親の顔は子に似る
1
午後六時、夕闇が落ちつつある時間だった。
「はあ……明日にすればよかったんじゃないの?」
「あたしのランドセルは下足場に置いたままなんだよ。あの人形に追いかけられて、取り行く暇もなかったのに」
「じゃあ、のこのこ戻ってくる僕らは、飛んで火に入る夏の虫ってやつだね」
「ヤバくなったら、あんたを囮にして逃げるから」
「僕を誘ったのは、それが理由なの?」
「他にある?」
雛はまだ開いたままの扉を通り、下足場に入った。下駄箱のそばにランドセルが残っていた。
「これでよしと」
「もしかして、体操服も入れてたの?」
「もちろん。汗臭いの持って帰るのは嫌だし、ヘンタイにでも拾われるのも嫌だし」
「ひなちゃんの場合、それはないよ」
雛はすかさず彼の横腹にパンチを繰り出した。
「さてと、帰ろっか」
「あのさ、さっき言ってたヘンタイって、もしかして、佐奈田――」
「それ以上言ったら、ブッ殺すから。マジで」
亘は口をつぐんだ。一組の担任は、隣のクラスでも悪い評判が多い。すれ違いざまに女子生徒の頭を撫でたり、肩を触ったり。そして、一組のある女子生徒がセクハラを受けている噂もある。
同じ頃から雛の態度が変わった。亘には所構わず手を上げるが、今までは力の加減は弱かったけど、今では本気で痛い。まるで、何かを八つ当たりするみたいに。
「ゴメン。ひなちゃんは強いもんね。帰ろっか」
その時、近くの下駄箱で何かが落ちる音がした。
「なに?」
雛が彼の後ろにしがみついた。
「大丈夫だよ。ほら、誰かの上履きが落ちただけみたい」
床に落ちていた上履きらしき物体を拾い上げる亘。
――しかし、それは上履きにしてはやけに柔らかい。ブヨブヨとして粘土を水で濡らしたように指の隙間に埋まるほど。
「あんた、それ……」
上履きの裏側、ジャバラのゴム部分が、蛇のウロコのように隆起している。側面は丸みを帯びて、赤と緑の模様をうねらせている。そして、つま先には一本のうすい線があり、そこが大きく開いて、人間の口になった。黄ばんだ歯が並んで、突き出すしたが、亘の手を舐めた。
「わあぁっ!」
亘は上履きの形をした虫を放り投げた。ギュッと鳴き声を発した。気がつくと、下駄箱にはどれも同じような口だけの顔を出して、こちらの様子をうかがっていた。
「これって逃げるべきだよね?」
「当たり前でしょうが!」
二人は下足場から外へ逃げ出そうとした。しかし、さっきまで開いていたはずの扉が閉まっていた。
「なんでよ!」
上履き虫が押し寄せてくる。何百という数が床や壁、天井を埋め尽くす。二人のいる場所はもう二メートルもない。
「どいて、ひなちゃん!」
亘はとっさに傘立てを持ち上げると、ガラスの扉に向けて放った。けたたましくガラスの割れる音――はしなかった。それどころか、ヒビ一つ入っていない。
「そんな……」
かなり重い傘立てである。傷もつかないなんておかしい。
そうこうしているうちに上履き虫が彼の足元に這い寄った。一匹、二匹と増えて、下半身まで覆ってしまう。
「うわっいやだぁ」
「ちくしょう! 亘から離れろ!」
雛が彼にまとわる虫を傘で払い落とした。このままでは二人ともやられてしまう。 亘は、ポケットに入れていたお守りを取り出した。イチかバチかだった。
上履き虫の動きが若干鈍った。少しずつ、足元から離れていく。何かに怯えるかのように震えている。もちろん、自分の持つお守りのおかげなのは言うまでもない。
「助かった。今のうちに逃げよう」
雛が扉を開けた。亘はお守りを掲げながら、後ずさりする。上履き虫達はじりじりと近づきながら止まると繰り返す。
扉を締めるのを合図に、彼は一気に走り出した。すぐ後ろでバリンとガラスの割れる音がした。後ろを振り返るまでもなく、奴らが迫ってきているのは嫌でも分かった。足がもつれそうになりながらも、まっすぐ校庭を突っ切り、正門を目指した。校舎から高笑いが響いた。大勢の子供や老人があざ笑っているようだ。
負けるものか! 亘は正門を飛び越えた、その瞬間、目の前にいる雛に気づかなかった。空中にいるのに修正ができるはずもなく、彼女の上に覆いかぶさった。
起き上がろうとして、後ろから誰かに支えられた。
「大丈夫か、二人共」
翔だった。どうして、ここにいるんだとお互いに聞いた。
亘は事情を話した直後、「バカヤロッ!」といきなり怒鳴られた。同じ学年なのに妙に貫禄があった。まるで先生に怒られたみたいだった。
「あれほど、夜の学校には近づくなって警告しただろが! たまたま助かったから良かったものの――」
「ごめんなさい」
雛がしおらしく頭を下げた。貴重な光景なので、亘としてはカメラにでも収めておきたかった。
「あたしのせいなの」
「ひなちゃんだけじゃないよ。僕も反対しなかった」
「あたし」
「いや、僕」
「分かった。もういい。でも忘れないでくれ。おれは未来ちゃんと約束した。彼女が友人を助けるまで協力するって。二人が無事で助かるまで、一人としてやられて欲しくない。忘れないでくれ、連中は妖怪だ。気を緩めたら捕まってしまう」
「分かりました」
「ところで、どっちでもいいんだが、一つ頼みがあるんだが」
2
一九九五年七月――学校の中は鳥肌が浮き出るほど涼しかった。長い梅雨のあとに来るジメジメさがほんのりと残り、涼しいを通り越して肌寒い。モルタルの壁には結露が垂れるほどであった。
校舎の至るところに活気が欠けていた。話し声があまり聞こえない。走る子供の姿もまばらで、歩く足さえ異様に少ない。教室の中も同様で、スカスカなほど生徒の数が少ない学級もある。まるでインフルエンザの集団欠席の様だが、一つ違うのは彼らの頭の中に、いなくなった生徒の存在が消えていることだろう。違和感に気づくことなく、いつものような日常の光景は自分の時代でも同じで異様でもあった。
二時間目が終われば、次の授業まで三〇分間の休みであるはずなのに、晴れた運動場でボール遊びをする姿はまばらだった。当然、各教室で団欒している生徒も半数に過ぎない。
この時期になると色々やばくなってるみたい。教室を順番にめぐりながら、未来はそう思った。
「おい、見ろよ」
一也が壁のポスターを差した。
「これって……」
描かれた一人の小さな子供、その後ろに黒い怪物が手を広げて襲いかかろうとする。見出しには赤いマジックでこう書かれていた。
『学校で一人になるな! あいつにつかまるな』
「広報のポスターにしては意味不明だな」
「書いた人は分かる。五組に行こう」
この世界は少し特殊だ。直前までは翔の家にいたのに、時間が勝手に進んで、翌日か数日後になっている。うかうかしていたら、重要な場面を見過ごしてしまうかもしれない。未来は五組の教室へ向かった。
五組の教室、自分達のいる頃には教室として使われなくなり、教材の準備室になっているその部屋には、何人かの生徒が残っていたが、やはり、他と同じように閑散としていた。机の数が明らかに少ない。翔の話だと、当時の五組は三十人学級だったらしいが、机の数は明らかに十は足りない。
「やっぱり消された人もいるんだね」
「あいつはどこにいるんだ。教室にはいないみたいだぜ」
「他の人に聞いてみない?」
「大丈夫かな。まあ、いいか」
一也は入口に一番近い席に座る女子生徒に声をかけた。
「なあ、ちょっと」
机に突っ伏していた女子が顔を上げた時、未来は「あっ」と思わず声を上げた。
「何? あたしの顔に何か付いてんの?」
同じ状況を二度味わうのをデジャブというらしいが、未来はまさにその感覚に陥っていた。茶髪の頭に鋭い目つきに、柄の悪そうな極彩色の服。
目の前にいる女子生徒は、雛と瓜二つだった。最初は本人かと思うほど似ていた。
「雛?」
「名札が見えないかな。あたしは名前はらん子。仲里らん子。雛なんてふざけた名前じゃない」
未来は彼女に顔を近づけて目を凝らした。今と違って、胸の名札にはフルネームで書いてある。確かに目元や口元は似ているが、雛ではないようだ。そして、苗字は同じ。ということは……。
未来は一つの答えを編み出した。
「もしかして、仲里さんのお母さん?」
「おい」
らん子が立ち上がると、未来の額にデコピンを放った。予想外の痛さでオデコの骨が砕けたかと思った。
「いたたた……」
間髪入れずに未来の首根っこをらん子が掴む。
「今度ふざけた事を言ったら、テメエを殺すからな」
乱暴に突き飛ばされて、なんとか一也に支えられて教室から退散した。
「ひどい……わたしダメ、あの親子とは馬が合わないと思う」
「迂闊すぎるんだよ」と一也は呆れつつ、五組の教室に首だけ突っ込んだ。
「あの、もしもし……」
らん子が睨みつけた。
「さっきのバカ女の連れ? あんたもデコピンくらいたい?」
「違う、違う。もっと、平和的に行こうや。俺達は人を探してるんだよね。黒澤ってやつなんだけどさ」
「あんたもあいつに喧嘩を売りに来たわけ?」
「用があるんだ。あいつは今いないようだけど」
「さっきまでいたけど。なんか急に教室から出て行ってさ」
「そうか」
「あいつは最近変わった気がする。前まではとんがったような奴だったけど、今はキョロキョロ教室や廊下ばかり警戒してる。さっきまで、なにかブツブツ言ってたしさ」
「何を言っていたか聞いてる?」
「ワタル。そう言ってた気がする。そうだ、もしかしたら、図書室かもしれない」
「どうして分かるんだ?」
「あいつが時々、図書室にいるのを見たことがあるから、いま行ってみたらいるかもしれないよ」
一也はお礼を告げると、彼女が何か言いたそうなのに気づかずに教室を出た。未来は廊下の手洗い場で額に冷水をかけていた。
「大丈夫だって。耳から脳みそは出てないみたいだぞ」
「で、どうだったの?」
「図書室かもしれないって。行くぞ」
二人は学校中を歩いて目的地を探さなくてはいけなかった。九五年当時は、新館の図書室なんてなかったはずだ。校庭に面する表校舎三階に目的の教室を見つけたまで、廊下にはさっき見かけたポスターがいたるところに貼ってあった。
「ここが昔の図書室か」
その教室には窓には手書きの学級新聞や新しく入荷した本の紹介文が書かれている。これが二十年後には大きな建物一棟に様変わりするのだ。
「開けるぞ」
一也が大げさにそう言うと、扉を開けた。図書室の中には人の姿はなかった。カウンターに座る係も留守。それとも、係りの人はとうに消されたのかもしれない。
「なあ、俺達はだんだん深みにはまって言ってる気がする。底なし沼で言うと、腰まで使ってる気がするんだよ」
部屋の奥で何かが落ちる音がした。続けて何かが倒れた。棚が揺れた。また続いて、人の声がした。
「こいつ……これで分かっただろ」
未来と一也は物陰から声の発した方をのぞきこんだ。大柄な上級生の背中が見えた。となりには似たような体格の男子が立っている。ロシアの人形みたないにサイズだけが違うだけである。
二人の隣には女子と男子が二人ずついた。後ろ姿だけで連中が友好的な相手ではないと未来は見抜いた。
「あの時は痛かったな。思い出す度に腕が痛くなるよ」
細身の男子が誰かに話しかけている。二人は横に移動して、倒れている相手の顔を確認して思わず声を出した。
「黒澤くん」
未来が駆け寄って、彼を助け起こした。古着は足跡が目立ち、半ズボンからのぞく足はあざが薄く浮いていた。顔は片目が晴れ上がっている。
「何やってんのよ、あんた達!」
未来は彼らを睨みつけた。大柄なM,Lサイズはやはり双子のように似ている。頬にそばかすの浮いた、いかにも頭の悪そうな奴。腕力で物を言わせている感じ。女子はおもちゃみたいなアクセサリーを腕にジャラジャラつけた下品そうな奴。同性でも嫌悪感が湧いてくる。そして、グループの中心にいるのが見覚えのある爬虫類顔だった。誰であるかは言わずもがなである。
「誰、こいつ?」
道端に落ちたゴミを指摘するような物言いだった。安堂寺とかいう女子が首を振った。フリフリのスカートなんか履いて、時代遅れのクズみたいな格好だと思った。
「貧乏人の彼氏じゃない?」
翔は驚きの表情を浮かべたが、すぐに四人を睨みつけた。
「まだやんのか、貧乏人」
馬鹿面のLサイズが拳の骨を鳴らす。
「やめなさいよ。上級生のくせに恥ずかしいと思わないの」
翔が立ち上がろうとする。
「近寄るな。こんな奴ら、おれ一人でも……」
「馬鹿言わないでよ。そんなにボロボロになっておいて」
「あれれ、まるで反省していないようだよ、三宅くん。お兄さんにもう一度焼き入れてもらった方がいいみたいだ。君もさ、逃げないと巻き添えを喰らうよ」
担任の佐奈田の二十年前の言動に衝撃はなかった。あの陰湿な教師のイメージと重なる。こいつは人をいたぶるのが昔から好きなのだろう。大人になってもその癖はますます悪くなっている。
「コイツの知り合いなら関わらない方が身のためだよ」
「そうそう。こんな貧乏人なんかに関わっていたら、あなたまで痛い目を見るわよ」
安堂寺とかいう女子も嵩のかかった言い方をする。こんな人達が二十年後の時代にどんな大人になっているのか、いやでもわかる。
「さあ、そいつから離れろよ」
「あんたは大人になるとどうなるか分かる?」
未来は清を睨みつけた。
「あんたはね、大人になると教師になるの。小学校の先生に。そして、今と同じ事をするの?」
「何を言ってる?」
「弱い者をいじめて、女子にはセクハラしようとする。ただの変態の大人になる。分かる? 今、翔にしている馬鹿な自分がそのままデカくなるわけ」
清の顔が曇った。さっきまでの余裕が消えていた。凝り固まったような表情は蛇に似ている。決して、いい反応ではないのは確かである。
「三宅くんのお兄さん。予定変更。コイツも同じようにしてあげて」
Lサイズの方が歯を覗かせて笑った。獲物を見つけた猛獣みたいだが、普段の歯磨きを怠っているのか汚れていた。
「お前が悪いんだからな。こんな奴を助けようとするから」
その時、後ろから一也が躍り出て、Lサイズの背中に乗っかった。そして、頭をポカポカを叩いた。
「未来、今のうちにそいつを連れて逃げろって、うわっ」
暴れるLサイズの三宅に振り落とされた一也は床に倒れた。その上に巨体が倒れこんだ。一也はひとたまりもなく小さくうめいた。
「なんだ、こいつ。弱っちいな」
「きっと、黒澤の友達だろう。つまりはバカの集まりだ」
清と安堂寺は冷たく笑った。
「うちの学級委員も、もう少しは利口だと思っていたのに。いつの間にやら消えてちゃってさ。コイツに関わったせいだろうね」
仲間の二人が首をかしげた。
「佐奈田、竹井って誰だよ。うちのクラスにいたか?」
「僕の独り言さ。気にしないでくれ。つまりだ、こんな貧乏人に関わるとろくな目に遭わないって事だよ。えっそうだろ?」
清が振り向いたとき、未来は隠し持っていた武器を吹き付けた。小学校高学年に上がってから、父親が内緒で持たせてくれたものだ。クラスの女子の中でも、こんな危ないものを持っている子は少ないだろう。しかし、こんな状況にあってこれを持っていたのは、今回だけ功を奏したよう。
「ギャーっ目が、目がしみる!」
清は甲高い声を上げる手をばたつかせて、仲間に追突した。Lサイズが彼の手を避けるのにバランスを崩して、弟と折り重なる形で本棚にぶつかり、そこから落ちた図鑑が安堂寺とかいう女子の脳天に当たった。彼女は悲鳴を上げた。
「行くよ」
未来は一也を助け起こして、翔を連れて図書室から脱出した。




