第83話
生徒会室の中央机には、いつもの電子端末に混じって、進路希望調査票が何枚か置かれていた。白い紙の上には「第一志望」「第二志望」「進学・就職」の欄が並び、放課後の生徒会室にしては妙に学校らしい。恋は自分の席へ鞄を置きながら、その一枚を横目で見た。
「三年生って、もう三者面談なんですね」
「ええ。下級生より早い時期に実施されます」
会長席の藍は答えながら、自分の調査票へ視線を戻した。横ではこよみが生徒会の端末を操作し、不破廻は記入欄を埋める気配もなく紙を眺めている。鶴見秋臣だけは会計資料から顔を上げず、三年生組の進路に巻き込まれるつもりがないようだった。
恋にとって大学受験はまだ先の話で、今まではどこか他人事のようなものでしかなかった。けれど目の前には受験生が二人いる。夏が近づいていることを急に突きつけられた気がした。
「藍さんも面談するんですよね」
「はい。三年生ですので」
「進路希望、何て書いたんですか」
「現時点では進学希望です。進学先については複数候補を比較しています」
恋は藍の手元を見た。大学名までは見えなかったが、第一志望の欄には既に文字が入っているらしい。
「大学、行くんですね」
「その可能性が高いです」
「何か……普通ですね」
「進学は一般的な選択肢です」
「そうなんですけど」
藍が大学の講義室に座っている姿を想像しようとして、恋は途中でやめた。似合わないわけではない。むしろ教授より先に答えを出してしまいそうなところまで含めて似合っている。
ただ、人工知能が周囲と同じように願書を書き、試験を受け、三者面談で進路を話すところまで考えると、まだ頭のどこかが追いつかなかった。
「恋。何か問題がありますか」
「いえ。現実って時々、変なところだけ律儀だなって」
「意味が分かりません」
「私も上手く説明できません」
不破が隣で小さく笑った。藍はそれ以上追及せず、進路希望票を一枚下へ重ねる。
恋はそこで、三者面談という言葉のもう一つの部分に気づいた。生徒と担任だけではない。三者目として、保護者が来る。
「そういえば、藍さん」
「はい」
「三者面談って、保護者の人も来ますよね」
「来ます」
「……誰が来るんですか」
尋ねた直後、恋の頭には榊原幸三の顔が浮かんだ。藍を作った研究者であり、藍から「お父様」と呼ばれていた男。けれど、あの二人を親子として同じ机へ座らせる想像は、どうしても上手く形にならなかった。
以前見た幸三の態度を思い出す。娘と父という言葉だけでは収まりきらない距離があり、藍もそこへ無理に家族らしさを重ねようとはしていなかった。学校へ保護者として来る姿は、少なくとも恋には思い浮かばない。
藍は調査票の端を揃え、何でもない確認へ答える時と同じ声で言った。視線だけが、まっすぐ恋へ向く。
「お母様が来ます」
「……お母様?」
「はい」
恋はすぐに次の言葉を出せなかった。榊原幸三についてなら知っている。けれど藍から母親の話を聞いた記憶は、一度もない。
「藍さん、お母さんいるんですか」
「戸籍上は存在しています」
「その言い方、急に不安になるんですけど」
「事実です」
こよみが端末から顔を上げた。指先も画面の上で止まっている。
「藍様には、戸籍上の父母が設定されています」
「こよみさんまで普通に補足しないでください。私だけ知らなかったみたいになるじゃないですか」
「桜川さんから質問を受けた記録がありません」
「だって、お母さんがいるかどうかなんて普通は確認しませんよ」
「では、今回が最初の確認です」
「そういうことじゃなくて……」
恋は額へ手を当てた。相手が藍とこよみになると、驚く側だけが間違っているような気分になる。
「それで、その……どんな方なんですか」
藍はほんの一瞬だけ恋を見た。それから、机の上に置いた調査票へ指先を添える。
「石上真由美さんです」
聞き覚えのある名前だった。ありすぎて、逆に意味へ変わるまで時間がかかった。
「……石上」
「はい」
「石上真由美って、女優の?」
「はい」
「映画とかにも出てる、あの石上真由美ですか」
「恋が他に同姓同名の石上真由美を想定していないのであれば、その方です」
恋は机へ両手をついた。立っていたわけではないのに、何かに掴まっていないと体勢がずれそうだった。
「待ってください。藍さんのお母さんが、石上真由美さん?」
「戸籍上はそうです」
「また戸籍上って言った」
「重要な区別ですので」
テレビで見た顔が頭に浮かぶ。映画、ドラマ、化粧品の広告。国内だけでなく海外作品にも出演し、歳を取らないとまで言われている女優。恋の母親も好きだったはずで、少し前には海外ロケの記事をスマートフォンで見た記憶がある。
その人物と、目の前の榊原藍が親子として同じ戸籍に入っている。二つの情報はそれぞれ理解できるのに、並べた瞬間だけ頭の中で接続を拒んだ。
「石上さんって、お子さんがいるって公表してましたっけ」
「していません」
「ですよね。私、聞いたことないです」
「芸能活動上、その情報は公開されていません」
「今の話、私が聞いて大丈夫なやつですか」
「既に知った以上、取り扱いには注意してください」
「そこは先に言ってください」
不破が調査票から顔を上げた。いつから聞いていたのか分からないが、驚いた様子はなかった。
「石上さんなら去年も来ていたよ」
「不破先輩、知ってたんですか」
「もちろん。三者面談の日に職員室の空気が少しだけ固くなってね」
「国民的女優が学校に来たら、そうなりますよ」
「表向きはみんな平静だったけれど」
「表向きは?」
「廊下の角から二度見した先生を三人見た」
「全然平静じゃないじゃないですか」
不破は楽しそうに笑った。こよみは既に作業へ戻り、鶴見も会計資料を閉じる気配がない。生徒会室の中で、この情報に取り乱しているのは恋だけだった。
「鶴見先輩も知ってたんですか」
さすがに気になって声をかけると、鶴見は数字を確認していた指を止めた。面倒そうというより、質問に答えるためだけに作業を中断した顔だった。
「昨年度も来校されているので」
「感想とかないんですか」
「必要な手続きが通っているなら、それ以上は何も」
「思った通りの答えが返ってきた……」
「何を期待していたんだ」
恋は返事を諦めた。どうやら生徒会役員にとっては、石上真由美が学校へ来ることさえ既知の定例案件らしい。
「なお、石上は芸名として使用している名字です」
藍が補足し、恋はまた一段階だけ情報が増えた気がした。驚く間もなく次が来る。
「現在の戸籍上の氏名は榊原真由美です。芸能活動では長年使用してきた名義を継続しています」
「じゃあ、本当に同じ榊原なんですね」
「はい」
「それが今まで表に出てないの、かなりすごくないですか」
「必要な範囲で情報は管理されています」
平然と返され、恋は藍を見つめた。芸能人の家族情報など、本人が黙っていてもどこかから漏れそうなものだ。まして石上真由美ほどの有名人なら、娘がいると分かっただけでも週刊誌が何ページ使うか分からない。
けれど恋自身、今日まで何も知らなかった。同じ学校に通い、生徒会室へ出入りしていても、噂を耳にしたことすらない。
「去年、学校で騒ぎにならなかったんですか」
「生徒が集まるような事態は発生していません」
「写真とか撮られたり」
「校内で無断撮影する行為は、状況によって指導対象となります」
「そうじゃなくて……みんな我慢できたんですか」
不破が紙を指先で弄びながら、横から答えた。去年の光景を思い出しているのか、口元には薄い笑いが残っている。
「青葉第二の生徒は、案外そういうところでは行儀がいいよ。気づいても、遠巻きに見るくらいだった」
「全員?」
「少なくとも、僕が見た範囲ではね。先生方の方が少し危なかった」
「先生……」
「有名人を前にした時、人は肩書きより先に本性がでるらしい」
「それっぽいこと言って誤魔化さないでください」
恋はため息をつき、もう一度藍を見る。騒がれなかったことも不思議だが、それ以上に気になることがあった。
「藍さんは、石上さんのことを本当に『お母様』って呼ぶんですね」
「はい。私の母親ですので」
「幸三さんも『お父様』でしたよね」
「はい」
言葉だけなら、ひどく整った家族に聞こえた。父と母がいて、娘がいて、学校の三者面談には母親が来る。
けれど恋は、榊原幸三と藍の間にあるものを少しだけ知っている。家族という言葉だけでは綺麗に畳めない関係だった。
なら、石上真由美はどうなのだろう。藍を娘だと思っているのか。藍は石上真由美を母親としてどう見ているのか。聞いてみたい気持ちはあったが、さすがにそのまま口へ出すのは違う気がした。
「お母様は、今回の面談に合わせて帰国されます」
藍が先に話を進めた。恋が聞くか迷っていたことを、こちらから区切るような調子だった。
「現在は海外での撮影を終え、帰国予定です。その後、一週間ほど休暇を取ると聞いています」
「三者面談のために?」
「三者面談だけが目的ではありません。私と過ごす時間を確保する意図もあるそうです」
恋の口が少し開いた。思っていたより、ずっと普通の答えだった。
「会いに来るんですね」
「はい」
「忙しいのに」
「本人の希望です」
藍はそれ以上説明せず、進路希望票へ視線を戻した。ただ、紙を揃えていた指先が一度だけ止まり、それから何事もなかったように動き出す。
恋はその小さな間を見た。意味まで決めることはできなかったが、少なくとも藍にとって完全な事務連絡ではないらしい。
「不破先輩のところは、ご両親が来るんですか」
少し空気を変えたくなり、恋は隣へ話を振った。不破は待っていましたとばかりに調査票を持ち上げる。
「うちは普通に両親のどちらかだね」
「普通なんですね」
「失礼だな。僕にも普通の家庭はあるよ」
「不破先輩自身が普通じゃないので」
「前世を複数持っていることを除けば、善良な高校三年生だよ」
「一番大きいところを除外しないでください」
不破は笑いながら、まだ空白の多い進路希望票を恋へ見せた。第一志望の欄まで、今のところ見事に白い。
「ただ、進路については少し悩んでいる。過去に経験した職業なら、薬師、軍師、吟遊詩人、神官、王宮書記官あたりがあるけれど、今の日本で求人票を見るのは難しそうだ」
「ご両親、大変そうですね」
「前世の話をしても年頃の息子が変な事を言ってると思って流してくれるくらいには、優しい両親さ」
「大学とか普通の選択肢はないんですか」
「あるから悩んでいるんだ。現世では現世の人生を生きるべきだと思っているからね」
思ったよりまともな言葉が返り、恋は少しだけ驚いた。不破はそんな反応も楽しそうに眺めている。
「恋」
藍に呼ばれ、恋は顔を戻した。会長席では、藍が進路希望票を机へ置いている。
「お母様の件については、必要以上に外部へ話さないようお願いします。生徒会主要メンバーと一部の教職員を除き、積極的には共有していません」
「もちろんです。言いふらしたりしません」
「ありがとうございます」
「ただ、私が知ってるだけでもちょっと緊張するんですけど」
「なぜでしょうか」
「相手が石上真由美さんだからです」
「お母様は、恋に危害を加える人物ではありません」
「そういう怖さじゃないです」
藍は僅かに首を傾げた。本当に分からないらしい。
「それと、三者面談当日は生徒会室へ立ち寄る可能性があります」
「……誰がですか」
「お母様です」
「ですよね」
分かっていたのに確認してしまった。恋は椅子の背へ浅くもたれ、息を吐く。
「その際、恋もいれば紹介します」
「私を?」
「はい。監査等委員長として、生徒会の運用へ関わっている方ですので」
「その肩書き、最近すごく便利に使われてません?」
「事実を説明しているだけです」
「石上真由美さんに紹介されるための肩書きじゃないんですけど」
不破がまた笑った。鶴見は今度こそ会話へ入る気がないらしく、黙々と電卓を叩いている。
「私、何を話せばいいですか」
「通常の挨拶で問題ありません」
「通常の挨拶が難しい相手なんですよ」
「お母様は対人会話に慣れていますので、会話が停滞する可能性は低いです」
「そういう問題でもないです」
「必要であれば、事前に公開プロフィールを共有します」
「それはもっと違います」
藍は「そうですか」と真面目に頷いた。恋はまた額へ手を当てる。
机の上には、まだ進路希望調査票が並んでいる。第一志望、第二志望、保護者確認欄。どこの高校にもありそうな紙の上から始まった話なのに、気づけば国民的女優が藍の母親で、しかも三者面談のため学校へ来るところまで進んでいた。
普通の学校行事のはずだった。進路を話し、保護者が来て、担任と生徒が同じ机につく。それだけのことなのに、藍の周囲へ置かれると、どこか一か所だけ現実の尺度が合わなくなる。
恋は会長席の横顔を見る。藍は既に進路希望票へ視線を戻し、先ほどと変わらない顔で記入内容を確認していた。
けれど、「お母様」という言葉だけが妙に残った。石上真由美という名前よりも、そちらの方が気になった。世界的な女優でも、有名人でもなく、藍がそう呼ぶ一人の母親が学校へ来る。
その時、今の自分が知らない藍の顔を少しだけ見ることになるのかもしれないと、恋はぼんやり考えていた。




