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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも
第二章 居場所のないもの

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14/20

第14話:サボってるでしょう

 十一月の半ば、花は会社の先輩に昼ごはんに誘われた。


 誘われた、というよりは、「藤井さん、今日どこ行くの?」と聞かれて「まだ決めてないです」と答えたら、「じゃあ一緒に行こうよ」と自然に背中を押された形だった。


 花は、こういう突発的な流れが昔から大の苦手だった。


 一緒に行こうと言われても、どこのお店を選べば相手が喜ぶのか分からない。


 何を話せばいいのか分からず、沈黙が怖くてお茶ばかり飲んでしまう。


 そして帰り際に「藤井さんって静かだね」と言われる。


 そういう小さなすれ違いの積み重ねが、誰かと机を挟むことを、少しずつ遠ざけていた。


 けれど今日は、ごく自然に「あ、いいですよ」と言えた。


 先輩が連れて行ってくれたのは、駅前の裏路地にある古い定食屋だった。


 カウンターが八席あるだけの狭い店内で、日替わりの生姜焼き定食が八百円。


 注文を終えておしぼりで手を拭いていると、先輩がひょいと顔を覗かせてきた。


「藤井さん、最近なんか変わったよね」


 花は小さく身構えた。


 その「変わった」が、自分にとって良い意味なのか悪い意味なのか、瞬時には判断がつかなかったからだ。


「なんかさ、前より声がちゃんと届くようになったっていうか。会議でもちゃんと意見を言ってくれるし。それにさ、最近朝ごはんちゃんと食べてるでしょ? なんか肌のツヤが良いもん」


 みやびが毎朝淹れてくれる、あの温かいお茶の湯気が、頭の裏をよぎった。


「……そうですか」


「うん。最初の頃、藤井さんすっごく静かだから、実は私、話しかけちゃいけないのかなって勝手に緊張してたんだよね。でも最近、すごく話しかけやすくなった」


 花は生姜焼き定食が目の前に置かれるまで、先輩のその言葉を、心の中で何度も静かに反芻した。


 話しかけにくくて緊張していたのは、私だけではなかったのだ。


 先輩の側も、どう触れていいか分からずに戸惑っていた。


 その当たり前のことを、私は今の今まで知らなかった。


「……気づかなくて、すみませんでした」


「えっ、なんで謝るのよ」


 先輩は可笑しそうに吹き出した。


「色んなタイプの人がいて当然じゃん。ただ、私としてはもったいないなーってずっと思ってたの。藤井さん、いつも仕事のこと、ちゃんと深く考えてる人だからさ」


 運ばれてきた定食を、花は視界を滲ませながら黙々と口に運んだ。


「ちゃんと考えてる人」。


 みやびには「ちゃんと見る人」と言われ、先輩には「ちゃんと考えてる人」と言われた。同じ週に、別々の場所で。


 自分をそんな風に肯定してあげることなんて、これまでの人生で一度もなかったのに。


 その日の夕方、今度は課長に別室へ呼ばれた。


「来月から立ち上がる新しいプロジェクト、藤井さんにサブリーダーをやってもらいたいんだ」


 花は一瞬、耳を疑った。


「……私が、ですか」


「うん。最近の藤井さんの発言、すごく芯が通ってて周囲も助けられてる。資料のまとめ方も丁寧だしね。ちょうど良いタイミングかなと思って」


 課長の言う「ちょうど良いタイミング」の本当の意味は、花にはまだ分からなかった。


けれど、断る理由を探そうとするいつもの臆病な自分が、今夜はどこにも見当たらなかった。


「……はい。不慣れですが、やってみます」


 課長は満足そうに、深く頷いた。


 帰り道、花はビジネスバッグを胸に抱きしめるようにして歩いた。


 サブリーダー。


 自分でも信じられない大役だった。


 けれど、不思議なほど足は震えていなかった。できるかどうかは分からない。


 でも、「やってみたい」と思えている。


 それだけで、今の自分には十分すぎるほどの贅沢だった。


 アパートの階段を上がりながら、ふと、みやびのことが頭に浮かんだ。


 そういえば最近、彼女から就活の報告を聞いていない。


 水曜日に「コンセプトが合わない」と断られてから、次の面接の話をしてこないのが、少しだけ気になっていた。


 カギを開けてドアを押し込むと、みやびはいつものように部屋の隅の毛布の上に座っていた。けれど、花が「ただいま」と言うより早く、何か小さなものを大慌てで着物のたもとへと隠した。


 花はこたつにカバンを置き、じっとみやびを見つめた。


「……今、何を隠したんですか」


「な、なんでもございません。何も」


 三百四十二歳にしては、あまりにも分かりやすすぎる動揺だった。花はこたつに腰掛け、少しだけ意地悪に目を細めた。


「みやびさん。最近、就活サボってますよね?」


 みやびが、ぴくりと肩を跳ね上がらせた。


「さ、サボってなど……。妖怪の時間の流れは人間とは違いますので、これはその、英気を養うための、いわば保養の期間でありまして……」


「言い訳が長いです。さっきの、見せてください」


 みやびは完全に観念したように肩を落とし、おずおずと、着物の袖から小さな両手を覗かせた。


 その手のひらの上に載っていたのは、夕日の光をそのまま閉じ込めたような、透き通るほど鮮やかな、一枚の銀杏の葉だった。


「……夕方、花さんの周りの空気が、もの凄く大きく、あたたかく動いたのが遠くから分かったのです」


 みやびは恥ずかしそうに、小さな頭をぎゅっと下げた。


「それが、嬉しくて、誇らしくて……。お守り代わりに持っていようと思って、気がついたら花さんの会社の近くまで歩いていってしまいました。中には入っていません。ただ、外の街路樹のところで、これを……」


 花は、みやびの手のひらの上の銀杏を見つめた。


 この子は、私が知らない場所で透明人間から脱皮しようとしていたとき、ずっと外で、その空気の揺れを一緒に感じて喜んでくれていたのだ。


「……花さんが、サブリーダーというものになると聞いて」


「どこで聞いたんですか」


「空気の匂いで」


 花は、小さくため息をついた。胸の奥から込み上げてくる笑いを、必死にこらえながら。


「就活は、ちゃんとやってくださいね」


「はい……」


「でも」


 花は手を伸ばし、みやびの頭をそっと、生まれて初めて優しくなでた。


「ありがとね。うちに来てくれて」


 みやびが、弾かれたように顔を上げた。


 大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


「お、お役に立てていれば、よかったです。居候のくせに、サボって、お散歩などしてしまって……」


「立ってますよ、お役。たぶん、私が思っているよりずっと」


 その夜、深夜一時のラジオのツマミを回すと、サボリの声はいつもより低く、どこかゴロゴロと喉を鳴らすような響きを帯びていた。


「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、なんか同じワンルームから、種類の違うあつ苦しい電波が二つも飛んできてますね。まとめて処理しますよ、めんどくさい」


 がさがさと、二枚の紙を重ねて弄ぶ音がする。


「一通目、よく眠れる会社員。『サブリーダーになりました。同居人が就活をサボって私の会社の外までお祝いにきていました』。二通目、ラジオネームみやび。『サボりがバレました。でも怒られませんでした。私はここに居てもいいのでしょうか』……だとさ」


 サボリは小さく鼻を鳴らした。


「めでたい会社員については、まあ、なるべくしてなったから勝手にやりなさい。問題は、その居候の妖怪のほうです。……自分が『ここに居てもいいのか』なんてね、贅沢な悩みですよ。座敷童子ってのは本来、家に選ばれて、その家を豊かにするために縛られる怪異ですからね」


 トントン、とマイクを叩く爪の音が、今夜はどこか寂しげに響いた。


「でもね、自分が縛られたいと思える相手に、向こうからも『居てくれ』と言ってもらえる場所なんてのは、一生のうちにそう何度も巡り合えるもんじゃない。……そんな居場所、簡単に手放したらバカですよ。経験則でね。……じゃ、閉店」


 プツン。


 砂嵐の音が静まり返ったワンルームで、花はラジオから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。


 部屋の隅、毛布の上で、みやびがじっと花を見つめている。


 その瞳には、サボリの言葉の余韻が、重い問いかけのように揺れていた。


 花はこたつの上から、さっきみやびが置いていった、あの鮮やかな銀杏の葉を拾い上げた。そして、部屋の唯一の棚にある、あの防災ラジオの隣のわずかなスペースに、そっと立てかけるようにして置いた。


「みやびさん」


 花は振り返り、小さな同居人へ真っ直ぐに視線を合わせた。


「就職先が見つかるまで、じゃなくて」


 みやびが、息を呑む気配がした。


「ずっと、ここに居てください。畳はないし、狭いフローリングだけど。私が仕事に行って、みやびさんが就活をして、夜にここで一緒にお茶を飲む生活を、ずっと続けましょう」


 みやびはしばらくの間、動けずにいた。


 それから、小さな胸を大きく上下させて、着物の袖で何度も、何度も乱暴に目を拭った。


「……はい」


 喉の奥から絞り出すような、ひどく掠れた、でも今までで一番力強い声だった。


「はい。ずっと、ここに居らせてください、花さん」


 小さな妖怪は、フローリングの床に両手をつき、額が床に触れるほど深く、深く頭を下げた。


電気を消したあとも、棚の上の銀杏の葉が、街灯の光を浴びて ほのかに金色に輝いているのが見えた。


 一人じゃない部屋の、あたたかい静寂。


 花は毛布を引き上げ、深く、穏やかな眠りの中へと、ゆっくりと沈んでいった。



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