仕組まれたキャンプファイヤー
1
亘が机で本を読んでいると、夕方時に訪問者が来た。里親の二人がいないので、代わりに応対すると、相手はクラスメイトの一也だった。
すぐ何かがおかしいのに気がついた。
「どうしたの、高橋くん?」
「成績簿を持ってきた」
「ありがとう。なんだか顔が真っ青だよ」
「そうか?」
一也は眠そうな感じであくびをしたのだが、サッカーが好きでいつもはしゃいでばかりいる彼がやる仕草では珍しかった。何だか気だるそうな感じだった。
連絡網や夏休みの宿題、通信簿を渡し終えると、一也は体を左右に揺らしながら帰ろうとして、一度立ち止まった。
「あ、そうだ、思い出したよ。俺さ、あいつに会ったんだ」
「あいつ?」
「あいつだよ」
「オレオレ詐欺じゃないんだから、名前を言ってもらわないと分からないよ」
「黒澤」
「え? もう一回言って。ゆっくりと」
「く、ろ、さ、わ」
「本当に!」
亘はとび上がるように興奮すると、一也の肩を掴んだ。
「どこで会ったの?」
「学校だよ。それでよぉ……その、なんだ……あ、そうそう、今晩のキャンプファイヤーまで内緒にしていてくれ。皆を驚かしたいからって言われてたんだ」
「それ、言ったらダメだったんじゃないの」
「そうなのか」
そんなのはどうでもいいと、亘は思った。翔が無事だと分かったんだから。彼にしては恥ずかしがり屋なところもあるのが意外だった。
「今晩のやつ行くか?」
「行くに決まってる!」
「分かった。皆に伝えとく」
一也はとぼとぼと遅い足取りで帰っていった。背中も曲がっていて年寄りみたいだった。よっぽど、翔を見て驚いたのかもしれない。
「何だ、これ?」
通信簿の中を開けてみると、成績が全部『よくがんばりました』になっている。苦手なはずの体育なんか、最後までできなかった課題の逆上がりを残しているはずなのに、『よく頑張った』になっている。
なのに、先生のコメントには、スポーツが得意な反面、学業で力を入れていくべきなんて、見当違いのことまで書いてある。いくら、金江先生がやる気のなさそうな先生でも、ここまでひどくはない。
「間違えてるな」
名前のところが高橋一也になっている。
さらに目を凝らすと、成績の上に修正ペンで塗りつぶして、その上をボールペンで書き加えている。親をごまかすつもりだったのかもしれないが、これでは幼稚園児も騙せない。
亘はため息を漏らすと、通信簿を持って一也の後を追いかけようとした。
しかし、彼の姿はどこにもなかった。
「今日のキャンプファイヤーの時にでも、持って行こうかな」
家に入ろうとすると、「すみません」と声をかける少年がいた。小柄でネズミみたいに疑り深そうな目を向ける。太陽を知らないみたいに白い顔をしている。で前歯がやや長い。
「篠田亘さんですか?」
「そうだけど……」
「ぼく、同じ学校の四年生で、小宅田って言います。ある人から頼まれて、持ってきたものがあります」
そう言うと、小宅田くんは一枚のメモを渡してきた。そこには、住所と電話番号が書かれ、『ナナイ』とかいう名前があった。
「これは?」
「本当はこんなこと、やったらダメなんだけど、命令通りにしなかったら、学校の屋上からバンジーをさせるとか言うから。これで約束だから、いいでしょ」
小宅田くんが帰ろうとするのを、亘は呼び止めた。
「待って! 誰に頼まれたの?」
「黒澤とかいう奴だよ。あの野蛮人みたいな奴が先週僕の家にやってきて、本を売った奴の名前と住所を教えろって、胸ぐらをつかんできたんだ。あまりにも怖くて、殺されるかと思ったよ。見つけ次第、ここへ来るように言われたんだ」
「本って?」
「『悪霊妖怪大図鑑』だよ。あの人から何も聞いてないの? まあ、いいや。とにかく約束は守ったからね」
小宅田くんは逃げるように帰っていった。
亘は紙を握りしめ、自分の部屋に入ると、それを机の引き出しにしまった。
顔が熱くなっていたのは、泣いているせいだと分かった。
2
夕方、未来が荷造りを終えた時、弟の徹が半泣きしながら部屋に入ってきた。
「ベソかいてどうしたの?」
また荷造りができないとかいうものだと思っていた。
「お母さんが旅行は行かないって言ってる」
「そんなはずないでしょう。徹をからかってるだけじゃないの」
自分の分も終わったし、両親の分も手伝おうと部屋を出ようとすると、母親が目の前に立っていた。もうすぐお父さんが帰ってくる。すぐに出発する予定だというのに、いつものようにエプロンをかけ、手には包丁を持ったままだった。今晩の夕食は空港近くのレストランで外食のはずなのに。
「ママ、危ないよ、それ。旅行の準備しなくていいの?」
「未来、徹。キャンプファイヤーに行きなさい」
「はぁ?」
母は恐ろしいほど笑顔で言うが、青白く不健康に見える。学校から帰った時は、小樽のどこを回ろうかと言っていて、普通に楽しみにしていたはずなのに。
「何言ってるの、ママ。今日から数日間旅行に行くんだから無理だよ」
「安心して。旅行はキャンセルしたわ」
未来は半笑いになった。冗談がきつい。
「面白いけどさ、そろそろパパも帰ってくるんだから急いだほうがいいよ」
「いいから、さっさと行きなさい!」
母の形相が歪んで、包丁を壁に突き刺した。未来は「ひぃっ」と叫んだ。
「つべこべ言わずに、さっさとキャンプファイヤーに行くの」
「お姉ちゃん……ママ怖いよ」
泣きそうな弟がしがみつく。
その時、「ただいま」と父の声が玄関から聞こえた。未来は安心した。お母さんがおかしくなったことを言うとした。
ところが、部屋の前まで来た父は開口一番に言った。
「旅行はキャンセルだぞ。二人とも、キャンプファイヤーに行くんだ。楽しいぞ。パパもボーイスカウトを思い出すよ、アハハ」
母と同じように能天気になった父は、眼鏡が半ぶりずり落ちている。にもかかわらず、気にしない様子で手を叩いて催促する。
「せっかくの大切な思い出なんだ。旅行なんているでも行けるだろ」
「何言っての、パパまで。二人ともおかしいよ。変なものでも食べたの。わたしはずっと楽しみにしてたんだよ。パパだって、小樽で天然のいくら丼をたくさん食べるんじゃないの」
「心の中で食って来たよ。今はキャンプファイヤーだ」
両親は笑顔のまま、外へ出ろと手振りでせかす。様子がおかしいどころではない。二人は完全におかしくなってしまったのか。
「お姉ちゃん……」
「出た方がいいかも」
弟を連れて外に出ると、一也が待ち伏せていたように立っていた。隣に妹の美月もいるが、怪訝な顔を兄に向けている。
「驚かさないでよ、カズ。ねえ、何かうちの親がおかしいの」
「おかしくなんかないよ。おじさんもおばさんも正しい。旅行はいつでも行けるけど、キャンプファイヤーは今日しかない。いくら丼だってスーパーに行けばあるだろ」
「さっきも聞いたし、スーパーにあるのは全部養殖だよ。そんなのどうでもいいの。とにかく変だよ、パパもママも」
「翔も来るのに」
「へえ、そうなの……ええっ! ちょっと待って。カズも見たの」
やはり、あれは見間違いじゃなかった。
「学校で会ったんだ。あいつ、恥ずかしがり屋だから、お前らには内緒にしていてくれって頼まれてんだよね」
「それって言ったらダメだったんじゃないの?」
「そうなのか」
未来は呆れながら頭を抱えた。
「とにかく来てくれよ。皆であいつに会おうぜ」
「分かった。そういうことなら。ところでさ、カズは大丈夫なの? 顔色が悪そうだけど」
「ああ、大丈夫。今日も元気百倍」
顔を取り換えたばかりのアンパンマンじゃないのに、マイナス百倍みたいな感じだ。受け答えもロボットみたい。さっきの両親と同じだった。
とにかく、親がああ言っているし、どうしようもない。言いようのない不安を心の端に置くと、未来は弟と幼馴染と一緒に学校に向かった。
3
佐奈田智佐子はいつもの夢を見ていた。夢の内容はいつも決まっている。毎回同じ映画のように、筋書まで覚えてしまった。たいてい、自分の幼少で一番古い記憶、冷水が手先を突き刺す感触から始まる。
「いつまで拭き掃除をやってんだい! もっと急いで、奥様らのご朝食の配膳を始めないか! 本当に出来の悪い子だね。鈍間なところは母親とそっくりだ」
小太りの女中が罵声を飛ばす。ただでさえ分厚い体の上に着物を着こんでいるせいで、巨大な丸太のように見える。
智佐子は朝の支度にとりかかろうとするが、連日の疲労で足元がおぼつかない。手にあまり力が入らない。なのに、大きな皿をのせた盆を運ぶように言われた。
あの後に何が起こるのかは分かっている。自分は盆を落として割ってしまい、女中は顔を真っ赤にして折檻する。
やはり、幼い自分は盆を落とした。大皿は床に砕け散り、豪勢な朝食をぶちまけた。
「ああ、高価な皿を……何やってんだ、このウスノロ!」
女中の平手が飛んだ。あまりにも強い力に、小さな体は床に転んだ。
「全く使えないガキだよ。奥様が身寄りのあんたを引き取ってやった恩義を仇で返しやがって。本当は心の底では煮えくり返っているだろうさ。あんたの母親が旦那様をたぶらかして、一緒に心中しちまったんだから。幸い、跡取りの坊ちゃんはいる。お嬢様も健在だ。お前みたいな妾の子を引き取った奥様は天女のような方だよ。それをお前は!」
風を切る音と共に、洗濯叩きが智佐子の背中を打った。ただ耐えるしか術はなく、気がつくと違う情景に映っていた。
学校の教室。辺りから聞こえるあざけりの声。自分の机と椅子の上に肉の塊が置かれていた。野良猫の死骸だ。誰がしたのは明白だった。
「座れよ、召使い」
一人の男子生徒が命じた。佐奈田家の長男、一雄だ。家では聞き分けのいい優等生を演じているが、人をいたぶるためなら、小動物を殺すサディスト。姉の悦子と共に、自分を毎日のようにいたぶっていた。巧妙なのが、決して大人の前ではしないということだった。
もっとも、気がついたところで、自分を助けてくれる人はいない。市の基盤を築いた常盤家、金江家と古くから親交のあり、歴代の市長を輩出してきた佐奈田家に逆らえる大人が、ここ常盤台市にいるはずがない。物心つく頃に佐奈田の家に引き取られて以来、一雄と悦子の姉弟や女中達のはけ口になった。
しかし、一番残酷だったのは、刀自(女性の当主)である華子だった。御三家の一つ、広大な土地を保有する地主の金江家から嫁いだ女は、自分は身寄りのない子供を引き取った人格者を装い、自らの手を染めることもなく、周りの人間をたきつける。あの女は最初から知っていたのだ。子供達や女中の憎悪を自分に向けられることを。知っていて、佐奈田家の養女に迎えたのだ。
何が天女なものか……ただの嫉妬深い、身も心も醜い女のくせに。
亡くなった当主と智佐子の母は学生時代からひそかに付き合っていた。貧しい家の娘と名家の息子。やがて、当主は常盤家の許嫁、華子と結婚した。
母が佐奈田家のお手伝いに入ってからも、密会は続いた。その間、正妻との間に、二人の子供が生まれていたが、それは佐奈田家の当主として、跡取りを生むという事務的な役割を務める以上のものではなかった。
当主と母との間に智佐子が生まれた。ほどなくして、当主は母を連れて、東北にある別荘に逃避行した。そして、そろって毒入りの酒を飲んで心中した。それを親としては無責任かもしれないが、二人を憎む気にはなれなかった。
生まれたばかりの智佐子は、事前に孤児院に預けられていた。だが、二人の死から、父親が誰なのかは明らかであった。
彼女を引き取ったのは、未亡人となった華子の裁量である。
自分を裏切った亭主と女の間に生まれた不貞の子を養女に迎えた、天女のような方。地元の者や女中達は噂した。それも計算に入れていたのだ。あとは、周りが苛め抜いてくれる。憎い、あの女の娘をいたぶってくれる。その間、自分は善人のようにふるまっていればいい。
当主が母と添い遂げた理由が、智佐子は幼い頃から分かっていた。
とにかく、智佐子は一雄と悦子のいじめ、女中の折檻、近所の大人達の陰口にさらされた。どこにも心の置き場所はなかった。十歳の頃、両親の後を追うために、学校の裏にあった池に飛び込もうとした。
そして、そこで“あいつ”に出会った。それが自分の人生の分岐点だったかもしれない。不幸から幸福になったというわけではない。自分の血が赤から黒に染まったのだ。
「お前、死にたいのかい?」
池の中から声がした。
「誰?」
「ここだよ」
智佐子は叫んで尻もちをついた。
水面に大きな顔が映っている。耳まで裂けた口、ぴんと上がった耳、そぎ落とされたみたいにへこんだ鼻、そして、血走った両目に射抜かれ、智佐子は言葉を失った。まるで、グリム童話に出てくる妖精を思わせるが、どちらかというと、意地悪なドワーフに似ていた。
「あいつらが憎くないか?」
池の顔が言った。
「オレなら、お前の憎む奴らをやっつけられるぞ」
「本当に?」
「ああ。本当はお前を食ってやりたいところだがな」
池からそいつは浮かび上がった。古い学生服を着た小柄な少年。自分よりも背が低い。だが、智佐子は直感で気づいた。こいつは人間じゃない。
「お前がかわいそうだな。あいつらは虫けらをいたぶるようにいじめる。あいつらにとって、何が正しいのか、間違っているのかどうでもいい。つまり、あいつらはお前を差別したいのさ。ちっぽけな自分達をごまかすために」
それは、お前がよく分かっているはずだ。少年の言葉に、智佐子は頷いた。
「だが、お前はどうだ? さもしい連中につぶされて消えるのか? もったいないとは思わないか。自分よりもバカで、間抜けなウスノロどもをこの世界でのさばらせていいのか? 奴らに勝たせたままで、お前の心は安らぐのか。そうじゃないはずだ」
もう一度、智佐子は頷いた。
「ならば、オレと組まないか? オレはお前の憎む奴を消してやる。お前はオレに餌を差し出す。どうだ?」
「餌……」
「子供だ。オレはガキどもが大好物なんだ。誰でもいいってわけじゃない。兄弟姉妹従弟が通っている奴らをここに連れてこい。例えば、お前の憎い奴とかな」
翌日、智佐子は一雄の筆箱を盗んで、彼をおびき出した。
「妾の娘の分際で盗みをしやがって。僕が懲らしめてやる」
棒切れを持つ一雄の凶悪な笑み。池の縁に立った瞬間、水面から突き出た手が足首を掴んで、一雄を引きずり込んだ。
「わあっ! な、なんだよ、これ! だ、誰、誰か助けて……」
あぶくを残して、一雄は消えた。池が赤く染まっていくのが見える。そこに映る自分の顔を見て、幼い智佐子は戦慄した。
「これが本当のお前だ。怖れも恥も必要もない。本当の強い姿を取り戻したんだよ」
川面に浮かぶ自分の顔は、無邪気に笑っていた。
佐奈田家から一雄という存在は消えた。家の中のアルバムも、家族や知人の記憶からも、長男はいないことになった。だからと言って、智佐子への嫌がらせがなくなったわけではない。
しかし、彼女もまた変わった。女中の暴力も、悦子の差別も、華子の欺瞞も、すべてはこけおどしにしか思えなくなっていた。
自分の血の色が赤から黒に変わったのだ。
智佐子は考えていた。
今度は誰を消そうか?
4
智佐子はまどろみから現実の世界に戻った。エアコンの効いた校長室の机に突っ伏していたのだが、顔には汗が残っていた。
最近では眠ると必ず見る夢。遠い昔の記憶は劣化することなく、まざまざと自分に教えてくれる。自分はもう、あいつとは切っても切れない共犯関係なのだと。
眼鏡を取って、目頭をもんだ。最近ではすっかり視力が落ちてきて、文面でも少し近づけないと読みにくく感じる。脚力も昔と比べると、歩くのが億劫になった。体の衰えだけではない。
ワタルが復活して、名前をショウと改名してから、靄が頭の中で渦巻いている。昔は感じなかった将来への不安である。これから自分や息子はどうなるのだろう。
佐奈田の養女でしかなかったのを、あいつの力を借りて、一雄と悦子、憎い連中を次々と消してきた。自身も向上してきた。みじめだった過去を、あの池の底に沈めてきた。気がつくと、家督を継ぎ、婿養子として常盤家の長男だった夫を利用して、この学校と自分を大きくしてきた。その夫も亡くなった。
古くからこの町の創成に貢献してきた御三家――常盤、金江、そして佐奈田。我が家を除けば、昔日の威光はすっかり衰えてしまった。そのせいか、この町もすっかり変わった気がする。昔からある者は追いやられ、外から入ってきた新しいものが幅を利かせていく。
智佐子は校長室から廊下に出ると、窓の外に広がる運動場を眺めた。
常盤台南小学校の校庭には、縁日の屋台、ゲストの催しのための特設ステージ、そして、目玉であるキャンプファイヤーのために、三メートルくらいに積み上げられた杉の丸太が鎮座していた。午後一番から準備が始まり、中心に「井」の形で塔を積んで、その周りを八角形の塔が囲う形となっている。隙間には燃えやすいように紙くずなどが詰め込まれている。
夕方の五時を過ぎた頃から、七月の時期には珍しく、空が暗がり始めていた。雨も心配されたが、雲がほとんどない。六時になると、冬季とあまり変わらない夕闇に学校の景色は染まっていた。
今晩、ショウは盛大な狩りを行なう。きっと、大人も例外なく餌食になるだろう。自分の血はどんどんどす黒くなっていくに違いない。それとも、この体は耐え切れなくなって、いつか血管や肉を腐らせてしまうだろうか。
いずれにせよ、そうなる頃にはこの世は魔界と化している。
「あの、校長先生……」
か細い声が呼んだ。ほつれ気味の髪に、やや頬の落ちた顔。不健康という言葉しか思いつかない人相。確か、五年二組の担任、金江裕美子。
「どうしました、金江先生」
「すみません。今日は少し早退します」
「お母さまの介護ね」
「はい。今朝、学年主任と教頭先生に報告はしたのですが、今は見当たらなくて」
「そう。私の方で報告しておくわ」
「ありがとうございます」
深々と下げる頭には少し白髪が混じっている。教職と介護ではきついだろう。自分にも経験はあった。もっとも、憎たらしいあの女は、とうの昔に死んだ。自分の子供達がこの世から消えたのに気づかなかったのが、認知症にかかってからは意識を取り戻した。「私の息子はどこ?」、「悦子! 一雄!」と喚いていた。そう言えば、あの女も金江家の出だった。
常盤台市の御三家のうち、金江家には長男と長女がいたはずだが、どちらも家督を継ぐことなく、各々に暮らしている。
聞くところによると、亡くなった当主が事業で失敗して、土地や財産のほとんどを売り払ったという。御三家で最も山林を多く所有していたのが、今ではどこかの業者が、馬鹿みたいな数の太陽光パネルを斜面に設置している。ショッピングモールを建設するには、人口の少ない地方都市の膨大な土地を有効活用するにはそれくらいしかない。
歴代の市長を輩出してきた常盤家も、今では若い人材がいない。養子を検討しているらしいが、先代のようにはいかないだろう。
結局、没落の兆しがないのは我が家くらいだ。それも魔物の力に依存しているのだから、笑うしかない。
「金江先生」佐智子は思わず言っていた。「明日から少し休みなさい」
「しかし、仕事がまだ――」
「介護疲れのまま、無理をしても仕方がありません。例の問題も一段落したことですし、あなたも少し休養しなさい」
「ご子息のことは申し訳ありません。暴力を振るった生徒の責任は、監督を怠った私の責任です」
「私も息子には事情を聞いたわ。お互いに何かしらの行き違いがあったみたいね。今の生徒に心に色々なものを抱えているの。大人以上にね。教師はそれに敏感に察知しなくてはいけない」
「はい」
「だからこそ休みなさい。今のあなたにはその余裕はないのでしょう。私も家族の介護をした経験があるから分かるの。主任には私が話しておくから」
「分かりました。ご迷惑をおかけします」
裕美子の背中を眺めながら、妙な感覚に襲われた。前には息子が怪我をして、こうやって……。
「夜まであと少し……」
いつの間にか、一人の少年がいた。ワタルと呼ばれ、名前を変えた魔物、ショウ。あの、黒澤翔と同じ姿をしている。
「今晩は大勢の人間が集まる。大人も子供も。電灯に集まる虫のように。何が起こるのも知らず」
「あなたの獲物は子供だけではないのね」
「手駒も欲しいからな。この町を乗っ取るにあたって、捕り損ねたガキを逃がさないように。もう、大半は手を打った」
「手を?」
「オレの力を外に放出した。まだ微弱だが、短い時間を操るのは可能だ。親どもに言われて、この町のガキは一人残らず、ここへ来る。他に警察や消防、役所の人間も。町を動かす人間をオレの駒にして操れば、ちっぽけなこの町を、オレの国にできる」
「そのあとは領土を拡大していく?」
「察しがいいな。あんたには市長になってもらうぜ。この国の人間どもの篭絡が完成すれば、次は総理大臣にでもしてやる」
あまりにも荒唐無稽な計画。しかし、人間の肉体を手に入れた彼は、必ず成し遂げるつもりだ。
「いい夢を見続けたいなら、オレの言うことを聞いていればいい。息子の身の安全も保障するぜ。心変わりしなければな」
「あなたを裏切るつもりなんて、さらさらないわ」
「そうかい」
ショウはクックックと笑うだけだった。こちらの心の奥を見透かしているのか。
ふと、先ほど早退した裕美子を思い出す。なぜ、しばらく休むように言ったのだろうか。普段は他の職員とあまり話すことはしなかったのに。彼女を危険から遠ざけるようなことを言ったのか。
まさか、自分の方が疲れているのではないかと、智佐子は思った。佐奈田の言えと自分が発展していく傍らで、あまりにもたくさんの人間が不幸になるのを見てきた。これからも同じようにしていかなくてはいけないことに嫌気がさしている。
智佐子はわずかな疑念を中断して、外の様子をうかがった。準備は終わりつつあった。見学者も増えている。来賓者に挨拶しに行かなくてはいけない。
夏の黄昏にしてはあまりにも短い。もうすぐ、夜のとばりが始まる。自分の血も同じように濃度を増していくのを感じた。
かつて、あの、憎い者達を沈めた池のように。
鮮やかな赤から、底なしの黒へ。




