第16話:引っ越し
辞令が出たのは、十二月の頭だった。
サブリーダーへの昇格と、それに伴う給与の改定。課長から封筒を渡されたとき、花は中身を見て、一瞬、桁を読み間違えたかと思った。
読み間違えではなかった。
帰り道、花はスーパーに寄って、いつもより少し高い夕飯の食材を買った。
特別なことをしようと思ったわけではない。ただ、なんとなく、今夜は丁寧にごはんを作りたかった。
アパートに戻ると、みやびが部屋の隅にいた。
「今日、何かありましたか」と、みやびが言った。
「昇給しました」と、花は言った。
みやびが、静かに微笑んだ。
「おめでとうございます」
「みやびのおかげかもしれないですね」
「そんなことはないです」と、みやびは言った。
あっさりと。
「花さんが頑張ったからです」
花はみやびを見た。
「どっちもかもしれないです」
みやびが、少し目を伏せた。
それから、また微笑んだ。
引っ越しを考え始めたのは、それから少ししてからだった。
このアパートには不満はなかった。
でも、少し広いところに移れるなら、と思った。
みやびが部屋の隅に小さくなっているのを見るたびに、もう少しゆったりできる場所があればと、思っていた。
不動産屋を探しながら、ふと蓮のことを思い出した。
連絡先を交換してから、ときどきメッセージが来ていた。
ラジオが繋がった夜に「今夜繋がりました」と報告が来て、花が「こっちも」と返す。
そういうやり取りが続いていた。
花はスマホを開いて、メッセージを送った。
『引っ越しを考えてます。1LDKくらいで、ペット可のところ。不動産の人に聞くのもどうかと思ったけど、一応』
すぐに返信が来た。
『どうかと思わないでください、喜んで。でも俺の担当エリアじゃないかもなので、知り合いに聞いてみます。みやびさんも一緒に引っ越すんですか』
『一緒に来てくれるみたいです』
『座敷童子ってペット扱いになるのかな』
花は少し笑った。
『なるかどうか分からないけど、ペット可にしておいた方が無難かもしれないです。それに将来的に猫を飼いたいので』
物件はすぐに見つかった。
駅から徒歩八分、築数年の分譲賃貸マンション。オートロック付き、宅配ボックスあり、1LDKにロフトがついている。以前のアパートより家賃は上がったが、新しい給与なら払える範囲だった。
内見のとき、花はロフトを見上げた。
天井が近くて、小さな窓があって、はしごで上り下りする。実用的ではないかもしれないけれど、なんとなく気に入った。
みやびは内見には来られなかったが、夜に物件の写真を見せたら、「ロフトが良いですね」と言った。
「ロフトで何するんですか」
「昼寝に良さそうです」と、みやびは言った。
花は申込書を書いた。
引っ越しの前日、花は部屋の荷造りを終えた。
段ボールが積み上がった六畳間は、思ったより広く見えた。
本も、服も、こたつも、全部箱の中に入ってしまうと、この部屋がただの空間になった。
花は最後に、エアコンの前に立った。
引っ越してきたときからそこにあって、フィルターを一度も掃除しないまま何年も使って、ようやく綺麗にしてあげた、あのエアコン。
「お世話になりました」
花は、エアコンに向かって言った。
「寒い夜も、眠れない夜も、ずっとここにいてくれてありがとう。新しい人が来ても、同じようにしてあげてください」
エアコンは、低い音を立てていた。
花はリモコンの電源を切った。
音が、止まった。
ルーバーが、最後に一度だけ、ゆっくりと動いた。
花はしばらくそれを見ていた。それから、「またね」と小さく言って、部屋を出た。
翌日、引っ越し業者が来て、荷物を運んで、新しいマンションに着いた。
オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターで四階へ。鍵を開けて、新しい部屋に入った。
がらんとしていた。
床はフローリングで、壁は白くて、窓が大きくて、光がよく入った。エアコンが、壁に取り付けられていた。新しいエアコンだった。
みやびが、するりと部屋に入ってきた。
ロフトを見上げて、はしごに手をかけて、上がっていった。しばらくして、上から顔を出した。
「良いですね」と、みやびは言った。
「気に入りましたか」
「気に入りました」
花は段ボールを開け始めた。本を出して、服を出して、キッチンの道具を出して。最後に、防災ラジオを出した。
タオルで埃を拭いて、棚の上に置いた。
そのとき、気がついた。
ラジオの周りの空気が、少しだけ違った。
以前のアパートで、エアコンの周りにあった、あの温度。あの気配。
花はラジオをじっと見た。
「……まさか」
ラジオは何も答えなかった。でも、花がそっと手を触れると、金属の表面がほんのわずかだけ、温かかった。
エアコンとお別れしたはずだった。ちゃんと、言葉を尽くして。
それなのに。
「……ラジオに移ったんですか」
花は、呆れたような、でも笑いをこらえているような顔で言った。
ラジオは何も答えなかった。
けれど、棚の上でわずかに、ツマミがカチリと独りでに動いた気がした。
みやびがロフトから静かに降りてきて、そのラジオを見つめた。
「移ってきたのですね」
と、みやびが言った。
「みやびには分かるの?」
「なんとなく。さっきから、あの箱が少し誇らしげに温まっています。それに……」
みやびは、はしごの上のロフトを小さな指で指差した。
「あそこ、本当なら少し息苦しいくらい熱い空気が溜まる場所なのに、今はとってもひんやりして、澄んだ風が吹いています。あの子が、私を歓迎して冷やしてくれているみたいです」
お別れしたはずなのに、ラジオに入ってまでついてきた。
「……まあ、いいですけど」
花は小さく笑って、金属のボディを指先で小突いた。
「新しい部屋でも、よろしくお願いしますね」
ラジオのツマミが、もう一度だけ、かすかに揺れた。
その夜、花はまだ段ボールがいくつか残る新しい部屋で、ラジオのツマミを回した。
ザー……ザザ……プツッ。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……んー、なんか今夜は電波の通りが良いですね。壁が白いとノイズが減るんでしょうか。知らんけど」
紙をめくる音ではなく、今夜はサボリが爪の手入れでもしているような、カリカリという静かな音が響く。
「……まあ、新しい巣に落ち着いたなら結構なことです。ただねえ、お前のその古い受信機、なんか変な重荷を背負ってませんかね。ただの鉄くずのくせに、妙に未練がましい、あたたかい風の匂いが混ざってる。……まあ、長く一緒にいたものの気配ってのは、そう簡単には引き剥がせないもんですから。せいぜい、壊さないように使いなさい」
少し長い沈黙。
サボリが、ふう、と静かに息を吐き出す音が聞こえた。
「……新しい部屋でも、ちゃんと眠れそうですか。……まあ、眠れなかったらまたツマミを回しなさい。私は毎晩、ここで暇を潰してるんで。……じゃ、閉店」
プツン。
花はラジオから手を離し、天井を見上げた。
「ちゃんと眠れそうですか」
というサボリの言葉に、花は心の中で(眠れると思います)と静かに答えた。
簡単には離れない、気配。
それはラジオに移った付喪神のことだけれど、なぜかサボリ自身も、今夜はどこかで「離れられない何か」を抱えながら、独りぼっちで電波を飛ばしているような気がして、胸の奥が少しだけ、きゅっと切なくなった。
「花さん、おやすみなさいませ」
ロフトから、みやびがちょこんと顔を出して言った。
「おやすみ」と花は言った。
新しい部屋は、まだ家具が少なくて静かだった。
でも、静かすぎなかった。
ラジオが棚の上で、小さな、でも確かな温かさを放っていた。みやびがロフトの上で気配を潜めていた。
花は目を閉じ、深い眠りの中へと沈んでいった。
翌日の午後、みやびが「少し外の空気を吸ってきます」と出かけている間に、花ははしごを上ってロフトに上がった。
小さな四角い窓から冬の光が入る、天井の低い、秘密基地のような空間。
花は、午前中に届いたばかりの、大きな荷物を引きずり上げた。
それは、このロフトのサイズに合わせてあらかじめ測って購入しておいた、ふかふかの綿が詰まった新しいお布団だった。
シーツを敷き、枕を置き、毛布と掛け布団を丁寧に整える。みやびがいつも部屋の隅で毛布にくるまっていたから、一番柔らかくて温かい素材を選んでいた。
それだけを済ませると、花は何事もなかったかのように、はしごを下りた。
夕方、みやびが戻ってきた。いつものように「ただいま」の代わりに衣擦れの音をさせて、するりとロフトへ上がっていった。
それから、しばらくの間、上は完全に静まり返った。
花は下のこたつに入って、会社の資料に目を通していた。ページをめくる音だけが部屋に響く。
「……花さん」
かなり時間が経ってから、ロフトの上から、かすかな声が降ってきた。
「何ですか」
花は資料から目を離さずに、ぶっきらぼうを装って答えた。
長い、沈黙があった。
「……ありがとうございます」
それは、今にも泣き出してしまいそうな、でも、信じられないほどあたたかいものに包まれた、小さな妖怪の精一杯の声だった。
「どういたしまして」
花はやっぱり、資料を見たまま言った。
「みやびさんがサボらずに、ちゃんとここに居てくれるための、先行投資です」
ロフトの上で、みやびがふかふかのお布団に、そっと身体を沈める気配がした。
衣服が擦れる柔らかな音がして、それから、深く、深く安堵したような吐息が聞こえた。
新しい部屋は、言葉にできないほど、あたたかかった。




