第十三話:絶望の対価と、沈黙の逃避行
談話室の重厚な扉の向こうで、実の父親と婚約者の父が、私の「死」を商品のように扱い、取引を終えた。
その事実に、私の視界は白く明滅した。
(……私は、もうこの世界のどこにもいない。死んだことにされて、ここで飼い殺されるんだわ)
足の枷が外れたところで、外の世界に私の居場所など最初からなかったのだ。
逃げ場のない絶望に押し潰されそうになったその時、背後から冷たい、けれどどこか縋るような気配がした。
「……エルシア」
振り返ると、そこには壁に肩を預け、今にも倒れそうなほど衰弱したアルフレート様が立っていた。
口元にはまだ鮮血の跡が残り、その青白い顔は、談話室から漏れ聞こえる残酷な「契約」をすべて聞き届けた上で、激しい情念に焼かれている。
「……父上たちに、渡すつもりはない。お前を、誰の政治にもさせない」
彼はふらつく足取りで私に近づき、震える手で私の頬を包み込んだ。
その掌は、驚くほど熱い。
「お前を、死んだことになどさせない。……俺の、傍にいればいい。お前を縛るすべてから、俺が奪ってやる」
彼は再び激しく咳き込み、痛みを堪えるように顔を歪めた。
彼が何かを語ろうとするたびに、見えない「罰」がその身体を苛んでいる。
私には、なぜ彼がこれほどまでに苦しみ、血を吐きながら私を求めているのか、その理由は分からない。
けれど。
(……この人は、私を売らなかった)
父は私を捨て、公爵は私を不浄として排除しようとした。
この異常な執着を見せる男だけが、私を「エルシア」という名の一個の人間として、狂おしいまでに繋ぎ止めようとしている。
アルフレートは、私の「沈黙」が自分への拒絶であることを知っているはずだ。
それでも彼は、私が黙っていれば、それだけで満足だと言わんばかりに私を見つめる。
「……逃げよう、エルシア。この館からも、あいつらからも。……お前と俺だけの場所に」
彼は私の手を強く握りしめた。
その瞳に宿る光は、かつて私を殺した時と同じ、逃げ場のない「純愛」そのものだった。
その時、談話室の扉が開く音がした。
交渉を終えた「大人たち」が、廊下へと出てくる。
私は反射的に、アルフレートの熱い手を握り返していた。
声は出さない。けれど、私のこの行動が何を意味するか、彼は瞬時に理解した。
アルフレートは、血に汚れた唇に、残酷で美しい微笑を浮かべた。
「……いい子だ。そのまま、俺の手だけを握っていればいい」
彼は、背後にいたサーラに鋭い視線を送った。
サーラは泣き腫らした目で、震えながら深く頭を下げる。
彼女が最後に選んだのは、侯爵家への忠誠でも、公爵への服従でもなく、主人の歪な「共犯者」になる道だった。
アルフレートは、近づいてくる公爵たちの足音を無視し、私を力強く抱き上げた。
副団長としての威厳も、嫡男としての責務も、すべてを投げ打った男の顔で。
「――騎士団に通達しろ。これより私は、エルシアを連れて離宮へ移る。……父上、侯爵殿。彼女の『死』を望むなら、どうぞご勝手に。ただし、その瞬間に私はこの国を敵に回す」
冷徹な「氷の騎士」が、ついにその理性を完全に焼き切った。
私は、彼の胸の中で目を閉じ、再び「沈黙」の中に深く沈んでいった。




