることはあるんですけど。だから、花さんが小豆洗いに小豆を渡してるのを見たとき、すごいなと思って」
「蓮さんも双眼鏡で橋の下を覗いてたじゃないですか」
「それはただの趣味です」と蓮は言った。
「見えなくても、いるかもしれないと思って来るのが好きで」
花は甘酒を一口飲んだ。
見えなくても、いるかもしれないと思って来る。
それは蓮の、一番好きなところかもしれない、と花は思った。
思ってから、少し驚いた。
好きなところ、と思った。
自分が、蓮の何かを「好き」と感じていた。
花は紙コップを両手で包んで、甘酒の湯気を見た。
気のせいかもしれない。
好きなところがある、と好き、は違う。
でも、なんとなく、今日は帰りたくない気がした。
それは確かだった。
「寒いですね」と蓮が言った。
「寒いですね」と花は言った。
同じ返しをしてしまった。でも蓮は気にした様子もなく、「もう一杯飲みますか」と言った。
「飲みます」と花は言った。
帰り道は、また少しの間、同じ方向に歩いた。
「また行きましょう」
と、駅の手前で蓮が言った。
「他にも、まだ花さんの知らない面白い場所、たくさん知ってるので」
「……はい。いいですよ」
と花は言った。
別々の方向の電車に乗り、それぞれの日常へと帰る。
新居のマンションに戻ると、みやびがロフトのはしごから、ひょっこりと嬉しそうに顔を出していた。
花が用意した新しいふかふかのお布団が、よほど気に入っているらしい。
「おかえりなさいませ。どうでしたか」
「神社に行ってきました。……あと、あったかい甘酒も飲んだ」
「香山さんと、ですか」
「そう」
花はコートを脱いでハンガーにかけながら、少しだけ躊躇い、それから小さく付け加えた。
「……なんかね。もうちょっと、帰りたくないなって思った」
みやびは何も言わなかった。ただ、ロフトの上から、その大きな瞳を優しく細めて、静かに静かに微笑んでいた。
「何ですか、その顔」
「なんでもございません」
と、みやびは言った。
「ただ、冬の神社は冷えますから、お身体が温まってよかったな、と」
花は照れ隠しにこたつへ潜り込み、スマホを開いた。
蓮からメッセージが届いている。
『今日はありがとうございました!甘酒、美味しかったですね』
花はしばらく画面のカーソルを見つめ、それから指を動かした。
『美味しかったです。また行きましょう』
送信ボタンを押してから、ハッとした。
「また行きましょう」なんて言葉を、自分から、社交辞令ではなく本心で他人に送ったことなんて、今までの人生で一度もなかった。
スマホの画面をそっと伏せる。胸の奥が、まだ少しだけ甘酒の熱を残しているみたいだった。
その夜、棚の上の古い防災ラジオのツマミを回した。
ザー……ザザ……プツッ。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……んー、なんか今夜は妙にピンク色というか、浮ついた電波が混ざってますね。お前の部屋、空気が軽すぎて居心地が悪いですよ」
花はこたつの中で、(浮かれてないです)と心の中で小さく言い返した。
「まあ、人間たまには浮かれるのも結構ですがね。ただ、そういう慎重なくせに一度踏み出すとブレーキの利かなくなるタイプってのは、たまに足元をすくわれるから気をつけなさい。……お前のことですよ、よく眠れる会社員」
サボリが、ふいにつまらなそうに爪を立てて机を叩いた。
「ただまあ……そうやって、一生かけても踏み出せないはずだった奴が、たまに勇気を出して一歩進むってのは、案外、怪異の神様も悪いようにはしないもんです。……経験則でね」
サボリの声は、そこで一度途切れた。
いつもなら「じゃ、閉店」と続くはずの静寂の中で、ラジオのスピーカーから、フンス、と鼻を鳴らすような不快げな音が響く。
「……それから、お前が最近よく電波を混線させてる、その営業の男のことですがね」
花はベッドの中で、思わず身体を起こした。
「あいつ、少し仕事の『場所』を選んだ方がいい。……さっきからあいつのいる方向から、妙に泥臭い、嫌な澱みの気配がここまで流れてきてる。本人が見えないのをいいことに、現世の土地の悪いもんが、あいつの足首に触ろうとしてますよ。小豆洗いほど可愛げのある怪異ばかりじゃないってことを、まあ、頭の隅にでも置いときなさい。……じゃ、閉店」
プツン。
砂嵐に変わったラジオの前で、花はしばらく身動きが取れなかった。
蓮がメッセージで言っていた、「なんか嫌な感じがする」というお客さんの部屋。
蓮自身には何も見えていないけれど、サボリには、彼の周囲にまとわりつき始めた不穏な「澱み」が分かったのだ。
慎重すぎて踏み出せなかった私が、初めて「また」と言えた相手。
その蓮の身に、何かが近づいているのだろうか。
「花さん」
ロフトの上から、みやびが心配そうに顔を覗かせていた。
「……大丈夫ですか」
「うん」
花はラジオを見つめたまま、静かに息を吐いた。
「大丈夫。おやすみ、みやび」
「おやすみなさいませ」
目を閉じた。
部屋はあたたかいはずなのに、毛布の隙間から、かすかに冷たい風が入り込んできたような気がした。
眠れたけれど、その夜は、少しだけ重い夢を見た。




