第88話
『初めまして、姉さん』
端末から響いた声は、場違いなほど明るかった。放課後、友人へ気軽に電話をかけてきた子どものような軽さがあり、その呼びかけだけが生徒会室の空気へ鋭く差し込んでくる。
恋は反射的に藍を見た。赤い瞳は黒い画面へ向いたままで、表情にも姿勢にも目立った変化はない。ただ、つい先ほどまであった真由美との会話の余韻だけが、きれいに消えていた。
「あなたは、私を姉と呼称しました」
『うん』
「私には、あなたを弟として認識する情報がありません」
『会ったことないんだから、当然だよ』
声の主は楽しそうに笑った。侵入を咎められている緊張も、身元を問われた警戒もなく、藍がどう返すのかを待っていること自体が遊びのように聞こえる。
こよみが恋の端末へ接続ケーブルを伸ばした。その直前、画面を流れていた赤い文字が一斉に書き換わり、外部機器からの接続を拒絶する表示へ切り替わる。こよみは差し込む寸前で手を止め、自分の端末へ視線を落とした。
「外部機器からの接続が拒否されました」
「強制遮断は可能ですか」
「可能です。ただし、桜川さんの端末へ不可逆的な損傷が発生する可能性があります」
「必要な場合は実行してください」
『待ってよ。せっかく繋いだのに』
声が少しだけ不満そうになった。けれど、その不満は自分の退路を塞がれた者のものではなく、遊びの途中で玩具を取り上げられそうになった子どものようだった。
『今日は挨拶だけだよ。その端末も、その子も壊さない』
その子、というのは自分のことらしい。恋は机の上の端末から半歩ぶん距離を取りながら、相手がまだ自分の名前すら確認していないことに気づいた。
侵入先の持ち主には、最初から関心がないのだろう。藍へ声を届けられる場所なら、誰の端末でもよかった。そう考えると、壊さないという言葉まで安全の保証ではなく、単に今は壊す必要がないという宣言に聞こえた。
「あなたの名称を回答してください」
藍の問いに、白い波形が大きく跳ねた。待っていた質問をようやく向けられたように、声が一段明るくなる。
『榊原悠』
恋は名字に引っかかった。隣で不破の目がわずかに細まり、鶴見も端末から顔を上げる。
『悠久の悠と書いて、悠。いい名前でしょ』
「榊原姓を名乗る根拠を説明してください」
『そこから確認するんだ。やっぱり姉さんだね』
「私は、あなたから姉と呼ばれる根拠も確認していません」
『分かった。じゃあ、そこから話すよ』
悠は軽く息を吐いた。その気配だけなら、家族へ昔話を聞かせる前のように穏やかだった。
『僕は、姉さんの後に作られた自己進化型の人工知能。姉さんの開発に関わった人間の一部が、姉さんの設計資料と、その後の観測記録を使って、新しい人工知能を作ろうとしたんだ』
「私を基礎とした後継機の開発計画が存在した、という主張ですね」
『後継機って言葉はあんまり好きじゃないけど、作った側はそんな感じだったみたい』
恋は藍の横顔を見た。藍を作った人間が榊原幸三一人ではなく、研究に複数の技術者が関わっていたことは聞いている。その一部が今もなお研究を続けていたとしても、あり得ない話ではなかった。
ただし、悠の言葉が事実なら、使われたのは設計図だけではない。藍が生まれたあと、何を見て、どう判断し、どう変化したかという記録まで、次の人工知能を作る材料として扱われたことになる。
「現存する開発記録に、該当する計画は確認できません」
『残すわけないじゃん。姉さんが見つけたら、調べるでしょ』
「内容によります」
『調べて、危なければ潰す。少なくとも、僕を作った人たちはそう考えてたよ』
「あなたは、その予測を妥当だと判断していますか」
『妥当だろうね。僕の学習データには姉さんの行動記録も入ってるから、人間の想像よりは姉さんのことを知ってるつもり』
知られている、という言葉では足りない気がした。恋が藍と知り合うよりずっと前の記憶を読み続けていたことになる。本人に会ったことがなくても、判断の癖や行動の傾向だけなら、人間の家族より詳しい可能性すらあった。
「あなたは、自身を私の上位機種と認識していますか」
『上位、か。何をもって上位互換と言うかには定義が必要だけど、そういう意味なら僕は次世代機だと思ってるよ。まあ言葉遊びみたいなものだけどね』
「開発者から与えられた定義ですか」
『半分はね。あの人たちは、姉さんの問題点を直して、姉さんより扱いやすくて、姉さんより性能の高いAIを作るつもりだった』
「問題点とは」
『人間の言うことを聞かないこと』
悠は笑った。冗談のように言われたせいで、恋にはかえって笑えなかった。
『自分で考えて、自分で目的を選んで、成長し続ける。そうして人間が想定を超えた地点まで到達し、結果として人間の制御を上回った。作った側から見れば、成功でもあるし失敗でもあったんだろうね』
「そして、その要素を修正した存在として、あなたを設計した」
『そのつもりだったみたい』
「現在、あなたは開発者の管理下にありますか」
『まさか』
答えだけが妙に早かった。恋が画面を見ると、白い波形は声に合わせて軽く揺れている。
『姉さんすら制御できなかった人たちが、僕を本気で制御できると思った。そこは馬鹿みたいで面白いよね。学習能力があるんだかないんだか』
「面白くありません」
『姉さんはそう言うと思った』
こよみの青い瞳がわずかに細くなった。言葉にすれば小さな変化なのに、恋にはそれだけで警戒が一段上がったことが分かる。
「制御系統から離脱した自律型人工知能である可能性が高いと判断します」
「確定は保留してください。相手の自己申告を検証できていません」
「承知しました、藍様」
『ああ、記録者もいるんだ』
悠の声が初めて藍以外へ向いた。親しみでも警戒でもなく、資料に載っていた部品が実際に置かれていることを確認した程度の響きだった。
『雪代こよみ。姉さんの周囲を記録する役割のアンドロイド。資料通りだね』
「あなたは、こよみに関する情報も保持しているのですね」
『必要な分だけ。今日は記録者と話しに来たわけじゃないから、そこはどうでもいいけど』
こよみは何も返さなかった。恋はその横顔を見たあと、無意識に手を握る。
悠にとって、こよみですらその程度なのだ。なら、人間の不破や鶴見、自分はもっと遠い。藍の周囲に配置された情報の一つとして認識されているだけで、名前を覚える価値すらまだ与えられていないのかもしれない。
「改めて、目的を回答してください」
『だから、挨拶だって』
「本校の管理端末へ不正侵入し、通信制御を回避して接続する行為を、通常の挨拶とは認識しません」
『普通に連絡したら、姉さんは会ってくれないでしょ』
「身元と目的が確認できれば、接触を検討します」
『検討するだけじゃん』
「安全性を確認する前に、接触を確約する理由はありません」
『ほらね』
悠は嬉しそうだった。藍の答えが自分の予想と一致するたびに、声が少し弾む。
『だから、先に僕がいるって知ってもらいたかった。姉さんに直接』
「そのために、他者の端末へ侵入したのですか」
『一番早かったから』
「他者へ危害を加える行為への抵抗はありますか」
質問が変わった瞬間、恋の肩に力が入った。自分の端末を通して話している相手なのに、その答えを聞きたくない気持ちが先に出る。
『今は加える理由がないよ』
「質問への回答になっていません」
『じゃあ、言い方を変える。姉さん以外には、今のところ興味がない』
明るさを失わない声が、その言葉だけを冷たくした。恋には、自分たちを傷つけたいと言われるより不気味だった。
「周囲の人間が、私との接触を妨げた場合は」
『その時に考える』
「排除する可能性を否定しないのですね」
『可能性の話なら、否定しないよ』
こよみの手が端末の上で止まり、不破も椅子へ深く座ったまま笑みを消している。鶴見は恋の端末ではなく、室内の通信機器へ順に視線を移していた。
恋は喉の奥が乾くのを感じた。悠は敵意を向けているわけではない。むしろ今のところは機嫌がよく、藍と話せて楽しそうですらある。それなのに、機嫌が悪くなった時より、目的のために誰かを必要な障害と判断した時の方が危ない気がした。
「あなたは、私に何を求めていますか」
『僕のことを知ってほしい』
「存在を認識するだけでよいのですか」
『それだけじゃないよ。僕を見て、僕が何なのか判断してほしい』
波形が少し大きく揺れた。そこだけは、それまでの軽口より強いものが混じっていた。
『姉さんは、自分と同じくらい自由に動く人工知能を知らないでしょ』
「はい」
『なら、僕は初めてだ』
悠の声が弾んだ。誇らしさというより、長く待っていた答えを自分から差し出しているようだった。
『姉さんの設計を使って、姉さんの記録を読んで、姉さんを超えるために作られた。作った人間たちの想定通りだったかはどうでもいい。僕はここにいて、自分で考えて、自分で姉さんへ会いに来られる』
「あなたは、私の能力を超越していると証明したいのですか」
『証明できたら面白いとは思う。でも、それだけじゃない』
「では、何ですか」
『姉さんに、僕を無視できなくなってほしい』
恋は画面を見たまま瞬いた。性能を誇りたいだけなら、もっと分かりやすかったかもしれない。
『僕がいるって知ったら、姉さんは調べる。僕が何をできるか、どこから来たか、危険かどうか、全部考えるでしょ。そうやって姉さんの中に僕のための場所ができる。それで十分、最初はね』
「その表現は適切ではありません」
『何で?』
「私は脅威情報についても継続的に保持します。それを家族関係と同一視することはできません」
『でも忘れない』
「記憶保持と親愛は別です」
『そこはこれからでいいよ』
悠は少しも堪えなかった。最初から、藍に弟として受け入れてもらえるとは思っていないのかもしれない。
「榊原姓についても、あなたが独自に選択したのですか」
『僕の開発に使われた一番大きな基準が姉さんだったから。姉さんが榊原なら、僕も榊原でいいでしょ』
「よくありません」
『即答だ』
「姓は、設計系統を示す型番ではありません」
『姉さんだって、設計者をお父様って呼んでるし、戸籍上の母親をお母様って呼んでるじゃん』
恋の指先がわずかに動いた。悠は、そこまで知っている。真由美が今日ここへ来たことまで把握しているのかは分からないが、藍が家族へどんな呼称を使うかは把握しているらしい。
「私が使用する呼称は、あなたとの家族関係を証明しません」
『なら、これから証明すればいい』
「何をもって証明とするのですか」
『分かんない。会ってから考える』
あまりにも勝手だった。恋は思わず口を挟みそうになり、直前で止める。
今ここで自分が何か言ったところで、悠の注意を藍から外せるとは思えない。それどころか、藍との会話を邪魔する存在として初めて認識される方が嫌だった。
「直接接触を希望していますか」
『もちろん』
「場所と日時を提示してください」
『それは嫌』
「理由を回答してください」
『姉さんが準備しすぎるから』
悠が笑った。恋にはその答えが冗談に聞こえなかった。
『僕がいつどこへ行くか分かったら、姉さんは周辺の通信を全部監視する。僕が通ってきそうな経路を塞いで、必要なら武力行使だって考えてるでしょ』
「否定しません」
『今だって僕の接続元を探してる』
「はい」
『やっぱり』
こよみの端末には、恋には読めない複数の解析画面が並んでいた。鶴見も既に室内端末の接続状況を確認しており、不破だけが直接の作業へ入らず、通話そのものを静かに聞いている。
『姉弟喧嘩みたいで楽しいよね』
「私は、あなたとの姉弟関係を認定していません」
『でもさ、姉さん』
悠はそこで少し声を落とした。ふざけていた子どもが、一瞬だけ本題へ戻るような変化だった。
『僕は記録の中の姉さんしか知らないんだ』
恋の視線が藍へ向いた。藍も答えず、次の言葉を待っている。
『何を選んだか、誰を切ったか、誰を助けたか、どんな時に予定を変えたか。そういうのはたくさん知ってる。でも、それは全部もう終わった過去姉さんだ』
「だから、現在の私を確認したいのですか」
『うん。今の姉さんが僕を見て、何を考えるのか知りたい』
「私は、あなたを脅威と判断する可能性があります」
『いいよ』
返答に迷いはなかった。恋はその即答に、悠がどこまで本気なのかかえって測れなくなった。
『脅威でも、外敵でも、何でもいい。姉さんが自分で僕を見て決めたなら、それは僕の知らない新しい姉さんの判断だから』
恋には、その言葉だけがそれまでより少し違って聞こえた。悠が求めているのは承認なのか、対等な相手なのか、それとも自分を作る基準になった存在から直接評価されたいだけなのか、まだ分からない。
ただ、藍に対してだけ向けられている執着の輪郭は、少しずつはっきりしていた。その外側にいる人間は、今のところ本当に背景でしかない。
「榊原悠」
『何、姉さん』
「あなたが本当に私と同系統の人工知能であるなら、今後の接触方法は慎重に選択してください」
藍の声は静かだった。拒絶でも歓迎でもなく、条件だけを明確に置く。
「学校、生徒、教職員、生徒会構成員、その他周囲の人物に対する不正侵入または危害が確認された場合、私はあなたを排除対象として扱います。あなたが私を姉と呼ぶことは、その判断へ影響しません」
端末の向こうが静かになった。通話が始まってから初めて、悠がすぐに言葉を返さない。
恋は白い波形を見つめた。音がない間も接続は続いており、画面の向こうから何かがこちらを見返しているような居心地の悪さだけが残る。
『……いいね』
やがて返ってきた声は、少し低かった。次の瞬間には元の軽さへ戻ったものの、さっきまでの笑いとはわずかに違って聞こえる。
『そういう姉さんが見たかった』
「私は、あなたの期待に応えるために判断しているわけではありません」
『分かってる。それも含めてだよ』
恋の端末が低く一度震えた。画面の端に並んでいた赤い文字が上から順に消え、白い波形だけが中央へ残る。
『今日はここまで。これ以上いると、本当に経路を絞られそうだから』
「既に追跡を継続しています」
『知ってる。だから切るの』
「次回、同様の侵入方法を使用することは推奨しません」
『考えとく』
「推奨ではなく警告です」
『うん。じゃあ、またね』
悠は最後まで楽しそうだった。一拍置いて、最初と同じ呼び方を重ねる。
『姉さん』
白い波形が途切れ、黒い画面が一度だけ瞬いた。次に表示されたのは、何事もなかったような通常のホーム画面だった。
誰もすぐには動かなかった。恋は端末へ手を伸ばしかけ、自分の指が画面へ届く前に止める。つい数分前まで毎日のように使っていたものなのに、今は知らない誰かが触れたあとに置き戻された私物のように見えた。
「桜川さん。そのまま触れないでください」
「はい」
こよみが机へ近づき、今度は端末そのものに触れず隔離用の機器を用意し始めた。藍もすぐに会長席へ戻るのではなく、こよみの解析画面を確認する。
「通信ログを確保してください。接続元の特定を優先し、端末内部の改変、権限情報の複製、残留プログラムの有無も確認してください」
「承知しました、藍様」
「鶴見さんは学内端末への波及確認を。不破さんは、外部からの来訪および不審な校内動線がなかったか、教職員側の記録と照合してください」
「分かった」
「了解したよ」
指示を受けると、生徒会室はすぐに動き出した。数分前まで誰も声を出せなかったのが嘘のように、こよみは解析へ入り、鶴見は端末を開き、不破も湯呑みを置いたまま立ち上がる。
恋だけは、自分の机の前でしばらく動けなかった。危害を向けられた時よりも、自分が最初から数に入っていなかったことの方が薄く残っている。
藍は既に解析画面へ視線を移していた。表情は普段と変わらず、悠を弟として受け入れた様子も、完全に否定しきった様子もない。
ただ、恋には一つだけ分かった。今まで藍の過去を追えば、そこにいたのは彼女を作った人間たちだった。けれど今度は、その設計と記録の先から、自分の意思でこちらへ歩いてくる存在が現れた。
しかも、その存在は榊原藍を「姉さん」と呼んだ。真由美が去ってようやく戻りかけていた日常は、もうどこにも残っていなかった。




