第13話:邂逅
第13話:邂逅
崩れた石畳の上に、夕陽が淡く滲んでいた。廃墟と化した街の隙間から伸びる雑草が風に揺れ、遠くで瓦礫が崩れる音が、鈍く反響している。
セントルイス旧市街の中心。かつては人々の営みで満ちていた広場も、今は沈黙に包まれていた。その沈黙を裂くように、オールド・コートハウスの大扉が軋んで開く。
リラの前に現れたのは、白く透き通るような肌に、黒の混じった銀髪を持つ女性だった。見たところ二十代の終わりか、せいぜい三十歳前後。長いローブが風に揺れ、その姿だけが崩れた街並みから切り取られたように見えた。
「……リラと、言いましたか?」
その声は、静かでありながら不思議な力を帯びていた。彼女はまっすぐにリラを見つめながら、一歩近づく。
「この世界を、あなたはどこまで見てきましたか?」
問いかける声は柔らかい。だが、その奥には静かな意志と観察のまなざしがあった。
「私たちは、争いを望んでいません。ただ、この混沌の中で――助け合える道を探しているのです。……あなたのような方と、共に」
その言葉は、甘言とも誠実ともとれる曖昧な響きを孕んでいた。
だが、リラの目はその奥を冷静に見つめていた。
「助け合い、ね……」
口元だけで笑い、リラは小さく肩をすくめる。
「随分と一方的な“助け合い”だと思うけど。私がここに来たのは、何かに導かれたわけじゃない。ただ……あなたたちの“信者”が農場を襲ったから。それを、注意しに来ただけよ」
言葉は静かだったが、その語気にははっきりとした怒りが滲んでいた。
そして、リラはわずかに踵を返し、背を向けながら言い放つ。
「……それだけ。もう、用は済んだわ」
リラが踵を返し、数歩を踏み出そうとした、その時――
「……知りたくは、ありませんか?」
アマリエの声が、風を切るように背後から響いた。
「この世界で何が起きたのか。あなたが腰に下げている、その妙な銃が何なのか。そして――どうしてあなたが、こんな世界を一人でここまで歩いてこられたのか」
リラの足が止まる。
背を向けたまま、ゆっくりと呼吸を整える彼女の姿に、アマリエは確かな手応えを感じたかのように、さらに続ける。
「ただの旅人、と片づけるには……あなたは少し、目立ちすぎるのよ」
その声は、ごく微かに――だが確かに、彼女の胸に届いた。
静かに肩越しに振り返った。
夕陽が彼女の頬を照らし、長い影が石畳の上に伸びる。
「……わかったわ」
その瞳には、わずかな警戒と、抑えきれない興味が混ざっていた。
「あなたが何を知ってるかは知らない。でも、話は聞かせてもらうわ」
言い終えると、リラはゆっくりと歩を進め、アマリエと向き合った。
ローブの女は、静かに微笑んだ。
アマリエは静かに頷き、背後に控えていたローブの男へと視線を送った。
「シオン、リラさんをご案内していただけますか?」
その言葉に、シオンは一礼し、手を胸に添えた。
「承知いたしました。どうぞ、こちらへ」
半歩だけ後ずさりしながらも、静かに応じる。
「じゃあ……よろしく。でも」
腰のホルスターに手を添え、ぴたりとシオンを見た。
「このナイン……じゃなかった。銃は預けないわよ」
淡々と、しかし明確に突きつけた言葉に、シオンは表情を崩さぬまま、
「もちろんです。信頼とは、まず“境界線”を尊重するところから始まりますので」
と、わずかに口角を上げて返した。
アマリエはそのやり取りを見守りながら、ふっと目を細めていた。
アマリエが静かに踵を返し、奥へと消えていく。
その背中を見送っていたリラの隣で、シオンが軽く一礼した。
「では、こちらへ。……我々のささやかな“拠り所”をご案内いたしましょう」
重厚な扉がきしむ音を立てて開かれる。
無言のまま一歩、また一歩と、その中へと足を踏み入れた。
内部は驚くほど静かだった。外観からは想像できないほど、丁寧に手入れされている。
石造りの壁には亀裂が走っているものの、床は清掃され、天井の高い吹き抜けにはロープで吊るされたランタンが並んでいた。いずれも手作業で修復された痕跡があり、人の手によって守られていることが伝わってくる。
中央ホールには、かつて裁判の場として使われていた円形の構造が残されていた。
だが今はその中心に、粗末な祭壇のような台座が据えられ、白布と木製の燭台が置かれている。背後の壁には、いくつもの手形が重なるように残されていた。祈りの印なのか、生存者がここにいた証なのか、リラには判別できなかった。
「崩壊の日、アマリエ様がこの場所へ導いた人々の多くが生き残りました」
歩きながら、シオンが静かに言う。
「最初から、あのお姿だったわけではありません。あの日ここにいたのは、杖をついた一人の老婦人だったと聞いています」
思わずシオンを見た。
「老婆?」
「ええ。そして混乱が収まる頃には、皆が知る今のお姿になっていた」
「変身したってこと?」
シオンはわずかに笑った。
「そう信じている者もおります。『老女の姿を捨て、女神が本来の姿を現した』と。もっとも、ご本人はその言い方をひどく嫌われますが」
それ以上は語らず、シオンは祭壇の向こうに重なる手形へ目を向けた。
無言で周囲を見渡しながら、その言葉を受け止めていた。
壁際には簡易ベッドや毛布が整然と並べられている。いくつかの段ボールや物資が積まれており、生活の痕跡がそこかしこにあった。
「これは信仰というより、最初は“必要”の結果だったのでしょう。家族も隣人も失い、それでも自分たちは生き残った。偶然だと片づけるには、皆あまりにも多くを失いました。人々は理由を求め、その理由の中心にアマリエ様が置かれたのです」
そのとき、広間の隅にいた数人の人影がリラの存在に気づいた。
だが誰も近づかず、ただ静かに頭を下げる。まるで、“試されている”のは彼女自身なのだと言わんばかりの静けさだった。
シオンはその様子をちらと見やり、静かに続けた。
「ここでは、祈ることに強制はありません。信じるかどうかは各々の意志です。ただ……生き残ったことに意味を求める者は増えました。自分たちは残されたのではなく、“選ばれた”のではないか、と」
シオンは淡々と言った。
「私は、そう言い切るにはまだ早いと思っています。ですが、アマリエ様のお言葉に従ったことで生き延びた者が多い。それもまた事実です」
足を止め、祭壇をじっと見つめる。
その場所だけが、まるで時間の流れから切り離されたような感覚があった。
救われたという記憶と、生き残った意味を求める心。その二つが、この場所で少しずつ別の何かへ形を変え始めている。リラには、そんなふうに見えた。
シオンはリラを奥の扉へと案内した。
かつて裁判長が使っていたという重厚な部屋。壁には今も古びた本棚が並び、机には手書きの紙と古文書のようなものが積まれている。
外とは違い、この部屋だけは“誰にも見せない空気”を持っていた。
「こちらです。アマリエ様が間もなく――」
その時、扉の向こうから足音が響いた。
現れたのは、あの透き通るような肌の女――アマリエ。
だが先ほどと違い、彼女はリラを見るなり、やわらかな笑みを浮かべた。
「……来てくださって、ありがとう。リラさん」
シオンが軽く頭を下げると、アマリエはふっと声を和らげて言った。
「シオン、少しだけ席を外していただけるかしら。二人きりで話がしたいの」
その言葉に、シオンは少しだけ意外そうな表情を浮かべつつも、黙ってうなずく。
「……承知いたしました。何かあればすぐに」
古い木の扉が軋む音を立てて閉まると、静けさが部屋を満たした。
無言のまま、中央に置かれた大きな机と、その奥の裁判長席を見つめていた。
アマリエは何も言わずに歩み寄り、重々しい椅子に腰を下ろす。背筋をピンと伸ばし、まるでこの空間そのものを支配しているかのような雰囲気を纏って。
そうして、アマリエは頬杖をついた。
やがて、そのまま数秒間の沈黙が落ちた。
リラが口を開こうとしたそのとき――
「……ぷっ」
アマリエがいきなり吹き出した。
「ふふっ……いやごめんなさい、つい……似合わないなって、自分で思っちゃって」
気難しそうな顔をしていた彼女の表情が一気に崩れ、肩をすくめながら笑みをこぼす。
「こんな椅子に座って、女神みたいな顔してるの、重たくてやんなっちゃう。でもね、“それらしく”していた方が、みんな安心するみたいで」
一瞬、呆気に取られたまま言葉を失っていた。
あの神秘的な女が、突然“素の自分”をさらけ出したのだから。
アマリエは少しだけ目を細め、今度は穏やかな口調で続けた。
「ごめんなさいね、期待裏切っちゃったかしら?でもこれが、素の私なの」
そう呟いて、やれやれと肩をすくめた。
「さっきみたいな喋り方も結構気を使うのよ。立ち方まで考えないと、すぐ『女神らしくない』って顔されるんだから」
「……さっきはごめんなさい。なんか、“それっぽい”こと言ってたでしょ。ほら、『助け合いましょう』とか『共に』とか……」
口を開け、無言のままアマリエを見つめていた。
「でもね、本当のところは私にもよく分からないの。私、あの日はたまたまこの近くにいただけ。逃げ遅れた人がいたから連れてきて、怪我人がいたから手当てして……それを繰り返してただけなのよ」
そこでアマリエは、思い出したように指を一本立てた。
「そうそう。この辺にいた化け物なら、私が全部退治したわ」
リラの眉がぴくりと動く。
「そんな顔しないで。素手で殴り倒したわけじゃないわよ。銃も使ったし、火も使ったし、建物に閉じ込めたりもした。何日もかかったの。私、地球人より少し丈夫ではあるけど、別に怪力女じゃないから」
アマリエは肩をすくめ、続ける。
「でもさ、逆に思ったの。……貴女なら、何かわかるんじゃないかって」
そう言って、アマリエはふとナインを指さした。
「ほら、あなたも気付いてるでしょ?私のこと。普通の人間とは、少し違うって」
リラの瞳がわずかに揺れたのを、アマリエは見逃さなかった。
「それと、その銃」
今度はナインをまっすぐ指す。
「さっき、あなたの腰のあたりから声がしたの。最初は聞き間違いかと思ったけど……喋るのよね?」
リラが何かを言いかけて口を閉じると、アマリエは肩をすくめた。
「心配しないで。言いふらしたりはしないわ。銃が喋るなんて妙な話だけど、以前はスマホだって喋ってたんだもの。今さら驚くのも変よね」
そう言いながら、アマリエはナインの外装へ目を凝らした。
「その意匠、母が遺した記録の中で見たものに似てるの。ネヴェリスに関係する道具には、こういう造形が多いって書いてあった」
リラがわずかに反応すると、アマリエは楽しげに肩をすくめた。
「だからね、あなたを見てると少し気になるの。私とは違うのに、どこか普通の人とは違って見える。うまく説明できないんだけど」
リラの沈黙を見計らったかのように、ナインが低く小さな音で囁く。
「フーム。概ネ正解デス。
アマリエ様ノ身体的特徴ハ、オリオン座ノ三ツ星ノ一ツ――アルニラム星系人類ノ記録ト高イ一致ヲ示シテイマス」
その声に、アマリエは軽く目を見開き――そして、ぱっと表情を綻ばせた。
「へえ……よく知ってるのね。あれ?貴方、目がついてるの?」
リラが思わず吹き出しかけたのを堪えているのを横目に、アマリエはいたずらっぽく笑った。
「まあ、いいわ。母が“アルニラム”って星系の人だったの。私は、その血を半分だけ引いてる」
彼女の視線が宙を漂う。
「……私の母が、昔――“事故”に巻き込まれてね。ケープ・ジラードって町に、不時着したんだって。仲間は皆死んで、母だけが……」
アマリエは、ふと静かになり、裁判長席の肘掛けを撫でながら言葉を続けた。
「それを見つけてくれたのが、ある神父だった。母を匿って、助けてくれて……やがて、私は生まれたの」
そして、再びナインへ視線を戻す。
「だから私は、この星で生まれた地球の子でもあるのよ。ただ、母からネヴェリスのことも少し聞いていたし、亡くなったあとに残された記録も読んだ。だから――あなたの“銃”がどこから来たのか、なんとなく見当がついたの」
アマリエはゆっくりと椅子にもたれ、遠い記憶を探るように、天井を見上げた。
「……“ケープ・ジラード事件”って、少し話題になったことがあるの。聞いたこと、ある?」
そう尋ねられ、リラはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ……初めて聞いた」
その返答を受けて、アマリエは小さく頷いた。
「まあ、そうよね。私も知ったのは母から……。でもね、話題にはなったの。少なくとも、一部の人には」
そのとき――リラの腰元の銃が、低く震えるように反応した。
「――補足シマス。ケープ・ジラード事件、別名『1941年未確認飛行物体墜落事案』。
ミズーリ州ケープ・ジラード近郊ニテ、米軍所属ト思ワレル部隊ガ、墜落シタUFOノ残骸ヲ回収。公的記録ナシ。発表モナシ。目撃者ハ少数存在スルモ、当局ニヨリ封鎖。
非公式記録ニ依レバ、搭乗者ハ3名。2名死亡。1名行方不明報告アリ。時期的ニ、ロズウェル事件ヨリ前。記録ノ信憑性ハ不明ナガラ、“最初ノコンタクト”トノ説アリマス」
ナインの声が、部屋の静寂に染み渡るように響いた。
アマリエはゆっくりと頷く。
「その“生存者”が――私の母よ」
小さく息を呑み、ナインとアマリエを交互に見つめた。
アマリエは少し姿勢を崩し、頬杖をついたままリラのほうに視線を向けた。
黙って続きを待った。アマリエは一拍置き、言葉を選ぶように話し始めた。
「なんでも……地球人との交流のために来たんだって。うん、母の話だと、“技術の共有”とか“文明接触の予行”って呼ばれてたらしいけど……正直、当時の詳しい事情は私もよく知らないのよ」
彼女の指が、机の縁をなぞる。
「無事に地球圏までは来たらしいんだけど……着陸のときに、故障で墜落したらしくて。でもね、母はずっと、あれは“事故じゃない”って言ってた。何かが故意に働いてたって」
眉を寄せ、アマリエの言葉を静かに待った。
「母たち三人で来てて、結局、生き残ったのは母だけだった。軍が到着するより先に、近くの教会にいた神父が現場に来て、母を助けてくれたの。……そして、その人が、私の父よ」
アマリエの口調は、淡々としていたが、その奥には柔らかい懐かしさが滲んでいた。
「母は、教会の地下でかくまわれてた。軍が来たときには、UFOの残骸と、死んだ二人の“搭乗員”しか見つからなかったらしいわ」
そう言ってアマリエはふっと微笑んだ。
「それで、母はひっそり教会で暮らしてた。でも地球の環境が合わなかったのか、私が十歳の頃に亡くなったわ。父はそのあともずっと私を育ててくれた。亡くなったのは……もう四十年くらい前になるかしら」
アマリエは窓の外をぼんやりと眺めながら、静かに語り出した。
「……あれは、私がまだ五歳くらいの頃かしら。夜中に目が覚めて、母の寝室に行ったら、彼女、外を見ながら小さく何かを呟いていたの。星を、ずっと見上げてたのよ」
その目元に、微かに遠い記憶の色が宿る。
「私には分からなかったけど……母は、あの“星”を懐かしんでたんだと思う。自分がいた場所。もう戻れない、遠い遠い場所」
黙って耳を傾けていた。
「母はね、“地球は美しいけれど、音が違う”ってよく言ってたわ。風の音、土の匂い、全部が似てるけど違う、って。……きっと、無理してたのよ。生きるだけでも、きっと」
アマリエの手が、ゆっくりと裁判長席の肘掛けを撫でる。
「でも、それでも私を産んで、ここで生きる道を選んだ。……それだけは、何か大きな意志があったんじゃないかって、今でも思うの。だからこそ、私がこうしてここにいる理由も、無意味じゃないって……そう思いたいのよ」
アマリエは再びリラを見つめ、柔らかく微笑んだ。
「それでね、あなたを見たとき、なんとなく気になったの。女の子が、一人でここまで歩いてきて、妙な銃まで腰に下げてる。普通じゃないでしょ?」
彼女は小さく首を傾げる。
「だから、もしかして私と同じように、何か事情があるんじゃないかって思った。でも――」
アマリエの視線がリラの横にある銃へと移る。
「話してみると、やっぱり私とは違う気もするのよね。ねえ、銃さん。あなたはどう思う?」
アマリエの問いに、室内の空気がわずかに揺れた。
一瞬、動きを止めたまま固まり、無意識に唾を飲み込む。静かに目線をナインへと向ける。
ナインはわずかな間を置いて、機械的な声音で静かに告げた。
「ソノ問イニハオ答エデキマセンガ――」
そして、はっきりと言葉を継ぐ。
「リラハ地球人デス」
その響きは、抑揚を排したものでありながら、どこか断言に近い確信を帯びていた。
アマリエは興味深そうに目を細め、小さく頷いた。
「そっか。……まあ、そういう事なら私も地球人だしね」
しばしの沈黙のあと――リラはぽつりと問いかけた。
「……あの、アマリエさんって……失礼ですけど、何歳なんですか?」
その場にそぐわぬ素朴な疑問に、アマリエは一瞬きょとんとし、それから楽しげに微笑んだ。
「ふふっ、いい質問ね。それ、よく聞かれるのよ」
わざとらしく肩をすくめてみせると、裁判長席に深く座り直しながら、少しだけ目を細める。
「えーと……たぶん、八十いくつかしら。九十には届いてないと思うんだけど……あんまり正確には覚えてないの」
リラの目が思わず見開かれる。
どう見ても、彼女の見た目は二十代後半――いくらなんでも、と言いかけて口をつぐんだ。
「……え、そんなに?」
アマリエはくすくすと笑いながら、指先で自分の頬を軽くつついた。
「崩壊前は逆に、年相応の老婆に見えるようにしてたのよ。白髪のかつらをつけて、皺を作って、腰も少し曲げて。杖まで持ってね」
先ほどシオンから聞いた話を思い出した。
「じゃあ、崩壊の日に変身したって話は……」
「特殊メイクが汗と埃で剥がれただけ」
アマリエは即答した。
「なのに今じゃ『老女の姿を捨てて女神が顕現した』ですって。参っちゃうわよね」
そう言ってから、悪戯っぽく片目をつむる。
「身分証も何度か作り直したし、名前を変えたこともあるわ。この見た目で八十年以上生きてたら、普通は説明つかないもの。……内緒よ」
彼女は楽しげに微笑んでいたが、その奥には、長い年月を生きた者だけが持つ静かな疲れも宿っていた。
アマリエはふうっと息を吐くと、背もたれに軽くもたれた。
「……それで、本題ね」
表情を改め、リラにまっすぐ視線を向ける。
「泥棒の件。……あれは、ここの信者が悪いことをしたわ。そこはちゃんと謝る。ごめんなさい」
彼女の言葉は真っすぐだった。飾り気はなく、むしろ人間味を帯びていた。
「でも、ここも食料が少なくなってきてるのは事実よ。焦った人間が勝手なことをした。だからといって、盗んでいい理由にはならないわ」
言葉を選ぶようにしながら、アマリエは机の上に置かれた手帳を指先でなぞった。
「返せるものは返す。まず謝る。それは当然として……その先をどうするかね」
アマリエの言葉が途切れたとき、リラはそっと目を伏せた。
彼女の脳裏に、あの農場で交わした老夫婦の言葉が浮かんでくる。
『手伝いでもしてくれりゃあ、分けてやるのに……』
ロイの、穏やかな声。
静かに顔を上げると、アマリエを見据えた。
「それなら、農場を手伝えばいいわ」
アマリエの目が、わずかに見開かれる。
「手伝う?」
「盗るんじゃなくて、働きに行くの。食料が欲しいなら、人手を出す。畑も広いし、ロイとマーガレットだけじゃ大変そうだった。ちゃんと謝ってから話せば、たぶん聞いてくれると思う」
「全員で押しかけたら、それはそれで襲撃みたいね」
「だから何人かでいいの。交代で行けばいいでしょ?」
アマリエはしばらくリラを見つめ、やがて小さく息を吐いて笑った。
「盗るんじゃなくて、働く。ずいぶん当たり前の答えなのに、追い詰められると人間って、その当たり前が見えなくなるのね」
彼女はゆっくり頷いた。
「明日の朝、シオンと話すわ。まず農場へ謝罪に行かせる。盗んだ分も、戻せるものは戻す。そのうえで、人手が必要か聞いてもらいましょう」
そして、思い出したようにリラへ振り返る。
「リラ、今日はここで泊まっていきなさい。もう暗くなるし、話したいこともまだあるでしょう?」
少し迷ったあと、肩をすくめた。
「一晩だけなら」
「十分よ」
アマリエは扉へ向かい、取っ手に手をかけた。
「それと――農場のことを伝えに来てくれて、ありがとう。知らないままだったら、もっと悪くなってたかもしれない」
その日の夜。
オールド・コートハウスの一角。かつて陪審員の控室だったという部屋に、折りたたみ式の簡易ベッドがいくつか並べられていた。
そのうちの一つに、リラは体を沈めていた。
金属の骨組みが軋む音と、敷かれた薄いマットレスの頼りなさが、静かな空間にぽつりと存在を刻む。
薄暗いランタンの明かりが、天井に揺れる影を映していた。
天井を見上げながら、リラは深く息をついた。
――いろんなことがあった一日だった。
農場。襲撃。セントルイス。そして、あのアマリエという女性。
(……あの人、なんなんだろう)
敵じゃない。けど、味方かどうかもまだ分からない。
けれど確かに――彼女は、この崩れた世界の中で、何かを守ろうとしていた。
(「私と同じように、何か事情があるんじゃないか」……か)
その言葉が、妙に胸の奥に残っていた。
ナインは、あくまで「地球人です」と言った。けれど、それが全てだとはリラ自身も思っていない。
自分の中にある、何か。普通の人間とは違う“何か”――。
指先が、腰のホルスターに触れる。ナインの存在が、体の一部のようにそこにあった。
「……ねえ、ナイン。あの人の言葉、どう思った?」
問いかけに、すぐには返事は返ってこなかった。
だがそれが、逆にリラには心地よかった。
誰かの言葉にすぐ答えが出るほど、簡単なことではない。
薄暗い室内に、わずかな衣擦れの音が混ざった。
「……貴女、アマリエ様とお話になったのですか?」
低く、柔らかい声だった。
隣のベッドに横たわっていた老女が、顔をこちらに向けていた。白髪を三つ編みにしてまとめたその姿は、年老いてはいるが瞳の奥に芯のある光を宿していた。
わずかに驚きつつも、小さくうなずいた。
「ええ……少しだけ」
それだけ答えると、老婆はふっと目を細め、まるで昔話を語るように静かに口を開いた。
「あの方は……“崩壊の日”に、この場所で姿を現されたのです」
「姿を?」
老婆は静かに頷いた。
「最初に見たときは、私とそう変わらない年頃の老婆でした。白い髪で、腰を曲げて、杖をついていた。逃げるのも難しそうな人に見えました」
昼間のアマリエを思い浮かべる。どう見ても、その姿とは結びつかない。
「けれど、あの方は逃げなかった。転んだ人を起こして、怪我人を肩に担いで、ここまで何度も往復したんです。埃と汗で顔が汚れ、白い髪が外れて……気がつけば、そこにいたのは今のアマリエ様でした」
老婆の声が、少しだけ震えた。
「私たちは見たんです。老いた姿が剥がれ落ちて、あの銀色の髪と白い肌が現れるところを」
何とも言えない顔になった。
本人から聞いた説明は、特殊メイクが剥がれただけ、だった。
だが、この老婆にとっては違う。
「みんな泣いていました。家族を失って、何が起きているのかも分からなくて。それでもあの方は、『ここにいなさい。外はまだ危ないから』と言って、また一人で出ていった」
老婆の手が、布団の上でそっと握られる。
「それから負傷者を手当てして、食べ物を分けて、危険がなくなるまで皆を守ってくださった。だから分かったんです。私たちは、あの方に導かれて生き残ったのだと」
「でも本人は、自分は女神じゃないって言ってたわ」
リラがそう言うと、老婆は穏やかに笑った。
「ええ。いつもそう仰います」
その返事に、リラはしばらく黙った。
否定することさえ、彼らにとってはアマリエを特別にする理由になるのかもしれない。
生き残ったという事実に意味を求め、その意味を一人の女性の姿に重ねていく。
まだ狂気と呼ぶには穏やかだった。
けれど、その芽のようなものは確かにここにある。
(……特別、か)
遠く、静かなセントルイスの夜を風が抜けていった。




