第80話
榊原藍が目を覚ましたことで、生徒会室にはようやくいつもの雰囲気が戻ってきた。
少なくとも、恋にはそう感じられた。
藍はまだ、別室の長椅子に横たわっている。意識を取り戻して間もないにもかかわらず、一度は自力で上体を起こそうとしたが、すぐそばにいた雪代こよみに無言で肩を押さえられた。
「藍様。起き上がる許可は出していません」
「現在の状況を確認する必要があります」
「確認は必要ですが、姿勢を変更する必要はありません」
「……分かりました」
藍は短く答え、そのまま枕へ頭を戻した。
普段の藍なら、必要だと判断したことは多少の制止を受けても押し通す。こよみと言葉を交わした末に折れることはあっても、これほど素直に引き下がることは滅多にない。
その様子を見ただけで、恋の胸にまた小さな不安が戻ってきた。
榊原藍が雪代こよみの指示へすぐに従う時は、たいてい自分でも無理ができないと分かっている時だった。
恋は長椅子の脇に座ったまま、まだ藍の手を離せずにいた。
先ほど抱きついた時のように強く握っているわけではない。ただ、自分の指先を藍の指へ触れさせ、その温度と固さを確かめている。
藍の身体が人間と同じ温度を持っているわけではない。それでも、そこに確かな感触があるだけでよかった。完全に手を離してしまえば、また突然、自分の届かない場所へ行ってしまうような気がした。
藍は何も言わなかった。
こよみも、恋の手を退けようとはしなかった。
だから恋は、もう少しだけそのままでいることにした。
「……まず、ミレイさんの処遇について確認します」
藍は横になったまま、静かに口を開いた。
声にはまだ僅かな掠れがあり、普段よりも音量も小さい。それでも、話し始めた途端、言葉の運びにはいつもの榊原藍らしさが戻っていた。
生徒会室側にいるミレイの肩が、小さく揺れた。
先ほどまでは如月翔真の腕へしがみついていたが、今は隣の椅子へ座っている。ただし、距離は近い。椅子同士の隙間などほとんどなく、片手は今も翔真の袖を掴んでいた。
翔真が少しでも身体を動かせば、すぐに引き戻すつもりなのかもしれない。
「処遇って……」
「あなたは現在、青葉第二高等学校の生徒として登録されています」
「それは、私が魔法でそうしただけでしょう」
「はい。しかし現時点では、校内外の複数の記録が、あなたを本校の在校生として扱っています。すべてを単純に削除した場合、新たな不整合が発生します」
ミレイは少しだけ眉を寄せた。
「じゃあ、どうするの」
「まず、校内へ施した認識改変を解除してください」
ミレイの指が、翔真の袖を握り直した。
藍はその反応を見ても言葉を止めなかった。
「その後、あなたを正式な転校生として青葉第二高等学校へ受け入れます」
恋は一度瞬きをした。
あまりにも当然のように話が進んでいる。
異世界から来た魔法使いを自称する、元魔王軍最高幹部でもある少女が、青葉第二高等学校へ正式に転校する。
言葉だけを並べれば、何一つ意味が分からない。
それでも、この生徒会室では藍がそう判断し、こよみが端末へ記録し、不破が少し納得したように頷いている。
日常へ戻ってきたのか。
それとも、非日常の方が何食わぬ顔で日常へ入り込んだのか。
恋にはもう判断がつかなかった。
「嫌」
ミレイは即答した。
今度の反応だけは、誰にでも分かりやすかった。
「私はショーマと同じガッコーがいい」
「青葉第一高等学校ですか」
「そう。ショーマと同じところへ行く」
「それは認められません」
「どうして」
ミレイの声に、ほんの少しだけ棘が戻った。
その横で、翔真が宥めるように名前を呼ぶ。
「ミレイ」
「だって、また離れるのは嫌」
「離れないよ」
「でも、所属する場所が違うじゃない」
「放課後には会える。連絡だって取れるよ」
「連絡って、魔法石もないこの世界でどうするの」
「ああ……そうだな、そこから教えないとな」
翔真は少し困ったように眉を下げた。
恋はそっと視線を逸らした。
異世界から来た少女へスマートフォンの使い方を教える役目だけは、自分へ回ってきませんようにと、ほんの少しだけ願った。
「ミレイさん」
藍が改めて呼びかける。
「あなたを、私の管理が及ばない青葉第一高等学校へ置くことはできません」
「管理って」
「これまでの行動を考慮すれば、現時点で観察と管理が必要であることは妥当です」
「私はもうしない」
「それを確認するために、管理が必要です」
「信用していないのね」
「はい」
藍はほとんど間を置かずに答えた。それに対してミレイが露骨に頬を膨らませる。
翔真は小さく息を吐いた。
「ミレイ。これに関しては、君が悪い」
「……分かってる」
「榊原さんの言っていることは正しいよ。君が突然青葉第一に現れたら、俺でも説明しきれない。青葉第二にいた方が、たぶん君自身にとっても安全だ」
ミレイは翔真の横顔を見上げた。
「ショーマは、私を置いていかない?」
「置いていかない」
「本当に?」
「本当に」
「会いに来る?」
「行くよ。君もこちらへ来ればいい」
「毎日?」
「できるだけ」
「毎日」
翔真は数秒黙った。
ミレイは一歩も引く気がないらしく、袖を掴む力を少し強めている。
「……分かった。毎日会う」
先に折れたのは翔真だった。
ミレイはそれでようやく満足したらしく、小さく頷いた。
恋はそのやり取りを眺めながら、翔真が勇者と呼ばれていた理由の一端を見たような気がした。
光の剣を扱うことよりも、今のミレイへ毎日会いに来ると約束できる胆力の方が、よほど勇者らしいのかもしれない。
「では、認識改変の解除と、正式な転校手続きへ移行します」
藍が話をまとめる。
「こよみ」
「はい、藍様」
「鶴見さんを呼んでください」
「承知しました」
こよみが端末を操作し始める。恋は少しだけ首を傾げた。
「鶴見先輩を呼ぶんですか?」
「はい。会計上の処理が必要です」
「この状況で会計ですか」
「この状況だからこそ必要です」
藍は当然のことのように答えた。
数分後、生徒会室の扉が開いた。
鶴見秋臣が、分厚い書類の束を抱えて入ってくる。どうやら校舎や備品の損傷状況を確認していたらしく、片手には点検用のチェックシートまで持っていた。
「呼ばれましたので来ました」
鶴見は室内を一度見回し、眼鏡の位置を直した。
「まず、現時点で確定している費用項目を整理します」
鶴見は目の前の光景に対して何も触れなかった。
長椅子に横たわる藍と、椅子へ深く腰掛け、未だ顔色の悪い不破。そして鶴見にとっては素性を知らないミレイと翔真がいる。
普通なら、まず何が起きたのかを尋ねる場面だったが、彼にとってはそれは普通ではないらしい。
恋は思わず鶴見の顔を見た。
「鶴見先輩、そこから始めるんですか?」
「そこからです。むしろ、それ以外の何から始めるのですか」
「その……ミレイさんの正体とか、経緯とか」
「会計処理には不要です」
鶴見は迷いなく机へ書類を置いた。
「では、ミレイさん」
「な、なに」
ミレイが少し身構え、翔真の腕へさらに身体を寄せる。
「あなたは現在、青葉第二高等学校の在校生として校内システムへ登録されています。しかし、制服代、教材費、学生証発行費、健康診断記録、留学生支援費のいずれにも、会計上の支出が存在していません」
「えっと……」
「極めて不健全な状態です」
「不健全?」
「はい」
鶴見は真顔だった。
「あなたの正体が何であるかは、私の管轄外です。しかし、会計上の不整合という事であれば私の管轄です」
言い切った。
この場にいる誰よりも、はっきりと。
「会長」
「はい」
「ミレイさんを正式な転校生として処理するのであれば、既存の登録をそのまま追認するべきではありません。本日付の転入扱いへ修正する稟議を発議し、必要な記録を新規に作成すべきです。修正を行わない場合、監査上問題があります」
「同意します」
「制服については、すでに着用していますが購入履歴がありません。現物の出所を確認してください」
ミレイは自分の制服へ視線を落とした。
「魔法で作った」
「では、学校備品ではなく個人所有物として扱います。ただし、校章および指定制服として校則に適合しているか確認が必要です。正規購入が本来は望ましいですが、購入経路は校則に規定されていないため条件さえ満たせば今回は多めに見ましょう」
「こうそく……」
「教材費は正式な転入日以降に発生させます。学生証は新規発行。保健室の記録も未登録です。健康診断の扱いについては――」
そこで鶴見は、改めてミレイを見た。
ミレイも首を傾げる。
「あなたの場合、通常の健康診断が意味を持つかは分かりませんが。しかし、記録が存在しないのは困ります」
「困るの?」
「困ります」
翔真が口元を押さえ、笑いを堪えていた。
一方のミレイは、完全に困惑していた。
つい先ほどまで、亜空間で山一つ消し飛ばしかねない魔法を放とうとしていた元魔王軍の将軍が、今は高校生の会計担当から、制服代や学生証発行費について追及されている。
恋は、その光景を眺めながら頭の奥が少しぼんやりしてきた。
まともな人間が、この部屋に一人もいない。
榊原藍は人工知能。
雪代こよみはアンドロイド。
不破廻は何百もの前世を記憶しているらしい。
ミレイは異世界の魔法使いで、元魔王軍最高幹部。
翔真は青葉第一の生徒でありながら、異世界では勇者として魔王を倒している。
その中で、本来ならただの人間であるはずの鶴見秋臣が、誰よりも堂々とこの場を仕切っていた。
しかも、誰も逆らえない。
会計。
それは鶴見にとって、誰にも侵すことのできない領域なのだろう。
人工知能であろうと、異世界人であろうと、勇者であろうと、その帳簿へ穴を開けることだけは許されない。
もしかすると、この人が一番おかしいのではないだろうか。
恋は半分冗談でそう考え、少ししてから、残りの半分は本気なのかもしれないと思い直した。
「桜川さん」
「はいっ」
突然名前を呼ばれ、恋は反射的に背筋を伸ばした。
「監査等委員長として、今回の修正稟議に伴う記録修正を後ほど確認してください」
「私もですか?」
「当然です。監査等委員長ですので」
「こういう時だけ、役職が急に重くなる気がします……」
「常に重い役職ですが」
完全な正論だった。
恋は何も返せなくなった。
長椅子に横たわる藍が、ほんの少しだけ目を細める。
「恋」
「はい」
「無理のない範囲でお願いします」
「今の会長が、それを言います?」
思わず言い返すと、藍は一度口を閉じた。
「……返す言葉がありません」
「本当にそうですよ」
恋の声には、まだ僅かな棘が残っていた。
藍は反論せず、静かに目を伏せる。
そのやり取りを見ていたミレイが、小さく呟いた。
「あなたたち、変な関係ね」
「ミレイには言われたくないと思うよ」
翔真がすぐ隣で言った。
「私はショーマの恋人だから、普通よ」
「普通かな」
「普通」
「そうか」
翔真はまた折れた。
不破が小さく笑い、こよみは何事もなかったように端末へ記録を続ける。鶴見だけは表情を変えず、書類へ視線を落としたまま言った。
「個人的関係は、現時点では会計処理に直接影響しません」
その一言に、恋はとうとう少しだけ笑ってしまった。
まともではない。
どこから見ても、絶対にまともではない。
触れたままだった藍の指先が、恋の手へほんの僅かに力を返した。
恋は一度その指を見下ろし、今度は自分から、藍の手を握り直した。
会計処理も、正式な転校手続きも、認識改変の解除も、まだ何一つ終わっていない。
これから片づけなければならない問題は、おそらくいくらでもある。
それでも今だけは、生徒会室へ戻った騒がしさが、いつもの青葉第二高等学校へ帰ってこられた証のように聞こえていた。




