第96話
週末の午前、恋が待ち合わせ場所へ着くと、藍はすでに駅前の人通りから少し外れた場所に立っていた。学校で見慣れた制服ではなく、落ち着いた色の私服を着ているだけで、いつもよりわずかに年相応に見える。
その隣には悠もいた。こちらも外見年齢に合わせた簡素な服装で、両手をポケットへ入れたまま道路の向こうを眺めている。姉弟と呼ぶにはまだ目が慣れない並びだったが、数日前のような張りつめた空気はもう残っていなかった。恋が近づくと、先に藍が顔を向けた。
「おはようございます、恋」
「おはようございます、藍さん」
「時間通りです」
「遅れたら何を言われるか分からないので」
「注意はします」
「やっぱりするんですね」
恋が鞄の紐を肩へ掛け直すと、横から悠の視線が飛んできた。さっきまで道路を見ていたはずなのに、今は恋の顔から鞄までを確かめるように眺めている。
「お前、ちゃんと来たんだ」
「行くって言ったでしょう」
「勉強は?」
「……起きてから、ちゃんとやりました」
返事がほんの少し遅れたせいで、悠の口元が動いた。恋はその変化を見逃さず、眉を寄せる。
「本当に?」
「悠くん」
「何」
「朝から喧嘩を売らないでください」
「確認しただけじゃん」
「弟様」
聞き慣れ始めた声が背後から差し込み、恋は振り返った。少し離れたところにこよみが立っており、休日でも姿勢は学校にいる時とほとんど変わらない。
「榊原の名字を名乗るにしては、朝から品位に欠けます」
「記録者まで来てるの?」
「見送りです」
悠は不満そうに鼻を鳴らした。それでも以前のように棘のある言葉を返すことはなく、こよみも反発される前提で淡々と立っている。
仲が良いと呼ぶにはまだ遠い。ただ、互いに次の動きが攻撃ではないと分かっているだけで、二人の間の空気はずいぶん違って見えた。
恋がそのやり取りを眺めているうちに、道路の向こうから黒い車が静かに近づいてきた。三者面談の日に見たものと同じ車だと気づき、恋の背筋が少し伸びる。
車は歩道脇へ滑るように止まり、後部ドアが開いた。落ち着いた色のパンプスが先に地面へ降り、続いて真由美が姿を現す。
「おはよう、藍」
「おはようございます、お母様」
「桜川さんも。来てくれたのね」
「お、おはようございます」
一度会っている相手なのだから、前ほど緊張しなくてもいいはずだった。それでも学校の外で見る真由美は少し勝手が違い、恋は挨拶しながら無意識に背筋を伸ばす。
服装は派手ではなく、帽子も深めに被っている。それなのに車の横へ立っただけで、その場の景色から輪郭だけが浮いて見えた。長く人前に立ってきた人間の身のこなしは、隠そうとしても完全には消えないらしい。
恋はそのまま隣の悠へ目を向けた。少し前まで余計な一言を投げていた口は閉じられ、真由美をじっと見ている。
真由美も悠に気づき、足を止めた。驚いた声を上げることもなく数秒だけ少年の顔を見つめ、それから藍へ視線を移す。
「その子が?」
「はい」
藍は答えると、悠の隣へ一歩寄った。前へ押し出すでもなく、自分の後ろへ隠すでもなく、ただ同じ位置に並ぶ。
「榊原悠。私の弟です」
悠の肩がわずかに動いた。名前も存在も事前に伝えられていたはずなのに、「私の弟です」と改めて言われた瞬間だけ、視線が藍の横顔へ滑る。
藍は悠を見返さなかった。紹介を終えると、その言葉を真由美がどう受け取るかを待つように口を閉じる。
「そう」
真由美は短く答え、悠の前まで歩いた。手を伸ばせば届くくらいの距離で止まり、それ以上は近づかない。
「初めまして、悠」
「……初めまして」
「石上真由美です」
「知ってる。有名人だろ」
「あら。なら自己紹介はいらなかったかしら」
「そういう意味じゃないけど」
真由美は少し笑ったが、触れようとはしなかった。悠も一歩引くことはなく、ただ初対面の相手を見る距離を保っている。
「藍から話は聞いたわ」
「どこまで?」
「学校へ勝手に入って、こよみちゃんと藍にちょっと悪さをして、桜川さんにも迷惑をかけたところまで」
「……ちょっと?」
悠が横目で藍を見る。藍はいつもの顔のまま答えた。
「必要なことは伝えました」
「姉さん、あれを『ちょっと』って説明したの?」
「その表現はお母様です」
真由美が口元へ手を添え、悠は何とも言えない顔になった。恋も少しだけ肩の力を抜く。
もっと重たい空気になると思っていた。真由美が突然増えた「娘の弟」をどう見るのかも、悠が藍の母を名乗る相手へどこまで警戒するのかも分からなかったからだ。
けれど、今のところ藍が間へ入らなくても会話は続いている。二人とも、相手の出方を見ながら自分の言葉で返していた。真由美は一度だけ藍へ目を向け、それから悠へ戻す。
「藍があなたを弟として受け入れたことは聞いたわ」
「……そう」
「私は、それを否定するつもりはないわ」
「あんたとの関係はまだ決まってないけど」
「無関係ではなくなったわね」
「曖昧」
「初対面で全部決める方が変でしょう?」
「姉さんは決めたけど」
「藍は藍。私は私よ」
柔らかな声だったが、誤魔化す調子ではなかった。悠が何か言おうとしたところで、真由美は少しだけ首を傾げる。
「私も、あなたのことをこれから知っていけばいいと思ってる。でも、今日から私を母親と呼びなさいとは言えない」
「……そうかい」
「ええ。自分で決めればいいの。石上真由美でも、真由美でも、別の呼び方でも。必要になった時に考えればいいわ」
悠は返事をせず、真由美と藍を交互に見た。少し考えてから、ぽつりと口を開く。
「……変なの」
「何が?」
「姉さんの家族」
「それは否定できないわね」
「お母様」
「あら。藍も普通だとは思っていないでしょう?」
「一般的な家族関係ではないことは認識しています」
「でしょう?」
二人の返しが妙に噛み合い、恋は口元を少しだけ緩めた。すぐに悠の視線が飛んでくる。
「お前、また笑った?」
「笑ってません」
「絶対――」
「悠」
「何」
「恋へ絡まないでください」
「姉さん、僕にだけ反応早くない?」
「必要性が高いためです」
悠は何か言い返しかけ、視界の端へこよみが入ったところで口を閉じた。少し離れた場所から見送りを続けるこよみは、何も言わず悠を見ている。真由美が二人を見比べ、楽しそうに目を細めた。
「……何もしないよ」
「まだ何も申しておりません」
「その目で分かるんだって」
「もう仲良くなったの?」
「なってない」
「良好な関係を構築中です」
「記録者ァ!」
悠の声が少し大きくなり、通りかかった人がこちらを見た。自分でも気づいたらしく、悠はすぐ声を落とす。
「弟様」
「分かってる。目立つんだろ」
「はい」
真由美は肩を揺らして笑った。けれど悠との距離を急に縮めることはなく、少し離れたところから会話へ加わるだけだった。
やがて真由美は車内へ手を伸ばし、小さな紙袋を取り出した。恋の視線も、自然とその袋へ向いた。
「そうだ、藍。これ」
「はい」
藍が紙袋を受け取ると、中から細長い箱が出てきた。蓋を開けば、派手な装飾のない金属製の万年筆が収まっている。
「万年筆ですか」
「ええ。向こうで見つけたの。紙に書くことも多いでしょう?」
「はい。使用します」
「よかった」
藍は万年筆を一度手に取り、重さを確かめるように指先で持ち直してから箱へ戻した。真由美もそれ以上の反応を求めず、ただその様子を見ている。
三者面談の日、真由美は藍の感情を完全には読めないと言っていた。藍もまた、真由美の本心と演技をすべて見分けられるわけではない。
それでも真由美は、藍が使いそうなものを自分で選んだ。藍はそれを受け取り、使うと答えた。互いの内側を完全に分からなくても、二人の間ではそれで十分なのかもしれない。
その横で、悠が万年筆の箱を紙袋へ戻すところまで黙って見ていた。真由美がその視線に気づき、今度は悠へ顔を向ける。
「ごめんね。あなたの分は間に合わなかったの」
「……別に、いらないけど」
「初めて会う前だったから、何を選べばいいか分からなかったのよ」
「だから、いらないって」
「次は選びたいから」
真由美はそこで少しだけ首を傾げた。悠は嫌な予感がしたように眉を寄せる。
「あなたは、何が好き?」
悠の口が止まった。藍へはすぐ反論し、こよみにはすぐ突っかかり、恋には頼まれていない一言まで足す悠が、今は何も返さない。
「好きなもの?」
「そう。食べ物でも、本でも、服でも。何か集めているものでもいいわ」
悠は道路の向こうへ目を向け、それから停まっている車を見た。最後には自分の靴先へ視線を落とし、袖口を指先でつまむ。
「……今考えてる」
「ええ」
真由美はそれだけ答えた。質問を重ねず、急かす様子もなく待っている。
時間が少し空き、悠は袖口の布を小さく折るように弄った。やがて顔を上げないまま、ぼそりと言う。
「……何でもいい」
「何でも、が一番難しいのよ」
「じゃあ、姉さんと同じのでいい」
「それは悠が欲しいもの?」
「使えるなら何でもいいだろ」
「じゃあ、次までの宿題ね」
悠が顔を上げた。真由美は笑いながらも、冗談だけで済ませるつもりはなさそうだった。
「何を」
「自分で欲しいものを一つ考えておいて」
「別にないって」
「今はね」
「……何それ」
「ないなら、そのうち見つければいいわ」
悠の指が袖口から離れた。真由美はそれ以上追及せず、車の方へ身体を向ける。
「急がなくていいの。次に会う時までで」
「次って」
「生きていれば、また会うかもしれないでしょう?」
真由美は、それを特別なことのようには言わなかった。次があることだけを当然のように置き、運転手へ軽く合図を送る。
恋は横で聞きながら、悠の顔を見た。驚いたような、困ったような表情のまま、悠は何も返していない。
「では、そろそろ向かいましょう」
真由美の一言で、待ち合わせ場所に漂っていた柔らかな空気が少しだけ形を変えた。これから向かうのは、榊原幸三のいる場所だった。
恋は肩に掛けた鞄の紐を握り直す。藍がすぐその動きに気づいた。
「恋」
「はい」
「体調に問題はありませんか」
「大丈夫です」
「学習予定も、本日は調整済みです」
「そこまで確認しなくても忘れてません」
「念のためです」
昨日までこよみ監修の試験対策を受けていたことを思い出し、恋の口元が少し引きつる。横で悠が笑いかけた。
「昨日も結構やらされてたもんな」
「悠くん」
「今のは笑ってない」
「先に言い訳しないでください」
「事実だろ」
「弟様」
間を置かずこよみが呼び、悠が振り返る。悠はうんざりしたように肩を落とした。
「記録者、もう帰るんじゃなかったの?」
「はい」
「だったら最後まで叱らなくていいだろ」
「見送りは終了していません」
「それ、叱る理由になってないよね?」
こよみは答えず、悠は何とも言えない顔で肩を落とした。真由美は小さく笑いながらその横を通り、車の後部座席へ向かう。
「こよみちゃん、またね」
「はい。石上真由美様」
「真由美でいいのに」
「検討します」
「前にも聞いた気がするわ」
「検討は継続しています」
「長い検討ね」
真由美が笑ったまま車へ乗り込むと、こよみは表情を変えず一礼した。藍も続いて乗車し、悠がその隣へ入る。
恋は一瞬だけ座る場所に迷ったが、藍が視線で促した方へ腰を下ろした。ドアが閉まると、駅前のざわめきが一枚隔てられたように遠くなる。
車がゆっくり動き出し、窓の向こうに立つこよみの姿が後方へ流れていった。悠はそれを少しだけ目で追い、隣の藍を一度見てから反対側の窓へ顔を向ける。
車内にはエンジンとタイヤの低い走行音が続いていた。恋は向かいにいる三人へ目をやる。母親と娘、その隣に加わった弟。言葉にすれば簡単なのに、実際には誰が誰をどう呼ぶのかさえ、まだ決まりきっていない。
少し前まで藍に弟はいなかった。今は同じ車へ乗っていて、それでも悠は真由美を自動的に母親として受け入れたわけではない。
たぶん、それでいいのだろう。先ほどの真由美は、答えを急がせるどころか、次に会う時まで考えればいいと言っていた。
車は駅前を離れ、建物の密度が少しずつ低い地域へ入っていく。窓の外へ、恋にも見覚えのある道路や交差点が混じり始めた。
その景色につられるように、胸の奥から別の記憶が浮かんでくる。初めて榊原幸三と会った日、まだ藍の正体も監査等委員長になることも何一つ整理できていなかった頃の記憶だった。
あの日は、藍が人間ではないと書かれた手紙だけを頼りに、一人であの場所へ向かった。何が待っているのか分からないまま、知らない男へ会いに行った時の乾いた空気まで、道路を見ていると少しずつ戻ってくる。
目的地が近づくにつれ、膝の上で組んでいた指に自然と力が入った。すぐ隣から、藍の声が落ちる。
「恋」
「はい」
「呼吸が少し浅くなっています」
「……そこまで見なくていいです」
「体調確認です」
「大丈夫です。ちょっと思い出してただけなので」
「以前の訪問時を?」
「はい」
藍はそれ以上聞かなかった。一度だけ恋を見てから、窓の外へ視線を戻す。
幸三のもとへ向かうという事実は同じでも、今回はあの時とは違う。恋はそのことを確かめるように、向かいに座る真由美と悠、それから隣の藍を順に見た。
今度は一人ではない。何も分からないまま呼び出されたわけでもない。
車はそのまま街を抜け、やがて前方に恋の記憶にも残っている古い建物の並びが見え始めた。恋は膝の上で重ねていた指を静かに組み直し、近づいてくる景色から目を逸らさなかった。




