第11話:六畳間に、もう一人
インターホンが鳴ったのは、土曜日の午後二時だった。
花はキッチンで、洗いかけのマグカップを持ったまま首を傾げた。
宅配便の予定はない。友人がふらりと訪ねてくるような約束もない。
そもそも、このアパートに引っ越してきてから、業者の点検以外でこのチャイムが鳴ったことなど、片手で数えるほどしかなかった。
おそるおそるモニターを確認すると、エントランスの狭い画角の中に、小さな影がぽつんと映っていた。
子供、のようだった。
花は泡だらけの手をタオルで拭き、エントランスの解錠ボタンを押した。
共用廊下に出ると、カン、カン、と階段を上がってくる頼りない足音が聞こえてきた。
角を曲がってきたのは、あの座敷童子だった。
色あせた赤い着物のまま、両手で小さな風呂敷包みを、まるで命綱のようにぎゅっと抱きしめている。古い格子模様の風呂敷は、中身がぱんぱんに膨らんでいた。
花と目が合うと、子供は膝を折るようにして、その場に深々と頭を下げた。
「……就職、できませんでした」
小さな声が、目に見えるほど細かく震えていた。
花はしばらく、その小さく丸まった背中を見つめていた。それから何も言わず、自分の部屋のドアを大きく開け放った。
「とりあえず、入ってください。外、風が冷たいですから」
こたつを挟んで、二人は向かい合って座った。
座敷童子は膨らんだ風呂敷包みを膝の上に載せたまま、背筋を硬く強張らせていた。
三百四十二歳にしては、ずいぶん余裕のない、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
花は熱いお茶を淹れて、その小さな手元の前に置いた。
「何があったのか、聞きますよ」
座敷童子はしばらく自分の爪を見つめていたが、やがて、堰を切ったようにぽつぽつと話し始めた。たどたどしい、迷子のような言葉だった。
古民家カフェを何軒も回ったけれど、どこも「もうベテランの座敷童子さんがいるから」と門前払いされたこと。あるお洒落なカフェでは、着物姿の自分を見た店長に「うちのコンセプトに合わないし、子供のお客様が怖がるから」と嫌な顔をされたこと。
藁にもすがる思いで行った温泉旅館は、すでに先月で廃業していたこと。
別の宿では、あの手書きの実績リストを見せたら、フロントの人に「こういうのは、公的な証明書がないと困るんだよね」と苦笑いされたこと。
「……あと、最新設備のスマートホテルというところにも行ったのです」
座敷童子は鼻をすすった。
「求人票に『未経験者歓迎、アットホームな職場です』と書かれていたので、私のような見習いでも……と思ったのですが。『うちは和風の演出は求めていないので』と言われてしまいました」
「……それは」
花は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えながら、静かに言った。
「座敷童子を歓迎していたわけじゃ、ないと思います」
「分かってはいたのです」
座敷童子は風呂敷を握る手にぐっと力を込めた。
「でも、行ってみないと、断られにでも行かないと、どこにも行く場所がなくて……」
花はお茶を一口すすり、喉の渇きを潤した。
その気持ちは、痛いほど分かった。無駄だと分かっていても、履歴書を握りしめて、頭を下げに行くしかない夜がある。
三百四十二歳の妖怪が、冷たい現実の街を、あの不器用な手書きの履歴書を持って一人で歩き回っていたのだ。
「住む場所は、どうしてたんですか。駅の待合室は終電で閉まるでしょ」
「川沿いのベンチにいたり……。先週までは、神社の社務所の軒下に隠れていたのですが、神主さんに見つかってしまいまして。『ここは泊まる場所ではないから、公的な窓口に行きなさい』と、優しく言われました」
どこに行っても、公的な証明を求められる。
花は静かになった部屋を見回した。
六畳間のフローリング。本棚と、こたつと、防災ラジオ。一人で住むには十分だが、二人で住むには、どうしたって狭い。
「狭いですよ、うち」と、花は言った。
「はい」
「フローリングです。畳なんて一枚もないです。座敷じゃないです」
「はい」
「それでも、いいなら」
座敷童子が、弾かれたようにぱっと顔を上げた。
「しばらく、次の場所が見つかるまで、ここにいていいです」
小さな大きな目が、みるみるうちに潤んでいく。
「泣かない」
花は先手を打つように、自分のティッシュボックスをこたつの真ん中に置いた。
「その代わり、ルールを三つ決めます。聞いてください」
一つ、私が寝ている夜中は静かにすること。
一つ、棚の防災ラジオには絶対に触らないこと。
一つ、就職活動は諦めずに続けること。
座敷童子は涙を流しながら、三つのルールに何度も、何度もまっすぐ頷いた。
「あと」
花は思い出したように言った。
「ずっと『座敷童子さん』って呼ぶのも変だし、何か名前を決めましょう。前の家とかで、なんて呼ばれてました?」
子供は涙を袖で拭いながら、少し考え込んだ。
「……むかし、明治のころに住んでいた家のおばあさんに、一度だけ『みやびな子だねえ』と言われたことがあって」
「じゃあ、みやび。みやびにしましょう」
みやびは、今度は泣かずに、嬉しそうに深々と頭を下げた。
その夜、花はいつも通りラジオのツマミを回した。
じりじりとした砂嵐の向こうから、いつもの気怠い声が滑り込んでくる。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、なんか、部屋の密度が変わりましたね、お前のところ。狭いワンルームのくせに」
花は毛布の中でハッとして、部屋の隅を盗み見た。
メールなんて送っていない。けれど、すべてをお見通しのようなサボリの声に、かすかな爪の音が混ざる。
「……まあ、いいんじゃないですか。座敷童子が根を張った場所は、じわじわと空気が変わるもんですからね。畳がないなら、その床板を座敷だと言い張ればいいんですよ。効果のほどは保証しませんけど」
少しだけ、長い間があった。ノイズの波がゆったりとスピーカーから溢れる。
「……へえ、みやび、ですか。古い記憶の温かい名前は、その子にとっての『お守り』になりますからね。迷子にならないための、ね。……じゃ、閉店」
プツッ。
サボリの声が切れたあと、花はしばらく天井を見つめていた。
「お守り」というサボリの言葉が、耳の奥で優しく響いていた。
それはみやびだけでなく、サボリという名前を呼んでいる私にとっても、同じなのかもしれない。
ふと視線を落とすと、部屋の隅の、この前敷いておいた小さな毛布の上に、みやびがちんまりと膝を抱えて座っていた。
目を閉じている。
眠っているのか、ただじっとしているのか、その境界は曖昧だったけれど、不思議とうるささは感じなかった。
一人では、ない。
花はそっと電気を消した。
暗闇の中で、エアコンの低い駆動音と、みやびの小さくて静かな呼吸の音が、心地よく重なり合っていた。
月曜日の朝。
アラームの音で目が覚めてこたつに向かうと、そこには小さなマグカップが置かれていた。
中には、淹れたての温かいほうじ茶。
湯気がまっすぐに立ち上っていて、今まさに飲み頃の温度だった。
部屋のどこを見回してもみやびの姿はなかったけれど、いつもなら重たく淀んでいるワンルームの空気が、今朝は驚くほど澄み切って、ひんやりと心地よかった。
お茶を一口、喉に流し込む。じんわりと身体の芯が温まっていく。
いつもと同じ、憂鬱なはずの週の始まり。けれど、カバンを掴んだ花の足取りは、不思議なほど軽かった。
ドアを開け、外の新鮮な秋の空気を吸い込む。カギを閉めながら、花は誰もいない室内に向かって、小さく、でもはっきりと声をかけた。
「いってきます」
カチリ、とカギの閉まる心地よい音が、新しい朝の始まりを告げていた。




