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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第6章 異世界からの来訪者
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第77話

 ミレイの背中から伸びた異形の腕が、何度も虚空を薙いだ。


 恋の目には、相変わらず攻撃そのものは見えない。ただ、藍の周囲だけが遅れて破壊されていく。

 足元の黒い床が突然抉れ、亜空間の境界が内側から殴られたように波打ち、藍がほんの一瞬前まで立っていた場所が、見えない力に押し潰されていった。


 それでも、攻撃は藍へ届かなかった。


 動きは決して大きくない。右肩も満足に上がらず、背中の内部構造も損傷している。

 鼻と口から噴き出した血はまだ止まり切っておらず、身体を動かすたび、顎の先から赤い雫が床へ散った。


 それでも藍は、半歩だけ進み、僅かに身を傾け、時にはその場で足を止めるだけで、不可視の一撃を次々と外していた。


 無駄がなさすぎて、遠目には戦っているというより、血に濡れたまま静かに歩いているようにすら見える。

 その一つ一つの動きが、恋には見えない魔力の縁だけを正確になぞっていた。


「……見えてる」


 ミレイの声が低く落ちた。


 折れた首の奥で、黒く塗り潰された目が藍を捉える。


「本当に、見えてるのね」


「はい」


 藍は短く答えた。


 額から流れた血が片目の周囲を赤く染め、顎の先で小さく揺れている。制服は肩から背中にかけて大きく裂け、焦げた袖の下からは、傷ついた人工皮膚が覗いていた。


 それでも声だけは、いつもの藍とほとんど変わらなかった。


「そう」


 ミレイが笑った。


 その声だけを聞けば、何か面白い遊びを思いついた少女のように無邪気だった。


「だったら、この空間ごと消せばいいだけね」


 その言葉を境に、亜空間の空気が変わった。


 黒と紫が混ざり合う空の奥で、何かが軋むように引き寄せられていく。ミレイの背中から伸びた腕が一本ずつ上方へ掲げられ、長い指先が同じ一点を囲むように内側へ向けられた。


 その中心に、小さな闇が生まれた。


 最初は針の先ほどの黒い点だった。


 けれど、それは周囲の光を吸い込みながら、少しずつ輪郭を広げていく。


 遠くで星のように瞬いていた光が弱まり、足元を漂っていた紫色の揺らぎが薄れていった。藍の頬や胸元を濡らしていた血の赤さまで、闇へ色を奪われるように鈍く沈んでいく。


「なに……これ……」


 恋の喉が張りついた。


 先ほどまでの攻撃とは、明らかに違っていた。


 見えない衝撃でもない。


 炎でも、雷でも、氷でもない。


 攻撃の軌道を見切れば避けられるようなものではなく、もっと大きく、もっと単純に、この場にあるものすべてを押し流そうとしている。


「灰も残さず消し飛ばしてあげる」


 ミレイの声とともに、闇の点がさらに濃くなった。


 足元の床が細かく震え、靴底を通して振動が伝わってくる。不破は片膝をついたまま顔を上げ、歯を食いしばるように呼吸していた。立ち上がろうとして床へ手をつくものの、腕に力が入らず、身体がわずかに沈む。


 その様子を一度だけ見た藍が、僅かに顔を横へ向けた。


「不破さん」


「何かな、会長」


「現在の残存魔力で、この空間から転移できる人数は?」


 不破はすぐには答えなかった。


 呼吸を整えようとしながら、恋と藍を順番に見る。その視線だけで、恋には嫌な予感がした。


「……もって二人まで、かな」


 不破は掠れた声で答えた。


「今の僕では、それが限界だよ」


「そうですか」


 藍は、それだけを返した。


 二人。


 あと一人分、足りない。


 恋がその意味を理解しきるよりも早く、藍はミレイへ向き直ったまま告げた。


「今すぐ、恋を連れてこの空間から離脱してください」


 一瞬、言葉が耳を素通りした。


 恋は何度か瞬きをしたが、藍の背中は変わらずミレイへ向けられている。聞き間違いだったのかと考えたかった。


 けれど、不破は何も言わなかった。


 藍は静かな声で続ける。


「おそらく、私は助かりません」


 その一言だけが、周囲の音をすべて押し退けて恋の耳へ届いた。


 胸の奥へ硬いものを突き込まれたように、息が止まる。


「……何、言ってるんですか」


 ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


 藍は振り返らない。


「藍、さん……?」


「恋」


 名前を呼ばれた。


 普段と変わらない呼び方だった。


 それだけで、足が藍の方へ踏み出しかけた。


「あなたは、不破さんと戻ってください」


「嫌です」


 返事は、考えるより先に口から出ていた。


「嫌です。どうしてそんなこと言うんですか。藍さんも一緒に戻るんですよね? こよみさんも外にいるんです。まだ何か、何か方法があるはずで……」


「ありません」


「あります」


「恋」


「あるに決まってます!」


 叫んだ拍子に喉がひどく痛んだ。


 呼吸がうまく続かず、声が途中で裏返る。視界の中で藍の背中がぼやけ、周囲の黒と紫が滲んでいった。


 目に涙が溜まっているのだと気づいた時には、もう頬まで流れ落ちていた。


「不破先輩、やめてください。私は行きません。藍さんを置いていくなんて、そんなの無理です」


「桜川さん」


 不破の手が、恋の腕へ触れた。


 いつもの飄々とした調子はなかった。指先には熱があり、強く握っているはずなのに、微かに震えている。


「ごめん」


「やめてください!」


 恋は腕を振りほどこうとした。


 もう片方の手で不破の手首を掴み、爪が食い込むほど力を込める。それでも不破は離さなかった。普段なら力任せに誰かを押さえるような人ではないのに、今は残された力のすべてを恋の腕へ集めているようだった。


「放してください! 私は行かない! 藍さんと一緒に残ります!」


「それはできない」


「どうしてですか!」


「不破さん」


 藍の声がした。


「お願いします」


 不破は目を伏せた。


「……分かっているよ」


「分かってない!」


 恋の声が亜空間へ響いた。


「何も分かってないです! 藍さんがここに残ったら、死んじゃうんですよ! 消されるんですよ! それなのに、どうしてそんなに普通に話せるんですか!」


 藍へ手を伸ばす。


 数メートルしか離れていない。


 けれど、いくら腕を伸ばしても届かない。


 不破に掴まれた身体はそれ以上前へ進めず、指先だけが空を掻いた。


「嫌だ……」


 声が震えた。


 喉の奥から何かがせり上がり、息を吸うたびに胸がひきつる。


「嫌です、藍さん……」


 涙で藍の輪郭が崩れていく。


 鼻から息を吸えず、開いた口から短い呼吸が何度も漏れた。


「嫌だよ……!」


 声が完全に崩れた。


「藍さん、死なないで……! 置いていかないでください! 私も、私もここにいますから……!」


 言葉が途切れるたび、しゃくり上げる音が喉から漏れた。


 頬を伝う涙を拭うこともできない。視界が滲んで藍の姿が見えなくなりかけるたび、恋は何度も瞬きをして、その背中を探した。


「不破先輩、お願いです……放して……」


 今度は叫びではなく、縋るような声になった。


「一人で行かせないでください。藍さんを一人にしないで……お願いだから……」


 不破は答えなかった。


 恋の腕を掴む指だけが、さらに強くなる。


「嫌だ……嫌だ、嫌だ……!」


 恋は首を振り、足を床へ踏ん張った。


 転移に備えているのか、不破の周囲に淡い光が滲み始める。それを見た瞬間、本当に連れていかれるのだと身体が理解した。


 もう藍のそばへ戻れない。


 次にこの場所を見た時には、藍が消えているかもしれない。


 その光景が頭へ浮かび、恋は声を上げて泣いた。


「やだぁっ……!」


 息が詰まり、喉から獣の鳴き声のような泣き声が漏れた。


 不破の腕を叩き、指を引き剥がそうとし、足をばたつかせる。普段なら恥ずかしくて絶対にできないような姿だったが、そんなことを考える余裕はなかった。


「藍さん! 藍さん、こっち見てください!」


 声を張り上げるたび、涙と鼻水で呼吸が乱れ、言葉が潰れる。


「ちゃんとこっち見てください! 最後みたいなこと言わないで! お願いだから……!」


 藍は、しばらく振り返らなかった。


 ミレイの腕の中央では、闇が球形へ膨らみ続けている。光だけでなく、音や熱までその中へ引き込まれているようで、周囲の空気が重く沈んでいた。


 やがて藍は、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。


 恋から見えたのは、血で赤く濡れた横顔だけだった。


 額から流れた血が片目の周囲を覆い、鼻と口元には乾き切らない赤が残っている。それでも表情は崩れていなかった。


「恋」


また名前を呼ばれた。


「監査等委員長として、これまでよく務めてくれました」


 恋の顔が歪んだ。


「なんで……」


 喉が詰まり、言葉がうまく出てこない。


「なんで、そんな言い方するんですか……」


「あなたを選んだことは、私にとって大きな成果です」


「やめて……」


「あなたがいたことで、私は多くのことを観測できました」


「やめてください……」


「恋と過ごした時間は、私にとって――」


「やめて!」


 恋は泣き叫んだ。


 藍の言葉を最後まで聞けば、本当に別れになってしまう気がした。


「そんなこと、今言わないでください! あとで言ってください! ちゃんと戻ってから、生徒会室で言ってください!」


 涙で息が詰まり、言葉の途中で何度も咳き込んだ。


「私、まだ何もできてないです……! 監査だって、藍さんに助けてもらってばっかりで、全然ちゃんとできてない! だから成果とか、終わったみたいに言わないでください!」


 藍は静かに恋を見ていた。


「あなたは、十分に務めています」


「十分じゃない!」


「恋」


「私はまだ、藍さんと一緒にいたいんです!」


 声が裏返った。


 言った瞬間、胸の奥で何かが破れたように涙がさらに溢れた。


「もっと話したいし、もっと一緒に帰りたいし、生徒会室でまた変なことに巻き込まれて、文句言って……それで……」


 次の言葉が出てこなかった。


 口を開いても、泣き声しか漏れない。


「だから……だから死なないで……」


 恋は不破に掴まれたまま、その場へ崩れ落ちそうになった。


「お願いです、藍さん……私を置いていかないで……」


 藍の赤い瞳が、僅かに細くなった。


 それがどんな反応だったのか、涙でぼやけた恋には分からなかった。


「どうか、生きてください」


 藍は言った。


「あなたには、その価値があります」


「そんなのいらない!」


 恋は首を振った。


「私だけ生きても意味ないです! 藍さんがいないなら、そんなの……!」


 言葉の続きは、不破の手に力が入ったことで途切れた。


 足元に滲んでいた淡い光が、少しずつ強くなる。


 転移が始まる。


 その事実に気づいた恋は、ほとんど悲鳴のような声を上げた。


「待って! 待ってください! まだ駄目! 藍さん、来て! 早くこっちに来てください!」


 不破の腕を叩く。


 届かないと分かっていても、藍へ手を伸ばし続ける。


「藍さん! 藍さん! お願い、こっち見て! 置いていかないで! 私を一人にしないでください!」


 藍は、それ以上振り返らなかった。


 代わりに、ゆっくりとミレイへ向き直る。


「ミレイ・ブラッドフォールンさん」


「なに?」


「あなたは、非常に優れた魔法使いです」


 ミレイの黒い目が僅かに細くなる。


「この状況で、まだそんなことを言う余裕があるのね」


「はい。認識改変、亜空間の形成、魔力制御。いずれも高度な技術です。あなたがこの世界へ現れたことは、私にとって極めて重要な観測でした」


「最後まで変な人形」


「よく言われます」


 ミレイは、ほんの少し笑った。


 その一瞬だけ、昨日生徒会室で話していた少女の顔に近づいたように見えた。


「あなたもすごかったわ。魔力が見えないのに、無理やり見えるようにするなんて。ショーマでも、そんな真似はできなかった」


 腕の中央で、闇の球が震える。


 周囲の空間が軋み、床の一部が少しずつ削られていく。


「じゃあ、さよなら」


「やめて……」


 恋の口から、小さな声が漏れた。


 藍の背中が、闇の前に立っている。


 本当に、死ぬつもりなのだ。


「やめて……やめてよ……」


 恋は泣きながら首を振った。


 不破の転移光が足元を包み始めている。身体が僅かに浮くような感覚があり、藍との距離がますます遠くなったように感じた。


「藍さん……」


 声がもうほとんど出なかった。


「嫌だ……」


 ミレイの異形の腕が、一斉に前へ伸びる。


 圧縮された闇が藍へ狙いを定める。


「嫌だああああああッ!」


 恋は喉が裂けるほど叫んだ。


 声になったのかどうか、自分でも分からなかった。


 不破の転移の光が恋の身体へ絡みつく。


 だが、それが完成するよりも早く、ミレイの攻撃が放たれた。


 黒い波が走った。

 

 それは通り道にあるものを照らさなかった。


 ただ、存在を削り取っていった。床を消し、全てを飲み込む。


 藍とミレイの間にあった距離そのものが、黒い照射によって抉り取られていく。


 藍は避けなかった。避けられないのだと、恋にも分かった。


 恋の手が虚空を掴む。


 指先は何にも触れない。藍へは届かない。叫んでも、泣いても、伸ばしても、届かない。


 黒い一撃が藍へ触れる、その直前だった。


「――――」


 亜空間の中心に白い亀裂が走り、その向こうから一人の男が踏み込んできた。


 制服を着た少年だった。


 肩から鞄を下げ、伸びかけた黒髪を揺らしている。


 右手には、無数の光の粒子が形を成したような剣が握られていた。


 少年がその剣を持ち上げる。ただ、それだけだった。


 藍を消し飛ばすはずだった黒い照射が、光の刃へ触れた瞬間、端から崩れ始めた。


 圧縮された闇が、絡まった糸を解かれるように細くほどけ、霧のような粒子となって亜空間へ散っていく。


 ミレイの背中の腕が、一斉に動きを止めた。


 恋も呼吸を忘れた。


 涙はまだ頬を流れ続け、喉からはしゃくり上げる音が漏れていたが、もう声を出すことができなかった。


 少年は黒い魔力の残滓を払うように剣を下ろした。


 その横顔を見た瞬間、ミレイの身体が僅かに震えた。


 折れた首のまま、彼女の唇だけが何度も開閉する。


「……ショーマ?」


 不破の腕から、少しだけ力が抜けた。


 恋の足元に集まっていた転移の光も、いつの間にか消えている。不破は息を切らしながら、それでもどうにか口元を持ち上げた。


「――遅いよ、主人公」


 少年は不破へ目を向けた。


 一瞬、驚いたように瞳を揺らしたが、すぐに視線を正面へ戻す。


 榊原藍の前へ立ち、光の剣を下げたまま、ミレイと向かい合った。


 亜空間には、消え残った魔力の粒が静かに漂っている。


 誰も動かなかった。


 ショーマと呼ばれた男だけが、長い時間を越えてようやく辿り着いたように、ゆっくりと口を開いた。


「待たせたね、ミレイ」

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