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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも
第二章 居場所のないもの

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16/26

第16話:引っ越し

 辞令が出たのは、十二月の頭だった。


 サブリーダーへの昇格と、それに伴う給与の改定。課長から封筒を渡されたとき、花は中身を見て、一瞬、桁を読み間違えたかと思った。


 読み間違えではなかった。


 帰り道、花はスーパーに寄って、いつもより少し高い夕飯の食材を買った。


 特別なことをしようと思ったわけではない。ただ、なんとなく、今夜は丁寧にごはんを作りたかった。


 アパートに戻ると、みやびが部屋の隅にいた。


「今日、何かありましたか」と、みやびが言った。


「昇給しました」と、花は言った。


 みやびが、静かに微笑んだ。


「おめでとうございます」


「みやびのおかげかもしれないですね」


「そんなことはないです」と、みやびは言った。


 あっさりと。


「花さんが頑張ったからです」


 花はみやびを見た。


「どっちもかもしれないです」


 みやびが、少し目を伏せた。


 それから、また微笑んだ。




 引っ越しを考え始めたのは、それから少ししてからだった。


 このアパートには不満はなかった。


 でも、少し広いところに移れるなら、と思った。


 みやびが部屋の隅に小さくなっているのを見るたびに、もう少しゆったりできる場所があればと、思っていた。


 不動産屋を探しながら、ふと蓮のことを思い出した。


 連絡先を交換してから、ときどきメッセージが来ていた。


 ラジオが繋がった夜に「今夜繋がりました」と報告が来て、花が「こっちも」と返す。


 そういうやり取りが続いていた。


 花はスマホを開いて、メッセージを送った。


『引っ越しを考えてます。1LDKくらいで、ペット可のところ。不動産の人に聞くのもどうかと思ったけど、一応』


 すぐに返信が来た。


『どうかと思わないでください、喜んで。でも俺の担当エリアじゃないかもなので、知り合いに聞いてみます。みやびさんも一緒に引っ越すんですか』


『一緒に来てくれるみたいです』


『座敷童子ってペット扱いになるのかな』


 花は少し笑った。


『なるかどうか分からないけど、ペット可にしておいた方が無難かもしれないです。それに将来的に猫を飼いたいので』




 物件はすぐに見つかった。


 駅から徒歩八分、築数年の分譲賃貸マンション。オートロック付き、宅配ボックスあり、1LDKにロフトがついている。以前のアパートより家賃は上がったが、新しい給与なら払える範囲だった。


 内見のとき、花はロフトを見上げた。


 天井が近くて、小さな窓があって、はしごで上り下りする。実用的ではないかもしれないけれど、なんとなく気に入った。


 みやびは内見には来られなかったが、夜に物件の写真を見せたら、「ロフトが良いですね」と言った。


「ロフトで何するんですか」


「昼寝に良さそうです」と、みやびは言った。


 花は申込書を書いた。




 引っ越しの前日、花は部屋の荷造りを終えた。


 段ボールが積み上がった六畳間は、思ったより広く見えた。


 本も、服も、こたつも、全部箱の中に入ってしまうと、この部屋がただの空間になった。


 花は最後に、エアコンの前に立った。


 引っ越してきたときからそこにあって、フィルターを一度も掃除しないまま何年も使って、ようやく綺麗にしてあげた、あのエアコン。


「お世話になりました」


 花は、エアコンに向かって言った。


「寒い夜も、眠れない夜も、ずっとここにいてくれてありがとう。新しい人が来ても、同じようにしてあげてください」


 エアコンは、低い音を立てていた。


 花はリモコンの電源を切った。


 音が、止まった。


 ルーバーが、最後に一度だけ、ゆっくりと動いた。


 花はしばらくそれを見ていた。それから、「またね」と小さく言って、部屋を出た。




 翌日、引っ越し業者が来て、荷物を運んで、新しいマンションに着いた。


 オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターで四階へ。鍵を開けて、新しい部屋に入った。


 がらんとしていた。


 床はフローリングで、壁は白くて、窓が大きくて、光がよく入った。エアコンが、壁に取り付けられていた。新しいエアコンだった。


 みやびが、するりと部屋に入ってきた。


 ロフトを見上げて、はしごに手をかけて、上がっていった。しばらくして、上から顔を出した。


「良いですね」と、みやびは言った。


「気に入りましたか」


「気に入りました」


 花は段ボールを開け始めた。本を出して、服を出して、キッチンの道具を出して。最後に、防災ラジオを出した。


 タオルで埃を拭いて、棚の上に置いた。


 そのとき、気がついた。


 ラジオの周りの空気が、少しだけ違った。


 以前のアパートで、エアコンの周りにあった、あの温度。あの気配。


 花はラジオをじっと見た。


「……まさか」


 ラジオは何も答えなかった。でも、花がそっと手を触れると、金属の表面がほんのわずかだけ、温かかった。


 エアコンとお別れしたはずだった。ちゃんと、言葉を尽くして。


 それなのに。


「……ラジオに移ったんですか」


 花は、呆れたような、でも笑いをこらえているような顔で言った。


 ラジオは何も答えなかった。


 けれど、棚の上でわずかに、ツマミがカチリと独りでに動いた気がした。


 みやびがロフトから静かに降りてきて、そのラジオを見つめた。


「移ってきたのですね」


 と、みやびが言った。


「みやびには分かるの?」


「なんとなく。さっきから、あの箱が少し誇らしげに温まっています。それに……」


 みやびは、はしごの上のロフトを小さな指で指差した。


「あそこ、本当なら少し息苦しいくらい熱い空気が溜まる場所なのに、今はとってもひんやりして、澄んだ風が吹いています。あの子が、私を歓迎して冷やしてくれているみたいです」


 お別れしたはずなのに、ラジオに入ってまでついてきた。


「……まあ、いいですけど」


 花は小さく笑って、金属のボディを指先で小突いた。


「新しい部屋でも、よろしくお願いしますね」


 ラジオのツマミが、もう一度だけ、かすかに揺れた。


 その夜、花はまだ段ボールがいくつか残る新しい部屋で、ラジオのツマミを回した。


 ザー……ザザ……プツッ。


「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……んー、なんか今夜は電波の通りが良いですね。壁が白いとノイズが減るんでしょうか。知らんけど」


 紙をめくる音ではなく、今夜はサボリが爪の手入れでもしているような、カリカリという静かな音が響く。


「……まあ、新しいへやに落ち着いたなら結構なことです。ただねえ、お前のその古い受信機、なんか変な重荷を背負ってませんかね。ただの鉄くずのくせに、妙に未練がましい、あたたかい風の匂いが混ざってる。……まあ、長く一緒にいたものの気配ってのは、そう簡単には引き剥がせないもんですから。せいぜい、壊さないように使いなさい」


 少し長い沈黙。


 サボリが、ふう、と静かに息を吐き出す音が聞こえた。


「……新しい部屋でも、ちゃんと眠れそうですか。……まあ、眠れなかったらまたツマミを回しなさい。私は毎晩、ここで暇を潰してるんで。……じゃ、閉店」


 プツン。


 花はラジオから手を離し、天井を見上げた。


「ちゃんと眠れそうですか」


 というサボリの言葉に、花は心の中で(眠れると思います)と静かに答えた。


 簡単には離れない、気配。


 それはラジオに移った付喪神のことだけれど、なぜかサボリ自身も、今夜はどこかで「離れられない何か」を抱えながら、独りぼっちで電波を飛ばしているような気がして、胸の奥が少しだけ、きゅっと切なくなった。


「花さん、おやすみなさいませ」


 ロフトから、みやびがちょこんと顔を出して言った。


「おやすみ」と花は言った。


 新しい部屋は、まだ家具が少なくて静かだった。


 でも、静かすぎなかった。


 ラジオが棚の上で、小さな、でも確かな温かさを放っていた。みやびがロフトの上で気配を潜めていた。


 花は目を閉じ、深い眠りの中へと沈んでいった。


 翌日の午後、みやびが「少し外の空気を吸ってきます」と出かけている間に、花ははしごを上ってロフトに上がった。


 小さな四角い窓から冬の光が入る、天井の低い、秘密基地のような空間。


 花は、午前中に届いたばかりの、大きな荷物を引きずり上げた。


 それは、このロフトのサイズに合わせてあらかじめ測って購入しておいた、ふかふかの綿が詰まった新しいお布団だった。


 シーツを敷き、枕を置き、毛布と掛け布団を丁寧に整える。みやびがいつも部屋の隅で毛布にくるまっていたから、一番柔らかくて温かい素材を選んでいた。


 それだけを済ませると、花は何事もなかったかのように、はしごを下りた。


 夕方、みやびが戻ってきた。いつものように「ただいま」の代わりに衣擦れの音をさせて、するりとロフトへ上がっていった。


 それから、しばらくの間、上は完全に静まり返った。


 花は下のこたつに入って、会社の資料に目を通していた。ページをめくる音だけが部屋に響く。


「……花さん」


 かなり時間が経ってから、ロフトの上から、かすかな声が降ってきた。


「何ですか」


 花は資料から目を離さずに、ぶっきらぼうを装って答えた。


 長い、沈黙があった。


「……ありがとうございます」


 それは、今にも泣き出してしまいそうな、でも、信じられないほどあたたかいものに包まれた、小さな妖怪の精一杯の声だった。


「どういたしまして」


 花はやっぱり、資料を見たまま言った。


「みやびさんがサボらずに、ちゃんとここに居てくれるための、先行投資です」


 ロフトの上で、みやびがふかふかのお布団に、そっと身体を沈める気配がした。


 衣服が擦れる柔らかな音がして、それから、深く、深く安堵したような吐息が聞こえた。


 新しい部屋は、言葉にできないほど、あたたかかった。


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― 新着の感想 ―
毎話楽しく読ませていただいています。 花さん、昇進とお引越しおめでとうございます。 座敷童は家に憑き、付喪神は物に憑くもの。 ですがどちらもお引越し先に一緒にいらしたとのこと、良かったですね。 これか…
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