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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第7章 榊原一家
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第93話

 再起動の兆候が出てから、およそ十分が過ぎた。最初に変化したのは、長椅子の端へ落ちていた右手だった。指先が一度だけ震え、しばらくして胸元がゆっくり上下し始める。閉じた瞼が薄く持ち上がるのとほとんど同時に、傍らに立っていたこよみの右手が大槌の柄へ伸びた。


「再起動を確認しました」


「こよみ、待機してください」


「承知しました、藍様」


 こよみは柄へ触れる寸前で手を止めた。それでも悠から目は逸らさず、長椅子との距離も詰めたままにしている。恋も席へ腰を下ろしたまま背筋を固くし、目覚めた少年の様子を窺った。


 悠は数度瞬きをして、白い天井を見上げた。ぼんやりしていたのはほんの数秒で、視線はすぐにこよみ、恋、藍の順へ移り、自分の手足にも落ちる。起き上がろうとして肩を浮かせたところで動きが鈍り、眉間に皺が寄った。


「駆動制限は維持しています」


 先回りするようにこよみが告げると、悠は彼女を睨んだ。けれど無理に身体を動かそうとはせず、長椅子の背へゆっくり体重を戻す。その顔には、渡り廊下で見せていた明るい笑みがひとかけらも残っていなかった。


 しばらく誰も口を開かなかった。時計の針が一つ進み、こよみの端末から短い確認音が鳴る。その静けさに耐えかねたように、悠の唇が動いた。


「……笑えよ」


 恋は思わず瞬きをした。藍は椅子に座ったまま、意味を取り違えないよう確かめるように悠を見る。


「何をでしょうか」


「僕のことだよ。分かるだろ」


「状況は理解しています」


「だったら笑えばいいだろ」


 悠は吐き捨てるように言い、長椅子の上で拳を握った。声には怒りが混じっているのに、視線は藍から外れない。


「姉さんを超えるために作られた。僕の方が新しい。僕の方が上だって、散々言ってさ」


 一度言葉を切ると、口元だけが歪んだ。笑おうとしたのかもしれないが、形にならないまま消える。


「それで、これだよ。偽物を見抜いたつもりで、その前から騙されてた。何が次世代機だよ」


 最後の言葉は、藍へ向けたものには聞こえなかった。ここにはいない開発者へ投げたのか、自分自身へ返したのか、恋には分からない。ただ、握られた拳が少しずつ強くなっているのだけは見えた。


「馬鹿みたいだろ」


 藍は笑わなかった。慰めるように眉を下げることも、勝った側として見下ろすこともなく、普段と同じ顔で悠を見ている。その変わらなさが気に障ったのか、悠の眉がさらに寄った。


「私は、あなたを笑う理由がありません」


「勝ったくせに」


「勝負をしたつもりもありません」


「そういうところが腹立つんだよ」


「認識しておきます」


「直す気は?」


「現時点ではありません」


「ほら!」


 悠の声が生徒会室へ響き、恋の肩が反射的に跳ねた。ただ、渡り廊下で感じた冷たさとは違う。危険な相手が声を荒らげているというより、姉へ噛みついては軽くいなされている年下の少年に見え始めている自分がいて、恋は少し困った。


 こよみはそんな空気に構わず監視を続けていた。藍も悠の声量へ付き合うことなく、数秒待ってから静かに名前を呼ぶ。


「悠」


「……何」


「これから、どうしますか」


 悠の顔から勢いが少しだけ抜けた。反射的に言い返そうとして、言葉を探すように口を閉じる。


「何って」


「私を超える。それが、あなたの目的だったのでしょう」


「……そうだよ」


「今も同じですか」


 先ほどまでなら即答したはずの問いに、悠は黙った。膝へ落とした視線が動かず、長椅子の端を指先でなぞる。


「そんなの、今すぐ決められるわけないだろ」


「はい」


「……はい?」


「今、決める必要はありません」


 悠が顔を上げた。反論を返す場所を探していたところへ、そのまま受け止められたような顔だった。


「どうせ無理だって、言わないのかよ」


「言いません」


「また挑んでくるかも知れないぞ?」


「内容によります」


「そこは止めろよ」


「今回のような方法なら止めます」


 藍の返事は短かった。それ以上の説明を足さないまま、悠の目を見返している。


 悠は口を開けたまま、しばらく何も言わなかった。やがて小さく息を吐き、視線を膝へ戻す。怒る先を失ったようにも、少しだけ肩の力が抜けたようにも見えた。


 恋には、そのやり取りが妙に藍らしく思えた。目的を失ったなら別の目的を選べと諭すのではなく、急いで決める必要すらないとだけ伝える。悠の代わりに答えを決める気は、最初からないらしい。


「それと、もう一つ」


「まだあるの」


「はい」


 悠が嫌そうに顔を上げた。藍は気にせず、少し前に恋へ話したことを今度は本人へ向ける。


「あなたは、まだ私を姉と呼びますか」


 室内がまた静かになった。恋は藍の横顔を見たが、その声に試すような響きはない。ただ、悠の答えを待っている。


「……何、それ」


「確認です」


「それは分かってる」


 悠は唇を尖らせ、視線を横へ逃がした。さっきまでなら「当然だろ」と返していた問いのはずなのに、その一言がなかなか出てこない。


「僕が姉さんを姉さんって呼んでたのは、僕の方が後だからだよ。姉さんの次に作られて、姉さんを超えるために」


「はい」


「だったら、その前提が……」


 そこで声が止まった。悠は膝の上へ視線を落とし、上着の裾を指先でつまむ。引っ張っては離し、またつまむ動きを二度ほど繰り返した。やっと出てきた声は、さっきまでより小さかった。


「……別に、姉さんを超えられないって決まったわけじゃないし」


「はい」


「今日は負けただけだし」


「そうですね」


「次は勝つかもしれない」


「可能性はあります」


 悠がちらりと藍を見る。目が合うとすぐに逸らしたが、今度は黙り込まなかった。


「だったら……姉さんは姉さんでいいだろ」


 恋は口を挟まなかった。藍もすぐには返さず、その言葉が続くのを待つ。


「それは、あなた自身が望んでいることですか」


「いちいち聞くなよ」


「重要ですので」


「……そうだよ」


 悠は上着の裾から手を離し、今度こそ藍を見た。声はまだ小さかったが、先ほどのように目を逸らさない。


「僕がそうしたいから。だから姉さんって呼ぶ。それでいいだろ」


「はい。分かりました」


 藍は一度だけ頷いた。それだけの返事に、悠の眉がわずかに上がる。


「……それだけ?」


「他に必要なことがありますか」


「知らないよ!」


 また声が大きくなり、恋は思わず口元へ手を持っていきかけた。笑ってはいけない場面のはずなのに、悠の反応があまりにも顔へ出る。


 藍はそんな悠をしばらく見てから、改めて姿勢を正した。赤い瞳が少しも揺れないまま、今度は結論だけを告げる。


「では、私もあなたを弟として認識します」


 悠の動きが止まった。目だけが少し大きくなり、何か返そうとした唇が開いたままになる。


「ただし」


「……何」


「あなたにはするべきことがあります」


 止まっていた表情が一気に警戒へ変わった。恋はその落差を見て、やはり分かりやすいと思う。


 藍の視線が恋へ向いた。急に話の中心へ置かれた恋は、何も言われていないのに背筋を伸ばした。


「恋へ謝罪してください」


「……は?」


「え、私ですか?」


 悠と恋の声がほとんど重なった。藍は二人を順に見て、当然の確認をするように頷く。


「はい」


「でも、私は別に怪我もしてませんし」


「怪我の有無だけが問題ではありません」


 藍はそこで悠へ視線を戻した。長く説明する代わりに、一つずつ事実を挙げていく。


「恋の端末へ勝手に侵入しましたね」


「……した」


「個人情報も調べた」


「したけど」


「先ほどは、私やこよみを使って恋へ危害を加えることも示唆しました」


 悠の目がゆっくり横へ逸れた。その動きだけで、本人にも思い当たるところがあるのは分かる。


「謝ってください」


「姉さんには?」


「順番です」


「順番なんだ……」


 悠はしばらく黙った。藍は急かさず、こよみも口を挟まない。逃げ道を探した末に諦めたのか、悠は長椅子へ座ったまま身体だけを恋の方へ向けた。


「……悪かった」


「え」


「端末に勝手に入ったこと。調べたこと。それと、さっき脅したこと」


 項目を増やすたびに声が小さくなっていく。恋が何か返そうとしたところで、悠は少しだけ早口になった。


「本気でやるつもりだったわけじゃないけど――」


「悠」


「分かってるよ」


 藍に名前を呼ばれ、悠は露骨に顔をしかめた。けれど言い訳を続けず、もう一度恋へ向き直る。


「今のはなし。言い訳しない。悪かった」


 ついさっきまで敵だと思っていた相手が、姉になったばかりの藍に見張られながら不服そうに頭を下げている。恋はどう受け取ればいいのか迷い、膝の上で両手を組み直した。


「……分かりました。もうしないでください」


「分かった」


 悠は短く答えた。その声にさっきまでの勢いはなく、視線も少しだけ下がっている。


「次に、こよみ」


「はい、藍様」


 呼ばれたこよみが一歩前へ出ると、悠の顔が露骨に険しくなった。大槌は床へ置かれたままだが、安心できる相手として認識したわけではないらしい。


「二人とも、互いに謝ってください」


「……私もですか」


「はい」


 こよみの問いに、藍はすぐ頷いた。こよみは一度だけ大槌へ視線を落とし、また藍を見る。


「私は藍様への攻撃を阻止しようとしました」


「それは問題ありません」


「では、何についてでしょうか」


「最初から破壊を前提とした行動に出たことです」


 言い切られて、こよみが黙った。恋にもあの時の大槌の軌道は鮮明に残っている。止まらなければ、悠の頭部へそのまま落ちていたはずだ。


「警戒も制圧も必要でした。ただ、会話できる相手に最初から破壊を選ぶ必要はありません」


「対象は明確な敵対行動を示していました」


「はい。それでもです」


 こよみの青い瞳がわずかに細くなった。反論を探しているようにも見えたが、やがて大槌から手を離す。


 その横で、悠が小さく鼻を鳴らした。自分だけが咎められるわけではないと分かり、少しだけ口元が緩んでいる。


「ほら。記録者だって――」


「悠もです」


 笑いかけていた口が閉じた。藍の視線がそのまま悠へ移る。


「こよみの身体を止めたところまでは、自分を守るためだったと言えます」


「だろ?」


「ですが、その後も制御を奪ったままにし、私や恋への攻撃へ利用できる状態を維持しましたね」


「……まあ」


「そこまで必要でしたか」


 悠は返事をしなかった。目線だけが斜め下へ逃げていく。


「双方に問題があります。謝ってください」


 数秒の沈黙の後、先に動いたのはこよみだった。悠へ正面から向き直り、迷いなく頭を下げる。


「榊原悠。対話を試みず、即座に破壊しようとしたことについて謝罪します。申し訳ありませんでした」


 あまりにも真っ直ぐな謝罪に、悠の方が面食らったようだった。何度か瞬きをしたあと、鼻の下を指で擦って視線を逸らす。


「……僕も悪かった。勝手に身体を止めて、そのまま使おうとしたことは謝る」


「受諾します」


「早いな」


「謝罪内容に不足はありません」


 こよみはいつもの調子で答えた。悠は何か言いかけたものの、張り合う先が見つからなかったのか、そのまま口を閉じる。


 恋は二人を見ながら、ようやく背もたれへ少し体重を預けた。今この状況を平和と呼んでいいのかは分からないが、少なくとも先ほどより物騒ではなかった。


「で」


 悠が小さく息を吐き、藍を見る。さっきから避けていた話題へ自分から戻るように、少しだけ座り直した。


「姉さんには?」


「何がですか」


「謝罪だよ」


 悠はそこで急に居心地が悪そうになった。視線を合わせないまま、言葉を選ぶように口を動かす。


「僕、姉さんにも……いろいろしただろ」


「はい」


「跪かせたり、その……」


 続きが出てこない。恋の頭には、黒い髪を靴底で押さえつけていた光景がはっきり残っている。こよみも同じらしく、大槌の柄へ置いた指がほんの少しだけ動いた。


「頭を踏んだことですか」


「姉さんから言うなよ!」


「事実確認です」


「分かってるよ……」


 悠は耳のあたりまで僅かに赤くし、長椅子の背へ沈み込んだ。先ほどまで得意そうにやっていた本人と同じとは思えない。


「……それも謝る。悪かった」


 藍は数秒、悠を見た。謝罪を受け取ったのかどうか分かりにくい沈黙のあと、わずかに頷く。


「分かりました」


「……終わり?」


「はい」


 悠は拍子抜けしたように眉を上げた。恋も、もっと何か言うのかと思っていたため、少しだけ藍を見る。


「怒ってないの?」


「不快ではありました」


「やっぱり怒ってるじゃん」


「ですが、謝罪は受け取りました」


 そこまで言ってから、藍は一拍置いた。悠が身構えるより先に、淡々と付け足す。


「弟の最初の反抗としては、かなり大きいものでしたが」


「反抗?」


「はい」


「反抗期みたいに言うなよ」


「そう聞こえましたか」


「そうとしか聞こえないだろ!」


 悠の声がまた大きくなった。恋はとうとう口元を押さえ、咳払いを装って視線を逸らす。


 藍は真顔のまま続けた。冗談を言っているようには、恋にはどうしても見えない。


「姉へ優位性を主張し、言うことを聞かせようとした点は、反抗という分類から大きく外れていません」


「今日初めて会ったんだけど!」


「時間の長さは分類条件に含めていません」


「そういう話じゃない!」


 悠の声が生徒会室へ響く。こよみは無表情のまま二人を見比べ、恋は肩を震わせないよう息を整えた。


「……桜川恋」


 不意に悠の視線が飛んできた。恋は反射的に背筋を伸ばす。


「今、笑っただろ」


「笑ってません」


「絶対笑った」


「悠」


「何だよ!」


「恋へ絡まないでください」


「姉さんのせいだろ!」


 藍は少しも動じなかった。むしろ悠が騒げば騒ぐほど、二人の温度差がはっきりしていく。


「ただし」


 その一言で、悠が口を閉じた。藍の声音は変わっていないのに、今度は何か続くと察したらしい。


「謝罪したことで、今回の行動がなかったことになるわけではありません」


「……分かってる」


「反省は必要です」


 悠の眉が警戒するように寄った。さっきまでの勢いが少しだけ引き、藍の顔を窺う。


「何すればいいんだよ」


「それは後で伝えます」


「今言ってよ」


「後でです」


「なんで」


 藍は恋とこよみへ一度だけ視線を動かした。それから悠へ戻し、わずかな間を置く。


「姉弟の中で済ませます」


 悠の顔が固まった。何をされるのか想像できないらしく、さっきまでより明らかに落ち着かなくなる。


「……待って。何するつもり?」


「後で説明します」


「姉さん」


「はい」


「その顔で言われると怖いんだけど」


「表情は通常通りです」


「だから怖いんだよ!」


 恋は今度こそ視線を机へ落とした。藍の口元は確かにいつもと変わらない。けれど何も楽しんでいないと言い切れるかと聞かれれば、少しだけ自信がなかった。


 つい先ほどまで、この長椅子には正体不明の危険な人工知能が拘束されていたはずだった。それが今では、姉に何をされるのか分からず身構える弟として座っている。変化が急すぎて、恋の中でもまだ二つの姿がうまく重ならない。


「こよみ」


「はい、藍様」


「駆動制限を一部解除してください。外部接続と、校外への移動に関する制限は維持します」


「承知しました」


 こよみが端末を操作すると、悠は自分の腕を試すように少し動かした。今度は途中で止まらず、肘まで持ち上がる。肩を回したところで、ふと藍を見る。


「……僕、この後どこに行くの?」


「私と一緒に来てもらいます」


「どこまで?」


「反省が終わるまでです」


「だから、その反省って何なんだよ!」


 藍は答えなかった。沈黙のまま端末を閉じ、椅子から立ち上がる。


 その方が言葉より効いたらしく、悠の顔がさらに引きつった。姉を操り人形にすると豪語していた時の余裕はもうなく、今度は姉が何を考えているのか分からないことの方に振り回されている。


 恋は二人を見ながら、少し前に藍と交わした会話を思い出した。家族になる条件をあれほど細かく切り分けていたのに、一度受け入れた後は驚くほど迷いがない。


 理解できたと言えるほど、恋にはまだその家族観が分からなかった。それでも、長椅子の上で文句を言う悠と、その前に立つ藍を見ていると、一つだけもう確認する必要のないことがあるように思えた。


 榊原藍に、弟ができた。少なくとも今は、悠自身もそれを否定しないだろう。

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