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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第6章 異世界からの来訪者
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第78話

「待たせたね、ミレイ」


 その声が亜空間へ落ちた瞬間、ミレイの背中から伸びた異形の腕が、示し合わせたようにいっせいに震えた。


 黒い爪が床を引っ掻き、硬質な節同士がぶつかって耳障りな音を立てる。

 それが喜びによるものなのか、怒りによるものなのか、恋には判断できなかった。人間であれば肩や唇に現れるはずの反応が、今のミレイでは、背中から生えた巨大な腕を通じて溢れ出しているように見えた。


 折れたままの首の奥で、黒く塗り潰された両目が、目の前に現れた少年だけを見つめている。


 ミレイの唇が何度か開閉した。けれど、声は出ない。


 探し続けていた相手が本当に現れたことを、まだ受け入れられていないのかもしれない。喜びも、疑いも、積み重なった時間も、すべてが一度に喉へ詰まっているようだった。


 やがて、その唇から掠れた音が漏れた。


「どうして……」


 次の瞬間、異形の腕の一本が床へ叩きつけられた。


 黒い地面が大きく抉れ、亜空間全体が低く震える。


「どうしてワタシを置いていったの!」


 叫びと同時に、複数の腕から魔力が放たれた。


 炎でも、雷でも、氷でもない。先ほどまで藍を追い詰めていた不可視の魔力が、今度は形のない濁流となってショーマへ押し寄せる。


 恋の目には、やはり何も見えなかった。


 ただ、ショーマの右手に握られた光の剣だけが、その軌道を最初から知っているように動いた。


 横薙ぎの一閃が走る。


 空間を切り裂くような鋭い音とともに、見えないはずの魔力が、剣へ触れた瞬間だけ白い火花を散らした。押し寄せていた力は左右へ分かれ、そのまま細かな光となってほどけていく。


「ミレイ」


「呼ばないで!」


 二本目の腕が振るわれる。


 ショーマは退かなかった。


 前へ踏み込むこともなく、藍の前へ立ったまま剣を持ち上げる。不可視の魔力が肩へ届く直前、光の刃がその中へ入り込み、黒い波を左右へ断ち切った。


 受け止めたというより、魔法の形だけを切り落としたような動きだった。


「ワタシは待ってた!」


 ミレイの声が、何度も空間へ反響する。


「ずっと待ってた! あなたが迎えに来るって、もう一度ワタシへ手を伸ばしてくれるって、ずっと信じてた!」


「ああ」


「なのに、あなたは来なかった!」


「……ああ」


 ショーマは否定しなかった。


 言い訳もしない。


 ミレイの腕が、次々と異なる魔法を放つ。


 雷が亜空間を裂き、炎がうねりながら巻き上がり、不可視の魔力が巨大な圧力となって襲いかかった。そのたびにショーマの剣が短い軌跡を描き、魔法を切り払い、あるいは弾き、力の向きを逸らしていく。


 光の剣が振るわれるたび、黒と紫に沈んでいた亜空間が一瞬だけ白く染まった。


 恋は不破に腕を掴まれたまま、その光景を見つめていた。


 泣きすぎた喉はまだ痛み、呼吸も整っていない。頬には涙の跡が残り、指先は先ほどまで藍へ手を伸ばしていた形のまま強張っていた。


 その藍は、ショーマのすぐ後ろにいる。


 立っているというより、倒れないように姿勢を維持しているだけだった。


 右肩は不自然に下がり、背中からは細い軋みが続いている。鼻と口から溢れた血は顔から胸元までを赤く染め、顎の先から落ちる雫の間隔も短くなっていた。


 それでも藍は床へ膝をつかず、ショーマの背後からミレイの動きを見ていた。


「ワタシは、あなたのために魔王を裏切った!」


 ミレイの叫びが続く。


「あなたのために仲間を捨てた! 世界を越えた! それなのに、あなたは――!」


「俺は、こっちの世界も救わなくちゃいけなかった」


 ショーマの声は揺れなかった。


 その言葉に、ミレイの背中の腕が一瞬だけ止まる。


 黒い指先が宙で震え、少女の唇がわずかに開いた。


 しかし、次の瞬間には別の腕が振るわれ、膨大な魔力がショーマへ叩きつけられた。


「そんなの知らない!」


「そうだな」


 ショーマが剣を振る。


 黒い魔力が白い粒子となってほどけた。


「悪かった」


「悪かったで済むと思ってるの!?」


「思ってない」


 ショーマは初めて一歩、前へ出た。


「だから、償いに来たんだ」


 その一歩に反応し、ミレイの背中から伸びた腕が大きく広がった。


 彼を拒むように、刃物じみた爪が幾重にも重なり、何本もの腕が同時にショーマへ襲いかかる。


 ショーマは剣を構え直した。


 派手な動きではなかった。


 腕を切断することも、ミレイの身体を傷つけることもしない。光の剣が緩やかな弧を描くたび、異形の腕へ集まっていた魔力だけが削がれ、黒い表面から薄い膜のように剥がれていく。


 まるで、ミレイを覆い隠しているものを、一枚ずつ取り除いているようだった。


 ミレイは距離を取ろうとした。


 けれど、少女自身の足は動かない。


 背中の腕だけが床を掻き、空間を殴り、ショーマを遠ざけようと暴れ続ける。その中心で、ミレイの身体は力なく吊り下げられ、拒絶する意思すら異形の腕へ奪われているように震えていた。


「来ないで」


「ミレイ」


「来ないでって言ってるでしょ!」


 炎が放たれる。


 光の剣が中央から割った。


 雷が頭上から落ちる。


 ショーマは刃の角度を変え、軌道を横へ逸らした。


 不可視の魔力が正面から叩きつけられると、剣を横に寝かせて受け止める。光の粒子が激しく飛び散り、少年の腕がわずかに押し戻されたが、剣は消えなかった。


 ショーマは、そのままもう一歩進んだ。


「信じてくれ」


 ミレイの唇が震えた。


「信じて……何になるの」


「俺はもう、君を離さない」


 その言葉が落ちた途端、背中から伸びた腕がすべて同時に動いた。


 攻撃ではなかった。


 ミレイを守るように何重にも巻きつき、黒い檻を作る。ショーマの姿を見えなくし、彼をこれ以上近づけまいとするように、長い指が互いへ絡み合った。


 拒絶なのか。


 怯えているのか。


 今度こそ信じてしまいそうな自分を、閉じ込めようとしているのか。


 恋には分からなかった。


 ショーマは剣を握ったまま、その黒い腕の隙間へ足を踏み入れた。


 鋭い爪がすぐそばを掠めても、止まらない。


 異形の腕へ触れた光の刃が、彼の手の中で静かにほどけていく。無数の粒子となった光はミレイの周囲へ漂い、黒い檻を内側から淡く照らした。


 次の瞬間、ショーマは何も持たない両腕を伸ばし、ミレイの身体を抱きしめていた。


 首が折れ、背中から化け物じみた腕を生やした少女を。


 かつて魔王軍の将軍として戦った存在を。


 剣を捨て、防ぐ手段を失ったまま、それでも躊躇することなく抱きしめていた。


「離して……」


 ミレイの声から、先ほどまでの鋭さが消えていた。


「また、いなくなるくせに」


「いなくならない」


「嘘」


「嘘じゃない」


「嘘よ……だって、そう言ったのに」


 ミレイの指が宙を彷徨う。


「一緒にいるって言ったのに、ワタシを置いて帰ったじゃない」


「ああ」


 ショーマは否定せず、腕へ力を込めた。


「だから、迎えに来たんだ」


 ミレイの背中から伸びた腕が、ゆっくりと垂れ下がった。


 最初に輪郭を失ったのは、ショーマを攻撃しようとしていた腕だった。黒い爪の先から灰のように崩れ、細かな粒子となって亜空間へ溶けていく。


 一本、また一本と、残った腕も力を失った。


 床を支えていた腕が消えると、宙に吊られていたミレイの身体が僅かに落ちた。ショーマはそれを両腕で受け止め、胸元へ抱き寄せる。


 不自然に折れていた首が、小さな軋みとともに元の位置へ戻っていく。


 黒く塗り潰されていた瞳にも、少しずつ色が戻った。


 最初に浮かんだ光は細く、頼りなかった。


 けれど、その奥から溢れた涙だけは、すぐに頬を伝った。


「ショーマ」


「うん」


「信じて、いいのね?」


「うん」


「本当に、もう行かない?」


「行かない」


 ミレイは、確かめるようにショーマの制服を掴んだ。


 指先へ少しずつ力が入り、白くなるほど布を握りしめる。


 その瞬間、亜空間が音もなく崩れ始めた。


 遠くで星のように瞬いていた光が、一つずつ消えていく。黒と紫に沈んでいた空は薄い膜のように透け、その向こうから夕暮れの色が滲み出した。


 足元の黒い床も輪郭を失い、代わりに青葉第二の屋上へ敷かれたコンクリートが戻ってくる。


 亜空間の境界がひび割れ、そこから夕方の風が流れ込んだ。


 長く途絶えていた部活動の掛け声や、遠くを走る車の音が、少しずつ耳へ戻ってくる。


 恋が瞬きをした時には、足元にはもう見慣れた屋上の床があった。


 校舎と街の輪郭が、夕暮れの中へ続いている。


 雲の端は赤く染まり、風が制服の裾を揺らしていた。


 さっきまで閉じ込められていた亜空間だけが、最初から存在しなかったように消えている。


 けれど、そこで受けた傷までなくなったわけではなかった。


 藍の顔と制服を染める大量の血も、破れた人工皮膚も、不破の荒い呼吸も、恋の腕に残った指の跡も、そのまま現実へ持ち帰られている。


 ミレイはショーマの胸元へ顔を押しつけ、声を殺すように肩を震わせていた。


 ショーマは背中へ腕を回し、何も言わずにその身体を支えている。


 不破が、長く息を吐いた。


「……まったく。主人公は遅れてやって来るのが相場とはいえ、今回は少し肝が冷えたよ」


 誰も返事をしなかった。


 恋の耳には、不破の声も遠く聞こえていた。


「――藍、さん」


 恋は、不破の腕を振りほどくようにして前へ出た。


 力を込められたわけではなかった。不破自身にも、もう恋を止めるだけの力が残っていなかったのだろう。


 それでも、恋の足はすぐには前へ出なかった。


 膝が震え、一歩目で身体が崩れそうになる。靴底がコンクリートを擦り、二歩目では呼吸が喉へ引っかかった。


 それでも、藍のところまで歩いた。


 藍は立っていた。


 ただ、立っているだけだった。


 身体の片側へ重心を預け、倒れる直前の姿勢を演算で無理やり維持しているように見える。


 血に濡れた顔が、いつものように恋へ向けられた。


「恋。怪我は――」


 乾いた音が鳴った。


 恋自身、何が起きたのかすぐには分からなかった。


 伸ばした右手の掌に鋭い痛みが残り、藍の顔がわずかに横を向いている。


 自分が藍の頬を叩いたのだと、少し遅れて理解した。


 叩かれた頬には、血の汚れとは別の赤みが浮かんでいた。


 恋の息が喉で詰まる。


「なんで……」


 声はまともな形にならなかった。


「なんで、あんなことしようとしたんですか!」


 藍はすぐには答えなかった。


 赤い瞳だけが恋へ戻ってくる。


「私を逃がして、自分だけ残って、死ぬつもりだったんですか。そういうことを、勝手に決めたんですか」


「状況上、最も生存確率の高い選択でした」


「そんな話してません!」


 恋の声が屋上へ響いた。


 止まりかけていた涙が、また頬を伝う。手の甲で乱暴に拭っても、すぐに次が溢れてきた。


「私がどんな気持ちで見てたか、分かってるんですか。藍さんが自分でもう助からないって言って、私だけ逃がそうとして、それで……」


 喉が詰まった。


 亜空間で泣き叫んだせいで、声を出すたびに痛みが走る。それでも、胸の中に残ったものが多すぎて、黙ることなどできなかった。


「本当に、死んじゃうと思ったんですよ……」


 藍は恋を見たまま動かなかった。


 赤い瞳が、僅かに伏せられる。


「申し訳ありません」


「謝ればいいと思ってるんですか」


「思っていません」


「だったら、どうして……!」


「あなたを失いたくありませんでした」


 恋の手が止まった。


 藍の声は小さかった。


 いつもと変わらない丁寧な言葉のはずなのに、僅かな間を置きながら、一つずつ確かめているように聞こえた。


「そのために、最善と判断した行動を選択しました。しかし私は、あなたへ同意を求めず、あなたの意思を置き去りにしました」


 藍はゆっくりと頭を下げた。


 その動きだけでも身体へ負担がかかるのか、背中から小さな軋みが聞こえた。


「申し訳ありません」


 恋は何も言えなかった。


 怒鳴りたい言葉は、まだ胸の奥にいくつも残っている。


 けれど、それを口にするより先に、藍の身体が僅かに傾いた。


 ほんの少しだった。


 それでも、今にも倒れそうな藍を見続けていた恋には、はっきりと分かった。


「藍さん?」


 赤い瞳が一度揺れ、次の瞬間、藍の膝から力が抜けた。


 身体がゆっくりと沈み、そのまま前へ崩れ落ちていく。


 恋が手を伸ばす。けれど、間に合わなかった。


「――藍様!」


 鋭い声とともに、白い影が横から飛び込んできた。


 屋上扉から駆けてきた雪代こよみが、床へ倒れる直前の藍を抱き留めていた。小柄な身体でありながら、その動きには一切の迷いがなく、藍の首と背中を庇うように腕を差し入れている。


「藍様」


 こよみの声が、低く硬くなる。


 片腕で藍を支えたまま、もう一方の手で端末を起動する。画面へ無数の数値や警告が走り、こよみの指が普段よりも明らかに速く動いた。


 恋には表示の意味まで読み取れなかった。


 けれど、赤い警告が何度も増えていくことだけは分かった。


「藍様、応答してください」


「こよみ……さん」


 藍が辛うじて名前を呼ぶ。


「発声は控えてください」


 こよみは即座に言い、首元と胸部へ手を当てた。続いて裂けた制服の背中へ視線を走らせ、内部構造の損傷を確認する。


 表情はいつも通りほとんど動かない。


 それでも、声には明確な硬さがあった。


「演算系への過負荷を確認。循環系に複数の損傷があります。外部装甲、人工皮膚、右肩部駆動系、背部フレームにも破損を確認しました。これ以上の活動継続は危険です」


「こよみさん、藍さんは……」


 恋の声は、また震えた。


「即座に機能停止する状態ではありません」


 こよみは端末を操作しながら答える。


「しかし、複数の系統に異常が生じています。直ちに生徒会室へ運び、応急修復を行います」


 言い終えると、こよみは藍の背中と膝裏へ腕を回し、その身体を抱き上げた。


 いわゆるお姫様抱っこの形だった。


 けれど、そこに冗談めいた空気は一切なかった。


 藍の長い黒髪がこよみの腕から垂れ、血に濡れた指先が力なく揺れている。目もすでに閉じられ、先ほどまで恋と話していた姿が嘘のように、身体から力が失われていた。


 恋の足は、すぐには動かなかった。


 つい先ほど頬を叩き、声を荒らげ、勝手に死のうとしたことを責めた相手が、今はこよみの腕の中で目を閉じている。


 その二つの光景が、頭の中でうまく繋がらない。


「桜川さん」


 こよみが恋を見た。


「来てください」


「は、はい」


 恋は慌てて頷いた。


 声が裏返り、膝もまだ震えている。それでも、今度は足を止めなかった。


 ショーマとミレイがこの後どうするのか。


 亜空間で起きたことを、どこから整理すればよいのか。


 分からないことは山ほど残っていた。


 けれど、今は藍の方が先だった。


 こよみが屋上扉へ向かって歩き出す。恋はそのすぐ後ろを追った。


 振り返る余裕はなかった。


 扉を潜る直前、背後からミレイがショーマの名前を呼ぶ声が、かすかに聞こえたような気がした。


 屋上の扉が閉まる。


 こよみが階段を下りる足音は、普段よりも速く、重く響いていた。


 恋はその後ろをついていきながら、まだ熱と痛みの残る右の掌を、左手で強く握りしめた。


 そこには、藍を叩いた感触が残っていた。


 消えてほしいのか、消えないでほしいのかも分からないまま、恋は目の前で揺れる藍の黒髪だけを見つめ、生徒会室へ向かった。

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