第15話:河原の小豆
その夜、サボリの声がいつもより少し早く繋がった。
「……フニャ。ハイどうも。時刻は午前一時十八分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです。今夜は……あー、懐かしいタイプのメールが来てますね。拝読します」
紙をめくる音。
「ラジオネーム『ショキショキ』。……小豆洗い、ですね。年齢不詳。拝読します」
「『サボリさん、はじめてメールします。私は河原で小豆を洗っている小豆洗いです。昔から河原で小豆を洗いながら近くを通る人たちを見守ってきました。ところが最近、小豆の入手が難しくなっています。昔は近くの農家さんが作っていたのですが、後継者がいなくて廃業されてしまいました。スーパーで売っている小豆は袋に入っていて、河原で洗う必要がなく、私の出番がありません。小豆がないと何もできなくて、困っています。何かいい方法はないでしょうか』……以上です」
沈黙。
「……知らんがな」
花は毛布の中で笑った。
「スーパーの小豆を持っていって洗えばいいんじゃないですか。洗う行為に意味があるんでしょう、たぶん。袋に入ってるかどうかは関係ないと思いますよ」
爪が机を叩く音がした。
「おい、眠れない会社員。お前のことだ。今週末に、そいつのいる河原まで小豆を持っていきなさい。市の龍水川の、古い石橋の下。乾燥小豆でいいです。一袋持っていけば喜びます。……契約上、それ以上は私にはできないので。よろしく」
プツッ。
砂嵐になった。
花はラジオを床に置いて、天井を見た。
小豆。龍水川。古い石橋。
みやびが部屋の隅から、静かにこちらを見ていた。
「行ってみます」と花は言った。
みやびが、小さく頷いた。
ところで、その夜。
同じ電波を、別の部屋で拾っていた人間がいた。
香山蓮、二十七歳。不動産会社勤務。
蓮がこのラジオを最初に拾ったのは、三ヶ月前の深夜だった。残業帰りにコンビニで買ったカップラーメンを食べながら、なんとなくラジオアプリを開いたら、砂嵐の向こうから猫の声が聞こえてきた。最初は聞き間違いだと思った。でも声は続いた。だるそうに、面倒くさそうに、でも確かに、妖怪のお悩みに答えていた。
蓮はカップラーメンを食べるのを忘れて、一時間聴き続けた。
翌日から、毎晩試した。でも繋がらなかった。一週間後にまた繋がった。また三週間繋がらなかった。そういうことが続いた。月に一度あれば良い方だった。
なぜ繋がったり繋がらなかったりするのか、蓮には分からなかった。波長が合う日と合わない日がある、としか言いようがなかった。
でも繋がった夜は、必ずメモを取った。
今夜のメモには、こう書いてあった。
『龍水川。古い石橋の下。小豆洗い。乾燥小豆一袋』
蓮はメモを見ながら、ガッツポーズをした。
一人で、夜中に、アパートの一室で。
誰にも見せられない喜び方だったが、蓮はもう慣れていた。
土曜日の午後、花はスーパーで乾燥小豆を一袋買った。
龍水川は、アパートから自転車で十五分ほどのところにあった。
住宅街を抜けると急に空が開けて、枯れ草の土手が続いた。
十一月の川沿いは風が冷たくて、コートの前を合わせながら自転車を押して土手を下りた。
古い石橋は、すぐ分かった。
コンクリートの新しい橋の少し上流に、古びた石造りの橋が残っていた。
欄干が低くて、橋の幅も狭くて、今は車が通れないので歩行者専用になっているらしかった。
橋の下は、川が緩く曲がっているせいで流れが穏やかで、砂利が堆積して浅瀬になっていた。
花は石橋の下を覗き込んだ。
何もいなかった。
当然かもしれない。昼間だし、人も通る。
花は土手の草の上に腰を下ろして、小豆の袋を膝の上に置いた。しばらく待てばいいのだろうか。それとも、呼びかけた方がいいのだろうか。
風が吹いて、川面が光った。
そのとき、花は気づいた。
対岸の土手に、人がいた。
男だった。二十代後半くらい。コートのポケットに手を突っ込んで、橋の下を双眼鏡で覗いていた。
双眼鏡で。
川の、石橋の下を。
花はしばらくその人を見た。その人は、花には気づいていないようだった。真剣な顔で、双眼鏡の角度を少しずつ変えながら、橋の下を観察していた。
花は視線を戻して、橋の下に目を凝らした。
何かいた。
形というほどの形はなかった。水面のすぐ上に、揺らぎのようなものがあった。陽炎に似ているが、十一月の川沿いに陽炎は立たない。揺らぎの中心で、小さな音がしていた。
ショキ、ショキ。
ショキ、ショキ、ショキ。
小豆を洗う音だった。
花は立ち上がって、土手をゆっくり下りた。砂利を踏んで、浅瀬の手前で立ち止まった。
揺らぎが、こちらを向いた気がした。
「小豆、持ってきました」
声に出して言うのは少し恥ずかしかったが、言った。
花は袋を開けて、乾燥小豆を両手ですくって、水面に向かってそっと差し出した。
揺らぎが、ふわりと動いた。
小豆が、花の手から離れた。一粒ずつ、水の上を転がるように、揺らぎの中心へと吸い込まれていった。
ショキ、ショキ。
音が、少し大きくなった。
嬉しそうだ、と花は思った。
音に喜びがあった。
「あの」
声をかけられたのは、小豆の袋が半分ほど空になったときだった。
花が振り返ると、双眼鏡の男が、対岸から橋を渡ってこちら側に来るところだった。砂利を踏む音が近づいてきた。
「……あの揺らぎ、見えてますか」
男が言った。
花は少し考えて、「見えてます」と言った。
男の顔が、ぱっと明るくなった。
「音も聞こえてます?ショキショキって」
「聞こえてます」
「小豆洗いですよね、これ。俺、ずっと気になってて。この川の近くに小豆洗いが出るって、地元の古い記録に残ってて、それで来たんですけど、まさか本当にいるとは思わなくて」
男は一気にそこまで言って、それから急に、少し表情が固まった。
「……すみません。急に変なこと言って」
「変じゃないですよ」と花は言った。
「私も小豆持ってきたので」
男が、また明るい顔に戻った。
「ラジオ、聴いてましたか。真夜中の、猫のDJの」
「聴いてました」
男が、笑った。
よく笑う人だ、と花は思った。
声も大きいし、表情もよく動く。
自分とは正反対の種類の人間に見えた。
でも今、同じ川の同じ砂利浜に立っていた。
「香山蓮です」
と男は言った。
「不動産の営業してます。神社とか、こういう古い伝承のある場所が好きで。でも……普段は職場でも友達にも、こういう話は絶対にできなくて」
「藤井花です」
と花は言った。
「会社員です。……私は最近、こういうのに勝手に巻き込まれてます」
「巻き込まれてる、いいな」
と蓮は少年のように目を輝かせた。
「俺、なかなかあのラジオに繋がれなくて。月に一回あれば良い方だから、毎回指令が来るたびに行けるかどうか分からなくて」
花は、小豆の空袋を丸めながら一瞬、動きを止めた。
(月一回……?)
自分はほぼ毎晩、あの砂嵐の向こうのだるい声を聴いている。
それが普通だと思っていた。
でも、他の人は違うのだろうか。
サボリは、人を選んで電波を流しているのか、あるいは、花の部屋のあの「古い防災ラジオ」自体に何か秘密があるのか。
「今日は、来られて良かったですね」
「本当、たまたまです。昨日たまたま繋がって、今日は仕事が休みで、龍水川は自転車圏内で、スーパーで小豆が買えた。全部のタイミングが奇跡的に合いました」
蓮が川の方を見た。
橋の下の揺らぎはまだそこにあって、ショキ、ショキという音が、変わらずかすかに続いていた。
「俺、こういう場所に一人で来るのは慣れてるんですけど」
と蓮は、自嘲気味に笑った。
「こういうの信じてるって話すと、大体、変な宗教勧誘かオカルトマニアを見る目で見られるので。一人で来るしかなくて。……だから」
蓮は少し照れくさそうに、頭をかいた。
「同じラジオを聴いてた人が、本当に同じ場所にいるのは、なんか……すげえ変な感じですけど、嬉しいです」
「そうですね」
と花も言った。
少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じながら。
小豆の袋が、完全に空になった。
すると、水面の揺らぎがゆっくりと薄れていき、ショキ、ショキという音が、川のせせらぎに溶けるようにして消えた。
あとに残ったのは、十一月の冷たい川風の音だけだった。
帰り道、花と蓮は少しの間、同じ方向に自転車を押して歩いた。
住宅街の入り口まで来たところで、蓮がハッとしたように足を止め、ポケットからスマホを取り出した。
「あの、もし迷惑じゃなければ、チャットアプリの『RAIN』、交換しませんか? さっき双眼鏡のレンズにスマホのカメラを押し当てて、花さんが小豆渡してるところ、必死に撮ったんです。これ、送りたいので」
「えっ、写真を?」
見せられた画面には、拡大されすぎて少し画質の荒い写真が写っていた。
そこには、花が一人で真剣な顔をして、誰もいない川面に向かって両手から小豆をジャラジャラとぶち撒けている、"客観的に見れば完全に「ヤバい人」にしか見えない姿"が写っていた。
肝心の「水面の揺らぎ」は、デジタルカメラのレンズには一切写っていなかったのだ。
「……何も写ってないですね」
花は思わず吹き出した。
「あ、やっぱり妖怪って写らないんですね!」
蓮も大笑いした。
「でも、俺たちの目には確かに見えてた証拠写真ってことで。……あ、引かれました? 急に連絡先なんて聞いて」
「いえ」
初対面の、しかも営業マン風の男に連絡先を教えるのは、普段の花なら絶対に躊躇したはずだった。
けれど、誰も信じてくれない「世界の裏側」を共有している人間が目の前にいるという奇妙な高揚感が、花の背中をぽんと押した。
「じゃあ、QRコードで」
アイコンを交換して、分かれ道で
「お疲れ様でした」「また繋がったら」と言い合って別れた。
アパートに戻ると、みやびが部屋の隅のいつもの定位置にいた。
「おかえりなさいませ。どうでしたか」
「小豆、渡せました。ちゃんと喜んで食べて(?)ました」
花はコートを脱ぎながら言った。
「あとね、同じラジオを聴いてた人間に会ったよ。本当にいたんだ、他にもリスナー」
みやびが、少しだけ目を丸くした。
「人間のリスナーが、他にも……。花さん以外にも、あの猫の声を拾える者がいたのですね」
「香山さんって人。でもね、月に一回くらいしか繋がらないんだって」
みやびは、静かに何かを考えるように視線を落とした。それから、どこか誇らしげに、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……それはきっと、あのサボリという猫が、花さんのことを一番気に入っているからですよ」
「まさか。あんなにだるそうなのに」
花はこたつに入り、スマホの『RAIN』を開いた。ピコン、と通知が来て、さっきの「川に小豆を撒く不審な私の写真」が送られてきていた。短いメッセージが添えられている。
『香山です。本日はありがとうございました。またラジオが繋がれたら、答え合わせの連絡をさせてください。繋がれなかったら、ごめんなさい!』
花は少し笑って、画面をタップした。
『藤井です。写真ありがとうございました。客観的に見ると私、かなり危ない人ですね。繋がれなかったらしょうがないです。またどこかの河原で』
その夜、深夜一時のラジオのツマミを回すと、いつもの砂嵐の向こうから、チッと舌打ちをするような音が聞こえた。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、小豆洗い(ショキショキ)から連絡がありましてね。久しぶりに上質な小豆を腹一杯洗えたって、泣いて喜んでましたよ。あの川の結界も少し安定したみたいです。よく眠れる会社員、まあ、ご苦労さまでした」
カサリ、とサボリが寝返りを打つような衣擦れの音がする。
「……しかしねえ、今夜はなんだか、電波のノイズが妙に喧しいんですよ。同じ波長の、妙にテンションの高い浮ついた電波が、どっか別の場所から混線しようとしてる気がする。……やだねえ、これだから人間が複数絡むと面倒くさい。私は静かに内職をしたいだけなんです」
ふあぁ、と大きなあくびの音が響く。
「まあ、同じ泥舟に乗る仲間ができたなら、お互い足を引っ張り合わないようにやりなさい。……じゃ、閉店」
プツン。
花はラジオを床に置き、スマホの画面を見た。「香山蓮」という文字が、暗い部屋の中で小さく光っている。
これまでは、このラジオを聴いているのは世界で自分一人だけだと思っていた。だからこそ寂しく、だからこそ特別だった。
けれど、誰かと「繋がれないかもしれない」という不確かさを共有できる相手がいることも、悪くない。
花はスマホを伏せ、いつもよりずっと軽い足取りで、布団の中へと潜り込んだ。




