インターローグⅣ/一九九五年~
1
あの一夜から二週間が経った。八月を過ぎて夏休みになってからも、金江裕美子は部屋に閉じこもっていた。塾も稽古も体調不良を理由に休んだ。
一晩明けた学校では今まで行方不明だった生徒が当たり前のように登校していた。裕美子のクラスでも男子が三人、女子が二人戻っていた。他のクラスメイトも奇妙に思わず、急に出てきた生徒を以前のように接していた。まるで、いなくなっていた間の記憶が消えているかのように。
いなくなっていたクラスメイトの一人、福田美里(同じ塾に通っているが、教室も違うので仲が良いわけではない)に話を聞いてみたが、こちらが期待する答えは得られなかった。
「そう言えば、昨日は急に目の前が暗くなったきがするけど、気がついたら今朝になってたの」
「何も覚えてないの、ワタルに捕まったとか?」
「ワタル……誰それ?」
ワタルが封印されたことで、捕らえられていた子達はもちろん、周りの生徒や教師、保護者たちも、彼らが不在していた間の記憶は一切残っていないようだった。他の生徒はもちろん、教師を始めとする大人達は、彼らが消えていた記憶を消され、神隠しの起こる前の記憶に塗り戻されたのだ。
ただ一人、翔の蒸発を除いては――。
「五年五組の黒沢翔くんが、昨晩、自宅を出たまま行方が知れません。少しでも早く、彼が帰ってくることを願いましょう」
緊急で開かれた全校集会で、校長先生の話を聞いている途中、裕美子は失神して倒れた。
保健室のベッドで目を覚ますと、茶髪の女子生徒が椅子に座りながら漫画を読んでいた。知らない子じゃない。翔と同じクラスの仲里らん子。グレた女子と学年では有名だった。もちろん、好き好んで会いたい相手ではなかった。
らん子もまた、ワタルに捕まっていた一人のはずだ。
「今頃起きたのかよ。あんたに聞きたいことがあんの。黒澤を知らない?」
一瞬考えたが、ベッドの毛布に顔を落としながら首を振った。
「あたしの顔を見ながら答えてよ。アイツがどこへ行ったのか、知らないかって聞いてんだよ」
「し、知らない」
「あんたはあいつと仲が良かったのは知ってる。でも、あたしも同じ教室にいたから、あいつのことを全く知らないほどじゃない。黒澤は急にいなくなるような奴じゃない。誘拐されただの、家出しただの、母親に殺されただの、あたしはバカな話は一切信じない。ワタル。あいつは最近、そんなことばかり言っていた。あんたが何も知らないわけないだろ。えっ、どうなんだよ」
らん子は裕美子のえりを乱暴に掴んだ。
「やめなよ、仲里さん」
その手首を掴んだのは、同じ塾に通う一組の学級委員、竹井寛和だった。彼もまたいないものにされていた。
「でしゃばり学級委員が。悪いけど、あんたの出る幕じゃない」
「いや、僕だって関係がある。黒澤くんが消えたことだろ?」
「あんたもかよ」
「おかしいのさ。彼とは何度か話した記憶があるのに、最後から長い時間が経っている気がする。でも、その理由がようやく分かった」
寛和は黒い携帯電話を見せた。
「へえ、学級委員様はハイテクなものを持ってんだね」
「コイツのおかげだ。ここに着信履歴、つまり、この携帯電話に最後にかかってきたのが、日付が六月三一日の四時半になってる。僕はこの日から今日まで使っていないことになってるんだよ。そして、電話番号をかけ直すと、どこにかかったと思う。この学校の公衆電話からだった」
「だからどうなんだよ?」
「僕は塾から家に帰る時はいつも、携帯電話で家に確認の電話を入れる。いつも欠かさずにね。ところが、こいつの履歴にはまるまる三週間の空白があるんだ。他の人にも確かめたけど、変な感じがするという人が多い。異様に眠いとか体がだるいとか、まるで現実味がないとか」
「どういうことなの?」
「僕は、確かに覚えてる。記憶が飛ぶ前に僕は黒澤くんと会話をしていたんだ。こいつをテーマにして」
彼の掲げた本には、海を漂う一隻の船が描かれていた。船員たちが忽然と姿を消したマリーセレスト号とある。
「黒澤くんと人が消える話をした日の翌日、僕が家の自分の部屋で目を覚ました。今朝の話だよ。眠る前は外で雨が降っていた。だけど、前日に雨が降ったのは真夜中だ。ここで、僕は一つの仮説を立てた。僕や仲里さん、そして、一部の人はある時期から昨日の晩まで、別の世界にいたのではないか、とね。少なくとも、現実の世界では存在していなかった」
「竹井、病院行った方がよくね?」
「じゃあ、仲里さんは昨日の出来事を思い出せる?」
「ええとね、……あれ。言われてみると頭がモヤモヤするな。昨日の出来事が思い出せない。こんな感じは初めて」
「僕らは数週間、もしかすると何ヶ月もこの世界から消えていたじゃないかな。そして、何かのきっかけでこちらの世界へ戻ってこれた。持ち物も時間に合わせて変化した。けれど、機械の記録までは変わらないし、日時の感覚にズレが起こる。だから、違和感だけが残っているんだ」
「でも、そんなの信じられないよ」
「じゃあ、これはどうだい」
寛和は透明のビニール袋に入ったお守りを見せた。ホコリや汚れがついている。
「汚いお守り」
「公衆電話があるところの隅に落ちてた。休み時間に拾ったんだけど、昨日、僕が黒澤くんと話した時に落ちたんだろう。一日も経っていないのに、こんなに汚れている。まるで、何週間も経ったように」
「でも、どうしてお守りだけが……」
「僕らを消して、記憶やモノの配置を戻した何かが唯一触れられなかったものがお守りというのが、僕の考えだ。つまり、僕がこれを落とした“昨日”は、本当の昨日じゃない。最後に覚えている六月三十日から七月十五日の十六日間分ということだ。仲里さんはどこまで覚えてる?」
「あたしは……七月の頭くらい。いつものように授業をバックレて保健室で寝てた。他には誰もいなかったと思う。そしたら……ダメ。思い出せないや」
二人の記憶が欠落している理由を、裕美子は知っている。話すべきかどうか迷いあぐねていた。翔がどうなったのかを説明しないといけなくなる。
鏡に吸い込まれた彼を置いて逃げたことも。
結局、知らぬ存ぜぬを貫くしかなかった。
2
翔が消えてから一年が過ぎた。
例年のうだるような暑さの中、裕美子は相変わらず、学校と塾と家を往復する毎日を送っていた。あと少し、あと少しで終わる、と心に念じながら。中学高校に上がっても受験があると知ってからは、勉学を苦痛に感じないように心を封じるすべを身に着けていた。辛いことは特に深く考えないようにした。
学校では奇妙な怪談は起きなくなっていた。階段の踊り場も、理科室も、音楽室も、奇妙なお化け、消える生徒も出てこない。ワタルという名の魔物はすっかり、過去のものとなっていた。
事実を知るのは、自分ただ一人。大半は、平和で退屈な日常を送っていた。人は都合の悪いものはすぐに忘れる。忘れないと前に進めないからだ。
現に翔の行方不明事件も、ほぼ同時にささやかれた有名な子役が何かスキャンダルを起こした騒動でかき消された。翔にまつわる人々の記憶は、取るに足らないゴシックネタに上書きされ、完全に消去されたかと思われた。
裕美子も忘れようと努めた。
由緒ある金江家の長女らしく振舞うために、習い事と勉学に勤しみ、母の忠告に従うようにした。以前はガス抜きに万引きをしてまで拒絶していた、進学塾も生け花、茶道、ピアノも何も考えずに通うようになっていた。
悪夢として終わった翔とも思い出を、多忙で忘れるために。
ある日、いつものように塾に行こうとした裕美子を、誰かの手がつかんだ。
「裕美子ちゃん」
懐かしい声の主を見た途端、裕美子は叫んだ。
「お、おばさま」
「翔を知らない? 私の、私の息子を……」
翔の母親、小枝子だと分かったのは、痩せこけても面影が残っているおかげであった。髪は白い毛が混じり、目は充血している。化粧していない肌は青白く、昔話に出てくる山姥を思い出させる。
「うちの翔がどこにもいないの。ねえ、あの子を知らない? まだ、家に帰っていないの。ねえ、裕美子ちゃん――」
一心不乱に問いかける小枝子は普通ではなかった。裕美子は硬直して逃げることもできないでいた。
「止めなさい」
母が家から出てきた。こちらもこちらで、恐ろしい形相を浮かべている。無理やり、小枝子を引っぺがした。
「うちの娘に何をするんです! 止めなさい。あなたの息子さんなんか誰も知らないんです」
「お願い、裕美子ちゃん! あの子がどこにいるのか知っているなら、話して!」
一人でわめく小枝子を残して、母に連れられて家の中に入った。まだ、腕が振るえている。翔の母親の訴えはしばらく続いた。裕美子は耳を塞いでいたかった。
「近頃、いつもうちに来るの。あなたに会わせてくれって。本当に頭がおかしくなったのね。でも、自業自得というものよ。あの子自体、不良みたいだし、今頃、どこかで悪い仲間と遊んでいたりするわよ」
違う……。翔ちゃんはそんな人じゃない。何も知らないくせに。裕美子の唇は声を出さないまま反抗していた。
「仕方ないわ。今日は家庭教師を呼ぶわね」
母は結局、小枝子がいなくなるまで警察を呼ばなかった。由緒ある家の門前に警官がいる光景は避けたかったらしい。
その日以来、裕美子が翔の母を見たことは二度となかった。
小枝子の死を知ったのは、十九年後――アメリカから帰国して、教職員として常盤台南小学校に赴任して間もなくだった。




