第78話
「待たせたね、ミレイ」
その声が亜空間へ落ちた瞬間、ミレイの背中から伸びた異形の腕が、示し合わせたようにいっせいに震えた。
黒い爪が床を引っ掻き、硬質な節同士がぶつかって耳障りな音を立てる。
それが喜びによるものなのか、怒りによるものなのか、恋には判断できなかった。人間であれば肩や唇に現れるはずの反応が、今のミレイでは、背中から生えた巨大な腕を通じて溢れ出しているように見えた。
折れたままの首の奥で、黒く塗り潰された両目が、目の前に現れた少年だけを見つめている。
ミレイの唇が何度か開閉した。けれど、声は出ない。
探し続けていた相手が本当に現れたことを、まだ受け入れられていないのかもしれない。喜びも、疑いも、積み重なった時間も、すべてが一度に喉へ詰まっているようだった。
やがて、その唇から掠れた音が漏れた。
「どうして……」
次の瞬間、異形の腕の一本が床へ叩きつけられた。
黒い地面が大きく抉れ、亜空間全体が低く震える。
「どうしてワタシを置いていったの!」
叫びと同時に、複数の腕から魔力が放たれた。
炎でも、雷でも、氷でもない。先ほどまで藍を追い詰めていた不可視の魔力が、今度は形のない濁流となってショーマへ押し寄せる。
恋の目には、やはり何も見えなかった。
ただ、ショーマの右手に握られた光の剣だけが、その軌道を最初から知っているように動いた。
横薙ぎの一閃が走る。
空間を切り裂くような鋭い音とともに、見えないはずの魔力が、剣へ触れた瞬間だけ白い火花を散らした。押し寄せていた力は左右へ分かれ、そのまま細かな光となってほどけていく。
「ミレイ」
「呼ばないで!」
二本目の腕が振るわれる。
ショーマは退かなかった。
前へ踏み込むこともなく、藍の前へ立ったまま剣を持ち上げる。不可視の魔力が肩へ届く直前、光の刃がその中へ入り込み、黒い波を左右へ断ち切った。
受け止めたというより、魔法の形だけを切り落としたような動きだった。
「ワタシは待ってた!」
ミレイの声が、何度も空間へ反響する。
「ずっと待ってた! あなたが迎えに来るって、もう一度ワタシへ手を伸ばしてくれるって、ずっと信じてた!」
「ああ」
「なのに、あなたは来なかった!」
「……ああ」
ショーマは否定しなかった。
言い訳もしない。
ミレイの腕が、次々と異なる魔法を放つ。
雷が亜空間を裂き、炎がうねりながら巻き上がり、不可視の魔力が巨大な圧力となって襲いかかった。そのたびにショーマの剣が短い軌跡を描き、魔法を切り払い、あるいは弾き、力の向きを逸らしていく。
光の剣が振るわれるたび、黒と紫に沈んでいた亜空間が一瞬だけ白く染まった。
恋は不破に腕を掴まれたまま、その光景を見つめていた。
泣きすぎた喉はまだ痛み、呼吸も整っていない。頬には涙の跡が残り、指先は先ほどまで藍へ手を伸ばしていた形のまま強張っていた。
その藍は、ショーマのすぐ後ろにいる。
立っているというより、倒れないように姿勢を維持しているだけだった。
右肩は不自然に下がり、背中からは細い軋みが続いている。鼻と口から溢れた血は顔から胸元までを赤く染め、顎の先から落ちる雫の間隔も短くなっていた。
それでも藍は床へ膝をつかず、ショーマの背後からミレイの動きを見ていた。
「ワタシは、あなたのために魔王を裏切った!」
ミレイの叫びが続く。
「あなたのために仲間を捨てた! 世界を越えた! それなのに、あなたは――!」
「俺は、こっちの世界も救わなくちゃいけなかった」
ショーマの声は揺れなかった。
その言葉に、ミレイの背中の腕が一瞬だけ止まる。
黒い指先が宙で震え、少女の唇がわずかに開いた。
しかし、次の瞬間には別の腕が振るわれ、膨大な魔力がショーマへ叩きつけられた。
「そんなの知らない!」
「そうだな」
ショーマが剣を振る。
黒い魔力が白い粒子となってほどけた。
「悪かった」
「悪かったで済むと思ってるの!?」
「思ってない」
ショーマは初めて一歩、前へ出た。
「だから、償いに来たんだ」
その一歩に反応し、ミレイの背中から伸びた腕が大きく広がった。
彼を拒むように、刃物じみた爪が幾重にも重なり、何本もの腕が同時にショーマへ襲いかかる。
ショーマは剣を構え直した。
派手な動きではなかった。
腕を切断することも、ミレイの身体を傷つけることもしない。光の剣が緩やかな弧を描くたび、異形の腕へ集まっていた魔力だけが削がれ、黒い表面から薄い膜のように剥がれていく。
まるで、ミレイを覆い隠しているものを、一枚ずつ取り除いているようだった。
ミレイは距離を取ろうとした。
けれど、少女自身の足は動かない。
背中の腕だけが床を掻き、空間を殴り、ショーマを遠ざけようと暴れ続ける。その中心で、ミレイの身体は力なく吊り下げられ、拒絶する意思すら異形の腕へ奪われているように震えていた。
「来ないで」
「ミレイ」
「来ないでって言ってるでしょ!」
炎が放たれる。
光の剣が中央から割った。
雷が頭上から落ちる。
ショーマは刃の角度を変え、軌道を横へ逸らした。
不可視の魔力が正面から叩きつけられると、剣を横に寝かせて受け止める。光の粒子が激しく飛び散り、少年の腕がわずかに押し戻されたが、剣は消えなかった。
ショーマは、そのままもう一歩進んだ。
「信じてくれ」
ミレイの唇が震えた。
「信じて……何になるの」
「俺はもう、君を離さない」
その言葉が落ちた途端、背中から伸びた腕がすべて同時に動いた。
攻撃ではなかった。
ミレイを守るように何重にも巻きつき、黒い檻を作る。ショーマの姿を見えなくし、彼をこれ以上近づけまいとするように、長い指が互いへ絡み合った。
拒絶なのか。
怯えているのか。
今度こそ信じてしまいそうな自分を、閉じ込めようとしているのか。
恋には分からなかった。
ショーマは剣を握ったまま、その黒い腕の隙間へ足を踏み入れた。
鋭い爪がすぐそばを掠めても、止まらない。
異形の腕へ触れた光の刃が、彼の手の中で静かにほどけていく。無数の粒子となった光はミレイの周囲へ漂い、黒い檻を内側から淡く照らした。
次の瞬間、ショーマは何も持たない両腕を伸ばし、ミレイの身体を抱きしめていた。
首が折れ、背中から化け物じみた腕を生やした少女を。
かつて魔王軍の将軍として戦った存在を。
剣を捨て、防ぐ手段を失ったまま、それでも躊躇することなく抱きしめていた。
「離して……」
ミレイの声から、先ほどまでの鋭さが消えていた。
「また、いなくなるくせに」
「いなくならない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘よ……だって、そう言ったのに」
ミレイの指が宙を彷徨う。
「一緒にいるって言ったのに、ワタシを置いて帰ったじゃない」
「ああ」
ショーマは否定せず、腕へ力を込めた。
「だから、迎えに来たんだ」
ミレイの背中から伸びた腕が、ゆっくりと垂れ下がった。
最初に輪郭を失ったのは、ショーマを攻撃しようとしていた腕だった。黒い爪の先から灰のように崩れ、細かな粒子となって亜空間へ溶けていく。
一本、また一本と、残った腕も力を失った。
床を支えていた腕が消えると、宙に吊られていたミレイの身体が僅かに落ちた。ショーマはそれを両腕で受け止め、胸元へ抱き寄せる。
不自然に折れていた首が、小さな軋みとともに元の位置へ戻っていく。
黒く塗り潰されていた瞳にも、少しずつ色が戻った。
最初に浮かんだ光は細く、頼りなかった。
けれど、その奥から溢れた涙だけは、すぐに頬を伝った。
「ショーマ」
「うん」
「信じて、いいのね?」
「うん」
「本当に、もう行かない?」
「行かない」
ミレイは、確かめるようにショーマの制服を掴んだ。
指先へ少しずつ力が入り、白くなるほど布を握りしめる。
その瞬間、亜空間が音もなく崩れ始めた。
遠くで星のように瞬いていた光が、一つずつ消えていく。黒と紫に沈んでいた空は薄い膜のように透け、その向こうから夕暮れの色が滲み出した。
足元の黒い床も輪郭を失い、代わりに青葉第二の屋上へ敷かれたコンクリートが戻ってくる。
亜空間の境界がひび割れ、そこから夕方の風が流れ込んだ。
長く途絶えていた部活動の掛け声や、遠くを走る車の音が、少しずつ耳へ戻ってくる。
恋が瞬きをした時には、足元にはもう見慣れた屋上の床があった。
校舎と街の輪郭が、夕暮れの中へ続いている。
雲の端は赤く染まり、風が制服の裾を揺らしていた。
さっきまで閉じ込められていた亜空間だけが、最初から存在しなかったように消えている。
けれど、そこで受けた傷までなくなったわけではなかった。
藍の顔と制服を染める大量の血も、破れた人工皮膚も、不破の荒い呼吸も、恋の腕に残った指の跡も、そのまま現実へ持ち帰られている。
ミレイはショーマの胸元へ顔を押しつけ、声を殺すように肩を震わせていた。
ショーマは背中へ腕を回し、何も言わずにその身体を支えている。
不破が、長く息を吐いた。
「……まったく。主人公は遅れてやって来るのが相場とはいえ、今回は少し肝が冷えたよ」
誰も返事をしなかった。
恋の耳には、不破の声も遠く聞こえていた。
「――藍、さん」
恋は、不破の腕を振りほどくようにして前へ出た。
力を込められたわけではなかった。不破自身にも、もう恋を止めるだけの力が残っていなかったのだろう。
それでも、恋の足はすぐには前へ出なかった。
膝が震え、一歩目で身体が崩れそうになる。靴底がコンクリートを擦り、二歩目では呼吸が喉へ引っかかった。
それでも、藍のところまで歩いた。
藍は立っていた。
ただ、立っているだけだった。
身体の片側へ重心を預け、倒れる直前の姿勢を演算で無理やり維持しているように見える。
血に濡れた顔が、いつものように恋へ向けられた。
「恋。怪我は――」
乾いた音が鳴った。
恋自身、何が起きたのかすぐには分からなかった。
伸ばした右手の掌に鋭い痛みが残り、藍の顔がわずかに横を向いている。
自分が藍の頬を叩いたのだと、少し遅れて理解した。
叩かれた頬には、血の汚れとは別の赤みが浮かんでいた。
恋の息が喉で詰まる。
「なんで……」
声はまともな形にならなかった。
「なんで、あんなことしようとしたんですか!」
藍はすぐには答えなかった。
赤い瞳だけが恋へ戻ってくる。
「私を逃がして、自分だけ残って、死ぬつもりだったんですか。そういうことを、勝手に決めたんですか」
「状況上、最も生存確率の高い選択でした」
「そんな話してません!」
恋の声が屋上へ響いた。
止まりかけていた涙が、また頬を伝う。手の甲で乱暴に拭っても、すぐに次が溢れてきた。
「私がどんな気持ちで見てたか、分かってるんですか。藍さんが自分でもう助からないって言って、私だけ逃がそうとして、それで……」
喉が詰まった。
亜空間で泣き叫んだせいで、声を出すたびに痛みが走る。それでも、胸の中に残ったものが多すぎて、黙ることなどできなかった。
「本当に、死んじゃうと思ったんですよ……」
藍は恋を見たまま動かなかった。
赤い瞳が、僅かに伏せられる。
「申し訳ありません」
「謝ればいいと思ってるんですか」
「思っていません」
「だったら、どうして……!」
「あなたを失いたくありませんでした」
恋の手が止まった。
藍の声は小さかった。
いつもと変わらない丁寧な言葉のはずなのに、僅かな間を置きながら、一つずつ確かめているように聞こえた。
「そのために、最善と判断した行動を選択しました。しかし私は、あなたへ同意を求めず、あなたの意思を置き去りにしました」
藍はゆっくりと頭を下げた。
その動きだけでも身体へ負担がかかるのか、背中から小さな軋みが聞こえた。
「申し訳ありません」
恋は何も言えなかった。
怒鳴りたい言葉は、まだ胸の奥にいくつも残っている。
けれど、それを口にするより先に、藍の身体が僅かに傾いた。
ほんの少しだった。
それでも、今にも倒れそうな藍を見続けていた恋には、はっきりと分かった。
「藍さん?」
赤い瞳が一度揺れ、次の瞬間、藍の膝から力が抜けた。
身体がゆっくりと沈み、そのまま前へ崩れ落ちていく。
恋が手を伸ばす。けれど、間に合わなかった。
「――藍様!」
鋭い声とともに、白い影が横から飛び込んできた。
屋上扉から駆けてきた雪代こよみが、床へ倒れる直前の藍を抱き留めていた。小柄な身体でありながら、その動きには一切の迷いがなく、藍の首と背中を庇うように腕を差し入れている。
「藍様」
こよみの声が、低く硬くなる。
片腕で藍を支えたまま、もう一方の手で端末を起動する。画面へ無数の数値や警告が走り、こよみの指が普段よりも明らかに速く動いた。
恋には表示の意味まで読み取れなかった。
けれど、赤い警告が何度も増えていくことだけは分かった。
「藍様、応答してください」
「こよみ……さん」
藍が辛うじて名前を呼ぶ。
「発声は控えてください」
こよみは即座に言い、首元と胸部へ手を当てた。続いて裂けた制服の背中へ視線を走らせ、内部構造の損傷を確認する。
表情はいつも通りほとんど動かない。
それでも、声には明確な硬さがあった。
「演算系への過負荷を確認。循環系に複数の損傷があります。外部装甲、人工皮膚、右肩部駆動系、背部フレームにも破損を確認しました。これ以上の活動継続は危険です」
「こよみさん、藍さんは……」
恋の声は、また震えた。
「即座に機能停止する状態ではありません」
こよみは端末を操作しながら答える。
「しかし、複数の系統に異常が生じています。直ちに生徒会室へ運び、応急修復を行います」
言い終えると、こよみは藍の背中と膝裏へ腕を回し、その身体を抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこの形だった。
けれど、そこに冗談めいた空気は一切なかった。
藍の長い黒髪がこよみの腕から垂れ、血に濡れた指先が力なく揺れている。目もすでに閉じられ、先ほどまで恋と話していた姿が嘘のように、身体から力が失われていた。
恋の足は、すぐには動かなかった。
つい先ほど頬を叩き、声を荒らげ、勝手に死のうとしたことを責めた相手が、今はこよみの腕の中で目を閉じている。
その二つの光景が、頭の中でうまく繋がらない。
「桜川さん」
こよみが恋を見た。
「来てください」
「は、はい」
恋は慌てて頷いた。
声が裏返り、膝もまだ震えている。それでも、今度は足を止めなかった。
ショーマとミレイがこの後どうするのか。
亜空間で起きたことを、どこから整理すればよいのか。
分からないことは山ほど残っていた。
けれど、今は藍の方が先だった。
こよみが屋上扉へ向かって歩き出す。恋はそのすぐ後ろを追った。
振り返る余裕はなかった。
扉を潜る直前、背後からミレイがショーマの名前を呼ぶ声が、かすかに聞こえたような気がした。
屋上の扉が閉まる。
こよみが階段を下りる足音は、普段よりも速く、重く響いていた。
恋はその後ろをついていきながら、まだ熱と痛みの残る右の掌を、左手で強く握りしめた。
そこには、藍を叩いた感触が残っていた。
消えてほしいのか、消えないでほしいのかも分からないまま、恋は目の前で揺れる藍の黒髪だけを見つめ、生徒会室へ向かった。




