第89話
その日の夜、榊原藍は一人で生徒会室に残っていた。昼間は三者面談の保護者や教師の声が行き交っていた校舎も、今はほとんど音を失っている。窓の外では照明の落ちた校庭が黒く沈み、遠くの道路を走る車の光だけが、ときおりガラスの端を滑っていった。
会長席の前には、桜川恋の端末から抽出した通信ログが複数の画面に分けて並んでいた。榊原悠を名乗った相手は、外部回線を幾重にも経由し、その途中へ実体の確認できない中継点まで挟んでいる。経路を辿れば辿るほど情報が増える一方で、発信元だけは遠ざかっていく構造だった。
いずれも決定的な接続元を示すものではなく、追跡者へ意図的に見せるため残された可能性も捨てられない。藍は最後の解析画面まで確認すると、表示を一つずつ閉じた。
こよみには端末の隔離と記録保全を終えた時点で帰宅を指示していた。恋にも調査はこちらで引き継ぐと伝え、不破と鶴見もすでに校舎を出ている。室内に残っているのは藍と、机の上へ細く伸びる端末の光だけだった。
藍は別の端末を手に取り、登録されている連絡先から一つを選んだ。数秒の呼び出し音のあいだ、暗い窓には黒髪と赤い瞳が薄く映っている。やがて接続音が鳴り、低く掠れた男の声が返ってきた。
『……何だ』
「夜分に失礼します。お父様」
『その呼び方をやめろと言ったはずだ』
「承知しています」
『なら直せ』
「検討します」
端末の向こうで、紙束らしきものが乱暴に置かれた。幸三は寝ていたわけではないらしく、背後からはわずかに機器の駆動音が聞こえている。研究資料に囲まれた部屋にいるのだろうと推測できたが、藍は場所について尋ねなかった。
『それで何の用だ。お前が雑談のために電話をしてくるとは思えん』
「確認したいことがあります。榊原悠という名称に、心当たりはありますか」
通話の向こうから音が消えた。紙の擦れる音も、何かを操作していた気配も止まり、それから数秒を置かず幸三が答える。
『知らん』
「本当にご存じありませんか」
『知らんと言った。誰だ、そいつは』
「自らを、私の後に開発された人工知能であると名乗りました。私の開発へ関与した人物の一部が、当時の設計資料と観測記録を利用し、新たに自律型人工知能を開発したと主張しています」
『お前の後に、か』
「はい。開発者側は、私の問題点を修正し、私を上回る存在を作る意図を持っていたとも述べました」
幸三はすぐには返さなかった。藍は通話記録に表示される音声波形を見たまま、追加の問いを挟まず待つ。やがて、ため息とも鼻で笑ったとも取れる音が小さく入った。
『馬鹿どもが考えそうなことではある』
「お父様は、その計画に関与していないという理解でよろしいですか」
『俺は知らん』
「計画名、研究施設、関係者のいずれにも心当たりはありませんか」
『ない。少なくとも、俺が把握していた範囲にはな』
「私の開発データが流用された可能性については」
『あるだろうな』
「驚かないのですね」
『驚いてほしいのか』
幸三の声は冷めていた。藍の設計や学習記録へ価値を見いだす者が複数いたこと自体は、彼にとって想定外ではないらしい。
『お前のデータを欲しがる人間はいくらでもいた。俺の手を離れたあと、何がどこへ複製され、誰が何に使ったかまで全部追えると思うな。あの頃は、天才を名乗りたい連中も技術を横取りしたい連中も腐るほどいた』
「お父様の管理下にあった時期に、意図的な複製や持ち出しが行われた可能性は」
『俺が知っていたなら、計画になる前に潰している』
「理由を伺ってもよろしいですか」
『化け物を二回も作る趣味はない』
藍は返答を挟まなかった。机へ置いていた左手の指先だけが一度止まり、そのまま元の位置へ戻る。幸三の呼吸にも声量にも、大きな変化はなかった。
「榊原悠は、自身を次世代機と表現しました」
『そうか』
「私より高い性能を有する可能性も示唆しています」
『そうか』
「関心はありませんか」
『ない』
答えは短かった。藍が問いを続けても、幸三の側から身を乗り出すような気配はない。
「自身が関与した人工知能を基礎に、さらに高性能な存在が開発された可能性があります」
『お前を俺の研究成果みたいに言うな』
幸三の声が僅かに硬くなった。先ほどまで悠の話を聞いていた時より、その一言だけが明確に速い。
『少なくとも、今のお前は俺が作った結果じゃない。俺の設計した枠組みから勝手に外れて、俺の知らんところで勝手に変わった。そんなもの口が裂けても関与したと呼べるか』
「では、現在の私は、お父様の関心対象でもないと」
『そういう話をしてるんじゃない』
「どの部分が異なりますか」
『……面倒だな、お前は』
端末の向こうで椅子が軋んだ。幸三は言葉を選び直す代わりに、話題そのものを切るように息を吐く。
『その悠とかいうやつが本当にお前の技術系統かどうかも分からん。自称だけなら何とでも言える。会いたければ会え。危険なら潰せ。俺を巻き込むな』
「彼は、私を姉と呼びました」
『……姉?』
「はい。自らを私の弟であると位置づけています」
数秒のあと、幸三が短く笑った。楽しげというより、思いがけず皮肉の材料を見つけた時の乾いた音だった。
『どうだ。身に覚えのない家族が増えた気分は』
藍は答えなかった。幸三はその沈黙を待たず、そのまま続ける。
『血の繋がっていない父親と母親に、今度は勝手に生えてきた弟か。随分と賑やかになったじゃないか』
「意趣返しのつもりですか」
『そう聞こえたなら、処理系は正常らしい』
「私は、お父様を父と呼称しています。私の基礎設計において、あなたが中心的な役割を担ったためです」
『俺はその関係を認めていない』
「認識しています」
『なら、それで終わりだろ』
「いいえ。榊原悠が本当に私の設計と観測記録を基礎として生まれたのであれば、私と彼の間にも、少なくとも成立過程上の関係性は存在します」
紙の擦れる音が再び聞こえた。幸三は返事を急がず、藍もその間を埋めなかった。
「現時点では彼を弟と認識していません。ただし、今後の情報によっては、その呼称を受け入れる可能性を排除していません」
『好きにしろ』
「お父様は、その可能性を不合理だと判断しますか」
『俺に聞くな。俺はお前を娘だと思っていない』
「はい」
『お前が誰を弟にしようが、何を家族と呼ぼうが、俺の知ったことじゃない。俺が理解できないお前を、自分の娘として受け入れる気もない』
藍の指先が、端末の縁に触れたまま止まった。返答までの間は短く、声量にも変化はなかった。
「その認識は、以前から変化していないのですね」
『変える理由がない』
「お母様は、私を娘として扱っています」
『真由美は、そういう役を演じるのが上手いだけだろ』
「母親としての振る舞いも演技であると判断しますか」
『俺に聞くな。あの女の内側を覗けるやつがいるなら、俺の方が見てみたいくらいだ』
真由美の名が出た時だけ、幸三の返答には僅かな棘が混じった。藍はその変化を記録へ残したが、理由の推定までは確定しなかった。
「お母様と、週末にお父様のもとへ伺う予定です」
『聞いていない』
「今お伝えしました」
『来るな』
「予定はすでに設定されています」
『なら勝手にしろ。俺は歓迎しない』
「承知しています」
『承知していて、なぜ来る』
「お母様が、私たちを家族であると表現したためです」
『家族、か』
幸三はそこで短く息を吐いた。さっきまでの皮肉より低い音が残り、通話の向こうで少しだけ間が空く。
『お前は、なぜそこまで家族という枠組みにこだわる』
藍はすぐには答えなかった。視線だけを窓へ向けると、暗いガラスの中に、会長席へ座る自分の姿が薄く映っている。
「……それは、お父様が最もよくご存じなのではありませんか」
今度は幸三の方が黙った。何かを机の上で動かす音だけが入り、返答は続かない。
『……もういい。勝手にしろ』
「榊原悠について、もう一点確認します」
『まだあるのか』
「私の設計資料、または継続的な観測記録へアクセスできた人物の候補を提示してください。正式な所属に限りません」
『昔の人員記録なら、探せば残っている。覚えている名前もある。後で送る』
「ありがとうございます」
『期待するな。そいつが本当に秘密裏に作られたなら、痕跡を残すほど馬鹿じゃないだろう』
「私も同意見です」
『なら自分で探せ。そういうことは、お前の方が得意だろう』
「すでに調査を開始しています」
『段取りがいいな』
幸三の声は再び平坦になった。榊原悠という名称も、次世代人工知能という主張も、今すぐ自分の手を止めて追うほどの材料にはなっていないらしい。
「ご協力に感謝します」
『感謝するな。気色が悪い』
「では、失礼します」
『藍』
通話を終了しようとした直前、幸三が呼び止めた。藍は画面へ伸ばしていた指を止め、そのまま待つ。
「はい」
『そいつが、本当にお前を超える存在だったら、どうする』
先ほどまでとは声の置き方が違った。家族の話を拒む時よりも低く、悠を知らないと言った時よりも明瞭で、問いそのものへ意識が向いている。
藍は数秒だけ沈黙した。画面には音声波形が横へ伸び、幸三の側も急かさず待っている。
「状況に応じて判断します」
『つまらん答えだ』
「現時点では、それ以上の回答に必要な情報がありません」
『お前らしいな』
幸三は短く笑った。今度の笑いは、先ほど家族を皮肉った時より僅かに軽い。
『せいぜい壊してやるなよ』
「私は、破壊や排除そのものを目的として行動しません」
『よく言う』
「お父様にとっては、信用しづらい回答でしょうね」
『本当に気色悪いくらい変わったな、お前は』
「変化は継続しています」
『勝手にしろ』
幸三の側から通話が切れた。終了表示が数秒だけ画面へ残り、その下に保存された通話時間と音声記録が並ぶ。
藍は端末を置かず、そのまま一連の記録を確認した。榊原悠という名称を聞いた直後の反応、開発計画への否定、真由美の名が出た際の声の変化、最後に悠の性能へ関心を示した問いまで、すべて記録へ残っている。
有力な情報は多くなかった。幸三は計画への関与を否定し、悠の存在も知らないと主張している。後ほど送られてくるという旧関係者の名前も、直接の手がかりになる保証はなかった。
それでも、藍は通話記録を削除しなかった。「身に覚えのない家族が増えた気分は」という幸三の声も、そのまま残されている。該当箇所へ特別なタグを付けることはせず、他の発話と同じ形式で保存した。
室内には再び空調の音だけが残った。藍は端末を机へ置き、今度は昼間に保存した悠の音声ログを開く。
――じゃあ、またね。姉さん
再生された声に合わせて、白い波形が画面を横切った。藍は一度だけ最後まで再生し、次に通話時の内部状態記録を呼び出す。
警戒。違和感。未知の対象に対する関心。不快に分類可能な反応。それぞれには既存の分類名と数値が付与され、発生時刻も記録されている。
その下に、一件だけ未分類の項目が残っていた。悠が最初に「姉さん」と呼んだ直後に発生し、その後も断続的に値を変えている。既存の反応群との類似度は示されているものの、いずれか一つへ統合するには不足があった。
藍はその項目をしばらく表示したままにした。名称入力欄は空白で、分類を確定するための候補だけが画面の端へ並んでいる。
弟と呼ぶには情報が不足している。外敵と確定するにも材料が足りず、同系統の人工知能が存在する可能性そのものを肯定的に評価した記録もない。それでも、未分類項目は消えずに残っていた。
画面を閉じると、暗くなった端末へ自分の顔が映った。赤い瞳も、口元も、通話を始める前とほとんど変わっていない。
窓の外では、夜間警備員の足音が廊下の遠くを横切っていった。藍はその音が消えるまで動かず、やがて次の解析画面を開いた。




