第85話
三者面談のために来校した保護者が、放課後の校舎を行き交っていた。教室の前には待機用の椅子が並び、次の順番を待つ生徒と保護者が小声で話している。その間を、榊原藍と石上真由美は並んで歩いていた。
真由美は校舎へ入る前にサングラスとマスクを外していた。隠していた時よりかえって声をかけられず、すれ違う生徒が一度だけ顔を見て、そのまま数歩進んでから振り返る。あまりに堂々としているせいで、テレビや映画で見た人物と目の前の保護者がすぐには結びつかないらしい。
藍は三年生の教室が並ぶ廊下へ入ると、自分の教室の少し手前で足を止めた。担任が前の面談を終えるまでには、まだ数分ある。真由美も足を止め、娘の横顔へ視線を向けた。
「お母様。面談前に、いくつか『設定』を共有しておきたいことがあります」
「ええ。何かしら」
「私の進路希望は大学進学です。県内の総合大学を第一候補とし、情報工学を扱う学部・学科を志望しています」
「なるほどね。今日は、その話を先生とすればいいのね」
「はい。ただし、受験制度や大学ごとの選抜方式について、お母様が詳細まで把握している必要はありません。本人の意思は尊重したいが、受験については学校から助言を受けたい、という立場でいていただければ十分です」
真由美は少し目を細めた。役柄の説明を受けている時のようにも見えたが、口元には小さな笑みが残っている。
「娘の希望を応援しつつ、分からないところは先生に教えていただく母親、ね」
「概ねその認識で問題ありません」
「ずいぶん細かく演出をつけるのね」
「齟齬を避けるためです」
真由美が肩を揺らして笑うと、廊下の向こうで待っていた三年生がこちらへ顔を向けた。目が合う前に視線は逸れたが、その隣の母親まで同じ方向を見ている。真由美は気づいているはずなのに、そちらへは一度も顔を向けなかった。
「もう一つ。担任の先生は、お母様が来校することで通常より緊張する可能性があります。必要以上に圧力を与えないようお願いします」
「私、そんなに怖いかしら」
「意図の有無とは別に、知名度による心理的負荷は発生します」
「それ、褒めてはいないわよね」
「評価です」
真由美は困ったように笑い、教室の扉へ目を向けた。前の面談が終わったらしく、中から椅子を引く音が聞こえ、やがて生徒と保護者が出てくる。二人とも真由美を見た瞬間だけ歩調を乱したものの、何も言わず会釈して廊下を離れていった。
「以上です」
「分かったわ。先生を怖がらせないようにして、受験のことは学校を頼ればいいのね」
「はい。こちらの設定で問題はないでしょうか」
真由美はそこで、藍の顔を覗き込むように少し身を寄せた。からかう時の笑みが戻っている。
「私を誰だと思ってるの?」
藍は一拍だけ間を置いた。真由美の意図とは少し違う答えを、いつもと変わらない声で返す。
「お母様です」
真由美は口を開きかけたまま止まり、すぐには次の言葉を出さなかった。やがて目元だけを柔らかくすると、身を起こして小さく頷く。
「そうね」
教室の扉が開き、担任教師が顔を出した。藍へ向けた視線がそのまま真由美へ移り、ほんの一瞬だけ止まる。それでもすぐに教師としての表情へ戻り、手元の資料を持ち直した。
「榊原さん、お待たせしました。どうぞ」
「はい」
藍が先に一礼し、真由美も続いた。教室へ入る直前、真由美は担任へ深くなりすぎない程度に頭を下げる。
「本日はよろしくお願いいたします」
「あ、いえ。こちらこそ、お忙しいところありがとうございます」
「娘のことですから」
その一言に、担任の肩がわずかに硬くなった。けれど真由美は距離を詰めず、普段の学校行事へ参加する保護者のように静かに微笑む。担任も一度息を整え、面談用に向かい合わせた机へ二人を案内した。
藍が生徒側の椅子へ座り、真由美はその隣へ腰を下ろした。机の向こうでは担任が調査票と成績資料を重ね直し、最初の一枚を手元へ引き寄せる。黒板の端には本日の面談時刻が貼られ、廊下からは次の順番を待つ家族の声がかすかに届いていた。
「では、始めさせていただきます。最初に進路希望の確認からですが、第一志望は県内の総合大学、情報工学系の学科で間違いありませんか」
「はい。現時点では、その方向で考えています」
「成績面では、現在のところ申し分ありません。外部模試も優秀どころか、全国でもトップクラスの成績です。ただ、志望理由は今後、もう少し具体的に言葉にしておいた方がいいと思います」
担任はそこで一度調査票から顔を上げた。面談が始まってしまえば、相手が有名女優だという緊張より、生徒の進路を確認する教師としての調子の方が少しずつ前へ出てくる。
「榊原さんは、人工知能の分野に興味があるんですよね」
「はい」
「その中でも、特に何を学びたいと考えていますか」
真由美は隣で黙っていた。廊下で共有されたのは、情報工学と人工知能に関心があることまでで、その先の理由について藍から説明は受けていない。
藍は担任の方を見た。声量も表情も変わらず、少し考え込むような間も置かなかった。
「AIが感情を持つ可能性について学びたいと考えています」
担任の指が、調査票の上で止まった。意外な答えだったのか、一度だけ藍の顔を見直す。真由美も口を挟まなかったが、隣に置いていた手がほんの僅かに動いた。
「AIが、感情を持つ可能性……ですか」
「はい。人間が感情と呼んでいるものを人工知能が持ち得るのか、仮に持ち得るのであれば、それをどのように定義するべきなのかに関心があります」
藍はそこまで答えると、それ以上自分から言葉を足さなかった。真由美も娘の横顔を見たまま何も尋ねず、担任が次に話し始めるのを待っている。
「なるほど。技術として作れるかどうかだけではなく、その状態をどう捉えるかまで含めて、ということですね」
「はい」
「面白いテーマだと思います。ただ、大学によっては情報工学だけでなく、認知科学や人間との関わりを扱う研究室もあります。大学名だけでなく、どの先生が何を研究しているかまで見ていくと、志望校決定の決め手になるかもしれません」
「分かりました、参考にします」
担任は手元の資料へ短く書き込み、次に成績表をめくった。真由美はその間も何も言わず、藍が話した志望理由を自分から拾い直すこともしなかった。
「学力については、先ほど申し上げた通りです。榊原さんの場合、十分に合格できる範囲ですし、志望校のレベルを上げたいとなっても問題はないかと。ただし、生徒会活動もありますから、受験勉強との時間配分だけは早めに決めておきましょう」
「承知しました」
「親御さんとしては、進学について何かご希望はありますか」
担任が真由美へ向き直ると、声の調子に少しだけ慎重さが戻った。真由美はそれを感じさせないように微笑み、机の上で両手を重ねる。
「本人が納得して選べることが一番だと思っています。私自身、受験制度について詳しいわけではありませんので、見落としていることがあれば先生方にも教えていただけると助かります」
「もちろんです。そのための面談ですから」
「ありがとうございます」
真由美は静かに頭を下げた。廊下で藍から頼まれた通りの役割ではあったが、言葉には台詞をなぞるような硬さがない。担任の肩からも、入室した直後にあった力が少し抜けていた。
「ただ、一つだけ気になることがあるとすれば」
真由美が続けると、藍の視線が横へ動いた。事前に共有していた内容にはなかったらしい。
「この子、無理をしていても自分からは言わないことがありますので。学校でも、何か抱え込みすぎているようでしたら教えていただけるとありがたいです」
「お母様」
藍がすぐに口を挟んだ。制止するほど強い声ではなかったが、先ほどまで担任へ返していたものより少しだけ速い。
「学業および学校生活において、現状過度な負荷は発生していません」
「今は、でしょう?」
「はい。現在の話をしています」
「なら、これからもそうでいてくれればいいの」
真由美は藍へ柔らかく返してから、担任へ視線を戻した。藍もそれ以上は止めず、机の上の調査票へ目を落とす。
「榊原さんは生徒会長でもありますし、確かに仕事を抱え込みやすいところはありますね」
担任の口元に、ようやく教師として自然な笑みが浮かんだ。石上真由美を相手にしているという意識より、日頃見ている生徒の話ができる安心感の方が少し勝ったらしい。
「承知いたしました。本人が大丈夫と言っている時ほど、周りが見ておく必要があるのかもしれません」
「よろしくお願いします」
「お母様。担任の先生へ不要な要求を追加しないでください」
「要求じゃないわ。私なりのお願いよ」
「語義を変更しても、行為の負荷は大きく変わりません」
担任が堪えきれず小さく笑った。藍は理由が分からないようにそちらへ目を向け、真由美は何も言わず口元だけを緩めている。
面談はそのまま、入試方式と今後の日程の確認へ移った。オープンキャンパス、出願時期ついて担任が順に説明し、藍は必要な部分だけを確認する。真由美は分からない項目だけを尋ね、それ以外では娘と教師の会話を遮らなかった。
教室の外では、次の順番を待つ生徒の椅子が時折軋んでいた。校内のあちこちで同じような三者面談が行われ、進学先や成績、家庭での希望が話し合われている。
やがて担任は最後の資料をめくり、今後の予定を確認し始めた。石上真由美と榊原藍が同じ机についていても、面談そのものは最後まで高校三年生とその保護者のための時間として進んでいく。その普通さの中に、さっき藍が口にした志望理由だけが、まだ静かに残っていた。




