第84話
三者面談当日、桜川恋は朝から妙に時計ばかり見ていた。自分の面談ではないし、一年生の恋には進路希望を保護者と詰める時期もまだ遠い。
それでも二時間目が終わる頃には、今日の放課後というだけで胃のあたりが少し落ち着かなくなっていた。
昼休みには、向かいの席から古角光里に顔を覗き込まれた。パンを片手にした光里は、恋がまた時計へ目をやったところを見逃さなかったらしい。
「恋、今日なんかそわそわしてない?」
「してないよ」
「今、声ちょっと高くなったけど」
「生徒会の用事があるだけだから」
嘘ではなかった。問題は、その「生徒会の用事」を説明しようとすると、榊原藍の三者面談に石上真由美が来る、という一文だけで話が急に大きくなることだった。
光里なら驚いたあと素直に質問してくるだろうし、恋自身にもまだ上手く説明できそうになかったので、それ以上はパンの話へ逃げた。
放課後になると、恋は普段より少し早く生徒会室へ向かった。廊下には三者面談のために来校した保護者が行き交い、担任に案内される父親や、娘と小声で話しながら教室を探す母親の姿がある。どれも高校ではありふれた光景なのに、その中へこれから石上真由美が混ざると思うと、同じ行事の一部として扱ってよいのか分からなくなる。
生徒会室では、雪代こよみが来客予定の一覧を端末へ表示していた。恋が入室すると一度だけ顔を上げ、時刻を確認してから画面へ視線を戻す。
「桜川さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。藍さんは?」
「正面玄関前で待機しています。石上真由美様の到着予定時刻まで、残り約四分です」
「迎えに行ってるんですね」
「はい。来客対応を兼ねています」
恋は窓際へ近づいた。生徒会室からは玄関前のロータリーが斜めに見え、三者面談用に確保された来客スペースの端に、制服姿の藍が立っている。遠目でも背筋の伸び方で分かり、何人かの保護者が通り過ぎるたびに軽く会釈していた。
その姿を見ているうちに、校門から一台の黒い車が入ってきた。艶を抑えた大型のセダンで、派手な装飾はないのに、普段このロータリーへ入る車とは明らかに雰囲気が違う。運転席から先に男性が降り、周囲を一度見たあと、後部座席の扉を開いた。
降りてきた女性は、大きめのサングラスとマスクで顔のほとんどを隠していた。服装も落ち着いており、目立つ色は使っていない。それなのに、車の脇へ立っただけで近くを歩いていた生徒が何人か視線を向け、玄関にいた教師まで一瞬だけ足を止めた。
顔が見えないのに分かる、と恋は思った。姿勢や歩幅、相手へ顔を向ける角度まで、不自然なほど整っている。長年カメラの前へ立ち続けた人間は、目立たない格好をしても、目立たない立ち方まではできないのかもしれない。
「……あれ、ですよね」
「はい。石上真由美様です」
「確認する必要がないくらい本人ですね」
「本人ですので」
「そういう意味じゃなくて」
こよみは特に気にせず端末へ戻った。恋は窓から身を乗り出さない程度に近づき、玄関前へ視線を残す。
藍は車を降りた真由美のところまで歩み寄り、いつも通り丁寧に頭を下げた。真由美もサングラス越しに藍を見て、何か短く言葉を返す。距離があるうえ窓も閉まっているので声は聞こえなかったが、その瞬間だけ真由美の肩がふっと下がったように見えた。
抱きしめるわけでも、手を振るわけでもない。二人は数秒話したあと、そのまま並んで玄関へ向かう。華やかな再会ではないのに、恋にはその方がかえって親子らしく見えた。
「藍さん、普通ですね」
「何を想定していたのでしょうか」
「もっとこう……久しぶりの親子っぽい何かを」
「藍様は通常通りです」
「こよみさんの中では、それで全部説明できるんですね」
恋が苦笑しているうちに、二人の姿が玄関の庇へ隠れた。ロータリーに残った教師が小さく姿勢を直し、近くを通った生徒同士が何かを囁き合う。正体まで気づいた者がいるのかは分からないが、誰も車の周囲へ集まろうとはしなかった。
恋は窓から離れ、今度は生徒会室の扉を見た。ここへ来る。それだけのことなのに、さっきから心拍が少し速い。テレビや映画でしか見たことのない女優が、藍の母親として同じ部屋へ入ってくるという二つの情報が、まだ一つにまとまっていなかった。
廊下から二人分の足音が近づいてきた。藍の歩き方は聞き慣れているが、その隣には少し柔らかな靴音が重なっている。恋は無意識に制服の襟元を確かめ、椅子から立った。
扉が開き、先に藍が入ってきた。その後ろからサングラスとマスクを外した石上真由美が姿を見せた瞬間、恋は準備していた挨拶を一度きれいに忘れた。
画面で何度も見た顔だった。ただ、実際に目の前へ立たれると、テレビで見慣れていたはずの輪郭がかえって現実から浮いて見える。五十代という数字を知っているのに、表情が動くたび、その数字の方が間違っているような気さえした。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、藍様」
こよみが立ち上がると、真由美の視線がそちらへ向いた。恋へ来るものだと思って身構えていたので、少しだけ肩の力が抜ける。
「あら、こよみちゃん。久しぶりね」
「お久しぶりです、石上真由美様」
「またそんな呼び方してるの?」
「現在の状況では適切と判断しています」
「去年も同じことを言っていたわね」
真由美は笑いながらこよみの前へ歩み寄り、自然に少し膝を曲げた。背の低いこよみと目線の高さを合わせるためだと分かるまでに、恋は一瞬かかった。
「元気にしてた?」
「はい。機体状態、基幹系統ともに異常はありません」
「そう。よかった」
真由美はこよみの頭へ手を伸ばしかけ、触れる寸前で止めた。こよみが嫌がるかどうかを確かめるような間を置いてから、髪の表面をほんの一度だけ撫でる。
「あら、少し背が伸びた?」
「いいえ。外装構成に身長へ影響する変更はありません」
「そこは『そうかもしれません』くらいでいいのよ」
「事実と異なる回答になります」
「相変わらずねえ」
こよみは無表情のままだったが、真由美の手を避けることもしなかった。そのやり取りには、初対面の来客と生徒会役員にはない馴染みがあり、恋は少しだけ見入った。
藍と真由美の関係だけでもまだ処理できていないのに、こよみまで家族の輪の近くにいるように見える。血縁という言葉を使い始めると、そもそも誰にも当てはまらなくなりそうなので、恋は考えるのをやめた。
「お母様」
藍が呼ぶと、真由美はこよみから顔を上げた。声に急かす響きはなかったが、紹介を忘れないよう促したらしい。
「こちらが桜川恋です。現在、監査等委員長として生徒会の運用に関わっています」
「は、初めまして。桜川恋です」
恋は慌てて頭を下げた。さっきまで考えていた挨拶は完全に消えており、名字と名前を言えただけでも十分だと思うことにした。
「初めまして。石上真由美です」
真由美も丁寧に頭を下げた。画面の中で見ると華やかさの方が先に立つ人なのに、こうして向き合うと声は思ったより柔らかい。
「いつも藍がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ。私の方が藍さんには、いつもお世話になっていて……」
途中で自分が何を返しているのか分からなくなった。お世話になっていること自体は間違いないが、その中身には通常の学校生活では説明しづらい出来事まで大量に含まれている。そこまで思い出してしまい、恋は余計に言葉を続けられなくなった。
真由美は困らせるように追及せず、少しだけ目元を和らげた。恋の顔から藍へ視線を移し、もう一度こちらへ戻す。
「藍と仲良くしてくれて、ありがとうね」
「え」
「この子、人付き合いの話をあまりしないでしょう。学校でちゃんと友達ができているのか、少し心配していたの」
「お母様」
藍の声が普段より半拍ほど早く重なった。表情はいつもと変わらないが、会話をそこで区切ろうとしたことだけは恋にも分かった。
恋は思わず藍を見る。生徒会長として誰かの発言を止める時とは違う。母親に自分のことを話され、これ以上は広げないでほしいと遮った娘の反応に近かった。
「藍さんでも、そういう止め方するんですね」
「何のことでしょうか」
「いえ」
真由美が小さく笑った。藍はその笑いへ視線を向けたが、理由を尋ねることはしなかった。
「表情は、たしかに分かりにくいですけど」
恋は言ってから、真由美へ向き直った。ここで母親へ告げ口するようになっていないか少し不安になったが、もう続きは出てしまっている。
「でも、ずっと一緒にいると分かる時はあります。たぶん、本人が思っているより」
「そう」
真由美の目が少し細くなった。その視線は恋ではなく、ほんの一瞬だけ藍へ向いていた。
「それなら、よかった」
短い言葉だった。けれど、恋が映画で見てきた石上真由美のどの台詞よりも、この場では素直に聞こえた。
演技かどうかなど、恋には判別できない。目の前にいるのは、それを仕事として何十年も続けてきた人だ。それでも、娘に友人がいると知って安堵している母親にしか見えない瞬間が、確かにあった。
「恋は、優秀な監査等委員長です」
藍が淡々と補足した。急に評価を差し込まれ、恋は今度こそ藍の方を向く。
「監査業務だけでなく、私が判断を誤った場合にも意見を述べます。私にとって重要な人物です」
「藍さん、そこまで紹介しなくても」
「事実です」
真由美は二人をゆっくり見比べた。何かを確認するような目をしたあと、口元に小さな笑みを浮かべる。
「そう。なるほどね」
「何がでしょうか」
「何でもないわ」
「判断材料が不足しています」
「そういうところよ、藍」
藍はわずかに首を傾げた。恋には真由美が何を納得したのか分からなかったが、聞かない方がよさそうな気がした。
こよみが端末を確認し、面談開始まで残り三分だと告げた。真由美は腕時計へ視線を落とし、思っていたより時間が経っていたらしく小さく息を吐く。
「もうそんな時間なのね」
「お母様。教室まで案内します」
「お願いするわ」
藍が扉へ向かうと、真由美も一歩遅れて続いた。けれど部屋を出る前に足を止め、恋の方へ振り返る。
「桜川さん」
「はい」
「面談が終わったあと、もし時間があれば少しお話ししてもいいかしら」
「私とですか?」
「ええ。藍が学校でどんなふうに過ごしているのか、本人以外からも聞いてみたいの」
恋は反射的に藍を見た。藍は止める様子もなく、真由美の言葉をそのまま受け入れている。
「私でよければ、もちろん」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
真由美は柔らかく笑い、今度こそ藍と一緒に生徒会室を出ていった。扉が閉まる直前、廊下から「あまり余計なことは聞かないでください、お母様」「それは内容によるわね」と小さな声が聞こえ、恋は危うく吹き出しそうになった。
扉が閉まると、生徒会室には端末の小さな動作音だけが残った。恋は立ったまま数秒その扉を見つめ、それからようやく肩の力を抜いた。
「……すごかった」
「何がでしょうか」
「全部です」
こよみは一度だけ恋を見たが、それ以上は聞かなかった。代わりに来客記録へ何かを入力し始める。
恋は自分の席へ座り、さっきまでの光景を順番に思い返した。黒い車から降りてきた大女優も、こよみの頭を撫でていた女性も、藍の友人へ礼を言った母親も、すべて同じ石上真由美だった。
そして何より、藍の方が気になった。真由美の前でも基本的にはいつもの藍なのに、話を遮る速さや、わずかな間だけが普段と違う。恋が今まで見てこなかった「娘としての榊原藍」が、ほんの少しだけそこに混じっていた。
面談が終われば、真由美はまたここへ戻ってくるらしい。今度は自分から藍の学校生活を聞くと言っていた。何をどこまで話していいのか考え始めると、さっき落ち着いたはずの胃がまた少し重くなる。
それでも、恋は閉じた扉を見ながら小さく息を吐いた。石上真由美という名前の大きさより、「お母様」と呼ばれた時に返事をする一人の女性の方が、今はずっと強く頭に残っていた。




