第82話
海外ロケ最後のカットに、監督の声がかかった。張りつめていた現場の空気がほどけるまで、ほんの一拍しかかからなかった。照明の向こうで拍手が広がり、誰かが口笛を吹き、助監督は笑いながら目元を拭っている。
石上真由美は、その輪の中心でしばらく立ったままだった。頬には血糊が残り、黒い衣装には煤がこびりついている。つい数秒前まで、復讐のためにすべてを捨てた女としてカメラを睨んでいた目だけが、まだ役の時間を引きずっていた。
「オーケー! これで終わりだ!」
監督がもう一度声を張ると、拍手がさらに大きくなった。真由美はようやく肩の力を抜き、監督と短く抱き合い、共演者と握手を交わす。差し出された花束を受け取った頃には、口元の硬さも少しずつ消えていた。
三枝理沙は少し離れた場所から、その変化を見ていた。石上真由美を担当してかれこれ十年以上になるが、撮影直後の数分だけは今でも声をかけるタイミングを測る。役から戻る速度は作品ごとに違い、その間だけは、普段の真由美へ無理に引き戻さない方がいい。
日本で彼女の名前を知らない者は少ない。五十代に入ってなお主演作が途切れず、海外の監督から名指しで呼ばれ、英語の台詞も現地スタッフとの会話も苦にしない。撮影現場では若い俳優より先に立ち、誰より遅くまで残ることも珍しくなかった。
それでも、理沙が見慣れているのはそうした強さだけではない。撮影が終わったあと、誰にも見せないように深く息を吐く瞬間や、車へ乗った途端に靴を脱ぎたがることも知っている。だからこそ、数か月続いた撮影の最終日にまで崩れなかった背筋を見ると、まず労うより先に休ませたくなった。
写真撮影が始まり、真由美は花束を抱えたままスタッフの列へ加わった。監督が肩を寄せて何か冗談を言うと、彼女は声を立てて笑う。その笑顔を見たところで、理沙はようやくタブレットを抱え直し、人の輪へ近づいた。
現地スタッフの中には、この作品で初めて真由美と仕事をした者も多かった。最初の一週間は距離を測るように話していた照明助手も、今では冗談を飛ばし、若い衣装スタッフは花束を渡したあとに記念写真を頼んでいる。真由美は一人ずつ名前を呼び、誰に対しても同じ調子で応じていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとう。理沙さんも、お疲れさま」
真由美は花束越しに理沙を見た。顔の半分にはまだ撮影用の汚れが残っているのに、カメラが向けばそのままポスターになりそうな立ち方をする。意識している様子はないのに、周囲の視線が自然と集まってしまう人だった。
「このあとはメイクを落として、衣装を返却。ホテルへ戻ります。明日は午前便で帰国して、到着後に空港で取材が一件です」
「取材、長くならない?」
「先方には短めでお願いしています。今回の撮影終了コメントと、国内公開に向けて一言。その二点だけです」
「それなら大丈夫」
真由美は頷き、花束を抱え直した。動作に疲労は見せないが、指先はいつもよりゆっくり花の包装紙を押さえている。夜間撮影と移動が重なったここ数日は、ホテルへ戻ってから翌朝までの時間も長くはなかった。
理沙は予定表を開き、その先へ視線を移した。帰国翌日の欄から、一週間だけが不自然なほど白い。広告撮影も取材も打ち合わせもなく、普段なら時間単位で埋まる真由美の予定が、そこだけきれいに空いている。
「帰国後の一週間は、予定どおり空けてあります」
真由美の目元が少しだけ緩んだ。撮影終了を告げられた時より、その変化は小さい。それでも理沙には分かった。
「助かるわ」
「二か月前から言われていましたから。そこだけは絶対に入れないでくれ、と」
「ずいぶん無理を言ったわね」
「とんでもないです」
理沙が返すと、真由美は小さく笑った。仕事に関して彼女が予定へ強く口を出すことは少なく、長期拘束も地方ロケも、役に必要なら淡々と受け入れる。宣伝の仕事まで含めて断ることの少ない人が、あの一週間だけは最初から譲らなかった。
理由を聞いたのは、予定を押さえた日のことだった。真由美は何でもないことのように、娘に会いに行くから、と答えた。理沙はその時、返事をするまでに数秒かかった。
石上真由美に娘がいるという話は、芸能ニュースにも週刊誌にも出ていない。理沙自身も長く担当していながら、一昨年あたりまで知らなかった。しかも後から聞かされたのは、血の繋がった娘ではないということだけだった。
名前も、年齢も、住んでいる場所も知らされていない。顔写真を見たこともなければ、連絡先を預かったこともない。マネージャーとして考えれば確認しておきたい項目はいくつもあったが、真由美はそこだけを静かに閉じたままにしていた。
理沙も、それ以上は尋ねなかった。仕事に必要な情報まで伏せられれば話は別だが、この一週間は完全な休養扱いにできる。本人が守ろうとしている場所へ、管理する側の都合だけで踏み込む気にはなれなかった。
本来なら、著名人の私生活ほど事前の備えが要る。移動先で写真を撮られれば、相手の素性まで一緒に掘られるし、本人が何も語らなくても周囲から話が漏れることはある。理沙はそうした事態を何度も見てきたから、知らないままでいることには今でもわずかな居心地の悪さがあった。
それでも、真由美が娘のことだけは仕事の外へ置こうとしているのも分かっていた。隠し事を面白がっているのではなく、必要以上の人間を近づけないようにしている。その線を越える必要が生じた時には本人から話すだろうと、理沙は十年以上の付き合いの方を信用していた。
「一週間で足りますか」
理沙が聞くと、真由美は少し考えるように視線を落とした。花束の中から一本だけ外へ出ていた葉を、指先でそっと内側へ戻す。
「どうかしらね」
「必要なら、もう少し後ろの方まで調整できます。次の打ち合わせは動かせますし」
「……いいえ、一週間で大丈夫よ」
「本当に?」
「あの子にも、あの子の生活があるもの。私が会いたいからって、ずっと居座るわけにもいかないでしょう」
あの子、と呼ぶ時だけ、真由美の声は少し低くなる。仕事仲間を気遣う時とも、若手俳優を褒める時とも違い、言葉を急がずに置くような話し方になる。理沙はその変化を聞くたび、知らない娘の輪郭をかえって想像しづらくなった。
「娘さんには、もう連絡してあるんですか」
「ええ」
「帰る日も?」
「伝えてあるわ」
「喜んでいました?」
真由美はすぐには答えなかった。花束を近くのスタッフへ預け、空いた両手で髪を耳へ掛ける。
「たぶん」
「たぶん?」
「あの子、感情を表に出さないから」
理沙は一瞬、気難しい娘なのだろうかと思った。けれど真由美の言い方には、扱いづらさを嘆く響きがまるでない。むしろ、それをよく知っていること自体を大切にしているように聞こえた。
「分かりづらいんですか」
「かなり」
「真由美さんでも?」
「私だから余計に分からないのかもしれないわね」
それ以上は説明しなかった。理沙も追いかけず、タブレットを閉じる。
「では、日本では完全にプライベート扱いにします。空港取材のあとはこちらで用意した車へ乗ってください。以後の問い合わせは全部、休養中で通します」
「ありがとう」
「移動先は、こちらで把握しなくても大丈夫ですか」
「必要になったら連絡するわ」
「分かりました」
真由美は短く頷いた。その答えで十分だった。理沙が一緒についていく必要のない場所なのだろう。
二人はメイクルームのある建物へ向かった。撮影を終えたスタッフたちが機材を片づけ始め、照明が一つずつ落とされていく。夜の空気にケーブルのゴムと土埃の匂いが混じり、遠くではまだ誰かが真由美の名前を呼んでいた。
呼ばれるたび、真由美は振り返って手を振った。英語で労いを返し、写真を頼まれれば足を止める。その間だけは、どこから見ても世界的女優の石上真由美だった。
人の列が途切れると、真由美は前へ向き直った。歩幅は変わらないのに、肩の位置がほんの少し下がる。理沙は隣を歩きながら、その変化を横目で見た。
「緊張しますか」
口にしてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。仕事上の確認ではなく、完全に理沙個人の好奇心だった。
真由美は足を止めなかった。数歩進んでから、小さく息を吐く。
「するわ」
「真由美さんでも?」
「するわよ」
「ちょっと意外です」
「役に入る方が楽なくらい」
理沙は思わず真由美を見た。復讐に身を焼く女も、病に倒れる母親も、国家を動かす政治家も演じてきた人が、娘に会いに行くことの方を難しいと言う。
「台本には、相手が何を言うか書いてあるでしょう。私が何を返せばいいかも、最後には決まっている」
「現実は違う、と」
「どんな展開になっても、監督はカットをかけてくれないもの」
理沙は何も返せなかった。真由美は少し笑って前へ向き直ったが、その笑みは撮影終了の写真で見せていたものよりずっと小さかった。
メイクルームの前まで来ると、真由美は扉へ手を伸ばした。中から衣装担当とメイクスタッフの話し声が聞こえ、鏡の周囲にはまだ明るい照明がついている。
「母親の役は何度もやったけれど、実際に母親として娘のところへ行くと、今でも何をすればいいのか分からなくなるのよね」
扉を開ける前に、真由美はそう言った。理沙へ答えを求めているわけではないらしく、視線は扉の向こうへ向いたままだった。
理沙の頭には、顔も名前も知らない娘のことが浮かんだ。血は繋がっていない。それでも、真由美は娘のために二か月前から予定を空け、海外ロケを終えた翌日には日本へ戻ろうとしている。
「では、せめて邪魔が入らないようにしておきます」
理沙が言うと、真由美は少し振り返った。その表情からは、さっきまであった迷いがほんの少しだけ薄れていた。
「お願い」
「それと、お土産はどうしますか。空港についてからある程度は時間が取れますが」
「もう買ったわ」
「いつの間に?」
「昨日。撮影の合間に少し抜けたでしょう」
「あれ、お土産だったんですか」
「ええ」
理沙は昨日の休憩を思い返した。珍しく真由美が一人でホテル近くの店へ行きたいと言い、二十分ほど姿を消していた。海外ロケ終盤で何を買うのかと思っていたが、行き先を聞かなかった理由がようやく分かった。
「何を買ったんです?」
「内緒」
真由美はそこで、ようやく自然に笑った。復讐者の名残も、カメラへ向ける女優の笑顔もない。娘への土産を隠している、一人の母親の顔だった。
「気に入ってくれるといいんだけど」
「たぶん、大丈夫ですよ」
「その根拠は?」
「真由美さんが自分で選んだものだからです」
「それだけ?」
「それだけです」
真由美は少しだけ目元を伏せた。答えは返ってこなかったが、否定もしなかった。
メイクルームの中から名前を呼ばれ、真由美は英語で返事をした。扉を開ければ、鏡の前には撮影を終えた主演女優を待つスタッフがいる。彼女はいつもの足取りで中へ入り、椅子の前まで進んでいった。
理沙は入口の脇で予定表を開き直した。一週間の空白は、何度見ても彼女のスケジュールには似合わない。それでも今だけは、その白さを崩さずに残しておくことが自分の仕事だと思えた。
鏡の中では、血糊を落とされ始めた石上真由美の顔が少しずつ元へ戻っていく。主演映画を撮り終えた世界的女優と、娘への土産を鞄へ忍ばせて帰国する母親は、同じ鏡の中に並んだままだった。




