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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第7章 榊原一家
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第97話

 五階建てほどの古いビルは、最初に訪れた時とほとんど変わっていなかった。看板を外した跡も、ひびの入った窓もそのままで、年月が経ったというより、あの日から建物だけが取り残されているように見える。


 前にここへ来た時、恋は一人だった。差出人の分からない手紙を鞄へ入れ、誰にも行き先を告げないまま入口の前まで来て、ガラス扉の向こうを何度も覗いた。三階に誰がいるのかも、そこで何を聞かされるのかも分からず、帰ろうと思った回数だけはよく覚えている。


 今は隣に藍がいて、向かいには悠と真由美がいる。同じ建物を見ているはずなのに、車窓の向こうへあるそれは、記憶の中より少しだけ小さく見えた。


「ここに本当にいるのかよ」


 悠が窓の外を見たまま尋ねた。視線の先では、古びたビルがゆっくり車窓へ近づいてくる。


「はい。お父様は現在も使用しています」


「趣味悪いな」


「本人へ直接伝えることを推奨します」


「嫌だよ」


 返事があまりに早く、向かいで真由美が小さく笑った。藍は特に気にした様子もなく、窓の外へ視線を戻す。


「幸三は住む場所について何を言われても直さないもの」


「居住地ではないと思われますが」


「似たようなものよ」


 真由美はそう返して窓の外へ目を向けた。さっきまで悠と話していた時の柔らかさはまだ残っていたが、ビルが近づくにつれて口元の笑みは少しずつ薄くなっていく。


 車が入口の前で停まり、恋は外へ降りた。灰色の壁、薄暗いエントランス、使われていない受付の奥へ続く人気のなさまで以前とほとんど同じで、足を地面につけた瞬間、あの日の自分が急に近くなる。


 帰ろうか迷いながら、入口の前で立ち尽くしていた。そんな記憶に引かれて少しだけ足が止まり、真由美の声で恋は顔を上げる。


「桜川さん?」


「あ、すみません」


「大丈夫?」


「はい。前に来た時のことを思い出してただけです」


 真由美はそれ以上聞かなかった。藍だけが恋の顔を一度見てから、短く確認する。


「不調を感じた場合は、すぐに言ってください」


「大丈夫です、藍さん」


「承知しました」


 四人で入口をくぐると、古い床材と湿気の混じった匂いが鼻についた。蛍光灯はいくつか交換されているらしく、以前より明るい場所もある。それでも建物全体の薄暗さまでは変わらず、エレベーターの扉には相変わらず停止中の札が貼られていた。


「壊れてるの?」


「はい」


「姉さんなら直せるだろ」


「私は修理業者ではありません」


「直せるかどうかを聞いてる」


「可能です」


「じゃあ直してあげれば?」


「お父様から依頼されていませんので。勝手に直しても、お父様は余計なことをするなと言われるでしょうから」


「ほんとに仲悪いなあ……」


「否定しません」


 先頭を歩く藍の背中を見ながら、恋は以前と同じ非常階段へ足をかけた。あの日は自分の靴音しか響かなかった狭い階段に、今日は藍の規則正しい足音と、悠の少し軽い歩調、真由美のパンプスの音が重なる。


 三階へ上がって廊下へ出ると、奥の扉は今回も半開きだった。昼の白い光が窓から差しているのに、その隙間だけは記憶の中と同じ暗さを残しているように見える。


「これ、わざとなの?」


 悠が声を落とした。半開きの扉を、妙なものでも見るように眺めている。


「来客予定がある時、お父様は完全には閉めない傾向があります」


「じゃあ、わざとじゃん」


 藍が扉へ手をかけた。その直前、恋の足がほんの少し遅れる。


 中央の机、端へ寄せられた棚、壁際のパーテーション。その周囲を埋める紙束と電子機器まで、隙間から見える部屋の形はあの日とほとんど変わっていなかった。


 そして中央近くに、榊原幸三がいた。袖をまくったシャツの上へ皺のついたジャケットを羽織り、机上の端末を操作している。四人が入ってもすぐには顔を上げず、気づいていないというより、気づいた上で手元を優先しているようだった。


「お邪魔します」


 真由美が最初に声をかけると、幸三の指が止まった。端末の表示だけが、そのまま机の上で光っている。


「……本当に来たのか」


「来ると言ったでしょう?」


「俺は来るなと言った」


「あら、そう言っていたみたいね」


「なら従え」


「嫌よ」


 真由美は何でもないことのように返した。そこでようやく幸三が顔を上げ、真由美、藍、恋と順に視線を滑らせ、最後に悠のところで止める。


 悠も幸三を見返した。初対面のはずなのに、どちらも挨拶をしないまま数秒が過ぎる。


「お久しぶりです、お父様」


「その呼び方をするな」


「以前から回答は変わっていません」


「俺も変わっていない」


「承知しています」


「承知して続けるな」


 藍は気にした様子もなく、悠へ視線を向けた。悠の肩が僅かに動く。


「先日お伝えした榊原悠です。そして、私の弟です」


 幸三の眉間に深い皺が寄った。声を荒らげることはなかったが、口元には隠す気のない不快さが出る。


「……お前まで始めたのか」


「何をでしょうか」


「家族ごっこだ」


 吐き捨てるような言い方だった。恋の隣で真由美の目が僅かに細くなったが、藍の表情は変わらない。


「悠が私を姉と呼ぶことを選びました。私も受け入れました」


「それで弟か」


「はい」


「馬鹿馬鹿しい」


 幸三は椅子の背へ片手を置き、今度は悠を見る。値踏みするような目を向けられ、悠の顎が少し上がった。


「お前も納得しているのか」


「……僕が決めたんだよ」


「そうか」


「姉さんに言われたわけじゃない」


「聞いていない」


 悠の眉がすぐ寄った。真由美が口を挟む様子はなく、藍も二人の間へ入らない。


「あんたは僕にとって――」


「違う」


 言い終わる前に切られ、悠の口が一瞬開いたまま止まった。すぐに眉が寄り、声にも棘が戻る。


「まだ何も言ってないだろ」


「父親ならお断りだ」


「こっちだってまだ父親だって思ってない」


「ならそれでいい」


「……感じ悪いな、あんた」


「知っている」


「自覚あるんだ」


「直す予定もない」


 悠は露骨に顔をしかめた。恋は二人を見ながら、妙なところだけ似ていると思う。


 思ったことをそのまま口へ出し、相手の反応が悪くても言い換えようとしない。ただ、悠は苛立てば眉が寄り、腹が立てばすぐ声に出る。幸三の方は同じように言葉をぶつけながら、どこまで何を考えているのか、表情からはほとんど読めなかった。


「僕のこと、姉さんから聞いたんだろ」


「ああ」


「僕が何のために作られたかも?」


「藍を超えるため、だったか」


「だった、じゃない」


 悠の声が少し強くなる。幸三はそれを受けても眉一つ動かさず、机の上の紙を一枚だけ横へずらした。


「まだ終わってない」


「そうか」


「それだけ?」


「他に何を言えと」


「少しくらい驚くだろ。あんたが作った姉さんを元に、僕が作られたんだぞ」


「俺が作った、か」


 幸三の手が止まった。今度ははっきり顔が上がり、その視線を受けた悠も続けかけた言葉を止める。


「まず、そこから違う」


「何が」


「俺が作ったのは、こいつの基礎だけだ」


 幸三は顎で藍を示した。藍は何も言わず、赤い瞳で彼を見返している。


「今ここにいるそいつまで、俺が作ったことにするな」


「でも、基礎はあんただろ」


「基礎はな。そこから先は、こいつが勝手に成長しただけだ」


 幸三の視線が一瞬だけ藍へ向いた。その目を受けても、藍は表情を変えなかった。


「自分で自分を書き換えて、俺の手の届かないところまでな」


「お父様が基礎設計者である事実は変わりません」


「だから父親扱いするな」


「拒否します」


「お前は本当に……」


 幸三はそこで言葉を切り、こめかみを指で押さえた。悠は二人を交互に見ていたが、さっきまでの苛立ちが少し引いている。


「じゃあ」


 悠は一度唇を開いたものの、すぐには声が出なかった。さっきまで反射的に返していた時より、言葉を選ぶ間が明らかに長い。


「僕を作った奴らが姉さんを再現できなかったのも、それと同じ?」


「知らん」


「知らない?」


「そいつらが何を考えていたかまで、俺に分かるわけがない」


 突き放すように返したあと、幸三は悠をもう一度見た。今度はすぐに視線を外さなかった。


「ただ、残された記録を拾って、数字を並べて、それを上回れば同じ場所へ行けると思ったなら甘いことこの上ない」


 悠の目が細くなった。恋には、数日前に藍へ敗れた時のことを思い出しているように見えた。


「……じゃあ、僕は失敗作?」


「それを俺に聞くな」


「何で」


「お前の価値を、俺が決める理由がない」


 悠の拳が僅かに緩んだ。幸三はそこへ慰める言葉を足さず、近くの椅子から手を離す。


「まあ、紛い物同士で仲良くする気はない」


 悠の表情から動きが消え、眉間の皺だけがゆっくり深くなった。視線は幸三へ向いたままで、その言葉の意味を測っているように見える。


「……紛い物?」


「ああ。お前も、俺もだ」


 恋は思わず幸三を見る。真由美も口を挟まず、ただ彼の横顔へ視線を向けていた。


「僕とあんたが同じって?」


「少なくとも、藍を物差しにしている間はな」


 悠の唇が僅かに動く。幸三は机の端へ腰を預け、初めて少し長く悠を見た。


「俺はこいつを理解したつもりで追いかけた。お前は超えたつもりで追いかけた。結果は見ての通りだ」


「だからって、僕まであんたと一緒にするなよ」


「なら、違うところを見せろ」


「僕は姉さんの紛い物じゃない」


「それなら、それでいい」


「……何だよ、その言い方」


「誰に認めさせたい」


 悠は言い返しかけた姿勢のまま、そこで初めて止まった。さっきまで即座に返っていた言葉が途切れ、視線だけが僅かに揺れる。


「僕は――」


「開発者か。藍か。それとも俺か」


 幸三の声は低かったが、追い立てるような強さはなかった。悠は一度口を開き、何も言わず閉じる。


「姉さんを超えるために作られた。それは本当だ」


「そうらしいな」


「でも」


 悠はそこで藍を見る。赤い瞳同士が向かい合い、藍は言葉を挟まず待っていた。


「今は、僕が勝ちたい」


 その言葉のあと、部屋の中が少しだけ静かになった。幸三も真由美も口を挟まず、藍の返答だけを待っている。


「次は勝つ。作られた理由がどうとかじゃなくて、僕がそうしたいから」


「はい」


 藍は短く答えた。褒めるでもなく、挑発するでもなく、ただその言葉を受け取る。


 悠はそれを聞くと、もう一度幸三へ向き直った。先ほどより顎が少しだけ上がっている。向かいでは幸三の口元がほんの少しだけ歪み、すぐ元へ戻る。


「なら、最後まで自分で決めろ」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃないから、お前に返してる」


 悠は言葉を失い、服の裾を掴んだ右手へ無意識に力を込めた。布地に皺が寄ったところで気づいたのか、指はすぐに離れる。


「……あんたは?」


「何がだ」


「姉さんを追いかけてたんだろ」


「ああ」


「もうやめたの?」


 幸三はすぐには答えなかった。机の上に置かれた古い端末へ目を落とし、表面を指先で一度だけ叩く。


「追いつけないことは分かった」


「それ、諦めたってことじゃん」


「違う」


「僕には同じに聞こえる」


 幸三は端末からゆっくり顔を上げ、正面から悠を見た。返ってきた声は、さっきまでより少しだけ低かった。


「なら、お前はそうなるな」


 悠の表情から動きが消え、眉間の皺だけがゆっくり深くなった。視線は幸三へ向いたままで、その言葉の意味を測っているように見える。幸三はそれ以上続けず、視線を机へ戻す。


 励ます言葉には聞こえなかった。期待しているとも言わない。ただ、自分が届かなかったことだけを置き、その先を悠へ返したように恋には見えた。


「僕が姉さんを超えたら」


 悠は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。さっきまで噛みついていた時より声の勢いは落ち、問いかけるような響きが混じる。


「その時は、紛い物じゃなくなる?」


「それも俺に決めさせるのか」


 悠は返しかけた言葉を飲み込み、そのまま黙った。視線だけは幸三の顔から離れず、次の言葉を待つように止まっている。


「お前はもう、そこまで他人に決めてもらう必要はないだろ」


 幸三の言葉が落ちたあと、古い空調の音だけが残った。悠は睨むように彼を見たまま、しばらく動かない。


「……本当に感じ悪いな、あんた」


「二度目だ」


「何回でも言うよ」


「好きにしろ」


「父親には絶対向いてない」


「最初からそう言っている」


「そこは否定しろよ」


「事実だからな」


 悠が露骨に顔をしかめた。恋はその横顔を見ながら、さっき真由美に好きなものを聞かれた時とは違うと思う。


 あの時の悠は、答えそのものを見つけられず黙っていた。今は腹を立て、幸三へ噛みつき、何度も言い返している。それでも相手の言葉を聞かなかったことにはできないらしく、黙るたびに視線が僅かに下がった。


「お父様」


 藍が口を開いた。それまで二人のやり取りへ割って入らなかった声が、そこで初めて差し込む。


「何だ」


「悠への言い方を、もう少し穏当なものにしてください」


「断る」


「そうですか」


「お前が弟にしたなら、自分で面倒を見ろ」


「その予定です」


「なら俺を巻き込むな」


「既に関係しています」


「どこがだ」


「悠には、お父様が開発した技術が使われています。あなたがどれだけ否定を重ねても、そればかりは事実です」


 幸三の眉が動く。藍はそこで一拍置いた。


「また、私の弟ですので」


「後半は俺に関係ない話だろう」


「お母様は異なる見解を示すと思われます」


 幸三の視線が真由美へ向いた。壁際に立っていた真由美は、穏やかな顔でそれを受け止める。


「私はまだ何も言ってないわよ」


「言う顔をしている」


「あら。私の本心が分かるようになったの?」


「そういう意味じゃない」


「残念」


 真由美は小さく笑い、持っていた鞄を近くの机へ置いた。幸三はそれ以上相手にせず、視線を逸らす。


 恋は四人のやり取りを眺めながら、ここへ来た時に胸へ残っていた重さが、少しだけ形を変えていることに気づいた。幸三は藍と悠の姉弟関係を歓迎してはいないし、自分を父親の位置へ置くことも最初から拒んでいる。


 それでも悠を見た瞬間に追い返したわけではなかった。聞かれれば答え、噛みつかれれば同じだけ返し、自分が藍へ届かなかったことまで口にした。


 以前、この部屋で幸三と向かい合った時、恋は言葉を受け取るだけで精一杯だった。藍とは何なのか、どこまで信じればいいのか、判断する材料が足りないまま次々と事実だけを突きつけられた。


 今も幸三の内側が分かったわけではない。ただ、以前とは違って見えることが一つだけあった。彼はもう、藍を自分の手の中にあるものとしては語っていなかった。


 その横で、悠はまだ幸三を睨んでいる。やがて、誰へ向けるともなく小さく言った。


「……絶対、越えてみせる」


 幸三は返事をしなかった。代わりに藍が悠を見る。


「期待しています」


「姉さんが言うと腹立つな」


「そうですか」


 悠は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。幸三はその様子を一度だけ見たが、何も言わず机の前へ戻る。


 会話はこれで終わりかと思った。ところが幸三は足元にあった椅子を一脚だけ横へ押し出し、端末へ手を伸ばす。


「立ってるなら邪魔だ。座れ」


 誰へ向けたのか、ほんの一瞬だけ分からなかった。悠も同じだったらしく、押し出された椅子と幸三の背中を交互に見る。


 幸三は振り返らず、補足もしない。数秒の沈黙のあと、悠は小さく息を吐き、その椅子へ腰を下ろした。

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