第12話:導き
第12話:導き
ロイとマーガレットに別れを告げて数日。
セントルイスへ向かう道を、西へとひたすら歩いていた。
日が傾き始め、草の匂いが濃くなる中――
今晩の食料を確保しようと、小動物の気配を追っていた、その隙に。
「――っ!」
背後で微かな気配がはじけた。
振り返ったときには、縛られていたはずの男二人が、
ほどけたロープを引きずりながら、別々の方向へ逃げていくところだった。
一人は西の森へ、もう一人は南西の草地へ走っていく。
「あっ……!」
二人の逃げる背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
その時ーー
ホルスターの中で、ナインが応答した。
「現在、二名ノ反応ヲ確認。一名ハ西方、距離四十三メートル。
モウ一名ハ南西、距離三十八メートル。間モナク探知範囲外ニ出マス」
「流石ね〜ナイン」
苦笑いを浮かべながら軽く礼を言った。
そしてふと、気づいた。
「……それにしても、なんだか随分久しぶりにナインの声、聞いた気がするわ」
ナインは一拍置いてから、少しだけ調子を変えた声で答える。
「ハイ。今マデ会話ヲ控エルヨウニシテイマシタ。
……結構、我慢シタンデスヨ?」
抑揚のない機械音声に、どこか照れ隠しのようなニュアンスが混ざっていた。
ほんの少しだけ頬を緩めた。
「彼ラノ生体特徴ハ既ニ記録済ミデス。
再ビ半径50メートル以内ニ入レバ識別可能デス。追跡シマスカ?」
「んー、どのみちセントルイスには行くんだし、焦っても仕方ないよ。それに、暫く泥棒なんてする余裕もないと思うよ?」
「承知シマシタ。チナミニ今日ノ晩御飯ノ確保ハ、オ済ミデスカ?」
「あー、忘れてた!…ナインこの辺に獲物いない?」
ナインは一瞬だけ間を置き、
いつもの無機質な声で応答した。
「推定30メートル先、野兎ノ反応アリ」
指をぽきぽきと鳴らしながら微笑んだ。
「よし、今晩は兎の丸焼きだね」
ナインが、また小さく囁く。
「成功確率、98.5パーセント」
「ふふ、頼りにしてるよ、相棒」
ナインにそう呟くと、
夕暮れに染まる森へと、静かに足を踏み入れた。
一夜明け、再び西へ歩き出した。
空はどんよりと曇り、時折、冷たい風が乾いた土を巻き上げていく。
ニューヨークを出てから、もう二か月半近くが過ぎていた。
最初の頃は、毎日のように日付を数えていた。
けれど今では、それさえ曖昧になりつつある。
歩いて。
眠って。
食べ物を探して。
時には逃げて、時には戦って。
そうやって一日を越えることだけを繰り返しているうちに、気づけば季節まで変わっていた。
「……二か月半か」
歩きながら、ぽつりと呟いた。
「ニューヨークを出たときは、こんな所まで歩いてくるなんて思ってなかったな」
ホルスターの中からナインが答える。
「正確ナ移動距離ハ、経路ノ迂回ヲ含メ直線距離ヨリ大幅ニ増加シテイマス。ヨク歩キマシタネ」
「それ、褒めてる?」
「モチロンデス」
少しだけ笑った。
ひび割れた道路の向こうには、徐々に建物の影が増えている。
「……セントルイスか」
名前を口にしたところで、昔読んだ本の一節を思い出した。
「確か、1764年にフランス人が毛皮交易の拠点として作った街なんだよね」
「概ネ正確デス」
「名前の由来はフランス王のルイ九世。それで、ミシシッピ川とミズーリ川が近くで合流してて……西へ向かう人たちの玄関口になった」
「訂正スル必要ガアリマセン。少々残念デス」
「何よ、それ」
「ワタシノ解説機会ガ失ワレマシタ」
「たまには私にも喋らせてよ」
笑いながら肩をすくめた。
昔から本を読むことは好きだった。
学校の試験に出るようなことは忘れてしまうのに、こういう役に立つのか立たないのか分からない知識だけは、妙に頭に残っている。
「でも……変な感じ」
「何ガデスカ?」
「昔はさ、こういう街の話を読んだら、いつか行ってみたいって思うだけだったのに」
前方の廃墟を見つめた。
「まさか本当に来ることになるなんてね。しかも、歩いて」
風が吹き抜ける。
道端には横転した車。
割れた標識。
雑草に覆われたガソリンスタンド。
二か月半。
千キロを遥かに超える道のりを、自分の足だけでここまで来た。
だが、不思議と達成感はなかった。
ここが目的地ではないからだ。
セントルイスもまた、旅の途中にある一つの街にすぎない。
「ま、観光旅行だったらもっと楽しかったんだろうけど」
「現在ノ状況ヲ観光旅行ト定義スルノハ困難デス」
「知ってる」
小さく笑い、西へと歩き続けた。
やがて、その笑みが消える。
セントルイスに近づくにつれ、周囲の雰囲気が変わっていった。
廃墟となった建物の壁には、
雑にペイントされた「神の導き」や「メシアの目覚め」といった言葉が目立つようになった。
朽ちた看板にも、
「新世界への扉が開かれた」
「選ばれし者のみ、救われる」
といった、標語が黒いペンキで塗りたくられていた。
道端に捨てられた紙くず、ぼろぼろの旗、
無人の家々――
そのすべてが、ただの廃墟ではない、どこか狂信的な気配をまとっていた。
崩れかけた街道脇に足を止め、赤黒くペイントされた看板を目にした。
そこに書かれていたのは――
『神の灯火はここにあり』
『メシアを讃えよ。抗う者に救いなし』
(……何、ここ……)
心の中で小さく呟いた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「嫌な予感するね。……っていうか、メシアって……」
そのとき、ホルスターの中からナインの声が響いた。
「先程カラ周囲半径50メートル内ニテ、複数ノ生体反応ヲ検知。我々ハドウヤラ、監視サレテイル様デス」
無意識に背筋を伸ばし、
周囲の廃墟を警戒するように見渡した。
まだ、セントルイスの中心部には入っていない。
それなのに、この異様な気配――
じわりと手のひらに汗がにじむのを感じた。
立ち止まったまま、目を伏せて小さく呟いた。
「……やっぱり、ロイの言ってたことって本当だったんだね。……新興宗教……」
すると、ホルスターの中からナインが機械的に応じた。
「新興宗教――定義ハ、急速ニ台頭シタ信仰体系。
特定ノ指導者ヲ崇拝、又ハ未来的救済ヲ標榜スル組織ガ該当シマス。
特徴トシテ、社会秩序カラ逸脱シ易ク、暴力行動ニ至ル危険性モ高イ傾向アリ」
眉をひそめ、改めて周囲を見渡した。
(未来的救済ね……)
痛んだ壁に塗られた「メシア」や「神の選民」の文字が、妙に生々しく突き刺さってくる。
ナインの解説に、思わず小さくため息をついた。
「……そんなことしてる場合かな……。
こっちは生き残るだけで、精一杯だっていうのに……」
掠れた声でそう呟きながら、リラは手元のホルスターを無意識に撫でた。
そのとき、ナインが静かに続けた。
「生存環境ノ崩壊時――ヒトハ自己存在ノ意義ヲ求メ、
不確実ナ未来カラ精神的安定ヲ得ヨウトスル傾向ガアリマス。
新興宗教ハ、ソノニーズニ応エルカタチデ発生スル現象ト分析サレテイマス」
乾いた笑いを洩らした。
「……皮肉なもんだね。
信じるものがあるほうが、強いってこと……なのかな」
曇った空。
ぼろぼろの看板。
そして、どこからか吹き抜ける、冷たい風。
看板をじっと見つめた。
(……ここから先、別世界ってことか)
静かに息をつき、辺りを見渡す。
無理に進むのは得策じゃない。
陽は傾き、空気は次第に冷たさを増していた。
「ナイン……今夜は、ここで泊まろう。無理は禁物、だよね」
「賛成デス。周囲ニハ生体反応アリマスガ、現在我々ノ行動ニ干渉スル気配ナシ。
安全確保可能ナ距離ヲ推奨シマス」
頷き、通り沿いに崩れかけた建物を探した。
やがて、骨組みだけを辛うじて残したような
――それでも、まだ屋根がある廃屋を見つける。
壁は一部欠けていたが、風は防げそうだった。
足元を確認しながら、ゆっくりと中へ入った。
今日のところは、ここまで――
自分にそう言い聞かせ、ホルスターに収まったナインに手を当てながら、リラは冷えた地面に腰を下ろした。
だが、"セントルイスの門"の向こう側では、
すでに、何かが待ち構えているのだった。
かすかに揺れる空気の中で、
それを肌で感じていた。
朝靄が、低く、地を這うように漂っていた。
セントルイス郊外。
秋の空は、どこまでも高く、冷たく澄み渡っている。
かつては人の営みがあったはずの街並みも、
今はただ、静かな風に晒されるだけだった。
倒壊したビルの影。
錆びた標識。
色あせたアスファルトの裂け目に、わずかに枯葉が積もっている。
廃屋の軒下からそっと顔を出し、
空気を吸い込んだ。
冷たい。
けれど、どこか透明な、秋の匂い。
「……行こうか、ナイン」
ホルスターに触れながら、リラは小さく呟いた。
廃墟の奥へ。
門の先へ。
まだ見ぬ何かが待つ、その都市へ向かって――
静かに歩き出した。
遠くで、カラスが一声、乾いた鳴き声を上げた。
それだけが、この世界にまだ“生”が残っている証のようだった。
「さて、泥棒の親玉探して文句言わないとね」
ナインがすぐに応答する。
「登録済ミノ二名ニ一致スル生体反応ハ、現在半径50メートル以内ニ存在シマセン」
「分かってる。あの二人を追いかけ回すつもりはないよ」
街の奥へ続く道を見据えた。
「でも、あいつらが聖選会だとか教主様だとか言ってたのは本当みたいだし。この落書きの元締めがいるなら、そっちに直接話した方が早いでしょ」
「合理的デス」
「でしょ?」
カラスの鳴き声を背に、セントルイス中心部へ向けて歩き始めた。
セントルイスの中心部へ向かって歩を進めるにつれ、
風景は少しずつ異様なものへと変わっていった。
最初は、廃屋の壁に殴り書きされた文字だった。
ペンキの跡は点々としていたが、次第にその数は増していく。
『救済ノ時、近シ』
『汝、心ヲ清ク保テ』
『選ばれし者ハ導カレル』
赤や白、時には金色で描かれたそれらの言葉は、
まるで“刻印”のように建物の外壁に染みついていた。
それだけではない。
道の途中に立てられた即席のバリケード――
木材と金網、車の残骸を組み合わせたそれらは、最初はまばらだったが、
距離が縮まるにつれ、規模も頻度も増していった。
(……なんなの、この整備されてる感じ)
本来、崩壊した都市はもっと雑然としているはずだ。
けれど、セントルイス中心部の周辺は“秩序”が保たれていた。
それも、人間らしい温もりや助け合いではなく――
どこか"強制された統制"を思わせる、冷たい整然さだった。
風は乾いて、建物の隙間を通るたびに、どこからともなくカラスの声が聞こえる。
門のように立ち並ぶ廃車とコーンバリケードの先、
この街の“心臓”が、何かを待ち構えているかのようだった。
「……あれって、ひょっとして……ゲートウェイ・アーチ?」
目を細め、遠くに見える異様な構造物に目をとめた。
地平線に突き出すように立っていたそれは、
中央からぽっきりと折れ、片方が地面に突き刺さるように崩れ落ちていた。
かつて、セントルイスの象徴として空へ伸びていた銀色のアーチ――
今ではその姿を半分に失い、黒ずんだ鋼鉄がむき出しになっている。
「ハイ。構造比較ト座標分析ヨリ、該当建造物ハ“ゲートウェイ・アーチ”デアル可能性ガ高イデス」
ナインが淡々と返す。
「そういえば……これ、高さと横幅が同じなんだよね」
「正確ニハ高サ630フィート。地上部ニオケル両脚間ノ距離モ630フィートデス」
「約192メートル。完成したのは……1965年だったかな」
「正解デス」
「ふふん」
「ナゼ得意気ナノデスカ?」
「たまにはナインより先に知ってること言いたいの」
折れたアーチを見上げた。
「西部開拓の象徴。東から西へ向かった人たちの玄関みたいなもの……だったんだよね」
そう言ってから、少し黙った。
自分も今、ニューヨークから西へ向かって歩いている。
理由も時代も何もかも違う。
それでも、同じ方向へ歩いてきた無数の人々がいたのだと思うと、妙な感覚があった。
「……私も西に向かってるわけか」
「ハイ」
「なんか嫌だな。歴史の一部みたいで」
「既ニ十分、歴史的状況ノ只中ニイルト推測シマス」
「そういう怖いこと、さらっと言わないでよ」
崩壊したアーチの根元には、白い布が巻き付けられ、
『再生ノ門』と書かれた看板が地面に突き刺さっていた。
「……おかしな話ね。崩れたものを拝むなんて」
呟きながら、もう一度その折れたアーチを見上げた。
しばし無言のまま眺めた後、ぽつりとこぼす。
「……私、実物、一度も観たことなかったんだよね。ニュースとか、教科書とかの写真だけでさ」
ナインが応じる。
「観光資源トシテハ、年間200万人以上ノ来訪者ガアッタ記録ガアリマス。
最モ、現在ノ来訪者ハ“信仰者”ニ限ラレルヨウデスガ」
「……そういうことじゃなくて」
苦笑まじりに肩をすくめた。
「写真だけの世界で、いつか行ってみようって思ってた場所……なのに、今じゃこれだもん。
どれだけのものを、あの一日で失ったんだろうね」
崩れたゲートウェイ・アーチの、錆びて傾いた支柱を見つめながら、ぽつりと呟いた。
ナインが静かに応答する。
「確認報告。ユネスコ登録ノ世界遺産、並ビニ各国文化施設トシテ指定サレテイタ構造物……
全世界デ“約17万9,000件”確認済。ソノ内、現在残存スルノハ約18%ノミト推定サレマス」
「……そっか」
半ば諦めながらも、肩をすくめて笑った。
「……いつか行こうと思ってたのにな。こうして崩れた姿で初めて出会うなんて、ね」
少し目を伏せてから、ふと尋ねる。
「……ナイン、まだ残ってる“行ける場所”なんて、あるのかな」
ナインは少し間を置いてから、静かに応答した。
「“行ケル場所”ノ定義ニヨリマスガ――
少ナクトモ今、ココニ“立ッテイル貴女”ハ、ワタシノ“目的地”デス」
「……は?」
思わずナインのホルスターをちらりと見た。
「それ、どういう意味?」
「ア、イエ、感情ノヨウナモノデハアリマセン。……タダ、“随行型支援兵器トシテノ主観的表現”ニ、近イデス」
「……ふふ。何それ、言い訳っぽい」
小さく笑いながら、アーチの残骸に視線を戻す。
「さ、行こうか」そう言うと崩れたゲートウェイ・アーチを背に、リラはナインのナビゲーションに従って、静かに歩き始めた。
破壊された道路の上に乾いた落ち葉が舞い、曇天の下、街の中心部へと続く道を踏みしめる。
「目的地マデ、残リ約1.2キロ。目標:旧司法建築物――“オールド・コートハウス”」
ナインの無機質な声に、リラは黙って頷いた。
「オールド・コートハウス……」
その名前にも覚えがあった。
「確か、ドレッド・スコットの裁判が行われた場所だよね」
「ハイ。1847年及ビ1850年、同事件ニ関スル初期ノ裁判ガ行ワレタ記録ガアリマス」
「奴隷だった人が、自分は自由だって認めてもらうために争った場所……」
遠くに見え始めたドームを眺めた。
「自由を求めて争った場所が、今は『選ばれた人間だけ救われる』なんて言ってる連中の拠点か」
少し考え、鼻から息を吐く。
「歴史って、意地悪ね」
「建造物自体ニ思想ハアリマセン」
「分かってるよ。だから、人間の方が意地悪なんでしょ」
進むにつれて、壁に残されたスローガンやペンキの文字に変化が現れ始める。
“神の声に従え”“光の導きは近い”――
そして、それらの文言に混じって、次第にある“印”が増えていく。
五つの尖端を持つ星。その中央に、掌を広げた手形。
赤や白、時には黒で描かれたそれは、廃ビルの壁面や車のボンネット、ひび割れた歩道の上にもペイントされていた。
「確認報告。五芒星ノ中心ニ手形――本区域内ニテ、同一構図ノマークヲ45件以上検出。宗教的象徴、マタハ“選民意識”ヲ含ム儀式的印ト推測サレマス」
「……分かるよ。どう見たって“まとも”じゃない」
思わず眉をひそめた。
その印は、ただの落書きではなかった。
誰かが、意図して残し、誰かが、それを信じている。
街は静かだった。
だが、その静けさが、何よりも不気味だった。
「……ナイン、この辺に“人の気配”は?」
「限定的生体反応、半径50メートル内ニテ5名以上検出。
静止状態。視線ハ、コチラニ向イテイル可能性アリ」
監視されている――
そう思った瞬間、リラの背筋に冷たいものが走る。
(……来る、かも)
ゆっくりと、ナインのホルスターに手を添えながら、前方の建物を見据えた。
見上げたその先――オールド・コートハウスが、灰色の空を背景に沈黙していた。
オールド・コートハウスの前に、明確な“門”はなかった。
だが、周囲には車の残骸や鉄柵、木材などを寄せ集めて作られた不規則なバリケードが四方を囲んでいた。
一見すると雑多な配置に見えるが、歩いて回り込むうちに、“中央へと誘導する導線”のような意図すら感じられる。
そして、そのバリケードにはいくつも、例の五芒星と手形の印がペイントされていた。
(……囲ってる?でも、門はない。じゃあ、誰でも入れるの?)
違和感と警戒心が、リラの胸にじわりと広がる。
ナインが淡々と告げる。
「バリケード配置ニハ宗教的象徴ノ他、侵入者及ビクリーチャー対策トシテノ意味合イガアル模様」
頷きもせず、ただ足を止めて、
その開かれた“禁域”を、じっと見据えた。
ゲートウェイ・アーチが無残に折れ伏した風景とは対照的に――オールド・コートハウスは、まるで時の流れから切り離されたかのように、荘厳な姿を保っていた。
古典様式の列柱が並ぶ正面ポーチ。その奥には、重厚な木製の両開き扉が、まるで“審判の門”のように構えられていた。
破壊された街の中で、なぜかこの建物だけが無傷に近い。周囲には即席のバリケードが築かれていたが、それは宗教的な意味合いだけではない。クリーチャーの侵入を防ぐための、“防衛線”でもあるのだろう。
そして――その扉の中央。静かに立ち尽くすひとつの影があった。
ローブのような布をまとった人影。顔は見えない。だが、その存在はまるで、“門を護る者”のように、静かに、そして確かにリラを見ていた。
正面の扉は重々しく、それでいて異様なほど整った姿でそこにあった。
崩壊の影響を受けていないその外観は、かえって不自然な印象を与える。
そして、その扉の前に一人の人物が立っていた。
黒いローブを纏った男が、重厚な扉の前に立っていた。
年齢は四十代後半から五十歳ほどだろうか。
頬から顎にかけて濃い髭を蓄えている。
崩壊してから伸び放題になったものではない。その輪郭はきちんと整えられ、口元にも無造作な荒れはなかった。
おそらく世界がこうなる以前から、髭を生やしていたのだろう。
一方で髪まではそうはいかなかったらしい。
黒にわずかな白髪の混じった髪は耳を覆い、襟元に触れるほどまで伸びていた。
それでも完全に放置されているわけではなく、額から後ろへ撫でつけるように整えられている。
痩せても太ってもいない体つき。
背筋は真っすぐ伸び、両手を腹の前で静かに重ねていた。
その立ち方にも、視線にも、不思議な慣れがある。
教会の牧師か。
あるいは、人前に立って何かを説くような仕事。
少なくとも、世界が壊れてから急に聖職者を演じ始めた人間には見えなかった。
その者は、リラを見つけると静かに口を開いた。
「――ようこそ、《聖選会》の神域へ」
声は低く、しかしどこか陶酔した響きを含んでいた。
「我々《聖選会》は、すべての民を受け入れます。貴女がここへ導かれたことも、決して偶然ではありません。神の選びが、今ここに在るのです」
「ちょっと待って」
リラが遮った。
「私、入信しに来たんじゃないから」
男の手が止まる。
「……と、申しますと?」
「苦情を言いに来たの」
腰のホルスターに片手を添えたまま、一歩前へ出た。
「あなたたちの仲間が、ここから東にある農場に押し入った。年寄り二人しか住んでない家よ。食料を盗もうとして、銃まで撃った」
男の表情は変わらなかった。
だが、ほんのわずかに目が細くなる。
「我々の仲間、と断定される根拠を伺っても?」
「本人たちが言ったのよ」
「何と?」
「神の導きに従った。教主様の教えは正しい。食料を得るのも選ばれた使命だって」
沈黙。
男はリラを見つめた。
「……なるほど」
「なるほど、じゃないでしょ」
「確認しているのです」
「じゃあ確認して。二人組。片方は痩せてて、もう片方は髭が生えてた。二人とも縛ってここまで連れてくるつもりだったけど、途中で別々の方向へ逃げられた」
「わざわざ、ここまで?」
「そうよ」
「農場の主は、貴女のご家族ですか?」
「違う」
「ご友人?」
一瞬考えた。
「……友達、かな」
「知り合ってどの程度で?」
「四日」
男の眉が、初めてわずかに動いた。
「四日?」
「何よ」
「いえ」
男は口元に薄い笑みを浮かべた。
「四日間を共に過ごした他人のために、逃亡者を追い、危険な都市へ足を踏み入れた。少々興味深い方だと思いまして」
「別に。ご飯食べさせてもらって、ベッド貸してもらっただけよ」
「それだけ?」
「それで十分でしょ」
男は数秒、何も言わなかった。
「……貴女のお名前を伺っても?」
「先にそっちが名乗ったら?」
短い沈黙。
やがて男は胸に手を当てた。
「これは失礼を。私はシオン。《聖選会》において、この地の管理を任されております」
「リラ」
「リラ……」
シオンはその名を一度だけ繰り返した。
「ではリラ。ひとつお尋ねしても?」
「何?」
「貴女は先ほど、彼らの行為を“犯罪”と仰った」
「それが?」
「警察はありますか?」
黙った。
「裁判所は?」
シオンは背後の建物を一瞥する。
「皮肉なことに建物だけは残っていますが、その機能はとうに失われています。国家も法律も、それを執行する者もいない」
そして静かに両手を広げた。
「では、この世界で“犯罪”とは何でしょう?」
眉をひそめた。
「何が言いたいの?」
「単純な疑問です。貴女もここへ来るまで、無人の商店や民家から食料や物資を得たことがあるのでは?」
「あるよ」
「所有者の許可は?」
「取れるわけないでしょ」
「ならば、彼らと貴女を分けるものは?」
リラの目が細くなった。
シオンは静かなままだった。
挑発しているようにも、純粋に答えを待っているようにも見える。
やがてリラは答えた。
「人がいるか、いないかよ」
「……ほう」
「誰もいない店から缶詰を持っていくのと、そこで生きてる人に銃を向けて食べ物を奪うのは違う」
「法律ではなく?」
「そんなものなくても分かるでしょ」
シオンを真っすぐ見た。
「嫌だって言ってる人から力ずくで奪ったら、それは泥棒よ」
シオンは黙った。
「警察がいなくても、裁判所がなくても、世界が終わってても同じ」
「非常に単純ですね」
「悪かったわね」
「いいえ」
意外にも、シオンは少し笑った。
「単純であることと、間違っていることは同義ではありません」
少し拍子抜けしたように眉を上げる。
「じゃあ認めるの?」
「まだ事実確認が済んでおりません」
「面倒くさい人ね」
「よく言われます」
「そこは認めるんだ」
「事実ですので」
小さく息を吐いた。
シオンは再び表情を引き締めた。
「ただし、一つ申し上げておきます」
「何?」
「《聖選会》の名を用いれば、何をしても許されるわけではありません」
先ほどまでとは違う、低い声だった。
「この世界で生き延びるため、我々も食料を集めます。物資も必要です。しかし、それを理由に個人が勝手に他者を襲うことまで認めた覚えはありません」
「じゃあ、あいつらは?」
「本当に我々の信徒であり、貴女の話が事実であるならば」
シオンは答えた。
「それは“信仰”ではなく、信仰を言い訳にした略奪です」
じっとシオンを見る。
「……最初からそう言えばいいじゃない」
「貴女がどのような人物か、知りたかったもので」
「は?」
「この街へ一人で入り、我々を前にして臆することなく苦情を述べる少女です。警戒するのは当然でしょう?」
「少女って言わないで」
「失礼しました」
「それから、私は別に神様に導かれてここへ来たわけじゃないからね」
「そうでしょうか?」
シオンの口元に、再び薄い笑みが浮かぶ。
「またそれ?」
「ニューヨークからこれほどの距離を歩き、多くの死を越え、それでも生き残り、今日この場所へ立っている」
「全部、私が歩いた結果よ」
「我々はそれを“導き”と呼びます」
「私は“自分の意志”って呼ぶ」
二人の視線がぶつかった。
数秒。
どちらも逸らさない。
シオンが静かに言った。
「同じ出来事に、異なる名前を付けているだけなのかもしれませんね」
「全然違う」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「では、いずれ答えが出るでしょう」
「出なくていい」
即答だった。
シオンがわずかに笑う。
そのとき――
奥の扉の奥から、しんと張り詰めた気配が現れた。
――足音。
柔らかいが、重みを持った足取りが、石造りの床を踏みしめて近づいてくる。
男は静かに顔を上げ、そちらに目を向けた。
「……おや。お出ましのようです」
その言葉とともに、場の空気が変わった。
「……どうかしたのですか?」
澄んだ声が、奥の扉から聞こえた。
ローブの男が視線を向けた先――
奥の扉が、音もなく開かれる。
そこに現れたのは、流れるような白銀のローブを纏った女性だった。整った顔立ちに冷ややかな威厳が宿り、肌は人間よりもわずかに透けるように白い。ただ歩みを進めるだけで、空気が一段冷たく引き締まる。
「……シオン。どうしたのですか?」
その声は静かで柔らかいが、問いの裏に揺るぎない力を感じさせた。
男――シオンは恭しく頭を下げる。
「失礼いたしました、アマリエ様。突然の来訪者に、少々無粋な応対を」
彼の口調からは、先ほどまでの芝居がかった色が引き、まるで別人のように落ち着いていた。
「そう。……ならば、まずはご挨拶を」
女性はシオンの横に立ち、微笑みとも取れるかすかな表情を浮かべた。
「私はアマリエ。この地に“聖域”を授かった者です」
警戒を解かぬまま、短く名を返す。
「……リラ。通りすがりの、旅人よ」
リラが名乗った瞬間、腰のホルスターから、かすかに電子音のような微振動が伝わった。
(ナイン……?)
リラがわずかに目線を落とすと、ベルトに収められた“ナイン”が、微かに声を発した。
「……オ氣ヲツケヲ、リラ。……彼女ハ地球人デハアリマセン」
小さく、誰にも聞こえないほどの機械的な囁き。
一瞬だけ息を呑み、アマリエの微笑を正面から見つめ返した。




