第86話
三者面談を終えて生徒会室へ戻ってきた榊原藍は、少なくとも桜川恋の目には、出ていった時とほとんど変わって見えなかった。扉を開けて先に入室し、そのまま真由美が通れるよう脇へ寄る。面談で自分の進路を話してきた直後とは思えないほど、いつもの生徒会長の動きだった。
その後ろから入ってきた石上真由美も、廊下で何人もの教師や保護者とすれ違ったはずなのに、来校した時と変わらない穏やかな顔をしていた。さすがにサングラスとマスクはまだ手に持ったままで、完全に正体を隠すことは諦めているらしい。
恋は反射的に椅子から立ち上がった。自分が面談を受けたわけでもないのに、二人が戻ってきただけで肩が少し固くなる。
「お、お疲れさまでした」
「ありがとう、桜川さん。先生も丁寧にお話ししてくださったわ」
真由美はそう言いながら、恋の前まで来ると柔らかく微笑んだ。大女優と話している、という意識はさっきより薄れているはずなのに、真正面から目を合わせられると身体の方がまだ慣れてくれない。
「藍の学校での様子も聞けてよかった。生徒会の仕事もよくやっているって」
「はい。それはもう」
「ただ、少し抱え込みすぎるところがあるとも言われたけれど」
「それは本当にそうだと思います」
恋はほとんど間を置かず答えてしまった。言ってから隣の藍を見ると、案の定、赤い瞳がこちらへ向いている。
「恋」
「そこは否定しません。藍さん、自分で大丈夫って判断すると、本当に止まらないじゃないですか」
「私は現在、自身の職務量を適切な範囲に維持しています」
「その『適切』が藍さん基準だから心配なんです」
真由美が口元へ指を添え、小さく笑った。藍は今度は母親の方へ視線を向けたが、真由美は笑いを収める気配がない。
「よかった。ちゃんと言ってくれる子がいるのね」
「お母様」
「だって本当でしょう。あなた、自分のことになると平気な顔をして済ませるもの」
「必要以上に不安を与えないことは合理的です」
「そういうところよ」
恋は二人のやり取りを見ながら、少しだけ口を閉じた。藍の声も表情もいつも通りなのに、真由美の発言を止める時だけ返答がわずかに早い。生徒会長として誰かを制する時とは違う、家族に余計なことを言われた娘らしい間合いが、まだ珍しかった。
こよみはその横で来客記録を更新していた。不破は窓際の席に座り、面談から戻った二人を面白そうに眺めている。鶴見は別件で職員室へ出ており、いつもの席だけが空いていた。
「そういえば、週末は予定通りでいいのよね」
真由美が藍へ向き直った。急に話題が変わり、恋も何気なく二人を見る。
「はい。移動経路と滞在時間はこちらで調整済みです」
「よかった。向こうにも藍の方から連絡してちょうだい。あの人、全然連絡返してくれないのよ」
「週末、どこか行くんですか」
恋が尋ねると、真由美は特に隠す様子もなく頷いた。その顔には、単なる買い物や観光の予定を話す時と変わらない穏やかさがある。
「ええ。藍と二人で、少し出かけるの」
そこで真由美は一度だけ言葉を切った。恋が何気なく続きを待っていると、ごく普通の予定を告げるような声が返ってくる。
「榊原幸三に会いに行く予定よ」
恋の背筋が自然に伸びた。榊原幸三という名前を聞いただけで、以前訪れた場所の空気が蘇る。紙と機材に埋もれた部屋、藍について残されていた記録、そして目の前の存在を娘より研究成果に近いものとして扱っていた男の声まで、思ったより鮮明に残っていた。
「幸三さんに、ですか」
「ええ」
恋は藍へ視線を移した。本人は特に顔色を変えず、真由美の隣に立っている。
「……大丈夫なんですか」
「何を懸念していますか」
「何をって、その……前に会った時のことを考えると」
最後までは言わなかった。幸三が藍を拒んでいることを、本人の前で改めて説明する必要はない。
真由美は恋の言葉を急かさず、少しだけ目元を和らげた。幸三の名前が出たあとも、声を潜めたり話題を避けたりする様子はない。
「大丈夫よ。私も一緒に行くから」
「なお、お父様は現在も私との親子関係を実質的に拒絶しています」
「藍」
「事実です」
「事実でも、もう少し柔らかく言えるでしょう」
「意味が変化しない範囲で検討します」
「そういうところ、あの人に似たのかしら」
真由美が小さくため息をつき、恋は返事に困った。家族という言葉を使えば、真由美、藍、幸三の三人は確かに一つの形へ収まる。けれど、恋の知る幸三をその中へ置こうとすると、どこか一辺だけがどうしても繋がらなかった。
それでも真由美は、そこを無かったことにはしないらしい。幸三がどう思っているかとは別に、自分は会いに行き、藍も連れていく。その態度だけは、不思議なくらい揺れていなかった。
「桜川さん」
真由美に呼ばれ、恋は顔を上げた。いつの間にか、自分の方が訪問当事者のような顔をしていたらしい。
「そんなに心配しなくても大丈夫。藍は私が連れていって、私が連れて帰るから」
「……はい」
「心配してくれてありがとう」
礼を言われると、恋はそれ以上何も言えなくなった。藍本人が危険だと言っているわけでもなく、真由美も事情を知らずに動いている様子ではない。恋は小さく頷き、それでも週末までは少し気になるだろうと思った。
真由美はそのあと、こよみのところへ寄って二、三言話し、不破とも軽く言葉を交わした。不破が「今年も職員室の空気が普段より少し引き締まっていますね」と楽しそうに告げると、真由美は「私のせいかしら」と笑い、こよみは「その可能性は高いです」と即答した。
しばらくして、真由美が腕時計へ視線を落とした。学校へ入ってから予定より少し長く滞在していたらしく、廊下にも次の面談を終えた保護者たちの足音が増えている。
「そろそろ帰るわ。あまり長くいると、本当に迷惑をかけそうだもの」
「既に複数名の生徒が廊下から生徒会室を確認しています」
「こよみちゃん、それは教えてくれなくてもよかったわ」
真由美は苦笑しながら、机の端へ置いていたサングラスとマスクを手に取った。顔を隠すための道具なのに、恋にはもうどこまで役に立つのか分からない。真由美は立っているだけで姿勢や動きに目が行き、顔が見えなくても普通の保護者に紛れるのは難しそうだった。
藍は見送りのため、真由美より先に扉へ向かった。恋もつられて立ち上がり、こよみは端末から一度だけ顔を上げる。
真由美がマスクへ手を掛けたところで、藍が足を止めた。見送りへ向かっていた恋も、その声の前触れを感じたように動きを止める。
「お母様」
「何?」
「次に会う際は、もう少しお母様の本心とお話ししたいものです」
恋は一瞬、何を言われたのか分からなかった。真由美もすぐにはマスクを着けず、手に持ったまま藍を見る。
さっきまでの真由美は、恋にはどう見ても母親だった。娘の学校での様子を気にし、働きすぎを心配し、友人がいることに安心していた。週末には夫のもとへ娘を連れていくと言い、恋の心配にまで礼を返した。
それでも藍は、その全てをそのまま本心とは受け取っていないらしい。恋には母親にしか見えなかったものを、藍だけがまだ判断保留のまま見ていた。
「手厳しいわね」
真由美は怒らず、ほんの少しだけ口元を変えた。笑ってはいる。ただ、先ほどまでの笑みと同じものなのか、恋にはもう分からなかった。
「私は、お母様の発話内容だけを判断材料にしているわけではありません。視線、呼吸、姿勢、筋緊張、声の変化も観測しています」
「でしょうね」
「しかし、それらを含めても、現在示されている感情が自然に発生したものなのか、お母様が意図して構成された表現なのかを確定できません」
真由美はサングラスを持っていた手をゆっくり下ろした。その動きさえ演技なのかもしれないと考えた瞬間、恋は自分の見方まで信用できなくなりそうだった。
「あなたにも分からないの?」
「はい」
「それは少し安心したわ」
「安心ですか」
「全部見抜かれていたら、女優として困るもの。何十年やってきたと思ってるの」
真由美が笑う。冗談らしい軽さはあったが、その奥に何があるのかを藍は判別できないと言った。
恋には、なおさら分からない。さっきまでなら優しい母親の笑顔だと思えたものまで、一度疑い始めると輪郭が崩れていく。
「でもね、藍。少し違うのよ」
「何がでしょうか」
「本心と演技が、いつも綺麗に二つへ分かれているわけじゃないの」
真由美はすぐには続けず、手の中のサングラスへ一度目を落とした。こよみも端末へ触れる手を止め、不破は口を挟まず窓際から二人を見ている。
「悲しくなくても泣けるし、腹が立っていなくても怒鳴れる。好きでもない相手を愛しているように見つめることもできるし、楽しくなくても楽しそうに笑える。それが仕事だから、必要なら何度でもやるわ」
声は穏やかなままだった。華やかな仕事の話をしているはずなのに、恋には少し冷たいものが混ざったように聞こえた。
「でも、そういうことを何十年も続けているとね。演技だから何も感じていない、とは言えなくなる時があるの」
藍は黙って聞いていた。真由美は娘へ答えを教えるような口調にはならず、自分の話だけを続ける。
「泣く演技をしているうちに本当に悲しくなることもあるし、笑っているうちに少し楽しくなることもある。逆に、最初は本当に腹が立っていたのに、途中から『怒っている私』を上手く演じることの方に意識が移っている時もあるわ」
「では、お母様自身にも、起点となった感情と演技によって生成された反応の境界を識別できない場合があるのですね」
「そうね。たぶん、あなたが思っているよりずっと曖昧よ」
真由美は小さく息を吐いた。恋はその息が本当に疲れから出たものなのか、言葉に合わせて置かれたものなのかを考えてしまい、すぐにやめた。
「母親として娘を心配する私が、本物かどうか。そんなふうに聞かれたら、昔なら迷わず偽物だって答えたと思う。でも今は、そう答える自分まで含めて、どこからどこまでが役なのか分からなくなる時があるの」
恋は言葉を挟めなかった。真由美が藍を娘だと思っていない、と告白しているわけではない。むしろ、自分でそう信じている感情ですら、長年演じ続けた人間には簡単に本物と断言できなくなるという話だった。
「本当の自分がどこか奥にいて、演技を全部剥がせば出てくると思っていた時期もあったわ。でも、石上真由美を演じて、母親をやって、強い女を演じて、優しい人を演じているうちに、どれも私でいいんじゃないかとも思うようになった」
真由美の声は最後まで大きくならなかった。恋には、その方がかえって言葉が残った。
藍はすぐに返事をしなかった。ほんの数秒だけ真由美を見たあと、自分の胸元へ視線を落とす。
「私にも、近い問題があります」
真由美の目が藍へ戻った。先ほどまで自分自身の曖昧さを話していた時とは違い、今度は娘の言葉を待つように静かだった。
「私は自身の内部状態を観測できます。どの入力に対して、どの反応がどの程度発生したかを記録し、厳密に分類できます」
藍は淡々と話した。自分の内部について説明しているのに、声にはいつもの報告とほとんど差がない。
「しかし、その状態へ『喜び』『不安』『好意』と名称を与えることと、それが人間のいう感情であることは同一ではありません。説明可能性のあるものは感情と呼べるのか、計算から生じるなら感情ではないのか。そこには、まだ明確な基準がありません」
恋は、藍が以前から自分自身の感情について時々立ち止まることを知っていた。けれど、それを母親へ向けてここまで言葉にするところを見るのは初めてだった。
「私が感情を持っているように振る舞っているだけなのか、それとも実際に持っているのか。その二つを、私自身が完全には区別できないことがあります」
真由美はしばらく藍を見つめた。さっきまでの笑みは消えていたが、険しい顔でもなかった。
「やっぱり、私とは違うわ」
真由美は藍との距離を一歩だけ縮めた。触れるほどではなく、真正面から娘の顔を見るための距離だった。
「私は、感情がなくてもあるように見せる方法を知ってる。それが仕事だから。でもあなたは違う」
「違うのですか」
「ええ。だってあなたは、確かに『何か』を感じているのだから。そうでしょう?」
恋は藍の横顔を見た。いつものように整った表情のままだったが、返事だけがすぐには出てこない。
「お母様は、私に感情が存在すると判断しているのですか」
「私はそう思ってる」
「根拠は?」
「女優の勘」
「客観性がありません」
「こういう時くらい、なくていいのよ」
真由美がようやく笑った。今度の笑顔が演技なのかどうか、恋にはやはり分からない。それでも先ほどまでの話を聞いたあとでは、演技なら無意味という考え方そのものが少し違って見えた。
藍も数秒黙ったあと、ごく小さく頷いた。いつもの返答より、その間の方が恋には長く感じられた。
「参考意見として記録します」
「もっと素直に受け取れないの?」
「受け取っています」
「そう。ならいいわ」
真由美はサングラスを掛け、続いてマスクを着けた。ほんの数秒で、校門から入ってきた時の姿へ戻っていく。
「それにしても、そこまで私の演技に興味があるなら、あなたも一度やってみる?」
「女優として、ですか」
「冗談よ。でも表情の作り方くらいなら教えてあげる」
「学習対象としては興味があります」
「本気で芸能界に入りたいって言ったら止めるけどね」
「なぜですか」
「碌でもないことも多い世界だから。わざわざ娘を放り込みたくないわ」
「先ほどまでのお話と矛盾していませんか」
「親なんてそんなものよ」
藍が僅かに首を傾げ、真由美はそれを見て楽しそうに笑った。恋もつられて口元を緩める。
藍が扉を開けると、廊下から面談を終えた家族の話し声が入ってきた。真由美は一歩外へ出る前に振り返り、まず藍、それから恋へ視線を向ける。
「また週末にね、藍」
「はい、お母様」
「桜川さんも。またお会いしましょう」
「は、はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。藍をよろしくね」
恋は一瞬だけ何と返すか迷った。自分が藍を預かっているわけではないし、何でも支えられるほど頼れるとも思えない。
「私にできる範囲で」
「それで十分よ」
真由美は満足そうに頷き、そのまま廊下を歩いていった。サングラスとマスクで顔を隠しても、すれ違う保護者が一度は振り返る。歩き方が少し軽く見えた気がしたが、それこそ恋には本当かどうか分からなかった。
扉が閉まると、生徒会室へいつもの静けさが戻った。恋はしばらく扉を見たあと、隣に立つ藍へ視線を移す。
「藍さん」
「はい」
「今の話……真由美さんがどこまで本心だったか、やっぱり分からないんですか」
「はい。正確な判別はできません」
藍は即答したものの、そのまま自分の席へ戻ろうとはしなかった。閉じた扉へ一度だけ視線を向け、それから恋へ戻す。
「ですが、本心と演技を完全に分離できないというお母様の説明は、私の前提にありませんでした」
「じゃあ、少し分かったことが増えた?」
「増えました」
恋は頷いた。真由美の母親らしさが本物なのか、演技なのかという問いには、結局答えが出なかった。
けれど、どちらか一方でなければならないとも限らない。演じるうちに本当にそう感じることがあり、本当に感じていることを演技として形にすることもある。真由美がそう言うなら、さっき恋へ向けた笑顔も、一つの名前だけでは片づけられないのだろう。
藍はようやく会長席へ戻り、机の上に残っていた書類へ手を伸ばした。動きはもう完全にいつもの生徒会長へ戻っている。
それでも恋の中には、真由美の「あなたは確かに何かを感じている」という言葉が残った。母親の本心について話していたはずなのに、それはいつの間にか、藍自身がずっと答えを探しているものへも繋がっていた。




