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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第6章 異世界からの来訪者
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第79話

 生徒会室へ戻ってからも、恋には部屋全体がいつもより狭く感じられた。


 実際に家具の配置が変わったわけではない。けれど、中央の机を囲む翔真たちと、別室で続いている藍の処置、その間を何度も行き来してしまう恋の視線で、普段は広く感じる空間が息苦しいほど詰まって見えた。


 隣接する別室の扉は、半分ほど開けられている。


 その向こうでは、雪代こよみが榊原藍の処置を続けていた。

 長椅子が簡易的な処置台として使われ、その上に藍が横たわっている。机には端末や細いケーブルのほか、恋には用途の分からない工具や小型の機器が並べられていた。


 額や口元を汚していた血は、すでに拭い取られている。


 それでも、制服は肩から背中にかけて大きく裂けたままで、その隙間から覗く白い人工皮膚には、亀裂のような傷がいくつも残っていた。屋上へ戻ったことで亜空間だけは消えたが、そこで受けた損傷までは消えてくれなかった。


 恋は生徒会室側の椅子へ座っていた。


 ただ座っているだけで、何かをしているわけではない。両手は膝の上で固く握られ、指先が白くなり、爪が掌へ食い込んでいる。


 視線は何度も、別室の奥へ吸い寄せられた。


「もう少しお待ちください」


 そのたびに、こよみは手元の作業を止めることなく言った。


「……はい」


 恋もそのたびに返事をした。


 けれど、数秒も経たないうちにまた見てしまう。


 藍の身体は動かない。


 人間のように胸が上下するわけでもなければ、眠っていることを示す穏やかな呼吸音もない。藍が人間ではないことなど、恋はもう十分知っている。それでも今ばかりは、その静けさがたまらなく怖かった。


 ただ眠っているだけなのか。それとも、どこか深いところで止まりかけているのか。


 目を開けてほしかった。


 怒鳴り足りないことも、聞きたいことも、伝えたいことも山ほど残っている。


 そう思う一方で、泣き叫び続けた喉は腫れたように痛み、今はまともな声が出るかどうかも分からなかった。


「改めて、自己紹介するよ」


 生徒会室の中央で、ショーマと呼ばれていた少年が軽く頭を下げた。


「如月翔真。青葉第一高等学校の三年生。こっちの世界では、まあ、普通の高校生として暮らしてる」


 青葉第一高等学校。


 言われてみれば、彼が着ている制服は青葉第二のものとよく似ていたが、細かな意匠や色合いが違っている。恋は今になってようやく、ミレイが青葉第二を選んだ理由に少しだけ納得した。


 遠目に制服だけを見れば、間違えてもおかしくはない。


「……普通の高校生は、魔法を剣で切り落としたりしないと思います」


 恋が掠れた声で言うと、翔真は困ったように笑った。


「それは、まあ……そうかもしれない。こっちの世界でも使えるとは思えなかったけど」


 その隣には、ミレイがいた。


 少し前まで首を不自然に折り、背中から巨大な黒い腕を生やし、藍たちを亜空間ごと消し飛ばそうとしていた少女は、今では青葉第二の制服を着た姿へ戻っている。首も元の位置にあり、瞳も黒く塗り潰されてはいなかった。


 ただし、翔真の腕へ両腕を絡めていた。


 少し腕を組んでいる、という程度ではない。


 肩を押しつけ、両手で袖を掴み、指先にまで力を込めている。翔真が座り直すためにわずかに動けば、ミレイも同じだけ身体を寄せ、隙間ができないように追いかけた。


 二度と逃さない。


 口に出さなくても、その態度だけで十分すぎるほど伝わってきた。


「……少し近くないかい?」


 不破廻が遠慮がちに指摘すると、ミレイは翔真の腕をさらに強く抱え込んだ。


「近くないわ」


「いや、かなり近いように見えるけれど」


「近くない。アトラスは黙ってて」


 不破はそれ以上追及しなかった。


 もう一度異形の腕を生やされるとは思っていないだろうが、今のミレイへ不用意な刺激を与えたくないという判断もあるのかもしれない。


 恋も、そこには触れないことにした。


 今のミレイへ「少し離れた方がいいのでは」と言える人間は、おそらくこの部屋にはいない。


「それで……」


 恋は別室へ向かいかけた視線を戻し、翔真を見た。


「どうして、ミレイさんを残して、この世界へ戻ったんですか?」


 翔真の表情が、わずかに引き締まった。


「俺が向こうの世界で魔王を倒したことは、もう聞いてるかな」


「それは、まあ……」


「本当は全部が終わった後、そのまま向こうで暮らすつもりだった。こっちの世界に強い未練があったわけでもないし」


「だったら、どうして?」


 ミレイの指が、翔真の袖を強く握った。


 翔真はその手へ目を落とし、少しだけ間を置いた。


「死んだはずの魔王の残留思念が、こっちの世界へ干渉し始めていることに気づいてね」


「残留思念……」


「完全には消えていなかったんだと思う。姿や力の大部分は失っていても、こちらの世界を足場にして、もう一度形を持とうとしていた」


 翔真はそこで一度、息を吐いた。


「こっちの世界に未練がなくても、生まれ育った世界が滅ぼされるのを黙って見ていることはできない」


「それを、ミレイさんには何も言わずに?」


 恋の声は、自然と硬くなった。


 先ほどまでの自分を置き去りにしようとした藍の背中が、どうしても重なる。


 翔真は言い訳を探すように視線を逸らすことなく、恋の問いを受け止めた。


「言えなかった、に近いかな」


「言えなかった?」


「もし、あの場でミレイに引き止められたら、俺の決意が揺らぐと思った」


 ミレイの指が、翔真の袖へさらに食い込む。


「だから、正直に話さずに帰った。俺の弱さだよ」


「いいの」


 翔真が申し訳なさそうに話す横で、ミレイが小さく呟いた。


「ミレイ……」


「もういいの」


 ミレイは顔を上げず、翔真の腕へ額を寄せた。


「ショーマが、もうどこにも行かないなら。それだけでいい」


 その姿だけを見れば、再会した恋人同士にしか見えない。


 亜空間で狂ったように笑い、藍へ致命的な魔法を放っていた少女と同一人物だと、恋の頭はまだ完全には受け入れられていなかった。


「……不破先輩も、向こうの世界では翔真さんと一緒にいたんですよね」


 恋が視線を向けると、不破は椅子の背もたれへ身体を預けたまま、少し青い顔で笑った。


「一緒というほど仲良くはなかったけれどね」


「アトラスは前世がどうとか、よく言ってたけど」


 翔真も不破を見る。


「まさか、本当の話だったとは」


「信じていなかったのかい?」


「そりゃあ」


「それは残念だ」


「いや、普通は信じないだろ。異世界に迷い込んでる時点で普通じゃなかったけど、それでも前世がいくつもあるとか言われたら、一度話を横に置くと思うぞ」


「翔真くんは意外と常識的だね」


「お前が非常識すぎたんだよ。向こうの世界でも、かなり浮いてたぞ」


 恋は思わず口を挟みそうになり、やめた。


 この部屋にいる人間のうち、誰を常識的と呼べばよいのか、もう分からなかった。


 不破は翔真をしばらく見つめた後、静かに息を吐いた。


「アトラスも、数ある肩書きの一つにすぎないよ。今の僕は、不破廻だ」


「そうか」


「そういうことにしておいてくれると助かる」


「分かった。不破」


 短いやり取りだった。


 それでも、二人の間にしか分からない時間があることは、恋にも伝わった。

 かつて異世界で時を共にした関係が、今は青葉第二の生徒会室で、今世の名前を確認し合っている。


 つい先ほどまで、彼らは命を奪い合いかねない状況にいた。


 ミレイは藍を消し去ろうとし、翔真がそれを止め、不破は残った力で恋を逃がそうとした。恋は泣き叫びながら藍へ手を伸ばしていた。


 それなのに今は、生徒会室の机を囲み、自己紹介をしている。


 不破は普段と同じように軽口を叩き、翔真は青葉第一高等学校の三年生として椅子に座り、ミレイはその腕から片時も離れようとしない。


 日常へ戻ってきたようには見える。


 けれど、恋には誰もが戻ってきたふりをしているだけのようにも思えた。


 恋はまた、別室の方を見た。


 少なくとも、まだ日常へ戻れていない人がそこにいる。


「桜川さん」


 不意にこよみの声が届き、恋の肩が大きく跳ねた。


「もう少しお待ちください」


「……すみません」


「謝罪は不要です」


 こよみは端末の画面から目を離さずに答えた。


「藍様の状態は、安定する方向へ移行しています。ただし、活動を再開するには慎重な確認が必要です」


「……大丈夫、ですよね」


 口にした瞬間、返事を聞くのが怖くなった。


 こよみの指が、一瞬だけ止まった。


 ほんのわずかな間だったが、恋には長く感じられた。


「大丈夫です」


 短い返答だった。そこには余計な説明も、曖昧な慰めもなかった。


 恋は膝の上で握っていた手へ、さらに力を込めた。


 大丈夫。


 その言葉を、頭の中で何度も繰り返す。


 こよみが言ったのだから、少なくとも今すぐ藍がいなくなることはない。そう信じなければ、椅子へ座っていることさえできそうになかった。


 その時、ミレイが翔真の腕から少しだけ顔を上げた。


「あの……」


 声は小さく、亜空間で怒鳴っていた時とは別人のようだった。


「その人が傷ついたの、私のせいよね」


 生徒会室に、短い沈黙が落ちた。


 恋はミレイを見る。


 責める言葉なら、いくらでもあったはずだった。


 藍を何度も打ち据え、血まみれにし、最後には消し去ろうとした。


 思い出すだけで胸の内側が熱くなる。


 けれど、ミレイの目元が赤くなっていることに気づくと、用意していたはずの言葉はうまく出てこなかった。


「もしかしたら、私の力で治せるかもしれない」


 ミレイは翔真の腕を掴んだまま、別室へ近づこうとした。


 すぐに、こよみが藍とミレイの間へ立つ。


「藍様への不用意な干渉は許可できません」


「分かってる」


 ミレイは足を止めた。


「でも、私の回復魔法なら傷を塞げるかもしれない。あの人は生き物じゃないから、本当に効くかどうかは分からないけど」


 扉の向こうへ視線を向ける。


「何もしないで見ているのは嫌」


 こよみはしばらくミレイを見た後、今度は翔真へ目を向けた。


 翔真は静かに頷く。


「ミレイの回復魔法は本物だ。ただ、確かにその子の身体に作用するかは、俺にも分からない」


 こよみは少しばかり考えるような仕草をとった。


 拒絶するのかと思ったが、数秒の沈黙の後、ほんの少しだけ身体を横へずらした。


「藍様の状態を悪化させる兆候が確認された場合、即座に中断します」


「うん。ありがとう」


 ミレイは別室へ入り、藍のそばまで歩いた。


 その時になって、ようやく翔真の腕を離した。


 完全に安心して手放したというより、翔真がすぐ隣へついてきたため、どうにか指を離せたように見える。


 ミレイは横たわる藍を見下ろした。


 亜空間で敵として向かい合っていた時とは違い、その顔には怒りも狂気もない。代わりに、どこへ手を触れてよいのか分からないような戸惑いがあった。


 やがて両手を、藍の胸元から少し離れた位置へかざす。


 掌の間に淡い光が生まれた。亜空間で見た黒い魔力とは違う。


 炎のような熱もなく、雷のような鋭さもない。薄い金色の光が、朝の陽射しのように柔らかく揺れている。


 その光が、少しずつ藍の身体へ降りていった。


 人工皮膚の裂け目へ触れ、破れた制服の隙間から内部へ滲み込んでいく。


 こよみの端末が短い警告音を発した。


 けれど、こよみが操作を加えると音はすぐに止まり、画面上の表示が高速で切り替わっていった。


 恋は椅子から身を乗り出し、息を止めるようにして見守った。


 ミレイの魔法が本当に効いているのか。


 それとも、魔法が損傷した人工身体へ、何か別の形で作用しているのか。


 恋には何一つ分からない。


 ただ、藍の右手の指先が、ほんの僅かに動いた。


「藍さん……」


 気づいた時には、恋は立ち上がっていた。


 椅子が勢いよく後ろへずれ、床を擦る音が響く。


 こよみが端末へ視線を落とす。


 ミレイの掌から放たれていた金色の光は少しずつ弱まり、やがて藍の身体へ吸い込まれるように消えていった。


 しばらくして、閉じられていた藍のまぶたがゆっくりと持ち上がった。


 赤い瞳が、最初に天井を映す。


 焦点が定まるまで数秒を要し、それから僅かに横へ動いた。


「……恋」


 声は小さく、掠れていた。


 それでも、間違いなく藍の声だった。


 恋は、もう止まることができなかった。


 別室へ駆け込み、長椅子に横たわる藍へ抱きつく。


 翔真やミレイが見ていることも、不破が後で何かを言うかもしれないことも、何も頭に残らなかった。


 藍が目を開けた。


 今は、それだけでよかった。


「藍さん……」


 恋は藍の肩口へ顔を埋めた。


 傷へ触れないように、強く抱きしめすぎないようにしなければと思った。それでも両腕は震えたまま藍へ回り、確かめるようにその身体を抱えてしまう。


「よかった……」


 続く言葉は、喉の奥で崩れた。息を吸うと、また涙が出た。


 亜空間で泣き尽くしたと思っていたのに、藍の声を聞いた途端、残っていたものが一度に溢れ出した。


「本当に……よかった……」


 藍の手が、少し遅れて動いた。


 背中へ触れた掌の力は弱かった。普段なら意識することもないほど軽い接触だったが、恋には何より確かなものに思えた。


「ご心配をおかけしました」


「本当にです」


「はい」


「本当に、心配したんですから……」


「はい」


「もう、勝手に死ぬみたいなことを言わないでください」


 藍はすぐには答えなかった。


 恋は顔を上げない。


 今の顔を見られたくないという気持ちも少しはあったが、それ以上に、身体を離した瞬間にまた藍が目を閉じてしまいそうで怖かった。


 やがて、藍の指先が恋の背中を僅かに動いた。


「……約束します」


 恋は藍を抱きしめたまま、震える息を吐いた。


 返事を聞けただけで、身体の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んでいく。


 すぐ隣では、こよみが端末を操作していた。


「桜川さん」


「はい……」


「気持ちは理解しますが、現在は藍様を安静な状態に保持することが優先されます」


「すみません」


「今から三十秒以内に離れてください」


 恋は少しだけ顔を上げた。


 三十秒。


 裏を返せば、その間だけはこのままでいてよいということだった。


 こよみの言い方はいつも通り事務的だが、それでも、すぐに引き離さず時間を与えてくれたことには、彼女なりの配慮が含まれているように思えた。


「こよみさん、ありがとうございます」


「はい。残り二十秒ほどです」


「……そこはもう少し空気を読んで、余韻に浸らせてくれませんか?」


「できません。十五秒後には物理的に引き離します」


「秒数が減るの早くないですか?」


「会話中も時間は経過しています」


 ミレイはいつの間にか翔真の袖を掴み直し、その隣で翔真が少し困ったように笑っていた。不破も椅子へ深く座り込みながら、何か言いたそうな顔をしている。


 生徒会室は、少しずつ普段の騒がしさを取り戻し始めていた。


 藍の目は開いている。


 手は、まだ恋の背中へ触れている。


 そのことを一つずつ確かめるうちに、恋はようやく、自分の足が再び床へついたような感覚を取り戻していった。

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