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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも
第二章 居場所のないもの

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第11話:六畳間に、もう一人

 インターホンが鳴ったのは、土曜日の午後二時だった。


 花はキッチンで、洗いかけのマグカップを持ったまま首を傾げた。


 宅配便の予定はない。友人がふらりと訪ねてくるような約束もない。


 そもそも、このアパートに引っ越してきてから、業者の点検以外でこのチャイムが鳴ったことなど、片手で数えるほどしかなかった。


 おそるおそるモニターを確認すると、エントランスの狭い画角の中に、小さな影がぽつんと映っていた。


 子供、のようだった。


 花は泡だらけの手をタオルで拭き、エントランスの解錠ボタンを押した。


 共用廊下に出ると、カン、カン、と階段を上がってくる頼りない足音が聞こえてきた。


 角を曲がってきたのは、あの座敷童子だった。


 色あせた赤い着物のまま、両手で小さな風呂敷包みを、まるで命綱のようにぎゅっと抱きしめている。古い格子模様の風呂敷は、中身がぱんぱんに膨らんでいた。


 花と目が合うと、子供は膝を折るようにして、その場に深々と頭を下げた。


「……就職、できませんでした」


 小さな声が、目に見えるほど細かく震えていた。


 花はしばらく、その小さく丸まった背中を見つめていた。それから何も言わず、自分の部屋のドアを大きく開け放った。


「とりあえず、入ってください。外、風が冷たいですから」


 こたつを挟んで、二人は向かい合って座った。


 座敷童子は膨らんだ風呂敷包みを膝の上に載せたまま、背筋を硬く強張らせていた。


 三百四十二歳にしては、ずいぶん余裕のない、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


 花は熱いお茶を淹れて、その小さな手元の前に置いた。


「何があったのか、聞きますよ」


 座敷童子はしばらく自分の爪を見つめていたが、やがて、堰を切ったようにぽつぽつと話し始めた。たどたどしい、迷子のような言葉だった。


 古民家カフェを何軒も回ったけれど、どこも「もうベテランの座敷童子さんがいるから」と門前払いされたこと。あるお洒落なカフェでは、着物姿の自分を見た店長に「うちのコンセプトに合わないし、子供のお客様が怖がるから」と嫌な顔をされたこと。


 藁にもすがる思いで行った温泉旅館は、すでに先月で廃業していたこと。


 別の宿では、あの手書きの実績リストを見せたら、フロントの人に「こういうのは、公的な証明書がないと困るんだよね」と苦笑いされたこと。


「……あと、最新設備のスマートホテルというところにも行ったのです」


 座敷童子は鼻をすすった。


「求人票に『未経験者歓迎、アットホームな職場です』と書かれていたので、私のような見習いでも……と思ったのですが。『うちは和風の演出は求めていないので』と言われてしまいました」


「……それは」


 花は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えながら、静かに言った。


「座敷童子を歓迎していたわけじゃ、ないと思います」


「分かってはいたのです」


 座敷童子は風呂敷を握る手にぐっと力を込めた。


「でも、行ってみないと、断られにでも行かないと、どこにも行く場所がなくて……」


 花はお茶を一口すすり、喉の渇きを潤した。


 その気持ちは、痛いほど分かった。無駄だと分かっていても、履歴書を握りしめて、頭を下げに行くしかない夜がある。


 三百四十二歳の妖怪が、冷たい現実の街を、あの不器用な手書きの履歴書を持って一人で歩き回っていたのだ。


「住む場所は、どうしてたんですか。駅の待合室は終電で閉まるでしょ」


「川沿いのベンチにいたり……。先週までは、神社の社務所の軒下に隠れていたのですが、神主さんに見つかってしまいまして。『ここは泊まる場所ではないから、公的な窓口に行きなさい』と、優しく言われました」


 どこに行っても、公的な証明を求められる。


 花は静かになった部屋を見回した。


 六畳間のフローリング。本棚と、こたつと、防災ラジオ。一人で住むには十分だが、二人で住むには、どうしたって狭い。


「狭いですよ、うち」と、花は言った。


「はい」


「フローリングです。畳なんて一枚もないです。座敷じゃないです」


「はい」


「それでも、いいなら」


 座敷童子が、弾かれたようにぱっと顔を上げた。


「しばらく、次の場所が見つかるまで、ここにいていいです」


 小さな大きな目が、みるみるうちに潤んでいく。


「泣かない」


 花は先手を打つように、自分のティッシュボックスをこたつの真ん中に置いた。 


「その代わり、ルールを三つ決めます。聞いてください」


 一つ、私が寝ている夜中は静かにすること。


 一つ、棚の防災ラジオには絶対に触らないこと。


 一つ、就職活動は諦めずに続けること。


 座敷童子は涙を流しながら、三つのルールに何度も、何度もまっすぐ頷いた。


「あと」


 花は思い出したように言った。


「ずっと『座敷童子さん』って呼ぶのも変だし、何か名前を決めましょう。前の家とかで、なんて呼ばれてました?」


 子供は涙を袖で拭いながら、少し考え込んだ。


「……むかし、明治のころに住んでいた家のおばあさんに、一度だけ『みやびな子だねえ』と言われたことがあって」


「じゃあ、みやび。みやびにしましょう」


 みやびは、今度は泣かずに、嬉しそうに深々と頭を下げた。


 その夜、花はいつも通りラジオのツマミを回した。


 じりじりとした砂嵐の向こうから、いつもの気怠い声が滑り込んでくる。


「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、なんか、部屋の密度が変わりましたね、お前のところ。狭いワンルームのくせに」


 花は毛布の中でハッとして、部屋の隅を盗み見た。


 メールなんて送っていない。けれど、すべてをお見通しのようなサボリの声に、かすかな爪の音が混ざる。


「……まあ、いいんじゃないですか。座敷童子が根を張った場所は、じわじわと空気が変わるもんですからね。畳がないなら、その床板を座敷だと言い張ればいいんですよ。効果のほどは保証しませんけど」


 少しだけ、長い間があった。ノイズの波がゆったりとスピーカーから溢れる。


「……へえ、みやび、ですか。古い記憶の温かい名前は、その子にとっての『お守り』になりますからね。迷子にならないための、ね。……じゃ、閉店」


 プツッ。


 サボリの声が切れたあと、花はしばらく天井を見つめていた。


「お守り」というサボリの言葉が、耳の奥で優しく響いていた。


 それはみやびだけでなく、サボリという名前を呼んでいる私にとっても、同じなのかもしれない。


 ふと視線を落とすと、部屋の隅の、この前敷いておいた小さな毛布の上に、みやびがちんまりと膝を抱えて座っていた。


 目を閉じている。


 眠っているのか、ただじっとしているのか、その境界は曖昧だったけれど、不思議とうるささは感じなかった。


 一人では、ない。


 花はそっと電気を消した。


 暗闇の中で、エアコンの低い駆動音と、みやびの小さくて静かな呼吸の音が、心地よく重なり合っていた。


 月曜日の朝。


 アラームの音で目が覚めてこたつに向かうと、そこには小さなマグカップが置かれていた。


 中には、淹れたての温かいほうじ茶。


 湯気がまっすぐに立ち上っていて、今まさに飲み頃の温度だった。


 部屋のどこを見回してもみやびの姿はなかったけれど、いつもなら重たく淀んでいるワンルームの空気が、今朝は驚くほど澄み切って、ひんやりと心地よかった。


 お茶を一口、喉に流し込む。じんわりと身体の芯が温まっていく。


 いつもと同じ、憂鬱なはずの週の始まり。けれど、カバンを掴んだ花の足取りは、不思議なほど軽かった。


 ドアを開け、外の新鮮な秋の空気を吸い込む。カギを閉めながら、花は誰もいない室内に向かって、小さく、でもはっきりと声をかけた。


「いってきます」


 カチリ、とカギの閉まる心地よい音が、新しい朝の始まりを告げていた。



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