第81話
あれから数日後、青葉第二高等学校と青葉第一高等学校による定期戦が行われた。
校内へ広がっていた認識改変はすでに解除され、ミレイは正式な転校生として青葉第二へ籍を置いている。
少なくとも、書類上は完全にそうなっていた。
鶴見秋臣が認識改変によって生じた会計上の不整合を一つずつ洗い出し、転入日以前の不自然な予算処理を修正したうえで、学生証の発行費、教材費、制服の規格確認に至るまで正式な手順を通したのだ。ここまで整えられてしまえば、本人が異世界出身の元魔王軍幹部であることなど関係なく、誰が何と言おうとミレイは青葉第二高等学校の生徒だった。
ただし、今そのミレイが、青葉第二側の応援席で全力を挙げて応援している相手は、青葉第一の選手である。
「ショーマ! 打てー! ショーマ!」
声が大きい。
周囲の応援をかき分け、グラウンドの反対側まで届きそうなほど大きい。
しかも、ここは青葉第二側のスタンドである。
恋は座席へ腰を下ろしたまま、そっと胃のあたりを押さえた。
周囲の生徒たちがちらちらとこちらを見ている。正面だけを向き、何も気づいていないふりをしている者もいるが、耳はこちらへ向いているのが分かる。
青葉第二の制服を着た転校生が、対戦相手である青葉第一の三年生を名前で呼びながら応援しているのだから、注目されない方がおかしかった。
恋は小さく息を吸った。
恋人関係。
そう、二人は恋人同士なのだ。
青葉第二の生徒であっても、交際相手が青葉第一の野球部員なら、その人個人を応援するくらいは許されるはずだった。学校同士の対抗意識としては微妙かもしれないが、人道的にはぎりぎり認められる。
たぶん。認められてほしい。
「ミレイさん、もう少しだけ声を抑えた方が……」
「どうして? ショーマが打席に立ってるのよ」
「それは見れば分かるんですけど、ここ、青葉第二側なので」
「でも、ショーマはショーマよ」
「そうですね……」
正論ではない。
少なくとも恋には、学校対抗戦の応援席で通用する理屈には聞こえなかった。
けれど、ミレイの中では完全に筋が通っているらしく、それ以上の説明を求めるような顔もしていなかった。
恋は諦めてグラウンドへ視線を戻した。三塁側のベンチから、如月翔真が姿を現す。
守備位置は三塁手らしい。
異世界では勇者として魔王を倒した人物だが、こちらの世界では野球部に所属する普通の高校生だった。
……どの部分を普通と呼べばいいのか、恋にはもうよく分からなかったが。
「翔真さん、サードなんですね」
恋が呟くと、隣に座っていた不破廻が興味深そうに目を細めた。
「主人公としては少し意外な守備位置だね。てっきりピッチャーかと思っていたけど。まあ、こちらの姿こそが本来の彼なのかもしれないね」
「どういう意味ですか?」
「異世界でどれだけ勇者として名を残していても、この世界では青葉第一の三塁手だ。本人にとっては、剣を持っている姿より、あのユニフォームの方が馴染み深いのかもしれないよ」
「……不破先輩が言うと、どこまで本気なのか分かりません」
「僕はいつでも本気だよ」
「それが一番困るんです」
不破は、いつもの曖昧な笑みを浮かべた。
数日前、亜空間で魔力を使い果たし、立ち上がることすらできなくなっていた人間とは思えないほど、今は普段通りに見える。
けれど、翔真が打席へ足を入れた時だけ、不破の目が少し遠くなった。
今ここにいる如月翔真を見ているのか。
それとも、かつて異世界で共に旅をした勇者を、アトラスとして見ているのか。
恋には判別できなかった。
マウンドには神津晶が立っていた。
先日、恋が付き添う中で榊原藍と真剣に選んだ、新しいスパイクを履いている。
晶は帽子のつばを僅かに下げ、捕手から出されたサインを覗き込んでいた。
普段の彼は明るく、何かにつけて大声を出し、勉強の話になると露骨に目を逸らすような少年である。だが、マウンドに立っている時だけは、その騒がしさが別の形へ変わっていた。
明るさは残っており、勢いも消えていない。
それでも、身体の中心だけが静かに固まり、どれほど周囲が騒いでも揺らがない。
青葉第一側の応援が大きくなり、その中へミレイの「ショーマ!」という声が鋭く突き刺さった。
晶が足を上げ、左腕が唸る。
投じられた球へ、翔真のバットが振り抜かれた。
乾いた音が響き、打球は三塁線の外側へ切れていく。
「あっ、惜しい!」
ミレイが勢いよく立ち上がりかけたため、恋は慌てて制服の袖を引いた。
「ミレイさん、座ってください」
「今の、惜しかったわよね?」
「はい。惜しかったです。だから座ってください」
打席の翔真が、こちらを見て僅かに苦笑したように見えた。
声が聞こえているのかもしれない。
恋の胃が、本当に痛み始めた。
逃げるように青葉第二のベンチへ視線を向けると、そこには榊原藍がいた。
表向きの役職は、野球部のマネージャー。
実際に担っている仕事は、ほとんど監督だった。
藍の身体はまだ完全には回復していない。こよみの説明によれば、演算負荷による損傷や循環系の異常は修復されたものの、内部フレームや駆動系にはしばらく経過観察が必要であり、過度な負担は禁止されている。
それでも藍はベンチにいた。
帽子を被り、スコアブックを膝へ置き、試合の流れを静かに見つめている。時折、隣に座る顧問の教師へ短く何かを伝えると、教師は慌てて立ち上がり、選手たちへそのまま指示を出していた。
誰が見ても、試合を動かしているのは藍だった。
「会長、普通に監督をしてますよね」
「表向きはマネージャーだよ」
不破が何でもないことのように言う。
「表向きだけすぎません?」
「青葉第二では、よくあることだね」
「よくあっていいんですか?」
恋が問い返している間に、晶が二球目を投げた。
翔真はバットを振らない。
球は捕手のミットへ収まり、乾いた音がスタンドまで届いた。
審判の右腕が上がる。
ストライク。
ミレイが小さく唇を尖らせた。
「今のは、見逃しただけよ」
「はい」
「ショーマは打てるわ」
「はい」
「次は絶対に打つ」
「……はい」
恋は完全に相槌を打つだけの役目になっていた。
三球目。
晶の投じた球は外角低めへ沈み、翔真のバットはその少し上を通過した。
捕手がしっかりと球を受ける。
審判の声が響いた。
青葉第二側のスタンドが一気に沸き上がる。
恋の周囲でも歓声と拍手が広がり、座席が小さく震えた。
その中で、ミレイだけが両手を膝の上へ置き、指を固く握りしめている。
「……次は打つわ」
「そうですね」
「絶対に打つ」
恋は、もうそれ以上何も言わなかった。
試合はその後も、神津晶を中心に進んでいった。
投げては青葉第一の打線をほとんど寄せつけず、走者を背負った場面では、そこまで温存していた力を一段上げるように速い球を投げ込み、三振を奪う。
打席へ立てば、初回にセンター前へ運び、三回には右中間を破る二塁打を放った。
そして六回。
打席に入った晶は、高めへ浮いた球を逃さなかった。
振り抜かれたバットが鋭い音を響かせ、打球は大きな弧を描いてレフト方向へ伸びていく。
一瞬、球場全体の視線がその白い球へ集まった。
打球は失速することなくフェンスを越え、レフトスタンドへ飛び込んだ。
青葉第二側の応援席が、爆発したように沸き上がった。
恋の耳元で歓声が弾け、前後の生徒が一斉に立ち上がる。恋も思わず腰を浮かせ、グラウンドを回る晶を目で追った。
晶は一塁を蹴り、二塁へ向かう途中で小さく拳を握った。
もっと大きく叫ぶかと思っていた。
けれど、その表情は意外なほど引き締まったままだった。嬉しさを押し殺しているというより、試合がまだ終わっていないことを身体のどこかで忘れていないように見えた。
ベンチでは、藍がスコアブックから目を上げ、顧問へ何かを伝えている。
顧問はすぐに頷き、選手たちへ声をかけた。
本当に監督代行をしている。
その光景を見て、恋の口元が僅かに緩んだ。
藍は、数日前に亜空間で消されかけた。
身体中を損傷し、大量の血を流し、それでも恋を逃がそうとした。
その藍が今は何事もなかったような顔でベンチへ座り、野球部の試合を指揮している。
本当なら、もっと休んでいてほしい。
無理をしているのではないかと問い詰めたい。
けれど、帽子の下で赤い瞳が動き、選手たちを追い、時折顧問へ指示を送っている。その一つ一つを見ているだけで、恋の胸の奥に残っていた強張りが、少しだけほどけていった。
藍がそこにいる。それだけで、今は十分だった。
試合終盤になると、青葉第一も意地を見せた。
それまで晶に抑え込まれていた打線が、連打と四球を絡めて走者を進め、ようやく一点を返す。
その攻撃に関わったのは翔真だった。
守備では三塁線への鋭い打球を落ち着いて処理し、打席では際どい球を何度もファウルにしながら粘り、最後には四球を選んで出塁する。
光の剣も、勇者としての派手な力も使わない。青葉第一の三年生として、自分の役割を果たしていた。
恋は、その姿を見て少しだけ不思議な感覚を覚えた。
亜空間へ現れた時の翔真は、あまりにも物語の中の主人公らしかった。消滅の魔法を剣で切り払い、狂気に沈んだミレイを抱きしめた。
けれど今、グラウンドにいる彼は、泥のついたユニフォームで一塁ベースに立ち、次の打者へ声を送っている。
どちらも如月翔真なのだろう。
異世界を救った勇者も、定期戦で塁へ出るために粘る三塁手も。
ミレイは、翔真が何かするたびに立ち上がりかけた。そのたびに恋が袖を引く。
「座ってください」
「今の、すごかったでしょう?」
「すごかったですから、座ってください」
それを何度か繰り返した頃には、近くの生徒から完全に白い目で見られていた。
恋は座席へ戻ったミレイの横で、周囲へ小さく頭を下げた。
恋人です。異世界を越えて探しに来た恋人なのです。どうか許してあげてください。
もちろん、声には出さなかった。
出したところで、状況がさらに悪化するだけだった。
試合は九回まで進んだ。
マウンドには、最後まで晶が立っている。
昨年、青葉第二を県大会ベスト四まで導いたエース。
その背中には疲労が見え始めていた。ユニフォームには土がつき、帽子の下から覗く髪も汗で額へ張りついている。
それでも、投球動作へ入ると軸は揺れなかった。
最後の打者へ向け、晶が足を上げる。
投じられた球が、捕手の構えた位置へ伸びていく。
打者のバットが振り抜かれた。
空を切る。
捕手のミットが鳴った直後、審判の声がグラウンドへ響いた。
試合終了。
一瞬の間を置いて、青葉第二側のスタンドが大きく沸いた。
スコアは7-1で青葉第二の勝利。
神津晶は九回を一失点で投げ切り、打者としても四打数三安打、本塁打一本。
投げても、打っても、ほとんど一人で試合の流れを引き寄せていた。
選手たちがマウンドへ集まり、晶の背中を叩く。誰かが帽子を押し上げ、晶は迷惑そうにその手を払ったが、顔には隠し切れない笑みがあった。
少し照れているようにも見える。
当然の結果だと言いたげにも見える。
けれど、その肩は大きく上下し、最後まで投げ切った疲労を隠せてはいなかった。
ミレイは複雑そうな顔で、青葉第一のベンチへ戻る翔真を見ていた。
翔真がこちらに気づき、小さく手を振る。
その瞬間、ミレイの表情から曇りが消えた。
「ショーマ!」
切り替えが早い。
恋は、もう何も言わないことにした。
「二年連続で青葉第二の勝利か」
不破が静かに呟いた。
「今年も野球部は強いね」
「神津さん、本当にすごかったですね」
「そうだね。物語の主人公が相手にいても、エースが強ければ普通に勝つ。なかなか健全な試合だ」
「健全……」
恋はもう一度、グラウンドを見た。
勇者が三塁を守り、人工知能がベンチから指示を出し、異世界の魔法使いが対戦相手の応援席で恋人の名前を叫んでいた。
そのどの部分を健全と判断したのか、不破に詳しく聞く気にはなれなかった。
ベンチでは、藍がゆっくりと立ち上がった。
動作に不自然さはない。
けれど、以前より僅かに時間をかけているようにも見えた。
無理をしているのではないかと、恋の視線が自然にその身体を追う。
晶が選手たちに囲まれながらベンチへ戻ってくる。
藍はスコアブックを閉じ、彼へ何かを告げた。
晶の顔から、勝利直後の笑みが一度消える。
真剣に藍の言葉を聞き、やがて大きく頷いた。
距離があるため、二人が何を話しているのかまでは聞こえない。
けれど、ただ褒めているだけではないことは分かった。
終盤に乱れた踏み込み。
点を失った場面での配球。
次の大会までに修正すべき点。
野球に詳しくない恋にも、藍なら勝った直後ほど細かく課題を拾うのだろうと思えた。
晶も、それを嫌がっている様子はなかった。
むしろ、藍に言われた言葉を忘れないよう、身体へ刻みつけるように頷いている。
亜空間で自分の身体を壊しながら未知の魔力を解析していた時と、今ここで投手のフォームを見直している時。
規模も、状況もまるで違う。
それでも、観察し、差異を見つけ、次に必要なものを示すという点では、藍はどこにいても変わらないのかもしれなかった。
恋は、その横顔を見つめていた。
「ミレイさん」
「何?」
「青葉第二の生徒になったんですから、最後くらいは青葉第二にも拍手してください」
ミレイは少しだけ考え込んだ。
まず翔真が戻った青葉第一のベンチを見る。
次に、晶を囲んでいる青葉第二の選手たちへ視線を移す。
最後に、勝利を喜ぶ青葉第二側の応援席を見回した。
それから、心底仕方がなさそうに両手を持ち上げ、数回だけ拍手した。
「ショーマを倒したんだから、少しはすごいのね」
「ずいぶん上からですね」
「でも、ショーマの方がすごいわ」
「はいはい」
恋はつい、雑な返事をしてしまった。
ミレイは特に気にした様子もなく、すぐに翔真の方へ顔を向けている。
グラウンドでは、試合後の整列が始まっていた。
青葉第一と青葉第二の選手たちが、それぞれ一列になって向かい合う。
翔真と晶も、その中にいた。
勇者とエース。
あまりにも異なる肩書きなのに、今は同じ土の上で帽子を取り、同じように相手へ頭を下げている。
礼を終えた選手たちが、それぞれのベンチへ戻っていく。
晶は仲間からまた背中を叩かれ、翔真は青葉第一の選手と短く言葉を交わしている。
藍はスコアブックを抱えたまま、最後までグラウンドを見ていた。
その姿が夕方の光の中にあることを確かめてから、恋はようやく深く息を吐いた。
青葉第二高等学校の日常は、今日もどうかしている。
しかし、それぞれが自分のいる場所へ、完全ではない形でも収まり始めている。
これで十分なのかもしれない。少なくとも、今日のところは。




