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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第7章 榊原一家
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第95話

 数日後の放課後、生徒会室の一角は、いつもの事務机とは思えない有様になっていた。恋の端末から伸びたケーブルが机の上を這い、二台の検証用端末へ枝分かれしている。その画面には恋にはほとんど読めない文字列が流れ続け、正面ではこよみが瞬きもせず処理状況を追っていた。


 その向かいに座る悠は、ここ数日ですっかり見慣れた不機嫌そうな顔をしていた。画面を一度確認してから、こよみの端末を指さす。


「だから、そこは僕が触った場所じゃないって」


「侵入前後で設定が変化しています」


「古い認証規則がぶつかっただけ。僕が作った経路はもう消した」


「確認します」


「それ、今日何回目?」


「必要な回数です」


 こよみは悠の抗議を受け流し、片方の履歴ともう片方の記録を照合していく。悠は口を尖らせたものの、椅子を前へ引き直し、自分の画面へ戻った。


 渡り廊下で向かい合っていた時に比べれば、二人の間にあった剥き出しの警戒は薄れている。ただ、仲良くなったと呼ぶには少し違う。こよみは相変わらず悠の処理を疑い、悠も確認されるたびに文句を言うが、次に飛んでくるものが攻撃ではないことだけは、もう互いに分かっているようだった。


「弟様。こちらの権限変更もお願いします」


 こよみが新しい項目を開くと、悠の指が止まった。嫌そうに顔だけを上げる。


「……その呼び方、まだ続けるの?」


「はい」


「何で?」


「藍様の弟ですので」


「僕は記録者の弟じゃないけど」


「そのようには申しておりません」


「じゃあ、普通に名前で呼べばいいだろ」


「必要性を認識していません」


「絶対直す気ないよね?」


「はい」


「そこは即答するんだ……」


 悠は椅子の背へ身体を預け、天井を仰いだ。恋は少し離れた自分の席で、そのやり取りを聞きながら復旧中の端末へ視線を戻す。


 最初に「弟様」と聞いた時は、生徒会室の中でその呼び方だけが妙に浮いていた。それも二日続けば、耳の方が慣れてくる。敬っているのか、単に藍との続柄を正確に呼んでいるだけなのかは、今もよく分からなかった。


「悠くん、今どのくらい終わってるんですか?」


 恋が尋ねると、悠がこちらを向いた。質問より先に呼び方の方へ反応したらしく、少しだけ眉を上げる。


「それ、定着したね」


「嫌ですか?」


「別に。呼び捨てよりはいい」


「じゃあ、このままにします」


「好きにすれば」


 返事は素っ気なかったが、拒む気はないらしい。恋が「悠くん」と呼び始めたのは昨日からで、本人にも一応確認した上でそうなった。


 藍が弟として受け入れ、悠自身もその関係を選んだあとまで、ずっと「あの人」や名字だけで距離を取るのも妙だった。だからといって呼び捨てにできるほど親しくもない。今の恋には、このくらいがちょうどよかった。


「端末側はほぼ終わったよ」


 悠は恋の机を指さした。ケーブルの先で、認証情報の更新状況を示す表示が点滅している。


「最初に抜いた情報も、姉さんとの接触記録から作ったデータも消した。複製も残してない」


「本当に全部ですか?」


「だから今、それを二人に調べられてるんだろ」


「信用されてませんね」


「お前まで言う?」


「されると思ってたんですか」


 悠は不満そうに眉を寄せたが、言い返さなかった。恋も肩を竦め、端末の画面へ視線を戻す。


 何をどこまで取られていたのか、恋自身には確認のしようがない。学籍情報、生徒会での権限、藍との接触記録、最初の通信で使われた認証情報。そのどれも、一覧で聞けば事務的なのに、自分の知らない場所へ複製されたままだと考えると急に気味が悪くなった。


 藍とこよみは、悠の保管領域だけでなく、外部へ残した痕跡まで何度も照合している。そこまで確認されて、ようやく返ってきた端末を以前と同じように持てる気がしていた。


「桜川さん」


「はい」


「現時点で、不正取得されたデータの残存は確認されていません。認証情報も更新済みです」


「ありがとうございます」


「弟様が作成した侵入経路も、主要部分の閉鎖を確認しました」


「主要部分?」


 恋が聞き返すより早く、悠が椅子を少し回した。少し呆れた顔で、こちらへ説明する。


「学校側の古い設定が思ったより絡んでるんだよ。僕が使った穴を塞いだら、別の設定とぶつかった」


「それ、悠くんが触ったせいでは?」


「半分くらいは元から」


「では、残り半分は弟様の責任です」


「そういうところだけ切り分け正確なんだよな……」


 悠は溜め息をつき、また画面へ向き直った。こよみは返事もせず、修復項目へ一つ印を追加する。


 数日前まで、悠は藍を上回ることばかり口にしていた。今も性格まで急に変わったわけではなく、口は悪いし、こよみにはすぐ突っかかる。藍と性能の話になれば、負けを認めた顔もしない。


 それでも、自分で開けた穴を一つずつ塞ぎ、取った情報を申告し、その削除を他人に確認させている。途中で面倒になったと放り出すこともできたはずだが、少なくとも今の悠はそうしていなかった。


 恋は端末へ繋がるケーブルを目で追い、もう一度画面へ戻った。作業が終わるまでここにいることも、自分の仕事の一部なのだと思えば、以前ほど落ち着かない感じはしない。


「復旧は今週中に終わる見込みです」


 会長席から藍の声が飛んできた。恋が顔を上げると、藍は書類へ目を落としたまま続ける。


「再発防止策は、悠の案を私とこよみで確認します。恋には最終版を共有します」


「分かりました」


「週末の予定にも変更はありません」


 その一言で、恋の指が止まった。数日前に追加された予定は、すでに自分の端末のカレンダーにも入っている。


「お父様との面会です。恋にも同行をお願いします」


「はい。そのつもりです」


 今度は迷わず答えられた。悠がどこまで後始末を終えたのかを確認する必要もあるし、幸三から開発の経緯について何か聞けるかもしれない。


 積極的に再会したい相手ではなかった。最初に会った時の薄暗い部屋と、こちらの都合を待たず話を進める男の顔を思い出せば、今でも少し身構える。それでも、ここまで悠の件に関わって最後だけ席を外す方が、恋には落ち着かなかった。


「では、そのためにも」


「そのためにも?」


 恋が聞き返すと、藍の赤い瞳が机の端へ移った。そこにはいつの間にか、数学、英語、現代文の問題集が重ねられている。


 さらにその下にも何冊かある。見なかったことにしたい厚さだった。


「月末の中間試験対策を始めてください」


「……今からですか?」


「はい」


「今、悠くんの復旧作業を監査してるんですけど」


「主要な確認は終わりました。残りはこよみが見ます」


 逃げ道が閉じた。恋は問題集へ視線を落とし、側面に並んだ付箋の多さだけで嫌な予感が膨らむ。


「桜川さん」


 その予感を形にするように、こよみが悠の端末から離れて恋の横へ移動してきた。手には別の端末まで持っている。


「外部模試の結果を基に、本日の範囲を調整しました」


「なんで私より先に知ってるんですか」


「必要だったためです」


「結果は聞きたくないです」


「聞いてください」


「ですよね……」


 こよみが画面を開く。恋は反射的に顔を逸らしかけたが、その前に三科目の数字が目へ入った。


 数学、英語、国語。どれも、自分の点数ではないことにしたい数字だった。


「……受験番号、合ってます?」


「合っています」


「そうですか……」


 机へ額をつけたい衝動を、恋はぎりぎりで堪えた。思い返せば、入学してからまともに勉強した日がどれほどあったか、自信がない。


 中学まではそれなりにできる方だった。青葉第二へ入れたのだから、高校でも授業を聞いて少し復習すれば何とかなると思っていた。


 ところが、入学式の直後に藍から屋上へ呼び出され、なぜか監査等委員長になった。その後も生徒会の仕事や校内外の騒動が続き、夜に教科書を開いたまま寝落ちした回数は、できれば数えたくない。


 もちろん、忙しかったことだけが原因ではない。今日は疲れたから明日でいい、と先送りした夜もかなりあった。


「恋」


「はい」


「今、生徒会の責任も少し含めようとしましたか」


「してません」


「そうですか」


 藍の視線が一瞬だけこちらへ向いた。恋は背筋を伸ばし、そのまま何も考えていない顔を作る。


 最近の藍は、こういう時だけ妙に察しがいい。恋の行動予測には継続的な観測が必要だと言っていた記憶があるが、その精度がこんなところで上がるのは歓迎しづらかった。


「今週中に予定範囲を前倒しで終わらせます」


 こよみが何事もなかったように続けた。恋の前へ数学の問題集を置き、付箋の位置を示す。


「全部?」


「はい」


「範囲、広くないですか」


「週末に学習時間が減りますので」


「妥当って言うんですよね」


「はい」


 言われる前に答えが分かってしまった。恋は諦めて数学の問題集を開く。


 数ページめくっただけで、文字と数字が隙間なく並んでいる。英語も同じで、ページを開くほど自分の知らないものを確認している気分になった。


 その向こうで、悠がこちらを見ていた。何も言わないのに、口元だけが少しずつ持ち上がっていく。


「何ですか」


「いや」


「笑ってますよね」


「笑ってないよ」


「じゃあ、その顔やめてください」


「だって、姉さんの監査等委員長だから、もう少しできるのかと思って」


「悠くん」


「何」


「今、言わなくていいこと言いましたよね」


「事実だけど」


「弟様」


 こよみの声が横から入った。悠の口が止まる。


「何だよ」


「他者の不得手を笑うことは推奨できません」


「ちょっと笑っただけじゃん」


「改善しようとしている最中です」


「記録者に品格の話されると思わなかったんだけど」


「私は品格という語を使用していません」


「そういうところだよ!」


 悠が声を上げる。恋は沈みかけていた肩を少しだけ戻した。少なくとも、自分の点数だけが話題の中心になり続けるよりはましだった。


「悠」


 藍が書類から顔を上げる。悠が嫌そうに会長席へ視線を向けた。


「何、姉さんまで」


「恋の成績を笑う必要はありません」


「姉さん、それ全然フォローになってないから」


「そうでしょうか」


「もういいです。勉強します」


 恋が割って入ると、こよみは待っていたように数学の問題集を正面へ寄せた。最初の付箋が貼られているのは二次関数だった。


 授業で見た覚えはある。先生が黒板へ式を書き、平方完成をして、頂点と軸を求めていたところまでは覚えている。


 けれど、自分の手で解こうとすると、その記憶は急に頼りなくなった。恋はシャープペンシルを握り、一行書いては消し、もう一度同じところへ式を書く。


「そこ、違う」


 横から悠の声が飛んできた。恋は手を止める。


「まだ一行目ですけど」


「だから分かるんだよ。最初から符号が逆」


 元の問題と自分の式を見比べる。確かに逆だった。


「……悠くん、数学できるんですね」


「当たり前だろ。僕をなんだと思ってるんだ」


「そこで得意そうにしないでください」


「これは得意そうにしていいところだろ」


「弟様」


「分かったよ!」


 悠は自分の椅子を少し引き、恋の机へ寄せた。別紙を一枚取り、恋が間違えた箇所だけを数行で書き直す。


「全部一気にやろうとするから崩れるんだよ。ここだけ先にまとめる」


「ここ?」


「そう。途中式を飛ばすと、どこで間違えたかも分からなくなる」


 説明は意外なほど短かった。こよみの解説は正確で隙がないが、悠は恋が次に間違えそうな場所を先に指す。


「悠くん、意外と教えるの上手いですね」


「意外は余計だろ」


「根に持ってます?」


「それ僕の台詞なんだけど」


「私語を減らしてください」


 二人とも同時に口を閉じた。こよみは何事もなかったように次の問題へ印をつける。


 そこから三十分ほど、恋はほとんど顔を上げず二次関数と格闘した。


 藍は会長席で別の仕事を続けながら、恋が詰まった時だけ短く補足した。普段なら落ち着くはずの紙をめくる音が、今日は妙に逃げ道を塞ぐ音に聞こえる。


 しばらくして、生徒会室の扉が開いた。不破廻は中へ入るなり、恋の机を見て足を止める。


 問題集と書き損じた紙が机を埋め、悠の椅子まで横へ寄っている。こよみは正面に立ち、恋はシャープペンシルを握ったまま問題用紙と睨み合っていた。


「今日は勉強会かい」


「強制参加ですけど」


「それは大変だ」


 廻は楽しそうに近づき、恋の途中式を横から覗き込んだ。恋は一瞬迷ったあと、空いている場所を指す。


「不破先輩、数学もできます?」


「まあ、それなりに」


「前世で数学者だったとか?」


「数学者ではないね。測量や錬金術で計算は使ったけれど」


「それなりの範囲が広い……」


 廻は笑いながら答案を眺め、間違っている箇所だけを指先で示した。書き直すでもなく、そこだけで恋が気づくのを待っている。


「ここだね」


「また符号……」


「符号は小さいけれど、敵に回すと厄介だよ。一人の伝令が違う方向へ走っただけで、戦線全体が崩れることもある」


「数学の話ですよね?」


「もちろん」


 分かるような、分からないような説明だった。それでも「符号に注意」だけより妙に頭へ残り、恋はもう一度式を書き直す。


 さらにしばらくして、鶴見秋臣も戻ってきた。書類を抱えて自席へ向かいかけたところで、恋の机を見て足を止める。


「試験対策ですか」


「はい……」


「進捗は」


「聞かないでください」


「芳しくないと」


「言い換えなくていいです」


 秋臣は特に気にした様子もなく、自席へ書類を置いた。それから恋の机へ寄り、数学の下に重ねられている問題集へ目を落とす。


「現代文も残っていますね」


「後でやります」


「必要なら見ますよ」


 恋は思わず顔を上げた。秋臣は開いた問題集へ手を伸ばしている。


「鶴見先輩、現代文もできるんですか?」


「できますけど」


「理系科目だけじゃないんですか」


「誰がそんなことを」


「私が勝手に思ってました。すみません」


「定期試験なら、本文の根拠を拾えば十分です。問われている条件に合う場所を探して、選択肢と照らす」


「そんな機械的でいいんですか」


「筆者の心を自由に想像する問題ではないでしょう」


「急に逃げ道がなくなりました」


「何の話ですか」


 答えられず、恋は視線を逸らした。秋臣は完全に理系側の人間だと思い込み、文系科目なら自分にも何かあるかもしれないと勝手に安心していたらしい。


 その逃げ道まで、今きれいに塞がれた。廻も説明は独特だが問題そのものは解けるし、藍とこよみは最初から比較対象にしたくない。


 恋はゆっくり室内を見回した。藍は会長席で仕事を続け、こよみは恋の答案を採点し、廻は湯呑みを片手に資料を読み、秋臣は現代文の問題集を開いている。


「……私だけですか?」


「何が?」


 悠が聞く。恋は問題集へ視線を落としたまま答える。


「今回の試験、危ないの」


「そうだね」


「即答しないでください」


「事実だろ」


「弟様」


「今のは笑ってないだろ!」


「でしたら問題ありません」


「基準そこなんだ……」


 恋は机へ突っ伏したくなるのを堪えた。少なくとも、この部屋にいる限り、逃げ道だけは本当にない。


「桜川さん」


 こよみが新しい紙を置く。恋は嫌な予感を抱えたまま顔を上げた。


「次は英語です」


「もう数学終わりですか?」


「本日の予定分は」


「よかった……」


「明日は増やします」


「何でですか」


「正答率が想定より低かったためです」


「それは言わなくていいです」


 悠が吹き出しかけた。こよみの視線が向くより早く、真顔へ戻る。


「笑ってないよ」


「まだ何も申しておりません」


「その目で分かるんだよ」


 恋は英語の問題集を開いた。そこから先も、勉強会は終わらなかった。


 英語ではこよみが文法を整理し、藍が時折、教科書だけでは分かりづらい表現の違いを補う。古典へ移れば廻が横から口を挟み、過去に使った言語と古語を途中で混同してこよみに訂正された。


 それでも文法そのものはほとんど外さない。恋は廻の説明を聞きながら、何度目か分からない「この人の前世はいくつあるのだろう」という疑問を飲み込んだ。


 読解問題では悠が教科書を数秒眺めただけで範囲を把握した。恋が質問するたび、該当ページを開くより先に答えが返ってくる。


「悠くん、それ反則じゃないですか」


「何が?」


「今読んだばかりですよね」


「読んだから覚えた」


「人間側ではそれを反則って言うんです」


「僕、人間じゃないけど」


「……そうでした」


 返す言葉がなくなったところで、こよみから次の問題を渡された。気づけば恋の周囲だけ、小さな授業スペースのようになっている。


 現代文へ移る頃には、机の端に飲み物が一本置かれていた。顔を上げると、秋臣が自席へ戻りながら一言だけ残す。


「差し入れです」


「ありがとうございます」


「礼は点数で」


「……重いです」


「せめて平均点は越えてください」


「さらに重くなりました」


 秋臣は振り返らなかった。恋はペットボトルの蓋を開け、一口飲む。


 時計を見ると、始めてから二時間近く経っていた。窓の外はもう暗く、向かいの校舎も窓明かりだけが点々と浮いている。


 生徒会室の照明がガラスへ映り込み、机に積み上がった問題用紙と、疲れ切った自分の顔まで薄く返していた。右手にはシャープペンシルの跡が残り、中指の脇が少し痛い。


 それでも、最初に見せられた模試の数字を思い出すと、ここで終わりたいとは言いづらかった。止めても困るのは結局自分だと、もう分かっている。


 いつの間にか、悠の復旧作業も終盤へ入っていたらしい。机を這っていたケーブルの一部は片づけられ、悠自身もまた恋の横へ戻っている。


 今は復旧用の端末ではなく、恋の英語答案を覗き込んでいた。数秒見ただけで、すぐ一箇所を指す。


「ここ、時制違う」


「またですか」


「三問目と同じ」


「覚えてます」


「覚えてて間違える方が問題じゃない?」


「悠くん」


「何」


「少し黙ってください」


「お前、僕への扱い雑になってない?」


「慣れてきたので」


「早くない?」


 悠が唇を尖らせる。その言い方が、数日前よりずっと近く聞こえた。


 初めて声を聞いた時、悠は端末の向こうにいた。次に会った時には、自分を藍との間へ入り込んだ邪魔な人間として見ていた。


 今は同じ机を覗き込み、時制の間違いを指摘して、言い返されれば不満そうな顔をしている。そこまで考えたところで、恋は手を止めかけ、すぐ答案へ視線を戻した。


「弟様」


 こよみが悠へ声をかける。悠は椅子の背から身体を起こした。


「何」


「復旧作業と削除作業の最終確認が終了しました」


「問題は?」


「現時点では確認されていません」


「じゃあ、半分くらい終わった?」


「再発防止策の確認が残っています」


「まだあるかあ」


「また、桜川さんへの指導を途中で放棄しないでください」


「それ、僕の責任じゃないだろ」


「現在は協力を依頼しています」


「依頼の顔じゃないよね」


「弟様」


「分かったって」


 悠は諦めたように座り直した。恋は英語の問題集から顔を上げ、こよみの端末へ目を向ける。


 最終確認が終わったと聞いた途端、今さらになって聞きたいことが浮かんだ。確認しなければならないと分かっていたのに、答えを聞くのが少し怖くて後回しにしていたのかもしれない。


「私の情報、本当に全部消えたんですよね」


「はい。弟様が申告した取得情報と、その複製の削除を確認しました」


「外に残ってるものも?」


「藍様による確認でも、残存は検出されていません。認証情報も更新済みです」


「……そうですか」


 恋は小さく息を吐いた。ずっと肩に力を入れていたつもりはなかったのに、背もたれへ身体を預けると、思った以上に沈む。


 返ってくる端末を、ようやく自分のものとして持てそうだった。その感覚が戻ってきたことの方が、数字や記録より恋には大きかった。


 横から悠がこちらを見る。少しだけ間を置いて、視線を外さないまま口を開く。


「悪かったよ」


「前にも聞きました」


「じゃあ、もう言わない」


「それはそれで早いですね」


「どうしろっていうんだよ」


「もうしないなら、それでいいです」


 恋がそう返すと、悠は一度だけ目を細めた。何か言い返すのかと思ったが、今回はそのまま視線を逸らす。


 会長席では藍が週末の予定を確認していた。端末へ一度目を落としてから、恋の方を見る。


「今日の進捗なら、週末の同行に問題はありません」


「本当ですか?」


「はい。ただし、明日以降も継続してください」


「ですよね」


「移動で学習時間が減る分は、先に補っておくことを推奨します」


「そこまで管理されるんですか」


「必要ですので」


 恋は机へ視線を落とした。週末は幸三のところへ行き、悠について確認し、真由美とも合流する。その前に二次関数と英語の時制をどうにかしなければならない。


 少し前までなら、幸三との再会だけで頭の中が埋まっていたはずだった。今はその向こう側に中間試験まで待っている。妙に現実的で、だからこそ学校生活らしい問題だった。


「桜川さん」


 こよみが新しい紙を一枚差し出した。恋は受け取る前から嫌な予感がした。


「本日の最後です」


「まだあるんですか?」


「復習として一問だけです」


「一問……」


 紙には数学の応用問題が一つだけ載っていた。見覚えのある形式なのに、どこから手をつければいいのかはすぐには出てこない。


「これ解けたら終わり?」


 悠が横から覗き込む。問題用紙へ目を落とし、首を少し傾けた。


「はい」


 こよみが答えると、悠は問題を一度見ただけで小さく頷いた。考え込む様子はまるでなかった。


「じゃあ楽勝じゃん」


「悠くんは黙っててください」


「ヒントいる?」


「いりません」


「三分後には欲しくなると思う」


「なりません」


 恋はシャープペンシルを握り直した。正面ではこよみが待ち、少し離れたところでは秋臣が資料を読みながら時折こちらを見る。廻は湯呑みを片手に椅子へ深く腰掛け、藍は会長席でいつも通り書類を処理していた。


 そして隣では、悠が明らかに答えを知っている顔で問題用紙を覗き込んでいる。恋は一行書いて消し、もう一度問題を読み、途中まで進めてまた止まった。


 時計の秒針が二周する頃には、最初にあった意地もかなり薄くなっていた。恋は問題用紙を睨んだまま、小さく息を吐く。


「……悠くん」


「何?」


「……参りました。ヒントください」


 悠の口元が持ち上がった。その瞬間、こよみの青い瞳が横から向く。


「笑ってないよ」


「まだ何も申しておりません」


「だから、その目が怖いんだって」


 悠は慌てて口元を戻し、問題用紙へ指を伸ばした。恋が書いた途中式をなぞり、途中で一度止める。


「ここまでは合ってる。次にこれをそのまま展開しないで、先にこっちを見る」


 説明を聞きながら、恋はもう一度シャープペンシルを動かした。窓の外はすっかり暗く、生徒会室には紙をめくる音とペン先が擦れる音が続いている。


 その中に悠の声が混じることにも、いつの間にか違和感がなくなりつつあった。週末までに片づけるものは、悠が残した後始末だけではない。


 けれど今は、その悠本人が隣に座り、恋の答案を指で示している。恋は教えられた通りに式を書き直し、今度は消しゴムへ手を伸ばさず、その続きを書いた。

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