第11話:露草
第11話:露草
インディアナポリスを抜けて数日後、リラはエフィンガム郊外へとたどり着いた。
小高い丘を越えた先に、狭いながらもよく手入れされたトウモロコシ畑が広がっていた。
枯れかけた茎の間には、まだ青さを残す穂も混じっている。
乱雑に伸びた草はなく、畝はまっすぐに並び、ところどころに鍬の跡が残っていた。
畑の脇には錆の浮いた手押しポンプと木桶があり、その奥には小さな鶏小屋も見える。
電気がなくなっても、水と土と手さえあれば続けられる暮らし。
この畑には、今も毎日のように人の手が入っている――そんな気配があった。
その中に、ぽつんと揺れる人影があった。
(……人?)
そう思った矢先、畑の端で動く影が目に入った。
「誰だ!!」
怒鳴り声とともに、年老いた男がライフルを構える。
六十代後半ほどの白人男性だった。
色褪せた麦わら帽子の下からは灰色がかった髪が無造作に跳ね、鼻の下には濃い口ひげを蓄えている。
日焼けした顔に、泥の付いた作業着。腹回りは少しふくよかだったが、厚い肩と節くれだった前腕は、長年の農作業で鍛えられたものだと一目で分かった。
年齢を感じさせる風貌とは裏腹に、その立ち姿にはまだ十分な力が残っている。
そして、ライフルの銃口は真っすぐリラに向いていた。
「待って!撃たないで!私、人間!……通りすがりなだけ!」
思わず叫び、両手を挙げた。
風が畑を揺らし、枯れ葉が音を立てる中、しばしの沈黙が落ちる――
男は数秒、じっとリラを睨みつけたまま動かなかった。
だが、しばらくしてその銃口がわずかに下がる。
「……よく見りゃ、若い女の子じゃねぇか。何だってこんな所に……」
彼は皺の刻まれた額をしかめた。ライフルの構えは解かず、依然警戒しているようだった。
「あんた、この辺の人間じゃないな?どっから来た?」
「……避難、というか……旅をしてるの。少しでも安全な場所を探して」
息を整えながら、できる限りゆっくりと答えた。
嘘はついていないが、全てを話すつもりもなかった。
男は目を細め、リラをじろじろと見た。
「……本当か?こんな世界になって、ずいぶん変わった子だな……」
そのとき、奥から別の声が聞こえた。
「……あなた、どうしたの?」
老婦人が畑の向こうから歩いてくる。
男と同じく六十代後半ほどの白人女性だった。
灰色の混じった髪は、この世界になってからも昔の習慣を守っているかのようにきちんと梳かされ、後ろでひとつにまとめられている。
色褪せたブラウスと濃い色のパンツにはところどころ繕った跡があったが、汚れはなく、身なりは丁寧に整えられていた。
土と日に焼けた男の荒々しい印象とは対照的に、物静かで穏やかな空気をまとっている。
声は柔らかく、どこか心配そうだった。
老人は振り返らず短く言う。
「おい、気をつけろ。銃持ってるぞ」
「あら……女の子じゃない。ねえ、あなた――その子、悪い子には見えないわよ?」
婦人の視線は、リラの目をまっすぐに捉えていた。
疑いではなく、確かめるような眼差しだった。
男は銃を構えつつリラを問いただす。
「……本当に人間か?なんでこんな田舎まで来た」
「たまたま通過してるだけよ。……旅をしてるの。
本当よ。こんなに流暢に喋る化け物、見たことある?」
そのひと言に、老婦人がふっと笑う。
「ふふ……それもそうね」
男は眉をひそめたまま、まだ完全には納得していない様子だった。
少し呆れたように言う。
「お前はすぐに人を信用する癖がある。気をつけろって言っただろ」
その言葉に、リラは片手を挙げたまま、
「待って。大丈夫、信用して」
そう言うと、ゆっくりと腰に下げていたホルスターに手をかけ、ナインを収めたままベルトごと外した。
そのまま、足元の土の上に置いた。
「――これで、どう?」
婦人が少しだけ目を見開いた。
男はじっとそれを見下ろしたまま、黙り込む。
「……ほら、あなた。もういいでしょ?」
婦人の一言に、男はしぶしぶとため息をつく。
しばらく沈黙したのち、ようやく銃を下ろした。
男はライフルを下ろしつつも、視線だけはリラから外さない。
その肩越しに、婦人がぽつりと呟いた。
「……そろそろ、ご飯にしましょうかねぇ」
その言葉は、あまりに唐突で、あまりに日常的だった。
「おい……!」
男が呆れたような声を上げる。
だが、ライフルの銃口はもう地面へ向いていた。
リラを睨んだまま、ひとまず家へと足を向けようとした、そのとき――
……グゥ……
静寂の中に、リラの腹の音が響いた。
気まずそうにお腹を押さえ、視線を逸らす。
「あらまあ、お腹が鳴るならもう立派な“人間”じゃないの。ねえ、貴女もどうかしら?」
そう言うと、彼女はゆっくりと歩を進め、リラへと近づいていく。
「おいっ……!」
男の声が一段と強くなる。
「……っ、私は大丈夫。食べ物は……あとで探すから」
だが、婦人は気にする様子もなく、リラの手をそっと取った。
乾いた土と泥で汚れた指先を見て、少しだけ眉をひそめる。
「こんなに汚れて……。貴女、どれだけ歩いたのかしら」
そして、彼女はやわらかく、けれど確かな声で言った。
「……さ、ご飯にしましょう。私はマーガレット。貴女は?」
「私は……リラ」
男はしばし黙っていたが、やがて短くため息をつき、肩をすくめる。
「……わかったよ」
彼はライフルを背中にかけ直しながら、リラの方を見た。
「俺はロイ。……先に言っとくが、銃は預かるぞ」
言いながら、足元に置かれていたナインのホルスターを拾い上げた。
マーガレットは、その隣でやわらかく笑った。
ロイはナインのホルスターを手にしたまま、踵を返して歩き出した。
マーガレットがリラの肩を軽く押しながら、優しく言った。
「遠慮しないで。座る場所くらい、まだあるわ」
小さく頷くと、土で汚れた靴のまま一歩ずつ玄関へと足を踏み入れた。
扉をくぐった先には、木の匂いが満ちていた。
窓のひとつにはかろうじてカーテンが残っており、
明かり取りの隙間から夕方の光が薄く差し込んでいる。
床は擦り減っていたが清潔で、壁には色褪せた家族写真が数枚飾られていた。
暖炉の近くに置かれた小さな椅子の上には、まだ折りたたまれていない洗濯物が積まれている。
(……“生活”の匂いがする)
心の中でそうつぶやいた。
ナインが横にいないことに、一瞬だけ不安を覚えたが――
ここには、確かに“人間の時間”が流れていた。
マーガレットは台所へと向かいながら、背中越しに声をかけた。
「リラ、スープでいいかしら?今日は卵と少し野菜があるの。大したものじゃないけど」
一瞬迷い、それから静かに頷いた。
「……ううん、充分。ありがとう」
マーガレットはにこりと笑い、小さな鍋を火にかける。
流しの脇には、外の井戸から汲んできたらしい水が金属のバケツに満たされていた。
かすかに油とタマネギの香りが漂い、リラの胃がまた音を立てそうになる。
ロイはライフルとホルスターを、部屋の隅にある小さな棚に置いた。
しばらく無言でリラの様子を見ていたが、やがて鼻を鳴らしてリビングの奥へと消えた。
改めて周囲を見回す。
擦り切れたラグ、傷のついたテーブル、煤けた壁。
けれどそこには、ほんのわずかでも“誰かが守り続けてきた時間”があった。
(……懐かしい)
そう思った。
どこかで知っている、誰かの暮らしの残り香――
それがまだ、ここには生きていた。
しばらくして、マーガレットの声が台所から響いた。
「あなた、ご飯できたわよ〜」
ロイが椅子を引き、黙ってテーブルに着く。
マーガレットは小さな鍋と皿を並べ、温かい湯気が食卓に漂った。
卵と野菜のスープは質素だったが、香りはどこか懐かしく、リラの胃がふるえていた。
「さあ、冷めないうちに」
マーガレットに促され、リラも静かに腰を下ろす。
無言のままスプーンを手にしかけたが、その時――
ロイが目を閉じ、静かに両手を組んだ。
マーガレットも続けて目を伏せ、短く祈りの言葉を口にする。
「主よ、この食事と今日一日をありがとうございます。
どうか明日も、この命が守られますように……アーメン」
一瞬、手を止めた。
目の前の光景に、記憶の底が静かに揺れる。
(……ああ、そういえば)
(食事の前に、こんなふうに手を合わせてたっけ)
ほんの二ヶ月半前のこと。
けれど、その“当たり前”が、まるで何年も昔の記憶のように思えた。
爆音、喪失、戦い、そして孤独。
そればかりが積み重なった日々のなかで、
“祈る”という行為さえ、どこか遠くへ置き去りにしていた。
ー今日もこうして、命があることに感謝してー
祈りの言葉は短く、淡々としていた。
だが、それはこの世界でもなお“神”に感謝するという行為の証だった。
(……忘れていた)
目の前の二人は、ただの生存者ではなかった。
今も、“人間”であり続けている。
そのことが、リラの胸の奥に、じんわりと染み込んでいった。
やがて二人が静かに顔を上げる。
沈黙の中に、スープの湯気が立ち上っていた。
マーガレットはリラの方を向いて、穏やかに微笑んだ。
「さ、食べましょう」
その声に、リラは思わず小さく息を飲んだ。
言葉は、何でもないように優しくて、何でもないように自然だった。
けれど、それが胸に深く刺さった。
(……いつ以来だろう)
何でもない日常のはずが、今の彼女には、もう手の届かないものだと思っていた。
それが、今――目の前にある。
うつむき、手元を見つめたまま動けなくなった。
頬を伝った一筋の涙に、自分でも気づかないほどだった。
マーガレットは驚いた様子も見せず、ただそっとスープ皿をリラの前に置いた。
「……冷めないうちに、ね」
ロイは何も言わず、視線を外してスプーンを持った。
震える手でスプーンを握りしめた。
それは、かつてどこにでもあった食卓の一風景――
けれど、彼女にとっては、あまりにも遠くにあった“人間の時間”だった。
温かいスープの香りが、静かに食卓を包んでいた。
けれど、三人の間に交わされる言葉は、ほとんどなかった。
スプーンを口に運びながら、何度も言葉を探した。
けれど、何を話せばいいのか、自分でも分からなかった。
ロイもまた、淡々とスープを飲み続けていた。
視線は皿の中に落ちたまま、時折何かを噛みしめるように眉を寄せる。
マーガレットだけが、時折スープを混ぜながら、柔らかい空気を保ち続けていた。
会話がないことを、誰も不自然とは思わなかった。
それぞれが、それぞれの事情を抱えている――
今はただ、それを察し合う静かな時間だった。
スプーンが器に触れる音だけが、やわらかく響いていた。
食事を終えたリラは、静かにスプーンを置いた。
一拍、呼吸を整えてから、小さく声を出す。
「……ご馳走様でした」
マーガレットが微笑みながら、空いた器を片づけながら応じた。
「どう?美味しかったかしら。卵しかなかったけれど」
こくりと頷いた。
そして、言葉を絞り出すように答えた。
「……すごく、美味しかったです。こんな食事、久しぶりで……」
言い終える頃には、声が少しかすれていた。
目を伏せたリラの瞳に、涙がにじむ。
マーガレットは何も言わず、そっとリラの肩に手を置いた。
その温もりに、リラの喉が小さく震える。
ロイは手を組んだまま座っていたが、
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
それは、ようやく訪れた“日常”のかけらに対する、
誰にも気づかれないほどささやかな、安堵の表情だった。
マーガレットがスープの鍋を持ち上げ、シンクへと向かおうとしたとき、
椅子から勢いよく立ち上がった。
「あ……!食器、私も洗います」
マーガレットが振り返って微笑む。
「あら、大丈夫よ。座ってて」
小さく首を横に振った。
「でも……何か手伝わせてください。
ここに泊めてもらって、食事までいただいて……やっぱり、何かしないと」
その言葉に、マーガレットは一瞬だけ目を細め、
それからふっと口元をやわらかく緩めた。
「……本当に?それなら、ちょっと助かるわね」
マーガレットは井戸水の入ったバケツから洗い桶へ少しずつ水を移し、濡らした布巾を差し出した。
それを両手でしっかりと受け取った。
ロイは背後の椅子で腕を組んだまま、何も言わずにその様子を見ていた。
その目には、わずかに――ほんのわずかに、柔らかさがにじんでいた。
食器を片づけ終えると、マーガレットが「こっちよ」と声をかけ、
リラを家の奥へと案内した。
廊下を抜けた先、ひとつの部屋のドアを静かに開ける。
中には、柔らかい光が差し込んでいた。
窓際には白いレースのカーテンが揺れ、
小さなベッドと、木製の机、本棚、そして壁に飾られた何枚かの写真。
そのうちの一枚――
若い女性が微笑んで写っている写真が、机の上に立てかけられていた。
(……娘さん、かな)
ふとそんなことを思いながら、部屋をゆっくりと見渡した。
誰も使っていなかったはずなのに、室内は整然としていて清潔だった。
ベッドのシーツには、日に干した布の匂いがかすかに残っている。
よく見ると、敷かれたばかりのように皺もなく整っていた。
そのとき、マーガレットが少しだけ声を落として言った。
「……娘がね、いつ帰ってきてもいいように、いつも掃除してるのよ」
その言葉には、静かな希望と、諦めのようなものが同居していた。
「ごめんなさい……余計なこと言っちゃったみたいね。
さ、どうぞ、ゆっくり休んでね」
返す言葉を見つけられなかった。
ただ、小さく頷いて、
「……ありがとうございます」とだけ、そっと口にした。
マーガレットはにっこりと微笑み、
「おやすみなさい」とだけ言い残し、部屋を出て行った。
扉が閉まると、部屋の静けさが戻り、リラはベッドに身を沈め横たわった。
柔らかなベッドの感触に包まれたまま、
いつの間にかリラは眠りに落ちていた。
翌朝。
目を覚ましたリラが居間へ降りると、テーブルの上には簡単な朝食が用意されていた。
窓の外では、すでにロイが麦わら帽子を被り、畑の中で鍬を振るっている。
昨夜まで自分にライフルを向けていた老人とは思えないほど、その姿はただの農夫そのものだった。
「朝から元気ね……」
リラが窓越しに呟くと、台所にいたマーガレットが小さく笑った。
「昔からなのよ。何もすることがなくても、畑だけは放っておけない人だから」
食事を済ませたあと、リラは畑へ向かった。
「何か手伝うことある?」
そう尋ねると、ロイは怪訝そうに眉を上げた。
「客に仕事させるほど落ちぶれちゃいねぇよ」
「でも、何もしないでご飯だけ食べるのは嫌なの」
しばらく睨み合うような沈黙が続いた。
やがてロイは鼻を鳴らし、足元に置いてあった鍬を顎で示した。
「……だったら、その辺の草でも取ってくれ」
「了解」
それが始まりだった。
昼間、リラはロイと畑に出た。
雑草を抜き、枯れた茎を取り除き、井戸から水を汲んでは必要な場所へ運ぶ。
電気で動く農機具など、もう使えない。
二人は鍬と鋤と自分たちの腕だけを頼りに、昔ながらのやり方で土を整えていった。
「お前、見かけによらず力あるな」
「これくらい普通でしょ」
「そこいらの娘っ子は水桶二つ持って走らねぇよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
そんなやり取りも、二日目には珍しくなくなっていた。
最初はリラが何をしているのか逐一目で追っていたロイも、いつの間にか背中を向けたまま仕事を任せるようになった。
初日に預けられたナインも、翌朝には返されていた。
「持ってけ。丸腰のガキを働かせてるみたいで気分が悪い」
そう言ってホルスターを差し出したロイに、リラは思わず笑った。
「信用してくれたの?」
「調子に乗るな。まだ半分だ」
「昨日より増えたじゃない」
「うるせぇ」
夜になると、今度はマーガレットを手伝った。
井戸水を運び、食器を洗い、薪を運び、洗濯物を畳む。
マーガレットは何度も「休んでいていいのよ」と言ったが、リラは結局、一度もじっとしていなかった。
夕食の支度をしながら他愛もない話をする。
ロイの昔話。
作物の育て方。
近所に住んでいた人々のこと。
時折、マーガレットは娘の話もした。
けれど、そのたびにリラは何も聞かなかった。
帰ってくるのか。
生きているのか。
それを尋ねることだけは、なぜか出来なかった。
三人で食卓を囲み、食後にはロイがくだらない昔話をし、マーガレットが呆れたように訂正する。
リラが笑う。
そんな時間が、一日、また一日と積み重なっていった。
気がつけば、四日が過ぎていた。
最初に畑で出会ったとき、ロイはリラへ銃口を向けていた。
マーガレットも優しく接してはいたものの、どこか慎重に彼女を見ていた。
けれど今では、ロイは何も言わずリラの分まで水を用意し、マーガレットは当然のように三人分の食事を作る。
リラもまた、この家に戻れば誰かがいることを、いつの間にか当たり前のように感じ始めていた。
(……四日しか経ってないんだ)
もっと長くここにいたような気がした。
旅に出てから、時間はいつも長かった。
一日歩いても、一日戦っても、夜はなかなか終わらなかった。
なのに、この四日間だけは妙に短い。
その日の夜も、いつもと変わらなかった。
夕食を終え、マーガレットと食器を片づけ、ロイに「明日も早いぞ」と追い払われるように部屋へ戻る。
「おやすみ、リラ」
「おやすみなさい」
扉を閉め、ベッドへ横になる。
明日もまた、朝になればロイが畑にいる。
マーガレットが朝食を作っている。
そんなことを考えながら目を閉じた。
そして、その夜。
どれくらい眠ったのか。
リラの耳に、かすかな金属音が届いた。
何かを引きずるような、不規則な足音。
(……外?)
反射的に目を開け、飛び起きた。
すぐに腰に手を伸ばす――が、そこにナインの重みはない。
(そうだ、ナインは……リビングの棚に)
警戒を強めながら、そっと窓辺へ近づく。
カーテンの隙間から、月明かりに照らされた庭の先――
納屋のあたりに、いくつかの黒い影が動いている。
(……人?でも、こんな時間に……)
胸騒ぎがした。悪い予感が脊髄を駆け抜ける。
静かに窓を開け、身を低くして屋外へ滑り出た。
そして、物陰に隠れながら納屋へと近づく。
ちょうどその頃、家の反対側――
ロイも異変に気づいたらしく、ライフルを手に玄関から出てきた。
「誰だ!!そこにいるのは分かってるぞ!!」
怒声が夜の静けさを切り裂く。
その瞬間、人影の一つが逃げるように動いた――
だが遅い。リラの目は、既に標的を捉えていた。
一気に距離を詰め、
そのまま身体をひねりながら、鋭い飛び蹴りを放つ。
バキッ!
暗がりの中、鈍い衝突音と共に男の体が地面に叩きつけられた。
リラの蹴りを受けた男が呻き声を上げて倒れ込んだ、その直後――
納屋の扉の奥から、もうひとつの気配が走った。
「くそっ、バレたか……!」
闇の中から、かすかな金属音。
反射的に、リラは足を止めた。
(……銃!?)
次の瞬間、閃光とともに鋭い銃声が闇を裂く――!
パンッ!
地面を蹴るように身をひねり、わずかに右へ跳んだ。
弾丸が彼女の肩のすぐ脇を抜け、背後の木片をはじけ飛ばす。
着地と同時に、すでに動きは始まっていた。
そのまま前方に踏み込み、身を低く構える。
相手の表情が見えた瞬間、鳩尾めがけて拳を突き出す。
ドゴッ!
沈み込むような打撃音と共に、男の体がくの字に折れる。
一瞬で呼吸を奪われた泥棒は、呻く間もなくその場に崩れ落ちた。
納屋の奥でうめき声が止んだその瞬間、
背後から駆け寄る足音が地を蹴った。
「この盗人野郎どもがァ!」
ロイがライフルを構え、息を荒げながら駆け込んでくる。肩で荒く呼吸をし、額には汗が滲んでいた。
それでも、その手は震えることなく、標的を狙う構えのままだ。
だが、彼の目に映ったのは――すでに地面に倒れた二人の男たち。
ひとりは納屋の前に蹲り、もう一人は内部で完全に戦意を失っていた。
「おい、リラ!大丈夫か!?」
怪我ひとつない様子で振り返った。
彼女の存在は異質なほど落ち着いていた。
「うん……なんとか。撃たれかけたけど、大丈夫」
ロイはしばし唖然とし、倒れた男たちを見下ろして唸る。
「おいおい……二人とも倒したのか?一人で?
……なんだってんだ、お前……どうなってやがる……」
言葉は呆れに近かったが、その声の奥には、明らかな安堵も混ざっていた。
「まあ、とにかく無事でよかった……」
戸惑いながらもロイがようやく肩の力を抜き、ライフルを下ろしながら言った。
そのとき、家の方からランタンを手に、慌ただしい足音が近づいてくる。
「あなたっ、大丈夫なの!?」
マーガレットが駆け寄り、まずロイの肩に手をかけてから、納屋の奥に立つリラの姿に気づいた。
「あら……リラ、貴女まで……。どうして……」
彼女の声は、心配と驚きが入り混じっていた。
「怪我はない?銃声が聞こえたような……」
小さく首を振った。泥棒を指差しながら
「大丈夫。かすりもしなかったから。外れたみたい」
その答えに、マーガレットは少しだけ唇を結び、
それから、ゆっくりと胸に手を当てた。
「……そう。それなら……よかったわ」
ロイは納屋の中をざっと見回し、ため息をつきながら言った。
「ま、相手がヘタクソで助かったな。……全く、危ないことする子だよ」
そう言いつつも、声色にはどこか呆れと感心が入り混じっていた。
「んで……どうやったんだ?あの二人」
一瞬だけ口元を引き結び、
すぐに肩をすくめながら答えた。
「あー……外に倒れてるのは、転んだんじゃないかな?
あと中の人は……そうね、頭でもぶつけたんじゃないかな?」
わざとらしく無邪気に言いながら、視線を外す。
そのしらじらしさに、ロイは眉をひそめたが――
「ん~?……まあいい。無事ならそれでいい」
と言いながら、しゃがんで倒れた男の腕をつかんだ。
「とりあえずこいつらは縛って、納屋の柱にでも括りつけておくか。このままじゃ夜のうちにまた逃げ出すだろうしな」
そう言うと、ロイはロープを持ち出し、不器用な口調で続けた。
「まったく……今夜はもう寝られそうにないな」
一夜が明け、納屋の裏では鳥の声と風の音だけが響いていた。
朝露がトウモロコシの葉先を濡らし、ひんやりとした空気が庭先を流れている。
家の裏では、ロイが納屋の柱に縛り付けた二人の男を見下ろしながら、ぼそりと呟いた。
「最近よぉ、セントルイスの方から流れてくる連中が増えたんだ。こいつらも、多分そっちから来たんじゃねぇかな。わざわざ、こんな田舎までな」
リラが無言で耳を傾けると、ロイは煙草に火を点け、ため息をひとつ吐いた。
「泥棒も目立つようになってきた。食料や燃料……何でも持っていこうとする。俺たちはこんな状況になってからは、あまり遠くへは行かないようにしてるんだがな」
しばらく煙をくゆらせたあと、ロイは苦々しげに呟いた。
「向こうじゃ、おそらくだが……もう食料が足りなくなってきてるんだろうよ。畑の手伝いでもすりゃあ、少しくらいは分けてやるのによ」
言葉は素っ気ないが、その声にはどこか寂しさと憤りがにじんでいた。
陽の光が少しずつ納屋の壁を照らし始めた頃――
柱に括りつけられていた二人の泥棒が、ゆっくりと目を覚ました。
一人が呻き声を上げ、もう一人はまだぼんやりとした顔で周囲を見渡す。
そして次の瞬間、視線の先に立つ少女に気づいた。
「……っ!」
二人の顔色がみるみる青ざめる。
あの夜、目の前で一瞬にして叩き伏せられた記憶が蘇ったのだろう。
悲鳴を上げそうになる口元に、リラは指を一本、静かに立てる。
「……シーッ」
ただそれだけ。
だが、その鋭く冷たい視線に、男たちは肩を震わせながら黙り込んだ。
目が合ったまま、リラが一歩近づくと――
「……っ!」
二人は同時に小さく頷いた。
声も出さず、ただ怯えた表情で。
大の大人、それも二人が恐怖で縮こまったまま硬直していると、ロイは腕を組んだまま、怪訝そうにその様子を見つめていた。
ロイに一瞥だけ送り、再び男たちの方へ視線を戻した。
「ねえ、二人とも……どこから来たの?」
男たちは互いに顔を見合わせたが、すぐには答えない。
そんな彼らに向かって、リラは少し口角を上げながら続ける。
「このまま、ゾンビの餌にしてもいいけど?」
「ッ……!!」
肩をビクリと震わせる二人。
だが、リラはすぐに軽く笑いながら首を横に振った。
「冗談よ。そんな趣味はないから」
そして声の調子を少しだけ落として、改めて問いかける。
「それで――どこから、泥棒しに来たのかな?」
しばしの沈黙の後、ついに一人が口を開いた。
「……セントルイスだ。俺たちは……そこで“暮らしてる”。」
「神の導きによって……俺たちは、守られている。
その教えがあったから、ここまで来られたんだ……」
震えた声だったが、どこか熱を帯びた語り口だった。
リラの目が、ほんの少しだけ細められる。
(神の導き……?)
ロイは腕を組んだまま、深いため息をついた。
「んー……こんな世界だ。
新興宗教の一つや二つ、出来あがってても不思議じゃないさ」
そして少しだけ視線を落とし、男たちを見下ろすように言った。
「……それで?“やってること”が泥棒かね?」
その一言に、縛られた男たちが顔を上げる。
怯えていたはずの目に、どこか熱を帯びた光が宿る。
「違う……何を言う!我々は神の声に従っただけだ!」
「新世界の“教主様”の教えは正しい。
選ばれし者が生き残り、混沌に秩序をもたらす――そう説かれているんだ!」
「食料を求めることも、資源を得ることも……すべては“選定された使命”だ!」
まるで何かに取り憑かれたように喋り続ける男たち。
その言葉を、しばらく無言で聞いていた。
そして――
ふと、目つきを変える。
その冷たい視線に、男たちは言葉を失い、息を呑んだ。
ロイは顎に手をやりながら、縛られた男たちを見下ろして唸った。
「さて……どうしようかね。
もう警察なんてものはないし、ここに置いておくわけにもいかない。
……かといって解放したら、また来るだろうしな」
悩ましげに眉をひそめていると、リラが静かに口を開いた。
「私が――送り届けるわ。
ちょうど、セントルイス方面に行こうと思ってたところだし」
「おいリラ、それは……危ないぞ。
お前、ここでもう少し休んでいけばいい。
別に急ぐ必要なんて――」
ロイが思わず口を挟む。
だが、リラは首を横に振って、はっきりと答えた。
「そんな長くお世話になるわけにはいかない。
私、行かなきゃいけない場所があるから」
そのとき――
納屋の外から、優しい足音と声が近づいてきた。
「リラ……本当に、行ってしまうの?」
マーガレットが納屋の入口に立っていた。
手にはタオルが握られ、その視線は、しっかりとリラに向けられていた。
「ここに居てもいいのよ?安心できる場所なんて、もう残ってないわ」
一瞬だけ目を伏せ、
マーガレットの言葉を胸に受け止めた。
わずかに笑みを浮かべ、マーガレットに向き直った。
「私は、大丈夫。
それに――この人たち、放っておけないでしょ?」
縛られた男たちは息をひそめたまま黙っている。
その横で、リラは淡々と続けた。
「……あとね。
彼らの言う“教主様”にも、ちゃんと伝えておかないと。
――“泥棒は禁止”ってね」
その言葉には、皮肉と責任感の両方が込められていた。
マーガレットはしばし言葉を失い、
その背中をただ見つめる。
「……リラ……」
柔らかく、かすれた声で名を呼ぶと、
マーガレットはそっとリラの手を取った。
「わかった……でも、どうか無事でいてね」
両手を縛られ、うなだれる二人組。
その後ろには、腰にナインを装備したリラの姿があった。
朝日に照らされた一本道を、三人の影がゆっくりと遠ざかっていく。
しばらく歩いたところで、リラはふと足を止めた。
振り返る。
農場の前では、ロイとマーガレットがまだこちらを見ていた。
大きく手を振った。
「ありがとう!二人とも元気でいてね!」
マーガレットも手を振り返す。
その隣で、ロイは照れくさそうに片手を上げた。
少しだけ迷ったあと、もう一度声を張った。
「また戻ってくるよ!」
マーガレットの表情が、ふっとほころんだ。
ロイは何も言わなかった。
ただ、上げていた手をもう一度だけ大きく振った。
それを見届けると、前を向いた。
再び歩き始めた彼女の背中を、二人はいつまでも見送っていた。
風に揺れるトウモロコシの葉が、乾いた音を立てている。
ほんの四日間。
それでもそこは、終わりのない旅の途中でリラが見つけた、帰ることのできる場所になっていた。




