第98話
幸三が足先で押し出した椅子へ悠が腰を下ろしてから、しばらく誰も次の話題を選ばなかった。古い端末の白い画面だけが机を照らし、壁際の紙束が空調の弱い風に合わせてかすかに揺れている。
恋は以前にも、この机を挟んで幸三と向かい合ったことがある。あの時は一枚資料をめくるたび、藍について知っていたものが少しずつ崩れていった。今は藍を娘と呼ばない男と、その男を父と呼び続ける藍、さらに数日前に藍を姉と選んだ悠まで同じ部屋にいる。
誰が誰を何と呼ぶのか。それだけのことなのに、簡単には決まらないものが机の上へ残っているように恋には見えた。
その沈黙に、真由美だけは長く付き合わなかった。空気を切り替えるように、机から少し身を離す。
「ところで幸三」
「何だ」
「台所、まだ使える?」
幸三が顔を上げ、悠もつられて振り返った。恋だけは、質問の意味が分かるまで少し遅れた。
「……台所?」
「ああ。水とガスは生きてる」
「冷蔵庫は?」
「知らん」
「自分で使ってるんでしょう?」
「飲み物しか入れてない」
「でしょうね」
真由美は小さく息を吐くと、床へ置いていた大きめのバッグを持ち上げた。幸三の眉間に、嫌な予感でもしたような皺が寄る。
「何をする気だ」
「お昼ご飯」
「余計なことをするな」
「お腹、空いてないの?」
「関係ない」
「じゃあ、あなたの分はいらないのね」
「勝手にしろ」
「分かったわ」
あまりに素直に引かれたせいか、幸三の眉間の皺がむしろ深くなった。真由美はそれを気にせず、今度は藍へ顔を向ける。
「藍、手伝ってくれる?」
「はい、お母様」
藍はすぐ立ち上がり、真由美のバッグを半分持った。古い間仕切りの奥には、前に来た時には気づかなかった小さな給湯室があり、そのさらに奥に流し台と二口のコンロが備えられている。
「桜川さんも来る?」
「はい」
恋は一歩踏み出したところで、ふと後ろを振り返った。会議室には幸三と悠だけが残ることになる。
ついさっきまで互いを紛い物だ何だと言い合っていた二人だ。そのまま残して大丈夫なのかという考えが顔に出たらしく、藍が先に恋を見る。
「問題ありません」
「……藍さんがそう言うなら」
恋が給湯室へ向かうと、背後から悠の声が飛んできた。振り返れば、悠が椅子から半分腰を浮かせている。
「僕は?」
「座っていて」
「何で僕だけ」
「料理したことある?」
「データならあるよ」
「包丁は?」
そこで悠の返事が止まった。真由美は振り返りもせず、少し笑う。
「じゃあ今日は見学ね」
「姉さんはできるの?」
「実行経験があります」
「ずるい」
「経験の有無は不公平とは関係ありません」
「そういう話じゃないよ」
悠の声を背中で聞きながら給湯室へ入ると、真由美はすでに袖を軽くまくり、蛇口をひねっていた。人気のない古いビルの片隅で、国民的女優が水の出方を確かめ、備え付けのスポンジを裏返している。その光景は少し不思議なのに、本人だけはごく普通の台所に立っている顔をしていた。
「思ったより綺麗ね」
「定期清掃は入っています」
藍が答え、流し台の端へ置かれた洗剤を確認する。真由美は蛇口から出る水を一度止めた。
「お父様自身によるものではありませんが」
「でしょうね」
真由美は持参した布巾を広げ、バッグから食材を取り出していった。野菜、肉、卵、調味料に、下処理を済ませたらしい容器まで並び始める。
「かなり持ってきたんですね」
「ここで全部やると時間がかかるから、少し仕込んできたの」
「真由美さんが?」
「ええ。料理くらいするわよ」
「いえ、そういう意味では……」
「分かってる」
真由美は笑いながら包丁を取った。その手つきに迷いはなく、野菜を一定の速さで切っていく。
「家を空けることが多いと、帰った時くらい何かしたくなるのよ。一人の時は、かなり適当だけど」
最後だけ軽く流し、切った野菜を藍へ渡す。藍は指示を待たずに包丁を入れ始めたが、真由美より明らかに速く、切り分けた幅まで揃いすぎていた。
「藍」
「はい」
「料理作るの、上手くなったわね」
「そうでしょうか」
「上手くなったというか、均一さが減ったというか」
「以前、同輩に指摘されまして。それ以来、計量や規格には意図的な誤差を含ませるようにしています」
恋は思わず口元を緩めた。真由美がすぐこちらを見る。
「桜川さん、笑った?」
「ちょっとだけ」
「いいのよ。私も今ちょっとおかしかったから」
藍だけが、なぜ笑われたのか分からないように首を傾げた。恋はそれを見てまた笑いそうになり、今度は皿を取り出す方へ意識を向けた。
その後は恋も調味料を渡し、盛り付け用の皿を並べ、二人の横で手伝った。作っているのは肉と野菜の炒め物、卵料理、簡単なスープで、特別に凝ったものではない。
火が入り始めると、狭い給湯室から醤油と油の匂いが少しずつ外へ流れていった。恋の記憶の中で、この建物に食べ物の匂いが結びついたことは一度もない。
前に来た時に残ったのは、古い紙と埃、それに電子機器の熱が混ざった乾いた匂いだった。同じ建物のはずなのに、湯気が立つだけで記憶の輪郭まで少しずつ変わっていく。
「お母様」
鍋の中を確認していた藍が言った。真由美の前には、盛り付け用の皿が五枚並んでいる。
「お父様の分は作らないのではありませんでしたか」
「そうだったわね」
「五枚あります」
「一枚余っただけよ」
「意図的に五枚用意したように見えます」
「気のせいじゃない?」
「お母様」
「食べなかったら悠に食べてもらうわ」
すると、会議室の方からすぐ声が飛んできた。どうやら給湯室の会話は筒抜けらしい。
「僕そんなに食べないけど」
「聞こえてたの?」
「聞こえるよ」
「じゃあ幸三が食べればちょうどいいわね」
「食わん」
間髪入れず返ってきた。真由美は言い返さず、五枚目の皿にも他と同じ量を盛りつける。恋はその手元を見たが、何も言わなかった。
料理が出来上がり、会議室へ運んだところで別の問題が見つかった。食卓にできそうな机がない。
ここは生活のための部屋ではなく、長机の上には端末や紙束、古い部品やファイルが積まれている。真由美は料理を持ったまま室内を見回し、迷いなく中央の机を指した。
「幸三、ここ使うわよ」
「資料がある」
「どかして」
「嫌だ」
「じゃあ私が――」
「触るな」
幸三はすぐ椅子から立ち上がった。さっきまで何を言われてもほとんど動かなかった男が、真由美の手が資料へ伸びた途端に反応する。
「分かった。俺がやる」
「最初からそう言えばいいのに」
「誰のせいだ」
幸三は低くぼやきながら紙束をまとめ、端末を別の机へ移した。古いファイルまで床の箱へ押し込んでいく様子を、悠は椅子に座ったまま眺めている。
「本当に片づけるんだ」
「黙れ、資料を汚されたくないだけだ」
「ふうん」
「何だ」
「別に」
悠はそれ以上追及せず、恋も空いた部分を布巾で拭いた。少し前まで藍の設計記録や古い資料が置かれていた机へ、今度は白い皿が一枚ずつ並んでいく。
五人分が揃う頃には、そこだけはどうにか食事のできる場所に見えた。真由美が端へ座り、その隣に藍、向かい側には恋と悠が腰を下ろす。
幸三の椅子だけ少し離れていたが、真由美は何も言わず同じ机へ寄せた。幸三の眉が寄る。
「俺は食わんと言った」
「聞いたわ」
「なら用意するな」
「余っただけよ」
「余るわけがないだろ」
「そうね」
真由美は涼しい顔で箸を配った。悠の口元が上がりかけたが、藍が見た瞬間に止まる。
「悠」
「まだ何も言ってないだろ」
「念のためです」
「姉さん、最近僕にだけ厳しくない?」
「必要性が高いためです」
「またそれ」
悠は不満そうにしながら席へ座り直した。藍と真由美も箸を取り、最後まで立ったままなのは幸三だけになる。
「幸三」
「何だ」
「冷めるわよ」
「知らん」
「そう」
真由美はそれ以上誘わなかった。恋も何か言うべきか迷ったが、結局手を合わせる。
「いただきます」
悠は周囲を見て少し遅れて箸を取り、藍と真由美も続いた。幸三の皿も椅子もそのまま残され、誰も片づけようとはしない。
最初の数分は妙に静かだった。皿へ箸が触れる音と、スープを飲む気配、古い空調の低い唸りだけが部屋へ続いている。
恋は味が分からなくなるほど緊張してはいなかった。ただ、この場所で何を話せば自然なのかだけはさっぱり分からない。
「おいしいです」
結局、口から出たのは当たり障りのない言葉だった。真由美がすぐ笑う。
「ありがとう。藍は?」
「おいしいです」
「あら、今日は分かりやすいわね」
「前回の指摘を反映しました」
「そういうところも藍ね」
悠も炒め物を一口食べ、少しだけ間を置いた。もう一口食べてから、視線を皿へ落としたまま呟く。
「……うまい」
「よかった」
「別に、大げさに喜ばなくていいけど」
「今ので十分よ」
悠の箸が一瞬止まった。真由美は何も重ねず、自分の食事へ戻る。
その頃になって、幸三が机の端へ置かれた皿を見た。何秒か立ったまま眺めたあと、無言で椅子を引く。
恋は思わずそちらへ顔を向けた。幸三と目が合う。
「何だ」
「い、いえ」
「冷めると不味くなる」
「そうですか」
どう考えても、座って食べる理由にはなっていなかった。恋は指摘せず、真由美も聞こえなかったような顔で自分の皿を見ている。
幸三は椅子へ座り、箸を取った。それだけで、ようやく五人全員が同じ机を囲んだ。
恋はその光景を眺め、箸を持つ指から少しだけ力を抜いた。誰かが家族だと宣言したわけでも、幸三が何かを受け入れたわけでもない。ただ食べるために同じ場所へ座った。それだけだった。
「これで満足か」
しばらくして、幸三が言った。真由美が顔を上げる。
「何が?」
「この茶番だ」
幸三は箸を置いた。恋の手が止まり、隣の悠も顔を上げる。
「母親役に、娘役に、弟役。俺まで並べて家族ごっこか」
藍はすぐには答えず、口の中のものを飲み込んでから幸三を見る。真由美の箸も止まっていた。
「最初から言っているが、俺は藍を娘とは認めない。そっちのも息子じゃない」
幸三は悠を一度見て、それから真由美へ視線を戻した。その動きに、悠の肩がわずかに固くなる。
「お前だって分かってるだろ。母親を演じてるだけだ」
部屋から食事の音が消えた。真由美の顔から笑みが完全に消えたわけではないが、その奥に別の静けさが重なる。
「ええ」
返事は短かった。恋は思わず真由美を見る。
「否定しないわ」
藍も箸を置いた。真由美は視線を下げず、そのまま幸三を見る。
「母親ならどうするだろうって考えて、藍に会ったことはあるわ。母親なら何て言うか考えたこともある」
「なら――」
「でも、それでいいの」
幸三の言葉が止まった。真由美の声は大きくないのに、机の向こうまでまっすぐ届く。
「私は女優よ。母親らしく振る舞おうとすれば、完璧に振る舞えるでしょうね。どこまでが役で、どこからが私か、自分でも分からない時だってあるわ」
真由美はそこで藍へ視線を向けた。触れようとはせず、同じ机の隣から顔を見るだけだった。
「でも、藍を娘だと思いたいのは嘘じゃない」
藍の赤い瞳が真由美を見返す。真由美はそれ以上飾らず、視線を幸三へ戻した。
「嘘をついてまで母親をするつもりはないわ」
「嘘でなければ真実か」
「私はそう思ってる」
「都合がいいな」
「そうかもしれないわね」
「拒絶されたらどうする」
「やめるわ」
真由美は迷わなかった。その答えに、藍がほんの僅かに瞬きをする。
「私が娘だと思うのは自由。でも、藍に私を母親だと思わせることまではできないもの」
そう言って、今度は悠へ顔を向けた。悠は箸を置いたまま、真由美を見返している。
「悠も同じよ」
「僕?」
「藍の弟になったからって、私まで自動的に母親になるわけじゃないでしょう?」
「……分かんない」
「なら、今はそれでいいんじゃない?」
「適当だな」
「家族の呼び方に締切なんてないでしょう」
悠はしばらく皿を見たまま黙っていた。やがて箸を取り直し、何事もなかったように残っていた料理を口へ運ぶ。
幸三はそのやり取りを聞きながら、ほとんど料理に手をつけていなかった。しばらくして低い声が落ちる。
「好きにすればいい」
「そうね」
「藍がお前を母親と呼ぼうが、こいつがお前を何と呼ぼうが俺には関係ない」
「ええ」
「だが、俺まで巻き込むな。俺は家族じゃない」
「その認識で問題ありません」
藍が静かに答えた。幸三の眉が寄る。
「お前が勝手に父親と呼んでるだけだ。全くもってくだらない」
「問題あるだろ」
横から飛んできた声に、恋は悠を見る。幸三も僅かに眉を上げた。
「何だ」
「今の」
「事実だ」
「違う」
悠は箸を置き、幸三へ身体を向けた。声はまだ大きくないが、眉間にはさっきまでよりはっきり皺が寄っている。
「姉さんが自分で、あんたを父親だって決めたんだろ」
「同じことだ」
「同じじゃない」
「俺が拒否している以上、関係は成立していない」
「だからって、姉さんが決めたことまで無かったことにするなよ」
恋は息を詰めた。悠は藍の方を見ず、そのまま幸三へ言葉を続ける。
「姉さんは、あんたに父親になれって命令してるわけじゃない」
「呼び方をやめろと言っても聞かんがな」
「それとは別だろ」
「何が違う」
「姉さんがあんたを父親だと思うのは、姉さんが決めることだ」
幸三が黙った。悠は一度息を吸い、言葉を探すように僅かな間を置く。
「あんたが受け入れないのも、あんたが決めればいい。でも、姉さんが選んだことまで家族ごっこって言うのは違う」
「悠」
藍が静かに名前を呼んだ。悠は振り返らない。
「姉さんは黙ってて」
恋は思わず目を見開き、藍も僅かに瞬きをした。けれど悠はそのまま幸三を睨んでいる。
「僕だって、自分で姉さんを姉さんって呼ぶって決めた。姉さんはそれを受け入れた。真由美だって、僕に母親って呼べなんて言ってない」
一度言葉を切ってから、悠はさらに続けた。さっきまでより声は低くなったが、その分だけ言葉がはっきりしている。
「あんたが姉さんを娘だと思わないなら、それは好きにすればいい。でも、姉さんの方まで馬鹿にするなよ」
幸三はしばらく悠を見ていた。怒鳴り返すことも、鼻で笑うこともなく、ただ数秒だけ視線を向ける。
「……似たようなことを言うようになったな」
「誰に」
「知らん」
「姉さんなら別にいいけど」
「俺じゃない」
「それならもっといい」
幸三の眉間に皺が寄り、真由美が口元へ手を添えた。幸三の視線がすぐそちらへ向く。
「何を笑ってる」
「いいえ」
「笑っただろ」
「気のせいじゃない?」
「お前は昔からそれで通すな」
「通るからでしょう?」
「通してない」
短いやり取りなのに、互いの次の言葉まで分かっているような噛み合い方だった。恋は二人を見比べる。
二人の間に何があったのか、恋はほとんど知らない。それでも、どこで相手が遮り、何を言えば嫌な顔をするかくらいは互いに知っている。家族という言葉を拒む幸三と、母親を演じることがあると認めた真由美の間にも、簡単には消えない時間だけは残っているように見えた。
「悠」
幸三が呼んだ。恋は一瞬、聞き間違えたかと思った。名前で呼ばれた悠自身も気づいたらしく、目が僅かに動く。
「何」
「後で端末を出せ」
「何で」
「製作者と思われるやつの情報を渡す」
「……僕の?」
「他に誰がいる」
「以前送っていただいたリストの中から最終候補を突き止めたということでしょうか」
「そいつが今も生きてるかすら知らんがな」
幸三は箸を置き、机の端にある古い端末へ目を向けた。悠もそちらへ視線を追う。
「俺が持ってる情報が正しいか、お前に残されている情報が正しいか、どっちも間違ってるかは知らん。勝手に検証しろ」
「……わざわざ調べたのか?」
「ああ。全く、余計な仕事ばかり増やしやがって」
「さっき、仲良くする気ないって言ってたよね」
「仲良くするためじゃない」
「じゃあ何」
「……黙って食え」
幸三は再び箸を取った。悠は少し口を開けたまま彼を見ていたが、今度は追及せず、自分の皿へ目を落とす。
「……分かった」
その声は、さっきまで幸三へ噛みついていた時より少し小さかった。恋は何も言わず、もう一度箸を取る。
食卓へ沈黙が戻った。ただ、五人が席へ着いたばかりの頃のような、触れればすぐ割れそうな静けさではなかった。
幸三は席を立たず、真由美の作った料理を少しずつ口へ運んでいる。真由美も、保守情報を渡すと言ったことには触れず、自分の皿へ箸を戻していた。
「悠」
今度は藍が呼んだ。悠が少し嫌そうに顔を向ける。
「何」
「先ほどは、ありがとうございました」
「何が」
「私の選択について発言したことです」
「……別に」
「私は弁護を必要としていませんでしたが」
「じゃあ礼言うなよ」
「必要性と感謝は別です」
「姉さん、本当にそういうところだよ」
悠はそっぽを向いた。耳のあたりがほんの僅かに赤く見え、恋は目を止めたが、何も言わずにおく。
真由美も同じものを見たのかもしれないが、口には出さなかった。代わりに卵料理を一口食べ、何事もなかったように藍へ顔を向ける。
「藍。これ、ちょっと味濃かった?」
「許容範囲です」
「それ、褒めてないでしょう」
「おいしいと評価しています」
「最初からそう言いなさい」
「はい」
真由美が笑い、今度は悠を見る。悠は面倒そうに箸を止めた。
「悠は?」
「さっき言っただろ」
「確認よ」
「……うまいよ」
「そう。よかった」
そこで会話が途切れるかと思ったところへ、幸三の声が飛んできた。恋は反射的に顔を上げる。
「お前は」
恋は箸を止めた。幸三の視線が自分へ向いている。
「え、私ですか」
「他に誰がいる」
「おいしいです」
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。恋は少し戸惑いながらも、もう一口料理を食べる。
それからしばらく、誰も「家族」という言葉を使わなかった。真由美も、藍も、悠も、幸三も、それぞれ自分の皿へ箸を伸ばしている。
恋はその合間に、目の前の机を見た。前にここへ来た時、ここに並んでいたのは藍の正体を示す資料ばかりだった。数字と設計記録が、人間だと思っていた相手をそうではないと証明するために積まれていた。
今、その同じ場所に料理が並んでいる。端へ寄せられた資料の隣には空になりかけた皿があり、古い端末のそばではスープから最後の湯気が上がっている。
数時間もすれば片づけられ、また元の資料机へ戻るのだろう。それでも、前に来た時にはなかった光景だった。
幸三は最後まで藍を娘とは呼ばないかもしれない。悠を息子と呼ぶことも、おそらくない。
真由美自身、母親らしく振る舞う中に演技が混ざることを否定しなかった。それでも藍は彼女を母と呼び、幸三を父と呼び、悠は自分で藍を姉と選んだ。
どこまでが本物で、どこからが役なのか。誰か一人が認めなければ成立しないものなのか、恋にはまだ答えを出せそうになかった。
「桜川」
隣から呼ばれ、恋は顔を上げた。悠が机の端を指している。
「それ取って」
「あ、はい」
指された調味料の小瓶を取り、悠へ渡す。その程度のやり取りには、もう迷いがなかった。
「どうぞ、悠くん」
「ありがと」
悠は当たり前のように受け取り、自分の皿へ少し振りかけた。真由美と藍が一瞬だけこちらを見たが、どちらも何も言わない。
幸三も悠の手元へ目を向け、すぐ自分の皿へ戻した。真由美がその横顔を見る。
「幸三」
「何だ」
「おかわりは?」
「いらん」
「本当に?」
「いらんと言ってる」
「分かったわ」
真由美はあっさり引いた。幸三は少しして、皿に残っていた最後の一口を食べる。
空になった皿へ悠の目が向き、口元がゆっくり上がった。何を言うか察して、恋は先に視線を落とした。
「全部食べてるじゃん」
「うるさい」
「家族ごっこの料理なのに?」
「悠」
藍の声がすぐ飛んだ。悠は肩を竦める。
「はいはい」
「返事は一度で十分です」
「はい」
素直に言い直した悠を見て、恋は俯いたまま息を吐いた。油断すると肩まで揺れそうだった。
この場を何と呼べばいいのかは、結局最後まで決められそうにない。窓から差し込む昼の光は、食べ終えた白い皿にも、端へ寄せられた古い資料にも、同じように落ちている。
幸三は娘とも息子とも呼ばず、自分が家族だと認めることもなかった。ただ五人の席が空かないまま、昼の光だけが少しずつ傾いていく。
恋は空になった皿を見てから、向かいにいる四人へもう一度目を向けた。今は、それ以上の名前をつけなくてもいいように思えた。




