真夜中の決死行3
5
午前四時を過ぎようとしていた時、雛はふと、目を覚ました。背中に伝わる固い感触。肌を心地よい風が吹き抜ける。しかし、少し臭い。まるでゴミの腐ったような感じがした。
そばには缶詰の中に火がくべてあった。そして、亘の丸い背中がった。
「亘?」
「あ、よかった。起きたんだね」
「ここはどこ? あたし達は……」
「雛ちゃんは川で溺れたんだ。それでここまで逃げてきた。それと、調達してきたから食べてといてよ」
菓子や缶詰が置いてある。雛は自分がかぶっているシーツに気づいた。
「まさか、あたしが眠ってる間にちょろまかしてきたの?」
「うん。見つからずにこっそり。火事場泥棒みたいで気が引けたけど」
「危ないなあ」
でも、正直安心したし、空腹だった。菓子を食べながら、雛は周りを確認した。薄暗い石造りのトンネルだった。
「この先を行けば、きっと、隣の町に行けるはずだよ」
「どうして知ってるの?」
「ここで遊んだことがあるから」
「そう。さっきはゴメン。あたし、泳ぎはあまり上手じゃないのを忘れてた」
雛は体を起こした時、妙に体中が涼しいのに気づいた。なんというか、スゥスゥするというか……。自分の格好に、全身から血の気が引いた。
「ねえ、亘……」
「どうしたの?」
「あたしさ、今、何にも着てないんだけどさ……」
「あっ。ゴメン。服と下着がびしょ濡れだから乾かしておいたんだ。夏風邪を油断したら危ないから」
雛は深呼吸しながら、こぶしを固めた。
「つまり、あんたは気絶しているあたしを脱がせて丸裸にしたと、そういうことでいいのかな?」
「大丈夫だよ。雛ちゃんとはよくお風呂に入ったじゃない。暗かったし、雛ちゃんはあの頃とあまり変わってないみたいだし――」
亘の言葉が続かなかった。トンネルに響いた彼の断末魔が、巡回中の鬼に聞かれなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
「さてと――朝までここにいるしかないのかな、ねえ、亘?」
「今、外に出るのは危険だよ。雛ちゃんといるよりは安全かもしれないけど」
亘の顔は風船のように膨れ上がっていた。ここまで男子をズタボロにしたのは、久しぶりだった。
「よく言うよ、ヘンタイクソ野郎。あんたは死ぬまであたしの舎弟決定ね」
二人が交代で外を警戒した。雛も未来に連絡を試みたが、圏外か相変わらずだった。偶然合流できる保証もない。
「小宮達、大丈夫かな?」
「あの二人は大丈夫だよ。きっと、学校の外にいると思う。過去の世界に行った時だって、無事だったし」
「そうかなあ。今度ばかりはヤバいと思うけど」
「仮に、僕ら以外が全滅だとしても、何とか食い止めないといけない。町の外に出たところで行く当てもないし。きっと、おばさん達もあいつの胸三寸でどうなるか分からない」
自分の母親も同じだった。あいつが、この町の大人達に何をしたかは知らない。きっと、あいつをやっつけないと元に戻らないのだろう。
上手く外に出たとして、亘の言っている本が首尾よく手に入っても、本当にあいつに対抗できるのか、雛には気がかりでならなかった。彼女の中で、何かもやもやとした、しっくりこない違和感が頭の中で漂っていた。
自分は頭が悪いのは知っているけど、これは直感めいたものだ。無視するなら自分だけでいいかもしれないが。
どこでそう思ったのかは覚えている。過去の世界から未来と一也が帰ってきて、二人が向こうで何があったのかを話していた時だ。
そう、確か――母親の初恋の相手だった翔と一緒にいた女子。
彼女の名前は確か……。
「あのさ、亘、あんたのクラスの――」
ふと、顔を上げかけた時、雛は彼の後ろの壁に映る影を凝視した。少し小柄なのが自分、丸みを帯びた小太りが亘。その真横に何かはためく影が浮かんでいる。マントに見える。突き出た両腕は異様に細くて、その先には大ぶりのハサミのような物体が、亘の首元に挟まれて――。
雛は咄嗟に亘を突き飛ばした。影も連動して動いたおかげで、刃先は間一髪で、“亘の首”をはねずに済んだ。
「何するんだよ、雛ちゃん!」
「後ろ!」
壁に映る影法師は目の錯覚ではなかった。宙に浮かぶ布切れをまとう怪人は、ケラケラ笑いながらトンネルの壁面を移動する。
「運動場にいた奴だ。逃げよう」
二人はトンネルの奥に走った。手に持つスマホをライト代わりに照らしながら、出口を目指す。後ろには引きずるようにして影が知っているのだが、そのすぐ近くまで影法師が迫ってきている。その刃先が自分の頭を狙う。
雛は殴る仕草をした。すると、影の自分も同じように動いて、影法師にヒットした。こんな奴、ステゴロで十分だ。
「雛ちゃん、急いで」
「こいつはやっつけないと、いつまで追って来るよ」
「でも、どうやって?」
雛は暇があれば、近所のボクシングジムの様子を外から眺めていたことがある。それをマネしながら、自分でバイトができる年になったら習おうと思っていた。
目の前の化け物に叩き込んだ、つもりだった。しかし、相手は臆した様子もなく、あざ笑う声をトンネルの中で反響させながら、平面の宙を舞う。
やっぱり、効かないかな。雛は諦めずに何度もパンチを繰り出すが、やはり効果はない。しまいには、キックも浴びせるが、霧を叩くようで、手ごたえはなかった。
今度は影法師が襲い掛かってきた。伸びてきた刃先を避けるが、肩を切られた。もちろん影だが、よく見ると、同じ場所がすっぱりと切れている。本当に切れているわけではないのだが、刃物で切った時みたいに、背中他の肩に熱い痛みが走った。
「マジかよ」
壁に映る自分の影を見て、雛の心は萎えた。片腕がなくなっていた。傷口から黒い鮮血が流れ落ちている。
こっちの攻撃は一切当たらないのに、ずるくないか。雛は「ちくしょうめが!」と吠えて、影法師を殴った。壁に打ち付けるつもりで殴ったが、帰ってくるのはこぶしの痛みだけであった。
そうしているうちにも、影法師のハサミは雛の影を切り裂いていく。切られる度、激痛が体中に走った。
影が手足を切られた状態になる頃には、雛は一歩も動けない状態で床にへたり込んだ。獲物の力がなくなったのを確認すると、影法師はハサミを大きく開いて、雛の影の首元に添えた。
本当にざまあない。雛は自分を笑った。大見得を切った結果がこれだ。彼女は悔しさとかみしめながら目をつぶった時だった。
「雛ちゃんから離れろ!」
亘がどこから持ち出してきたのか、鉄パイプを振り上げて、影法師に向かって殴りつけた。案の定、効果はない。
「雛ちゃん、こいつは影なんだ。実態がどこかにいるはずだよ!」
実態……? そういえば、さっき肩を切られた時、後ろから切り付けられた。痛みがしたのはどれも背後から切られたみたいだった。そうすると……。
雛は影法師のいる壁の向かいを睨んだ。そこに薄く浮かぶ人の形があった。手の指を方々に動かしている。まるで、操り人形を動かしているみたいに。
「オラァッ!」
雛のこぶしをまともに食らったせいか、薄い影は声にもならないうめきで体をひねらせて、倍返しと言わんばかりに、連打を浴びせる。最後に顔面に向かって、ストレートを叩きこんだ。
影法師の実態は壁に倒れこんだ。雛は歓喜のあまりガッツポーズした。
「すごいな、雛ちゃん」
「ちょろいもんだって。あたしはね、将来、ボクサーを目指してんだよ。あんたも一緒にジムに通いなよ。あたしがみっちり鍛えてやるから」
亘が青ざめた顔で突っ立っている。本当に情けないなと思っていると、後ろを指さした。先ほど、影法師が倒れた方向を振り向くと、壁いっぱいに広がった般若の顔が眼前に迫っていた。
怒りに満ちた巨顔はひび割れて、中から血があふれ出している。
「逃げるよ!」
二人はトンネルの中を駆けた。先にある光りは徐々に大きくなる。この先に奴らが待ち伏せしているかもしれない。しかし、今は外に出ることが先決だった。
もう五十メートルもない。足がもつれそうになったところを、亘が手をつないだ。
「僕から離れないで」
格好つけ。そう呟きながらも、目の前の少年と一緒にいることが、雛にも心強く思えた。きっと、何でもうまくやれる気がした。
残り、二十五メーター。学校の体育で走ってるのと、あまり変わらない。あと少し。頼むから外には誰もいないでよ。
二十……。
十五……。
これだけ必死に走ったのは、生まれて初めてかもしれない。亘の背中がまぶしくなる。このままずっと走っていられる気がする。
背後には、巨大な般若がズズズッと迫ってきている。天井と床をかき分けて、触れそうで触れないほどしか離れていない。
捕まってたまるか。
十……五……三……雛は出口を出た一瞬、目をつぶっていた。敵に取り囲まれている光景を幻視したが、いざ、目を開けると何のことはない。入った場所よりも広い水路に出ていたし、そこには妖怪なんていなかった。それに空には朝日がすでに空に出ていて、夏の朝の心地よい風が肌をくすぐっていた。
背後で般若の絶叫が聞こえた。差し込む陽光を浴びたせいか、顔が焼けただれる。やがて、グズグズに溶け出して、緑と白の混じった液体に溶けてしまった。まるで、吸血鬼の最後である。
「隣の町に出たんだ。やるじゃん、亘。さあ、早く、本を取りに行こう」
「雛ちゃん……」
亘が悲しげな声を漏らす。馬鹿みたいな顔をするなと思ったが、自分の手を見た時、その理由が分かった。
「ああ……」
亘とついでいたはずの手が、砂のように溶け出していた。痛みはなかった。頭は今の朝の光景みたいにはっきりしていた。地面に映る亘の影。隣に立っているはずの自分のそれはなかった。
「しょうがないよね。あの影法師に切られまくったから。反撃するのが遅過ぎたんだよ、きっと」
腕の次には体にも波及する。片足が、体の半分が、顔の近くまで消えていく。
「ダメだよ、雛ちゃん」
「変な声出すなって。あんただけでも外に出たんだ。あいつの計画からは外れたんだ。まだ、完全に負けちゃいないってわけさ」
「雛ちゃんがいなくなったら、負けたのと同じじゃないか」
「めそめそするな! それに雛ちゃんって呼ぶな。ぶつよ……って言ってもぶつ手もないから無理か、ハハッ」
「笑ってる場合じゃないよ」
亘は呆れたように言った。不思議にも恐怖はなかった。雛が思ったのは、ただ、惜しいということだった。こんな風に考えたのは初めてかもしれない。もう少しだったのに、と思えるような甲斐を持つほど頑張ったことなんてなかったせいかもしれない。それがこれなら、案外悪いものじゃない。
「僕のせいだ。もっと、早く外に出ていたら、あんな奴に見つからなかったのに」
「泣くなって。こういうのってさ、缶蹴りと同じだよ。一人が缶を蹴りさえすればいいの。たった一人が勝っても、最後は全員の勝ちだよ」
「僕にはできないよ」
「できる」
「できない」
「できるっつってんだろ! 亘ならできるんだ。あんたは自分を知らないだけ。あんたはあたしよりもずっと、強いし、勇気があれば、あんな奴は簡単に封印できる」
「証拠はあるの?」
「あたしが言うんだから大丈夫」
あまり恐怖はなかった。泣きそうになる亘の顔がとてもおかしかった。
「心配するな。あんたが勝てばいいんだ。あんたは弱くない。復活してもらえるまで待ってるから」
手足の感覚が消えていく。体は胸の辺りまでとている。
「ねえ、小宮に会ったら言っといて。疑ったりして、ごめんって」
「分かった。分かったよ」
「またね、亘――」
最後まで言い切ったところで、雛の意識も砂と共に消し飛んだ。
6
夜が明けようとしていた。
未来は雛の声を聴いた気がした。
「雛……」
今、確かに『ごめん』と謝る声がした。そして、言い知れぬ不安が襲う。きっと、雛に何かがったのだと思った。
寛和は壁にもたれて眠りこけていた。そばには例のファイルが置かれている。
未来は気になって、ファイルの中を覗いてみた。学校の歴史や気になる事件、翔の事もたくさん書いてあった。
その中に一つだけ気になる記事を見つけた。翔の父親が死んだ火災の件だった。問題なのは火事になった場所。記事には、学校の敷地内の廃屋とあった。
おぼろ屋敷の事だとすぐに分かった。昔から校庭の端に建つ建物で、生徒達の肝試しにも使われていた。今では立ち入り禁止のために鍵がかけられている。先日、徹達がワタルに連れていかれたんだったか。
火事は、一九九一年の八月に起こった。おぼろ屋敷に忍び込んで遊んでいた生徒四人が閉じ込められていた。火災が起きた時、屋内には生徒が二人取り残されていた。翔の父親だった消防士は、単身で燃え盛るおぼろ屋敷に入り、生徒達は脱出した。しかし、翔の父親は助からなかった。
おぼろ屋敷がワタルの根城であったと考えると、四人が閉じ込められたのは偶然とは思えなかった。そして、助けられた生徒の一人に知っている名前があった。
小学六年生、小宮紀子。
母の名だった。
そして、もう一人の少年。同じく六年生の高橋一之。一也の父親だった。
未来はしばし呆然とした。自分達もまた、翔やワタルと生まれる前から関わっていた。雛の母親のらん子も二十年前の騒動に巻き込まれていた。すべては見えない縁の糸でつながれていたのか。
でも――と未来は考えを変えた。翔の父親の死は決して無駄じゃなかった。自分や一也が今ここにいるのは、翔の父親のおかげだったのだ。きっと、自分達は元凶を作ったワタル――ショウを退治するためにここにいるのかもしれない。
ガサガサッと足元で音がして、未来は感慨を中断した。ライトで音がした方を当てた時、「ひぃ」と声を漏らした。何か小さない虫が床一面にうごめいていた。それらは虫ではなく人の形をしていた。緑色の肌に赤い目を光らせ、高い音で鳴いている。頭には角が生えていた。
小さな鬼の群れは壁や天井にまでびっしりと覆っていた。
「竹井さん! 起きて、竹井さん!」
「どうしたの……」と寝ぼけ眼で答えたが、部屋の惨状を見た途端、寛和は弾かれたように飛び起きた。
「なんだ、こいつらは!」
寛和と共に玄関まで走った。小さな鬼達は群れをなして追いかけてくる。壁や天井が迫ってくるような感じだった。玄関のドアを通った時、寛和の動きが止まった。
「どうしたんですか?」
「僕はもう手遅れみたいだ。見てくれ」
彼の腕は緑色に変色していた。爪が異様に伸びている。気がつくと、自分も同じようになっていた。
「きっと、気づかないうちに何かされたようだ」
「そんな……」
こんな終わり方ってあるのか? 一也にも絶対に助けると約束したのに……。未来は悔しさに泣いた。恐怖というよりも自分は何もできなかったという無念だった。
翔と雛はどうしているだろうか? 無事に外に逃げられたのか? 二人を心配するうちに心の隅で黒い靄が現れてくる。
これはきっと、毒のようなもので、自分を鬼にさせるものに違いない。どうしてこんなことになったのか。その時思い浮かんだのは、あの二人の姿だった。
ずるい……ずるい。あの二人だけ、無事に外へ逃げ出そうなんて。自分や一也はショウに捕まってしまったのに、一向に助けにも来ないなんて。
あの二人が憎い。鈍間で、乱暴な奴らのくせに。
未来の心は鬼に侵蝕された。
7
「消えた」
ショウは前触れもなくそう言った。佐智子はちょうど三杯目のコーヒーに口を付けたところだった。
「たった今、竹井寛和、小宮未来、仲里雛。三人がこちらの手に落ちた」
「篠田亘は?」
「外へ逃げたようだな。まあ、心配はあるまい。一応数人送り込むが、心配するほどでもないだろう」
佐智子は時計を確認した。時間は四時四十四分。縁起の悪いゾロ目に合わせたのか、偶然だったのかはどうでもいい。良くも悪しくも、これでショウの不安材料は潰えた。魔物の存在などつゆ知らず、うだる猛暑になるはずの今日も人々は日常を始める。この世界は少しずつ変容するうちに。
ショウはソファーから立ち上がった。
「散歩に行ってくる」
「鬼になった人達は、昼間はどうするの?」
「束の間、正気に戻る。もちろん、昨夜の記憶はない。普段は人間として暮らし、夜になると鬼に戻る。今晩は隣の町に繰り出させるとしよう。夏が終わる頃には、この県一帯は魔界となる」
とうとう、魔物の国盗りが始まる。言い知れぬ不安は心に漂ったままだった。そこに裕美子がよぎった。
「あんたには、まだしばらく校長でいてもらうぞ」
低い笑いを残しつつ、ショウが横切った時だった。何かが腐ったような臭いがした。どこかで嗅いだことがある。
そう、自分を虐待した、あの女の火葬を思い出した。ショウから死臭がする。ふと、彼の髪を見た時、白いものが混じっているのに気づいた。そして、佐智子は、冷めきったコーヒーに映る憔悴した顔から眼をそむけた。
中庭からセミの鳴き声が聞こえ始めていた。今日も、いつものように暑い日が始まりそうだ。何一つ変わることなく、いつものように。




