第10話:画面に映らない方法
その夜のサボリの声は、ツマミを回した瞬間から、あからさまに疲労を隠そうともしていなかった。
「……フニャ。ハイどうも。時刻は午前一時三十五分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです。今夜は……あー、なんというか、現代社会の底暗い闇を感じるメールが届いてます。はい、読みます」
カサ、カサリと、紙をめくる気怠い音。
「ラジオネーム『背後が心配』。……ろくろ首、ですね。三十代女性。拝読します」
「『サボリさん、はじめてメールします。私はろくろ首なのですが、リモートワークになってから本当に困っています。夜中、集中するとどうしても首が伸びてしまうのですが、深夜残業で急にオンライン会議が入ることがあり、先月、画面に思いきり首が映り込んでしまいました。同僚には「部屋の照明の加減で影が伸びた」と言ってその場はごまかしましたが、もう限界です。バーチャル背景を設定しても、首が背景の認識エリアの外まで伸びてしまうので意味がありません。上司には絶対に言えないし、転職も考えていますが、履歴書の顔写真をどうすればいいか分かりません。サボリさん、助けてください』……以上です」
ふう、と、重苦しいため息がスピーカーを震わせる。
「……知らんがな」
花は毛布の中で、気の毒に思いつつも、思わず笑いをこらえた。
「履歴書の写真なんて伸びてない昼間に撮ればいいだけなので、そこは勝手にしてほしいんですが。……問題はオンライン会議ですね。バーチャル背景を突き抜けて伸びるというのは、なかなかにアグレッシブな物理問題です」
爪が机をトントンと叩く音が、静かに響く。
「おい、眠れない会社員。お前のことだ。一応IT系の端くれなんだから、何かその伸びる首を画面に収める方法、知ってるんじゃないですか。……あと、ろくろ首が転職したがってるの、別に首の長さが理由じゃないと思いますよ。そもそも、そんな深夜まで当たり前に会議を入れ込んでくる職場環境のほうが、よっぽど歪んでて問題でしょう。契約外の小言ですけどね。じゃ、閉店」
プツッ。
翌日の昼休み、花は自分のデスクで、お弁当のフタを開けたままスマホを操作していた。
『ろくろ首 オンライン会議 映り込み対策』
冷静になって画面の検索ワードを見ると、自分は何を大真面目に調べているんだと、少しおかしくなった。けれど、花の手は止まらなかった。
真剣に考えた。
バーチャル背景の外まで伸びるなら、いっそ広角レンズにするか、カメラの位置を限界まで引いて、部屋の壁全体を映すようにすればいい。全体が小さく映れば、首の動きもただの「部屋のノイズ」に見えるかもしれない。
あるいは、あらかじめ部屋を真っ暗にしておいて、顔の正面だけにクリップライトを当てる。
そうすれば、首から上の闇に伸びていく部分は、カメラの露出のせいで完全に黒に潰れて映らなくなるはずだ。
でも、と花はメモを打ちながら思った。
サボリの言った通りだ。
本当に悪いのは、夜中の一時に、三十代の女性の首が伸びてしまうほど酷使している、その会社の方じゃないか。
花はかつて、前の職場で深夜まで明かりの消えないオフィスに縛り付けられていた頃を思い出した。
あの時、自分の心もろくろ首みたいに、不自然な形に引き伸ばされて、ちぎれそうになっていた。
花はメールアプリを開き、サボリ宛てに指を動かした。
『ラジオネーム:よく眠れる会社員です。
ろくろ首さんの件、技術的な対策をいくつか送ります。
カメラを思いきり引いて部屋全体を映すか、逆に部屋を真っ暗にして顔だけにライトを当てれば、伸びた部分は画面の闇に溶けて映らなくなります。最悪は「回線が死にそうです」と言ってカメラを切ってください。
でも、これは全部ただの気休めです。そんな時間までオンライン会議を強要する会社の方が、絶対に狂ってます。首を縮める方法を探すんじゃなくて、その上司を黙らせる方法を考えた方がいいです』
少し乱暴な文面になってしまったけれど、書き直さずにそのまま送信ボタンを押した。
三日後の深夜。いつもの砂嵐を突き抜けて、サボリの声が戻ってきた。
「……あー。あの、画面を突き抜けてたろくろ首から続報が届きました。教わった通り部屋を真っ暗にして顔だけ照らしたら、首がどれだけ伸びても画面上は『闇』になって完全に見えなくなったそうです。ホラーですね」
花は布団の中で、よかった、と小さく胸を撫で下ろした。
「……ていうかお前、メールに対策をあれこれ細かく書き連ねて、真面目か。社内のヘルプデスクか。……まあ、でも。お前が最後に『会社の方が狂ってる』と、やたら熱量高めに怒ってたのを見て、あいつ、なんか憑き物が落ちたみたいです」
サボリが、マイクの向こうで姿勢を変える気配がした。
「同じように深夜残業で死にかけてた同僚たちにそのメールを見せて回って、『やっぱりこれ、おかしいよね』って、みんなで上司に直訴したらしいですよ。結果、深夜のオンライン会議は全面廃止。労働環境の大幅改善です。大金星ですね」
「……あ」
花は小さく声を漏らした。
まさか、自分のあの怒りに任せたメールが、そんなふうに誰かの現実を動かすなんて思ってもみなかった。
「……誰かに『それはおかしい』ってちゃんと言ってもらうまで、自分がどれだけ異常な場所にいるか気づけないことって、あるもんですよ。人間も、妖怪もね」
少しだけ長い、沈黙があった。
砂嵐の音が、凪いだ海のように静かにスピーカーから流れている。
「……まあ、そういうことです。じゃ、今夜は閉店」
プツン。
電波が切れた。
花はラジオを胸の上に抱きかかえたまま、暗い天井を見つめた。
誰かに言ってもらうまで、気づけないこと。
それは、私自身のことだ、と思った。
あの息の詰まるような毎日の中で、眠れない夜を当たり前のこととして受け入れて、自分が弱いからいけないんだと、ずっと縮こまっていた。
誰もいない部屋で、この古いラジオの、だるそうな声が拾ってくれるまでは。
「……ありがと」
花は、暗闇に向かって小さく呟いた。
サボリに言ったのか、ろくろ首に言ったのか、それとも、あの頃の自分自身に言ったのかは分からない。
ラジオはもう、静かな砂嵐の音を立てているだけだった。
けれど、そのザザザー……という規則正しいノイズが、ほんの一瞬だけ、猫が喉を鳴らすゴロゴロという音のように優しく爆ぜた気がして、花は口元を緩めた。
布団を引き上げ、目を閉じる。
耳の奥に残るノイズは、もう花を脅かすものではなくなっていた。心地よい温かさに守られながら、花は今夜も、深い眠りへと落ちていった。




