光り、時の果より来たるべし
1
「過去の黒澤翔を追ううちに、お前達はオレの仕掛けた檻に入ってくれた」
ワタルは傲然と手を伸ばして、壁や窓を引き裂いた。裂け目からは黒い血が溢れ出る。そして、人の声が聞こえる。ここから出してくれと言っている。
「俺らを泳がしていたのか?」
「そうさ。オレがどうやって封印されたか、お前達はそれを知りたがると思ってな。案の定、食いついてここまで来てくれた」
一方、教室では清と美華が合わせ鏡を割ろうとしていた。
「止めろ! それをしたら奴を封印できなくなるんだぞ! お前らも皆のようにワタルに食われて――」
大柄な茂が翔を蹴り上げた。ひとたまりもなく机にぶつかって倒れた彼に、裕美子が駆け寄った。
美華がケラケラと笑い声を上げた。
「分かってないわね。あんた達と違って、私達は特別なの」
「そういうことだ、黒澤くん。下等な人間が餌になるんだよ。君みたいな貧乏人だ。その君が抵抗したせいで、関係のない竹井くんまで捕まった」
翔は「言うな!」と吠えた。「おれはあいつを助け出すために戦っている。お前らはなんだ? 人がどうなってもいいっていうのか」
「関係ないね。僕らはワタルとつながりがある。だから、生かされている。そのパイプを保つために、生贄が必要なんだ。さあ、邪魔な鏡を割るとするかな」
大変だ。このままでは未来が変わってしまう。未来は教室に入ろうとして、大きな爪に捕まった。引き離そうとする一也も同様に捕らえられる。
「小さな希望が摘み取られる瞬間を見届けるがいい」
「よせ、止めろッ!」
清がハンマーを持ち上げた瞬間、掃除箱が急に開いた。中から躍り出た誰かが清に飛び蹴りを浴びせた。呆然とする茂の急所を踵で食らわせる。
「な、何よ、あんた。あれ、仲里さん? キャッ」
美華にデコピンをお見舞いしたらん子が、深くため息をついた。
「バカな!」ワタルは憤怒の瞳を向けた。「なぜ、あの小娘がここにいる? 貴様らの仕業だな」
ワタルは頭からドロドロに溶けると壁や天井の隙間に消えた。
「ありがとう。でも、どうしてここが分かったんだ」
「そっちの子に教えてもらったんだよ」
「裕美子から?」
「ごめんね、翔ちゃん。大事な話もしたから」
「待ちな。あたしが話すから。なあ、黒澤。あんたはこの子とあたしのどっちが好きなの?」
「何言ってんだよ」
「ふざけてない。あたしもその子も真剣なんだ。どうなの?」
未来は今頃になった、手紙作戦が悪い方向に向かっていく気がしてならなかった。らん子はそもそもここにはいなかったはずなのに。手紙の件が話題になれば、間違いなく三人はこじれて、儀式どころではなくなってしまう。未来が変わってしまうのではないかとと思った。
「後にしてくれ」
「今じゃないとダメ。あんたはどう思うんだ?」
「おれは……裕美子のことが好きだ」
「翔ちゃん」
「ふうん。そっか。あたしはダメか」
「どういったいいのか分からないけど、ゴメン」
「気にすんなよ。あんたが選んだんだから。でもさ、あたし、あんたのこと好きだったんだよ。でも、相思相愛じゃあ仕方ないよね」
「相思相愛?」
らん子がクスッと笑い、「唐変木」と言った。
教室の外では、未来と一也は安堵して床にへたり込んだ。
「これで、大丈夫なんだよね」
「分からない。でも、未来は少し変わったかもしれない。この世界が壊れない程度にな」
「もしかすると、本当は、らん子さんはもっと以前にワタルに捕まっていたのかもしれない」
「俺達が関わったから、今日まで彼女は助かったってことか?」
「うん。それと、佐奈田達はワタルを知っていた」
「今も?」
一也の言う“今”とは大人になったあいつを指している。いや、この世界はワタルの仕組んだものなら、登場する人物を変えることもできるはずだ。未来は学校の中を覆う、邪悪なつながりに頭を巡らせた時、校舎全体が揺れた。
「来るぞ!」
天井が次々と剥がれ落ちていく。
2
突如壁を突き破って、巨大な腕が教室の机をなぎ払った。人間の手だったが、普通よりも何十倍も大きい。
「畜生! 鏡を壊す気か」
翔は合わせ鏡をかばうように手を広げる。顔の見えない大きな手は倒れていた悪童達を次々と掴み取っていく。
「僕らは特別だ。お前達は今夜死ぬぞ!」
廊下にいた未来は一瞬、窓越しに清と目が合った気がした。他人を値踏みするかのような爬虫類の瞳に口元が歪んでいた。
「私達も翔を助けないと!」
「ダメだ。俺らが出ていけば未来が変わってしまう! 見届けるんだ。あいつらならきっとうまくいく!」
その時、一本の腕が翔の体を掴んだ。「放せ!」と叫びながら抵抗するが、どうにもできないみたいだった。
「やめろ!」と駆け寄ったらん子が、どうして持ち歩いていたのか、小さなナイフを腕の怪物に突き立てた。低い声の悲鳴が響いて、翔は自由になった。
「ありがとう、らん子」
「いいよ。それより、あんたのするべき事をしな」
別の一本がらん子を捕まえた。彼女は抵抗することなく天井に持ち上げられた。
「らん子!」
「この世界ではあんたと直に話せてよかったよ。あの二人と裕美子を守りなよ」
「あの二人?」
らん子を掴んだ腕は天井の穴へ消えた。
「クソ……クソッタレが!」
翔が例の本を開くと、呪文を読み上げる。すると、教室の中に風が吹き荒れ、巨大な腕たちが苦しむように床に倒れた。
「お前だけは絶対に許さないぞ、ワタル。今夜で終わらせてやる!」
翔と裕美子は合わせ鏡の間に立った。お互いに手をつないでいる。
「今日説明した通りにするんだ。奴を合わせ鏡に立たせるのに囮がいる。おれかもしれないし」
「わたしかもしれない」
「裕美子は大丈夫だ」
翔はポケットからお守りを取り出して、それを床に捨てた。
「ダメ、翔ちゃん、そんなことをしたら――」
裕美子は息を飲んだ。彼の後ろに不気味な少年がしがみついていた。鼻が削られ、瞳は異様に大きい。唇はめくれ上がり、口元は耳まで避けて、無数の尖った歯がのぞいている。
「引っ張れ!」
裕美子は翔ごと、ワタルを合わせ鏡に立たせた。まばゆい光りが飛び出して、二人が包んで、鏡の中に吸い込まれる刹那、彼女も一緒に飛び込んでしまった。
未来達は無人の教室の中に入った。一段と冷え込んだ部屋は、凍てついた空気が針のように肌に刺さってくる。ピリピリした感じがして、未来は二の腕をさすった。まだ、この教室の中にワタルが消えたのか。
時刻は十二時の一分前。翔の話だと、合わせ鏡の儀式はあらゆる悪を闇に封じる力を持つ術だが、零時ちょうどにしなければ、その効力を失うという。
「おい、未来、これを見ろよ」
一也が何かを拾った。それは手のひらに乗るくらいの時計だった。銀色のメッキはところどころ剥がれているが、年代ものであるのは分かった。
「誰のだろう? 蓋になにか書いてある」
『光り、時の果より来たるべし』
一也がその文字を呟いた途端、教室が揺れた。外で雷鳴が轟いたのが同時で、窓が一斉に亀裂が走り、一枚残らず砕け散った。
向かい合わせの鏡の片方が大きな光りが漏れ出して、二人の飛び出してきた。裕美子は全身からずぶ濡れになっており、彼女を抱き起こして肩を揺さぶる翔の姿があった。あの鏡の世界で二人とワタルの戦いがあったのは言うまでもない。
「裕美子、目を覚ませ!」
「うう……翔くん?」
「ワタルはまだ消えていない。今もどこかにいる」
その時、見えない力が翔を弾き飛ばした。机をなぎ倒して、彼は床に倒れた。天井から嘲笑と共に、あの魔物が姿を現した。一瞬、こちらを睨んだ気がして、未来は背筋を震わした。
「黒澤!」
一也は彼に駆け寄ったが、翔の体を通り越してしまった。まるで、一也の姿に後ろの掲示板や掃除箱が透き通ているように見えた。
「馬鹿な、ガキどもだ。人間ごときがこのオレにたて突こうなど」
一歩一歩歩み寄り、片手で翔を首を掴んで彼を持ち上げた。苦しそうな表情を浮かべて、両手をばたつかせて抵抗するが、虚しく空を切るばかりだった。
「餌は餌らしく、喰われる方が幸せというものだぞ、黒澤翔。悩まず、苦しまずに済んだものを。さて、お前の次は、あの小娘をいただくとしよう。お前は誰も守れず、オレの餌食になるのさ」
「裕美子……早く、逃げ、ろ」
一也は椅子を振り上げて魔物に突進したが、やはり、霧を叩くように透けるばかりだった。その場にいて、何もできないなんて。ミクは彼と同じ思いだった。本当に、二十年前の今、翔達はワタルの封印に成功したんだろうか?
ワタルは「ふん」と鼻を鳴らし、翔を放すと、裕美子の方を向いた。
「やはり、ここは人間のマナーを真似て、レディファーストといこうか」
「よ、よせ!」
「この野郎! 俺がテメエをぶっ倒してやるぜ」
一也は諦めることなく、ワタルに突進しようとしたが、結果は同じだった。
「ケッケッケ……幽霊ども、指をくわえて見てるがいい。こちらの次はお前らだ」
ワタルが翔に近づいてくる。その時、教室の端で何かが光りだした。教室の後ろでは出入り口前、窓側の席と掃除箱の辺り。前方では、担任の佐奈田が座っている机の近くと扉と学級文庫の棚がある当たりだった。
「この時計が光ってる」
一也が拾った懐中時計、その文字盤が長針と短針が4時44分を指していたのだが、勝手に動き出した。二本とも2に向いている。
「そうか、こいつは方位磁石になってんだよ。受け取れ、未来」
一也が投げてよこした時計を持つと、未来はその方向にある教室の前方の入口に立った。
「座れ。そして、合図がしたら前に進んで一つ前に座るんだ」
「でも、黒澤くんたちが」
「あいつを信じてやれ! 黒澤ならきっと、奴に勝ったはずだ」
未来は覚悟を決めて、そこに座った。金粉が舞い散る中、誰かが肩を叩いた気がした。小さな手だった。これは徹かもしれない。
(進んで)
弟の声がはっきりと聞こえた。
「一也、教室に入るの」
五組の教室が歪んでいく。ワタルが翔の首を掴んで締め上げる。その間、裕美子が何かをしていたが、未来にはそれを確かめる余裕はなかった。走りこんだ。部屋全体が斜めに傾き、黒板が大きく二つに割れた。そこから、赤ん坊の巨大な顔が覗いた。老人みたいにシワシワの顔に、鋭い歯を覗かせ、産声とも雄叫びともつかない声を上げる。
未来は教室の奥にある黄金色の印に腰を下ろした。その瞬間、そべての感覚が闇に消えた。
3
一也はあとに続いていると、翔達とワタルの攻防を目撃した。
いつの間にか形成が逆転して、ワタルが鏡に吸い込まれていく。顔がいつの間にかドロドロに溶けて、眼球が零れた。空洞の眼窩がこちらを向いた。
「オレは消えんぞ!」
子供や女、老人やら野太い男の声やらが重なった断末魔が轟いた。
「いつか必ず甦ってやるぞ。そして、キサマらを一人残らず喰ってやる!」
二人の体を黄金色の光がまとった。一也の持っていた時計からそれがあふれ出ている。赤ん坊の手が窓を壊し、机をなぎ倒して、一也を捕まえようと伸びてくる。
間一髪、一也は黄金の印に着地した。座っていた床が舞い上がり、彼の体は天井を突き抜け、屋上を突き破り、星ひとつない暗闇の虚空に到達した。
校舎が暗い空間の彼方へと流れていく。それが見えなくなるまで、一也は目を閉じることをしなかった。ただ、心に思ったことはひとつだけある。
あいつらは戦って、奴に打ち勝った。
今度は俺達の番だ。




