振り出しに戻る
1
硬い床の感触がした。一也はゆっくりと目を開けると、翔がいた。
「大丈夫か?」
彼の後ろには徹もいたし、亘も未来のクラスメイトの女子もいた。
突然、上から何かが倒れてきた。その正体が未来だと分かった時には、彼女の下敷きになっていた。
「お姉ちゃん!」
徹が泣きながら駆け寄って、彼女に抱きついた。一方、妹の美月はいたら、感動の再会と駆け寄るものとそう思っていた。しかし、元の世界に帰れただけでもよしとするか。
「高橋くん、元の世界に戻れてよかったね」
「うわっ、よ、よせ、篠田! 潰れる……」
妹の代わりに駆け寄ってきた亘が抱きついてきたものだから、一也は押しつぶされそうになった。包容力の強さでバグベアをくらっているようだった。
「よかったな」
翔が力が抜けたように座り込んでいた。妙に息が荒い。
「気づいてくれたのか」
「君達も思い切ったことをしてくれるよ」
「私達ね、二十年前のあなたに会ったの」
「おれを? ワタルもいたのか?」
「うん。あなた達があいつを封印するところを見たの。最後までは分からなかったけど。それでね、封印する儀式はちゃんとスマホで撮ってあるから」
「いつの間に撮ってたんだよ?」
「カズがこの野郎とか叫んであいつに向かっていった時かな」
未来はスマホを取り出して、動画を再生させたが――。
「ええっ?」
未来の当ては外れた。動画は砂嵐ばかりで何も写っていなかった。
「そりゃあ、そうなるわな」
翔は見覚えのある紙を出した。
「これが未来ちゃんが書いたものだろ。見ろ、白紙になってる」
「なんでなの? 仲里さんのお母さんに出した手紙がこの世界に届いたのも奇跡だけどさ」
「この学校の力だろう」翔は椅子に座りながら言った。「昔、竹井っていうやつが言ってた。この学校は霊的な磁場になってるかもしれないって。それが、時空を超えて、雛の母親に伝達させた」
「でもさ、小宮の手紙が白紙になったの?」
「二人が現実に帰ったのと、あの世界のワタルが封印されたことで架空の過去世界は消えた。それと共に二つの世界を繋いでいたアイテムも消えたんだ。熱せられた鉄が時間の経過で冷たくなるように。きっと、君のお母さんの記憶から手紙のことは消えていくと思うぜ」
「じゃあ、その前に差出人を教えてやんないとね」
「それだけはやめてよ、仲里さん。もう、デコピンはゴメンだから!」
「いずれにせよ、事態は振り出しに戻った。昨日の夕方と同じだ。皆は揃っているが、ここが深夜の学校だという事を忘れるな。正門まで走るぞ」
その時、彼らのいる廊下から足音が響き、扉のガラス戸に顔が写った。
「おやおや、まだ学校に残っている人間がいるゲロ」
教室に入ってきた、白衣姿のそいつは人間の頭をしていなかった。それに見覚えのあるツラをしている。思い出す前に未来と一也が声を上げた。
「保健室にいた奴だ!」
翔は思い出した。二十年前にいた妖怪。保健室のガマ医者だ。翔が命名したが、人間の医者とはまるで違う。テケテケや口裂け女とはまた違う陰湿な妖怪だった。
「おや」ぎょろりと目玉を巡らした。「お懐かしい顔がいますね」
翔は両サイドにいる四人に合図していた。
「ホントにお久しぶりだよね!」
未来は駆け出して、ガマの顔に向かって、あの時と同じ催涙スプレーをお見舞いした。
「ぎゃぁぁぁぁぁッ!」
「どう? 二十年ぶりにしみるでしょ?」
怪物は悲鳴をあげた。水かきのついた手で顔をこすると、中からドロドロに溶けた骸骨がのぞいた。
俺の幼馴染はこんなに怖いやつだったか?
「走れ。今度は誰も手を離すな!」
翔を先頭に五人は廊下を駆けた。後ろから何かが追いかけていたに違いない。しかし、未来が覚えているのはそこまでだった。気がついた頃には正門を過ぎていた。
「もう誰も逃げ遅れていないな?」
「大丈夫だ」
「平気」
口々に言いながら互いに笑っていた。逃げおおせたことに対する安心感だった。
「これでいい意味で振り出しに戻ったな」
彼らの背中にある校舎の窓から無数の顔が逃した獲物を睨みつけていた。どれも同じ魔物の顔だった。
「私達がいない間も人が消えたんでしょ?」
「ああ。一ダース以上の椅子と記憶が秘密裏に撤去された」
一也は唇を噛み締めた。ワタルに捕まったやつは、まだ一人も助かっていない。二組の中にも親友と呼べる奴はいる。皆を取り戻すには戦うしかない。
「知っている人がなんとかしないといけないのよね」
「おれは君達の力になる。だから君たちはどうだ。無理強いはしない。誰もが怖い」
「私はもちろん逃げないわ。美穂や他の友達を助ける」
「俺もだ。二十年前、黒澤に一度封印されたんだ。俺らだってできる」
「君らはどうだ?」
複雑な顔を浮かべる亘をよそに、雛は手を挙げた。
「もちろん、あたしらは戦うに決まってる」
「あたしら?」
「決まってるんじゃん。あんたさ、自分と同じ名前の怪物がこの学校にいるんだよ。落ち着かないでしょ」
「いや、僕は……」
「無理強いはしない」
翔はもう一度念を押した。
「どこまで手伝えるか分からないけど、やってみるよ。でも、無理はしないよ。お父さんとお母さんを心配させたくないから」
「そうだな。おれもそう思いながら戦ったよ。これだけいれば心強い」
「ぼくもたたかう。みづきちゃんを守りたいもん」
背の低い徹が飛び跳ねながら答えた。
「心強いな。おれは一人でもやるつもりだったが、その必要はないな」
「大丈夫。お前には裕美子さんがいただろ」
「どうして、それを知っているんだ。あ、そうか、過去の世界にいたんだったな」
「かなりラブラブだったじゃないの」
未来は嬉しそうに問い詰める。
「大人をからかうなよ」
翔は咳払いして、赤く染まった顔をごまかした。
3
その後、真夜中の闇に紛れるようにして子供達は解散した。一也は未来と徹の姉弟を引率して帰っていき、雛は一人でいいと突っぱねながら、亘と一緒に帰っていった。
未来の申し出を無理やり断った翔は、公園のジャングルジムの穴蔵にいた。ペンキが剥がれたとは言え、巨大なタコをかたどった遊具は、二十年で変わり果てた故郷の中で、当時の姿をあまり変えていない。
一人で落ち着くと、翔は残り少ないフィルターに手を伸ばした。そこで火がないのに気づき、舌打ちして元に戻した。
二十年間、時の止まった暗黒の世界をさまよった後、ワタルと共に戻ってきた自分は、文字通り、浦島太郎だった。母もとうに死に、家も駐車場に変わった。無論、当時の知り合いなど今はどこにもいない。翔にとって、この世界は未来というより別の次元の異世界にしか思えなかった。
そんな自分に残された役目は、あの魔物を再び封印する事だ。果たしてできるものなのか。子供たちの前では強気になっていた気持ちが今は揺らぎかけている。仮に出来たとしよう。その後はどうする?
身寄りも戸籍もなく(役所で確認したら、やはり、黒澤翔は行方不明の後、死亡した事になっていた)、保証もないこの世界で。黒澤家は親戚も少なかった。もしも、優しい人がいれば、母と自分はあの極貧生活を送っていなかったかもしれない。
一人で生きるには未成年の姿だ。しかも、楽な生き方はできないだろう。つくづく、苦労の絶えない家系だと思った。
翔は考えを変えた。今は目の前の課題を片付けるべきなのだ。
「黒澤くん?」
突然呼びかけられ、翔は飛び退いて頭をもんどり打った。
「驚かせてごめん! 大丈夫?」
外に篠田亘がいた。気がつくと、小雨が降っている。
「こんな時間にどうした? 雛を家に送ったんだろ?」
「小宮さんから君がそこにいるんじゃないかって、雛ちゃんを送り届けてから来てみたんだよ。黒澤くんって本当に家出してるんだね?」
「家出じゃない。親がいないだけだ」
「僕と同じだ。黒澤くんは一人で生活するの?」
「そうしていくしかない」
と言いつつも、翔にはいくばくかの不安もあった。金もないし、身よりもない。児童相談所辺りに行ってもややこしくなるだけだ。正直、ワタルを封印した後の事など考えてもいない。
「もしよかったら、僕の家に泊まりなよ」
「お前の家に?」
「おじさんとおばさんには内緒で。雛ちゃんもそうした方がいいって」
「いや、しかしな……」
昔から、翔は施しをしてくる他人を不審がる性格をしていた。母とふたりっきりで暮らしていくうちに、他人や世間を白眼視してきた。目の前の二十年後の世界を生きる子供には無邪気さがあった。警戒するだけバカバカしいとさえ思えてしまう。
「こんなところで泊まっていたら風邪をひくよ。夏風邪は犬も引かないんだから」
「てっおい!」
翔は亘に引っ張られるようにして公園から連れ出された。
4
「ここが僕の部屋。黒澤くんはこっちのベッドを使っていいから」
深夜の家に忍び込んで、亘の部屋に通された。勉強机の隣には少しホコリの溜まった本棚が鎮座している。やや新しい図鑑に少し傷んだ漫画本が並んでいる。寝床は二段ベッドのようだ。
「兄弟でもいるのか?」
「ううん。僕一人だよ。おじさんたちの子供が使っていたんだ」
「なるほど」
「あの人達は子供が亡くなってから、僕を里子として引き取ったんだ」
「生まれた時からか?」
「ううん。幼稚園に上がるまで親がいた記憶はある。家も大きかったのも覚えてる。でも、楽しかった思い出はないんだ」
亘はベッドに腰を下ろすと軋む音が響いた。
「僕の本当の親は、ずっと喧嘩をしていた気がする。怒鳴り声がずっとしたんだ。お母さんだった人は、僕の顔をつねったりしたし、お父さんだった人はタバコの火を」
亘は背中を少し見せると古い傷が見えた。
「悪かったな。嫌なことを思い出させて」
「もう大丈夫だよ。その人達と僕とでは合わなかったんだ。親と子ってだけで仲良くなれるとは限らない。児童養護施設にいた先生がそう教えてくれた」
「じゃあ、幼稚園の頃からそこにいて、今の親に引き取られたのか?」
「うん。優しい人達だよ。僕を本当の息子のようにしたってくれる。いいことをしたらちゃんと褒めてくれるし、悪いことをしたらちゃんと叱ってくれる」
「よかったな」
「うん。よかったと思う」
亘の無邪気さに、翔の暗い展望をしばし忘れさせた。
二十年後の未来に来てから三日目の夜を、翔は二段ベッドの上で過ごした。真っ暗天井を眺めると、今までの記憶を思い出す。自分の過ごしていた九五年は、年が明けてから慌ただしかった。一月に近畿地方で大地震が起きて、大勢の人が亡くなった。三月になると、頭のイカれた教団が地下鉄で有毒ガスを撒き散らして、やはり甚大な数の人が犠牲になった。それらのニュースは毎日のようにテレビや新聞で報道された。関連する単語を耳にしない日はなかったほどだった。
当時の自分はあまりニュースを見るほどではなかったのは覚えている。他の子供と同じだ。ニュースよりもアニメやバラエティ、映画の方が楽しかったし、世間を騒がす天災や事件など、別の世界の出来事のように思っていた。あの頃は、外の世界に背を向けるのが許される子供でいられた。だから、学校で受ける嫌がらせや挑発に対しても当たり前のように振舞っていた。翔にとって、あって当たり前の日常と割り切っていた。
無邪気な日常を終わらしたのは、あの魔物だった。奴に数少ない知り合いを取り込まれるのを手をこまねいた自分と別れを告げると、たった一人の戦いに明け暮れた。毎日が恐怖との戦いで、トイレに行くのも一苦労した覚えがある。
結局、二十年前の今頃、自分はあいつに勝った。一緒に闇の世界に取り込まれはしたが、あいつの凶行を食い止めた。そのせいで長い時間を失ったわけだが。母親もいない世界にまた放り込まれ、幼いままの体でどう生きていくべきか。
こっそりとお風呂を使わせてもらったあと、翔は二段ベッドの上で横になった。時間はすっかり二時を過ぎている。目をつぶろうとした時、「黒澤くん、まだ起きてる?」と下から亘の声がした。
「なんだ?」
「明日は学校が休みでよかったね」
「皆で集まって作戦会議だ」
「そうだったね。僕らは本当にあいつを封印できるのかな?」
「できるさ。一度できれば、二度目もうまくいく」
「黒澤くんは怖くないの?」
「どうかな。もう分からないほど味わったからな。篠田くんはどうだ?」
「僕は怖い。でも、やるしかないのはわかってる。僕達しかできないんでしょう」
「お守りさえ持っていれば、卒業するまでのあいだは無事だ。知らないふりをしたまま暮らすことも難しくない」
「でも、黒澤くんは戦ったんでしょ? どうして?」
「守りたいものができたからかな」
「それって、黒澤くんの好きな人?」
「個人情報だ。そっちこそ、お転婆ないとこがそばにいていいじゃないか」
「そんなのじゃないよ。それに雛ちゃんはとっても乱暴なんだよ。いつも、僕を実験台にプロレス技とか喧嘩の練習相手にしてくる」
翔はケラケラ笑った。好きな相手に意地悪してしまうアレだな。
「守ってやりなよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
二人が眠りに落ちたのは間もなくの事だった。
5
少年少女が儀式を成功させて正門を通過した頃、校長室では佐奈田校長が多忙な事務処理を終えて、家に帰ろうと電気を消すところだった。
タイミングよく電話が鳴った。受話器を取った瞬間、彼女の手は震えた。こんな時間にかけてくる相手に覚えがあった。
「はい、もしもし」
(わたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの)
受話器が手からすり抜けて床に落ちる。背後に何かが立つ気配を感じる。振り向いてはいけない。しかし、確かめずにはいられない衝動がこみ上げる。
「冗談はよして。あなたなのでしょ?」
「ケッケッケ」
懐かしい笑いが聞こえた。忘れていた恐怖が蘇ってくる。
「人間の大人はつまらないな。この手に引っかかってくれる者がいない」
いつの間にやら校長の椅子に座っている。小柄な少年。大きな頭に土気色の顔色、野獣のように赤く光る瞳、陥没した鼻に、大きく裂けた口元、古めかしい学生服。忘れようもない、この学校の主だ。きっと、他の大人は知らないし、信じようもしない。
「オレが眠っている間、随分学校をいじったようだな」
「あなたを忘れているつもりはなかったわ」
「どうかな。オレが消えてホッとしたんじゃないのか? ほお、校長先生かあ、オレの神通力に頼らなくても出世してるのはパパのおかげか」
「夫も父は十年前に事故で亡くなったわ」
「そうかい。ところで、清は元気かい? まだ、女子の尻でも追っているかと思えば、案の定のようだな」
ワタルは低く笑った。息子の清が女子生徒を捕まえてはセクハラまがいの接触をしている噂は職員室でも実しやかに囁かれている。火消しが大変だからと諌めても、「分かったよ、ママ。今度は気をつけるから」と言うだけでまた繰り返す。
「ところでな、あんたに頼みがある」
「何をすればいいの?」
「連中を片付けたい。黒澤翔がばらす前にガキどもを学校に引き入れて欲しい」
「あの子は消えたはずよ」
「オレと同じさ。死にぞこないの亡霊だよ。そろそろ消えてもらうことにする。邪魔な仲間を餌にしてな。あんたにも協力してもらうぜ、校長先生、いや、智佐子ちゃんよお。イヤとは言えないわな。オレとあんたの関係は決して同等じゃないのは覚えているよな?」
「断る理由なんてあるわけない。裏切るつもりもないわ」
半世紀も続いた腐れ縁である。今更、反抗して全てを手放すには、積み上げてきたものが大きすぎた。
「人間の大人は察しがあって助かるぜ。あんたには、このオレに対する恐怖よりも、今の地位に対する執着を強く感じる。人間ってのは偉くなると命を軽視するようだな。自分はもちろん、他人の子供にもな」
ワタルの笑いはその姿が消してからも、校長室と彼女の耳に残していた。




