第十二話:取引の天秤と、沈黙の残響
嵐が去った後のような、重苦しい静寂が部屋を支配していた。
父上と公爵閣下が、火花を散らすような視線を交わしながら退室していく。場所を変え、本格的な「交渉」に入るつもりなのだろう。
扉が閉まった瞬間、私を庇うように立っていたアルフレートの体から、目に見えて力が抜けた。
「……っ、はぁ、……っ」
激しい喘鳴。彼は私の腕を掴んだまま、崩れ落ちるように寝台へともたれかかった。
先ほどまでの狂気的な威圧感はどこへやら、今の彼は、ただ命の灯火を削りながら呼吸を繋ぐ、一人の脆い男でしかなかった。
私は無言のまま、彼の重い体を支え、ゆっくりと寝台に横たえた。
金の枷から解放された私の足は驚くほど軽く、けれど心は石を呑んだように重い。
(……どうして、そこまでして私を……)
血の気の引いた彼の横顔を見つめる。
彼は眠りに落ちたのか、あるいは再び意識を失ったのか、ぴくりとも動かない。
今なら、逃げられる。
窓のないこの部屋から、あの親たちの目が逸れている今こそ、本当の好機だ。
私は足音を殺し、幽霊のように部屋を抜け出した。
冷たい石造りの廊下を、壁を伝うようにして進む。
突き当たりにある重厚な談話室の扉から、漏れ聞こえてくる声があった。
「――それで、ローゼンベルク侯爵。娘一人の『失踪』の対償として、北部の鉱山権益を渡せと言うのか」
公爵閣下の、低く冷酷な声。
私は扉の陰に身を潜め、息を止めた。
「失踪、とは人聞きが悪いですな。我が娘エルシアは、アルフレート様に狂わされ、公爵邸の奥底で『精神を病んだ』。そう世間に公表されるのでしょう? ならば、それ相応の口止め料を頂くのは当然のこと」
父の声。そこには、娘を案じる響きなど微塵もなかった。
彼らが話し合っているのは、私の救出などではない。
私をこの世から「消す」ための、値踏みだった。
「……アルフレートの執着は異常だ。あの女がいなければ、息子は騎士団副団長としての役目を果たせぬ。ならば、生かしたままここに飼い殺すしかない。幸い、あの女は口を利かぬのだろう? ならば、都合がいい」
「ええ。エルシアを『死んだこと』にすれば、我が家としてもこれ以上の不祥事は防げる。その代わり、公爵家が我が家の借財をすべて肩代わりしていただく。……これで、契約成立ですな」
指先が震えた。
予想していた。父が私を道具だと思っていることは、知っていたはずだ。
けれど、彼らは今、私の「沈黙」を逆手に取り、私をこの閉ざされた別邸に一生閉じ込めることに合意したのだ。
私を殺そうとした男と、私を売ろうとした男。
どちらの側にいても、私の未来に光はない。
(……逃げなきゃ。今度こそ、本当の地の果てまで)
そう決意した瞬間、背後から冷たい気配がした。
「……どこへ行く、エルシア」
振り返ると、そこには壁に寄りかかり、肩で息をしながら私を見つめるアルフレートが立っていた。
いつの間に追ってきたのか。その瞳は、談話室から聞こえる「自分たちの未来」をすべて聞き届けた上で、絶望に濡れていた。
「……父上たちに、渡すつもりはない。お前を、誰の道具にもさせない。……俺の、傍に……」
彼は再び血を吐きながら、私に向かって手を伸ばした。
その手は、救いを求めているようにも、地獄へ引きずり込もうとしているようにも見えた。




