第13話:声の出し方
十一月に入って、職場の空気が少し変わった。
劇的な変化があったわけではない。
厳しかった課長が急に優しくなったわけでも、頼れる先輩が異動したわけでもない。
変わったのは、たぶん、花の方だった。
会議で、ちゃんと発言ができるようになっていた。
タイミングを逃さなくなった、というよりは、たとえ逃してしまっても「また次を待てばいい」と思えるようになった。
一度黙り込んでしまったからといって、もう二度と声が出せなくなるわけじゃない。
一ヶ月前には思いもしなかった実感が、少しずつ、花の輪郭を確かなものにしていた。
先輩の「藤井さんって、いつも静かだよね」という、悪気のない透明な言葉を最近は聞かない。
代わりに「藤井さん、さっきの件だけどどう思う?」と、意見を求められるようになった。
それが嬉しいのか、それとも新しいプレッシャーなのかは、まだよく分からない。
でも、聞かれるということは、そこに自分が存在しているということだ。
私はもう、このオフィスで透明人間ではないのだと、そう思った。
水曜日の夜、花はいつもの帰り道を少しだけ逸れて、寄り道をした。
商店街のはずれにある、小さな古書店。チェーンの大型店とは違い、店主が自分の目だけで選んだ本を並べている、狭くて古い店だ。
引っ越してきた日からずっと気になってはいたものの、これまではどうしても敷居が高くて中に入れなかった。
けれど今日は、すんなりと足が動いた。
理由は特にない。
ただ、今の自分なら、あの古い木製の引き戸を開けられる気がしたのだ。
店内は静まり返り、古い紙の匂いが満ちていた。
奥の擦り切れた椅子で、店主らしき老人が静かに文庫本を読んでいたが、花が入ってきても顔を上げようとはしなかった。それが、かえって心地よかった。
棚をゆっくりと眺め、一冊の薄い本を手に取る。
タイトルはひどく抽象的で、すぐには意味が分からなかった。
けれど、褪せた群青色の表紙が妙に好きだった。ぱらぱらとページをめくってみると、最初の一行に、目が釘付けになった。
それだけで、買うことを決めた。
レジにお札を差し出すと、老店主は眼鏡の奥の目を少しだけ細めて言った。
「いい本を選ばれましたね」
「……ありがとうございます」
花は小さく笑って答えた。
そういう見知らぬ誰かとのささやかな会話が、驚くほど自然に、喉の奥から滑り出てくるようになっていた。
アパートへ帰ると、みやびがこたつの前にちょこんと座っていた。
いつもなら花が帰ると嬉しそうに目を輝かせるのに、今夜は珍しく、着物の袖を握りしめて少しだけ疲れた顔をしていた。
「就活、でしたか」
花はビジネスバッグを置きながら尋ねた。
「はい」
みやびは小さく、消え入りそうな声で頷いた。
「今日は、少し遠くの温泉旅館へ二軒、行ってまいりました。一件目はすでに行き先が決まっており、二件目は……面接の途中で、大女将さんに『お子様のお客様が怖がるかもしれないから』と」
花はコートをハンガーに掛けながら、部屋の隅の小さな影を振り返った。
「みやびさんは、怖くないですよ」
みやびが、弾かれたように丸い目をさらに大きくした。
「……そう、でしょうか。私は、古い怪異でございますから」
「怖くないです」
花は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「私、最初から一ミリも怖いなんて思いませんでした」
みやびはしばらくの間、呆然としたように花を見つめていた。やがて、その大きな瞳にじわじわと温かい光が灯っていく。
「……花さんは、最初から、そういうお方でした」
「そういう人?」
「怖がらない、ということではなくて」みやびの声が、優しく震えた。
「私のことを、化け物としてではなく、ちゃんと、見てくださるお方です」
花は言葉を失い、自分の手元を見た。
「ちゃんと見る人」なんて言われたのは、人生で初めてだった。
いつも誰かの後ろに隠れて、見落とされる側の人間だと思い込んで生きてきたから。
その夜、深夜一時の砂嵐の中から、サボリの声はどこか呆れたような、それでいて愉快そうな調子で響いてきた。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、なんか、身内からお門違いな電波が混ざってますね。お前、ラジオじゃなくて手紙でやりなさいよ、こういうのは。まったく」
紙ががさがさと擦れる、乱暴な音がスピーカーを揺らす。
「ラジオネーム、なし。……なしじゃねえよ『みやび』って下に書いてあんだろ。お前の部屋の居候からですよ、花。わざわざ深夜ラジオの周波数を使って家主への感謝状を送ってくるな。まあ、一行だけ読んでやりますけど」
花はハッとして、毛布の中から部屋の隅を見た。みやびは、膝を抱えたままじっとラジオを見つめている。
「『花さんに、怖くないと言ってもらえました。ちゃんと見てくれる人のそばなら、私はもう一度頑張れます。もう少しだけ、ここに居てもよいでしょうか』……だとさ」
スピーカーの向こうで、サボリが大きくため息をつく気配がした。
「……知らんがな、そんなこと。居座るか出ていくかは、その部屋の主に聞きなさい。こっちはただの迷子猫専門のラジオ屋です。……ただ、まあ」
爪が机をトントン、と小刻みに叩いた。
サボリの声から、すっと気怠さが抜ける。
「自分が『ここに居てもいいんだ』と思える場所なんてのはね、一生のうちにそう何度も見つかるもんじゃないですよ。座敷童子だろうが、人間だろうがね。見失わないうちに、その裾をぎゅっと握っておきなさい。……じゃ、今夜は閉店」
プツン。
砂嵐の音が消え、静寂が部屋に満ちる。
花は静かに起き上がり、部屋の隅にいる小さな同居人を見た。みやびもまた、じっと花を見つめ返していた。
「居てください」
花は、静かに、でもはっきりと言った。
「みやびさんが次の就職先を見つけるまで、ずっとここに居てください」
みやびは、今度は涙をこぼさなかった。
ただ、胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、言葉にならない重みで、深く、深く頭を下げた。
「……はい。ありがとうございます、花さん」
花は微笑み、本棚から今日買ったばかりのあの群青色の本を取り出した。
こたつに潜り込み、そっとページを開く。
夜の暗闇を、そのまま静かに肯定してくれるような、美しい最初の一行。
その文字を目で追い始める花の邪魔をしないように、みやびは少し離れた場所で、自分の膝を抱えて静かに座った。
カサリ、と、ページがめくられるかすかな紙の音だけが、ワンルームのあたたかい空気の中に溶けていく。
一人だけど、一人じゃない。
新しく買った本を抱きしめるようにしながら、花は、この愛おしい夜の静けさを、心の底から好きだと思いはじめていた。




