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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第7章 榊原一家
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第87話

 石上真由美が去ったあと、生徒会室は驚くほど簡単にいつもの姿へ戻っていった。つい先ほどまで国民的女優がこの部屋で藍やこよみと話し、最後には演技と本心の境目まで語っていたのに、扉が閉じれば残るのは空調の音と端末の小さな動作音だけだった。


 こよみは来客記録の整理へ戻り、不破廻は窓際の椅子で湯呑みを片手に資料を眺めている。

 鶴見秋臣もいつの間にか職員室から戻っており、来客用に出した茶菓子の使用数と申請記録を照合していた。会長席では藍が進路希望調査票を片づけ、その下から普段の生徒会資料を引き出している。


 恋だけが、まだ少し取り残されていた。真由美が藍へ向けた笑顔も、「分からないから偽物とは思わない」と言った声も頭に残っている。それなのに周囲が何事もなかったように通常業務へ戻るものだから、自分までそれに合わせて椅子へ座るしかなかった。


 以前の自分なら、もう少し長く固まっていた気がする。国民的女優が藍の母親だと知った時点で一日分は驚けただろうし、その本人と話し、藍との親子らしいやり取りまで見たとなれば、帰宅してから布団の中でも思い返していたかもしれない。今は胸の奥にまだ妙なざわつきがあるのに、手はもう机の端末へ伸びようとしている。


 慣れたのだろうか、と恋は思った。藍やこよみの正体を知り、異世界人や怪盗やヴァンパイアまで見てきたせいで、驚くための基準が少しずつ壊れているのかもしれない。成長と呼んでいいのか、それとも単に感覚が麻痺しているだけなのか、考えても嬉しい答えは出そうになかった。


「恋」


 会長席から呼ばれ、恋は顔を上げた。考え込んでいたせいか、返事をする前に無意識に背筋まで伸びる。


「今、監査用の資料を転送しました。確認をお願いします」


「はい。分かりました」


 返事をしてから、恋は一瞬だけ自分自身に引っかかった。数分前まで石上真由美が座っていた部屋で、自分はもう監査資料を確認しようとしている。


「……順応って怖いですね」


「何の話でしょうか」


「いえ、こっちの話です」


 藍はそれ以上尋ねず、自分の資料へ視線を戻した。不破が湯呑みの向こうで少し笑った気がしたが、恋は見なかったことにして端末へ手を伸ばす。


 生徒会用に貸与されている端末は、恋の権限に応じて閲覧範囲が細かく分けられている。監査に必要な会計や申請の記録は開ける一方、他委員会の個人情報や生徒会長権限の内部記録まで自由に見られるわけではない。最初は窮屈に感じた仕組みも、今ではどの画面へ入れば何が見られるのか、だいたい指が覚えていた。


 認証画面を開き、恋が指先を置いた。いつもなら短い振動のあとにホーム画面へ切り替わるはずだったが、今日は認証が完了した瞬間、画面全体が白く瞬いた。


「……あれ?」


 一度暗転し、戻ってきたのは見慣れた画面ではなかった。背景は黒く、中央には赤い文字列が数行だけ浮かんでいる。英数字と記号が入り混じり、恋には内容を読み取れなかったが、自分が開こうとした監査資料でないことだけは間違いなかった。


 恋は画面を閉じようと指を滑らせたが、何も起こらなかった。電源ボタンを押しても表示は消えず、長押しすると逆に画面の端へ細かな文字が追加されていく。


「すみません。こよみさん、これ……何か変です」


 呼びかけた時には、こよみはもう顔を上げていた。恋ではなく端末へ視線を固定し、そのまま席を立つ。


「桜川さん。その端末には触れず、机上へ置いてください」


「は、はい」


 声の調子はいつもと変わらなかった。それでも原因の説明より先に手を離すよう指示されたことで、恋の指は反射的に端末から離れた。


 こよみは自分の端末を操作しながら近づき、藍も会長席から画面を見ている。不破は湯呑みを静かに机へ置き、鶴見は開いていた資料を閉じて手元へ寄せた。ほんの数秒前まで通常業務だった生徒会室が、誰かの合図もないまま一つの異常へ向きを揃える。


「外部通信を遮断します」


 こよみが操作すると、恋の端末に表示されていた接続表示が消えた。同時に室内のいくつかの端末でも表示が切り替わり、外部との通信経路が閉じられたらしい。


「他の端末への波及は」


「現時点では確認できません。異常は桜川さんの貸与端末に限定されています」


「監査資料は?」


 鶴見が尋ねると、こよみは一度だけ自分の画面へ視線を落とした。確認している間にも、恋の端末では赤い文字が止まらず流れている。


「保護されています。閲覧権限外への移動も確認できません」


「なら、少なくとも今すぐ書類を全部抱えて逃げる必要はないか」


 不破が湯呑みから手を離したまま言った。いつもの冗談めいた笑い方はなく、視線は恋の端末に向いたままだった。


「……これ、切れたんですよね?」


「通常の外部通信は遮断済みです」


 こよみの返事を聞いても、黒い画面は消えなかった。赤い文字列が一行ずつ書き換わり、まるでこちらの操作を待っていたかのように、画面右下へ新しい表示が現れる。


 こよみが恋の端末へ手を伸ばした。その指先が届く直前、藍の声が静かに入る。


「こよみ。まだ触れないでください」


「はい、藍様」


 こよみは理由を尋ねず、そこで手を止めた。代わりに半歩下がって自身の端末から状態を監視し、物理的に接触する選択だけを保留する。


 恋は藍を見る。藍は会長席から動かず、赤い瞳だけを黒い画面へ向けていた。止められるのに止めていないようにも見えたが、恋にはその判断の理由までは分からない。


「侵入者と接触するつもりですか?」


 鶴見が低く尋ねた。普段は会計数字の前からほとんど動かない彼も、今は椅子ごと少し端末から距離を取っている。


「接続の目的を確認します。現時点で、情報の破壊や持ち出しを優先している挙動ではありません」


 藍の返事は短かった。恋は机の上の端末と藍を交互に見ながら、息を浅くした。


 黒い画面に流れていた文字が、突然止まった。数秒前まで恋には読めない記号ばかりだった場所へ、日本語が一行だけ浮かび上がる。


 ――接続確立。


 その四文字を理解した直後、端末から短い通知音が鳴った。普段の通話開始音によく似た音なのに、今はそれだけで恋の肩が跳ねる。


「え……?」


 中央の文字列が消え、代わりに白い一本の波形が現れた。映像はなく、発信者名も番号も表示されていない。カメラが起動している様子はないのに、知らない誰かが机の向こう側へ座ったような気配だけが急に生まれた。


 恋は椅子の背へわずかに身体を引いた。端末から手は離しているのに、近くに置いてあるだけで、自分の机を誰かに勝手に使われているような居心地の悪さがあった。


『あ、繋がった』


 聞こえてきたのは、想像していたよりずっと幼い声だった。高く、軽く、緊張した様子もない。厳重な生徒会の端末へ入り込み、通信を切られてもなお接続を続けている相手とは思えないほど、声だけなら無邪気だった。


『やっぱりここで合ってたんだ』


 恋の背中を冷たいものが走った。楽しそうな声と、起きていることがまるで噛み合わない。


 こよみは端末を持ったまま一歩も動かず、不破も鶴見も口を挟まなかった。藍だけが会長席で姿勢を変えず、声を端末へ向ける。


「あなたの目的を回答してください」


『目的?』


「本校生徒会の管理端末へ不正に接続しています。直ちに目的と身元を明らかにしてください。回答内容によっては、あなたを外敵として認識します」


 白い波形が小さく揺れた。返ってきたのは謝罪でも弁解でもなく、叱られたことまで遊びの一部だと思っているような笑い声だった。


『ひどいなあ。ちょっとばかし、ちょっかいをかけただけじゃん』


「不正アクセスを、ちょっかいとは認識しません」


『そっか。姉さんは真面目だね』


 恋は息を止めた。聞き間違えたのかと思って藍を見ると、こよみの指も止まり、不破は眉をわずかに上げている。鶴見まで何も言わず画面を見ている以上、自分だけが妙な聞き取り方をしたわけではなさそうだった。


 姉さん。声の主は、確かにそう言った。恋が知る限り、藍をそんなふうに呼ぶ人物に心当たりはない。


 藍の表情は変わらなかった。ただ、侵入者という扱いを崩さないまま、今度は問いだけを変える。


「あなたは誰ですか」


『え、そこから?』


「私は、あなたを認識していません」


『そっか。まあ、そうだよね』


 波形の向こうで、相手は妙に楽しそうだった。侵入を見つかったことも、外部通信を遮断されたことも、藍から外敵と呼ばれかけていることも、今のところ何一つ気にしていないように聞こえる。


「藍様」


 こよみが呼びかけると、藍は端末から視線を外さないまま片手を僅かに上げた。まだ切断しないという意味らしく、こよみもそれ以上は進めない。


『じゃあ、ちゃんと最初からやろうか』


 声が少しだけ弾んだ。恋は机の端へ指を置いたまま、白い波形から目を離せない。


『初めまして』


 ほんの一拍だけ間が空き、波形が再び持ち上がった。生徒会室にいる全員が次の言葉を待つ中、幼い声は親しげに続ける。


『姉さん』

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