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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも
第二章 居場所のないもの

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17/27

第17話:好きかもしれない、の手前

 蓮からメッセージが来るのは、大体、深夜だった。


 残業が多いらしく、帰り道や帰宅後に送ってくることが多かった。


 内容はたいてい、ラジオが繋がったかどうかの報告か、神社に行ってきた話か、仕事で疲れたという愚痴か。


 どれも短くて、返信しやすかった。


 花はそれが、思ったより苦ではなかった。


 誰かとメッセージをやり取りすることが、以前はどこか疲れた。


 何を返せばいいか分からなくて、長く考えて、それでも送った後に「余計なことを言ったかも」と思うことが多かった。


 でも蓮とのやり取りは、そういう感じがしなかった。


 たぶん、ラジオの話ができるからだ、と花は思っていた。説明しなくていいから、楽なのだと。




 十二月のある夜、蓮から珍しく長いメッセージが来た。


『今日、担当のお客さんに物件を紹介したんですけど、その人が「この部屋、なんか嫌な感じがする」って言い出して。俺には全然分からなかったんですけど、なんかそういうの、花さんなら分かりますか』


 花は少し考えて、返した。


『分かるときと分からないときがあります。でも、そのお客さんの感覚は正しいかもしれないですね』


『どうすればいいですかね』


『その部屋を紹介するのをやめればいいんじゃないですか』


 少し間があって、返信が来た。


『それ、営業としてどうなんですかね』


『お客さんが嫌な感じがすると言ってるんだから、別の部屋を探す方が良い営業じゃないですか』


 また間があった。


『……確かに。ありがとうございます、花さん』


 それだけのやり取りだった。


 でも花は、スマホを置いてから、少しだけ温かい気持ちになっていた。


 ありがとうございます、と言われることは、職場でも増えていた。でも蓮のありがとうは、少し違う温度がある気がした。


 気のせいかもしれない、と花は思った。




 初めて会ったのは、引っ越しから少しした頃だった。


 蓮が「近くに良い神社があるので行きませんか」と誘ってきた。


 花は少し迷って、「いいですよ」と返した。


 待ち合わせは駅の改札前で、蓮は約束の時間の五分前に来た。


 コートを着て、マフラーを巻いていた。龍水川で会ったときより、少し普通の人に見えた。双眼鏡を持っていないせいかもしれない。


「寒いですね」と蓮は言った。


「そうですね」と花は言った。


 それだけで、歩き始めた。


 神社は駅から十分ほどのところにあった。


 住宅街の中に突然現れる、こんもりとした木立の中に、古い社があった。観光地ではないので、参拝者は地元の人がぽつぽつといるくらいだった。


「ここ、好きなんですよ」と蓮は言った。


「なんか、空気が違うんです」


「分かります」と花は言った。


「木の種類が変わって、光の入り方が変わるところで、空気が切り替わる感じ」


 蓮が、少し驚いた顔をした。


「そうそう、それです。うまく言えなかったけど、そういうことです」


 二人で参道を歩いた。石畳の隙間に苔が生えていて、木々の間から冬の空が見えた。


 花は、この道を歩いたことがある気がした。


 でも、それは全然違う季節の、違う神社だった。夏祭りの夜の、暗い木陰の記憶。


 今は冬の昼間で、隣に人がいた。




 帰り道、二人で甘酒を飲んだ。

 境内の端に出店が出ていて、寒い日だったので自然にそうなった。


 紙コップを持ちながら、蓮が言った。


「花さんって、ラジオ聴く前から、こういうの見えてたんですか」


「ラジオを聴く前から、というより」と花は少し考えた。


「小さい頃から、なんとなく気配みたいなものは感じていたと思います。でも、見えているとは思っていなかった」


「俺は全然見えないんですよね」と蓮は言った。


「感じることはあるんですけど。だから、花さんが小豆洗いに小豆を渡してるのを見たとき、すごいなと思って」


「蓮さんも双眼鏡で橋の下を覗いてたじゃないですか」


「それはただの趣味です」と蓮は言った。


「見えなくても、いるかもしれないと思って来るのが好きで」


 花は甘酒を一口飲んだ。


 見えなくても、いるかもしれないと思って来る。


 それは蓮の、一番好きなところかもしれない、と花は思った。


 思ってから、少し驚いた。


 好きなところ、と思った。


 自分が、蓮の何かを「好き」と感じていた。


 花は紙コップを両手で包んで、甘酒の湯気を見た。


 気のせいかもしれない。


 好きなところがある、と好き、は違う。


 でも、なんとなく、今日は帰りたくない気がした。


 それは確かだった。


「寒いですね」と蓮が言った。


「寒いですね」と花は言った。


同じ返しをしてしまった。でも蓮は気にした様子もなく、「もう一杯飲みますか」と言った。


「飲みます」と花は言った。



帰り道は、また少しの間、同じ方向に歩いた。


「また行きましょう」


 と、駅の手前で蓮が言った。


「他にも、まだ花さんの知らない面白い場所、たくさん知ってるので」


「……はい。いいですよ」


 と花は言った。


 別々の方向の電車に乗り、それぞれの日常へと帰る。


 新居のマンションに戻ると、みやびがロフトのはしごから、ひょっこりと嬉しそうに顔を出していた。


 花が用意した新しいふかふかのお布団が、よほど気に入っているらしい。


「おかえりなさいませ。どうでしたか」


「神社に行ってきました。……あと、あったかい甘酒も飲んだ」


「香山さんと、ですか」


「そう」


 花はコートを脱いでハンガーにかけながら、少しだけ躊躇ためらい、それから小さく付け加えた。


「……なんかね。もうちょっと、帰りたくないなって思った」


 みやびは何も言わなかった。ただ、ロフトの上から、その大きな瞳を優しく細めて、静かに静かに微笑んでいた。


「何ですか、その顔」


「なんでもございません」


 と、みやびは言った。


「ただ、冬の神社は冷えますから、お身体が温まってよかったな、と」


 花は照れ隠しにこたつへ潜り込み、スマホを開いた。


 蓮からメッセージが届いている。


『今日はありがとうございました!甘酒、美味しかったですね』


 花はしばらく画面のカーソルを見つめ、それから指を動かした。


『美味しかったです。また行きましょう』


 送信ボタンを押してから、ハッとした。


「また行きましょう」なんて言葉を、自分から、社交辞令ではなく本心で他人に送ったことなんて、今までの人生で一度もなかった。


 スマホの画面をそっと伏せる。胸の奥が、まだ少しだけ甘酒の熱を残しているみたいだった。


 その夜、棚の上の古い防災ラジオのツマミを回した。


 ザー……ザザ……プツッ。


「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……んー、なんか今夜は妙にピンク色というか、浮ついた電波が混ざってますね。お前の部屋、空気が軽すぎて居心地が悪いですよ」


 花はこたつの中で、(浮かれてないです)と心の中で小さく言い返した。


「まあ、人間たまには浮かれるのも結構ですがね。ただ、そういう慎重なくせに一度踏み出すとブレーキの利かなくなるタイプってのは、たまに足元をすくわれるから気をつけなさい。……お前のことですよ、よく眠れる会社員」


 サボリが、ふいにつまらなそうに爪を立てて机を叩いた。


「ただまあ……そうやって、一生かけても踏み出せないはずだった奴が、たまに勇気を出して一歩進むってのは、案外、怪異の神様も悪いようにはしないもんです。……経験則でね」


 サボリの声は、そこで一度途切れた。


 いつもなら「じゃ、閉店」と続くはずの静寂の中で、ラジオのスピーカーから、フンス、と鼻を鳴らすような不快げな音が響く。


「……それから、お前が最近よく電波を混線させてる、その営業の男のことですがね」


 花はベッドの中で、思わず身体を起こした。


「あいつ、少し仕事の『場所』を選んだ方がいい。……さっきからあいつのいる方向から、妙に泥臭い、嫌なよどみの気配がここまで流れてきてる。本人が見えないのをいいことに、現世の土地の悪いもんが、あいつの足首に触ろうとしてますよ。小豆洗いほど可愛げのある怪異ばかりじゃないってことを、まあ、頭の隅にでも置いときなさい。……じゃ、閉店」


 プツン。


 砂嵐に変わったラジオの前で、花はしばらく身動きが取れなかった。


 蓮がメッセージで言っていた、「なんか嫌な感じがする」というお客さんの部屋。


 蓮自身には何も見えていないけれど、サボリには、彼の周囲にまとわりつき始めた不穏な「澱み」が分かったのだ。


 慎重すぎて踏み出せなかった私が、初めて「また」と言えた相手。


 その蓮の身に、何かが近づいているのだろうか。


「花さん」


 ロフトの上から、みやびが心配そうに顔を覗かせていた。


「……大丈夫ですか」


「うん」


 花はラジオを見つめたまま、静かに息を吐いた。


「大丈夫。おやすみ、みやび」


「おやすみなさいませ」


 目を閉じた。


 部屋はあたたかいはずなのに、毛布の隙間から、かすかに冷たい風が入り込んできたような気がした。


 眠れたけれど、その夜は、少しだけ重い夢を見た。



 

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