第12話:共同生活、一週間
みやびが部屋に来てから、一週間が経った。
共同生活というのは、思ったよりもずっと静かなものだった。
みやびは音を立てない。足音も、衣擦れの音もしない。
気配もひどく薄い。
花が仕事を終えて帰宅したとき、いるのかいないのか分からないくらい静かに、部屋の隅の影に溶け込んでいる。
けれど、確かに何かが違っていた。
たとえば朝、アラームが鳴るより少し前に目が覚めると、こたつの上に淹れたての緑茶が置いてある。
花が触っていないはずの湯沸かし器から、ちょうど飲み頃の温度に冷まされたお茶が、小さなマグカップに満ちている。
たとえば夜、くたくたになって帰ってくると、朝急いで脱ぎ散らかしていったはずの上着が、椅子の背もたれにきれいに整えられて掛けられている。
劇的な変化ではない。花も、最初は見過ごしそうになるくらいだった。
けれど一週間が経ち、部屋のあちこちにある「小さな歪み」が平らになっていることに、少しずつ気づき始めていた。
水曜日の夜、こたつで温かいお茶をすすりながら、花はみやびに今週の就活の進捗を尋ねてみた。
みやびは着物の袖を膝の上できちんと合わせ、背筋をまっすぐに伸ばして答えた。
「今週は、古民家を改装したお洒落なゲストハウスというところに面接に行きました」
「どうでした?」
「『うちのコンセプトに合わない』と言われてしまいました。中を覗いたら、柱も壁も白くペンキで塗られていまして。モダンなリノベーションというもので、和の気配を完全に排除したかったようです」
花は湯呑みを握ったまま、少しだけ遠い目をした。
「それはまた……なんというか、相性が最悪でしたね」
「はい」
みやびは小さく息を吐いた。
「でも、面接の帰り道に古い商店街を歩いていましたら、小さな和菓子屋さんの前を通りかかりまして。店主のおじいさんが、誰も来ない縁台に座ってひどく困った顔をされていたので、少しだけ、お手伝いをしてきました」
「お手伝い?」
「ほんの少し、風向きを変えるような感じです」
みやびは事もなげに言った。
「そうしたら、しばらくして修学旅行生の一団がどっとお店に入っていきまして。おじいさんがとても嬉しそうに、何度も頭を下げていたので、良かったなと」
花は目をまたたき、みやびのちんまりとした顔を見つめた。
「それ、ご自身の就職活動には一ミリも関係ないですよね?」
「関係ないです」
あっさりと、当然のように言った。
「……まあ、みやびさんが良いなら、いいんですけど」
花が思わず吹き出すと、みやびもほんのわずかに、満足そうに口の端を上げた。
三百歳を超えた妖怪の笑い方は、さざ波のように静かだった。
金曜日の夜、花はひどい残業に捕まった。
アパートのドアを開けたのは夜の十時を回った頃で、カバンを床に放り出すなり、コートも脱がずにこたつへと倒れ込んだ。
身体は鉛のように重かった。
けれど、胸の奥にある感覚は、以前の擦り切れるような不快なものとは全く違っていた。
今日の夕方の会議で、花は初めて、自分から手を挙げて発言をした。周囲の顔色を伺ってタイミングを逃すことなく、自分の言葉をまっすぐに口に出せたのだ。
先輩が「藤井さん、それ、すごく良い視点だね」と言ってくれた。課長も深く頷いていた。
ただそれだけのことに、心臓が今もあつく脈打っている。
自分を大切にするというのは、こんなにも体力を使い、心地よいものなのか。
ふと顔を上げると、部屋の隅に敷いた毛布の上に、みやびが座っていた。
いつもより、ほんの数十センチだけ、こたつに近い場所にいる。
「……おかえりなさい」
みやびが、静かに言った。
花は、こたつに突っ伏したまま動きを止めた。これまでは「ただいま」と言っても、部屋の空気がわずかに揺れるだけだった。言葉として、ちゃんとした音として返ってきたのは、これが初めてだった。
「……ただいま」
花はコートの袖に顔を埋めたまま、噛み締めるように言った。
みやびが、小さく頷く気配がした。
「お疲れのようですね」
「うん、疲れました」
花は少しだけ顔を出し、部屋の隅の小さな影を見つめた。
「でも、今日はちゃんと、会社で言いたいことが言えました」
「知っています」
「……え、知ってるんですか?」
「はい」
みやびは、膝の上の風呂敷包みを愛おしそうになでた。
「部屋に入ってきたときの、花の空気の匂いで分かります。とても、あたたかい風が吹いていたので」
花はそれ以上、何も聞かなかった。
確かめなくても、その言葉が本当だと分かったから。
その夜、深夜一時の時報とともにツマミを回すと、サボリの声は最初から少しだけ、喉を鳴らすような低音を響かせていた。
「……フニャ。ハイどうも。時刻は午前一時十四分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです。今夜は……あー、なんか、やたらと香ばしい匂いが電波に乗ってきてますね。お前の部屋」
みやびが、部屋の隅でかすかに着物を擦れあわせた。
サボリの声は、まるで二人の距離を見ているかのように続く。
「……まあ、座敷童子が他人のために『福』を使い始めると、その場所の土壌がどんどん肥えてくるもんですからね。お人好しの会社員とお人好しの妖怪。案外、お似合いの凸凹コンビなんじゃないですか。知らんけど」
トントン、と、マイクを爪で叩く気まぐれな音。
「……眠れない会社員から、よく眠れる会社員になって、今度はちゃんと『喋れる会社員』ですか。人間、ちょっと背中を押してやるだけで、勝手に歩き出すから面白いですよね。……じゃ、今夜は閉店」
プツン。
電波が切れ、ワンルームにいつもの静寂が戻る。
けれど、花はラジオを床に置きながら、その静けさが以前とはまったく違う性質のものであることに気づいていた。
冷たくて、耳が痛くなるような孤独な静寂じゃない。
うるさくはないけれど、すぐそこに、自分以外の優しい呼吸がある。
そんな、毛布をもう一枚重ねたような、頼もしい静けさだった。
電気を消すと、カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、部屋の隅のみやびの影をうっすらと浮かび上がらせた。
「おやすみなさい、みやびさん」
暗闇に向かって声をかけると、しばらくして、
「おやすみなさい、花さん」
と、小さな、でも確かな声が返ってきた。
胸の奥がじんわりと解けていくのを感じながら、花はゆっくりと目を閉じた。
みやびが言っていた、あたたかい風の余韻が、今夜も花を深い、穏やかな眠りの底へと運んでいった。




