第77話
ミレイの背中から伸びた異形の腕が、何度も虚空を薙いだ。
恋の目には、相変わらず攻撃そのものは見えない。ただ、藍の周囲だけが遅れて破壊されていく。
足元の黒い床が突然抉れ、亜空間の境界が内側から殴られたように波打ち、藍がほんの一瞬前まで立っていた場所が、見えない力に押し潰されていった。
それでも、攻撃は藍へ届かなかった。
動きは決して大きくない。右肩も満足に上がらず、背中の内部構造も損傷している。
鼻と口から噴き出した血はまだ止まり切っておらず、身体を動かすたび、顎の先から赤い雫が床へ散った。
それでも藍は、半歩だけ進み、僅かに身を傾け、時にはその場で足を止めるだけで、不可視の一撃を次々と外していた。
無駄がなさすぎて、遠目には戦っているというより、血に濡れたまま静かに歩いているようにすら見える。
その一つ一つの動きが、恋には見えない魔力の縁だけを正確になぞっていた。
「……見えてる」
ミレイの声が低く落ちた。
折れた首の奥で、黒く塗り潰された目が藍を捉える。
「本当に、見えてるのね」
「はい」
藍は短く答えた。
額から流れた血が片目の周囲を赤く染め、顎の先で小さく揺れている。制服は肩から背中にかけて大きく裂け、焦げた袖の下からは、傷ついた人工皮膚が覗いていた。
それでも声だけは、いつもの藍とほとんど変わらなかった。
「そう」
ミレイが笑った。
その声だけを聞けば、何か面白い遊びを思いついた少女のように無邪気だった。
「だったら、この空間ごと消せばいいだけね」
その言葉を境に、亜空間の空気が変わった。
黒と紫が混ざり合う空の奥で、何かが軋むように引き寄せられていく。ミレイの背中から伸びた腕が一本ずつ上方へ掲げられ、長い指先が同じ一点を囲むように内側へ向けられた。
その中心に、小さな闇が生まれた。
最初は針の先ほどの黒い点だった。
けれど、それは周囲の光を吸い込みながら、少しずつ輪郭を広げていく。
遠くで星のように瞬いていた光が弱まり、足元を漂っていた紫色の揺らぎが薄れていった。藍の頬や胸元を濡らしていた血の赤さまで、闇へ色を奪われるように鈍く沈んでいく。
「なに……これ……」
恋の喉が張りついた。
先ほどまでの攻撃とは、明らかに違っていた。
見えない衝撃でもない。
炎でも、雷でも、氷でもない。
攻撃の軌道を見切れば避けられるようなものではなく、もっと大きく、もっと単純に、この場にあるものすべてを押し流そうとしている。
「灰も残さず消し飛ばしてあげる」
ミレイの声とともに、闇の点がさらに濃くなった。
足元の床が細かく震え、靴底を通して振動が伝わってくる。不破は片膝をついたまま顔を上げ、歯を食いしばるように呼吸していた。立ち上がろうとして床へ手をつくものの、腕に力が入らず、身体がわずかに沈む。
その様子を一度だけ見た藍が、僅かに顔を横へ向けた。
「不破さん」
「何かな、会長」
「現在の残存魔力で、この空間から転移できる人数は?」
不破はすぐには答えなかった。
呼吸を整えようとしながら、恋と藍を順番に見る。その視線だけで、恋には嫌な予感がした。
「……もって二人まで、かな」
不破は掠れた声で答えた。
「今の僕では、それが限界だよ」
「そうですか」
藍は、それだけを返した。
二人。
あと一人分、足りない。
恋がその意味を理解しきるよりも早く、藍はミレイへ向き直ったまま告げた。
「今すぐ、恋を連れてこの空間から離脱してください」
一瞬、言葉が耳を素通りした。
恋は何度か瞬きをしたが、藍の背中は変わらずミレイへ向けられている。聞き間違いだったのかと考えたかった。
けれど、不破は何も言わなかった。
藍は静かな声で続ける。
「おそらく、私は助かりません」
その一言だけが、周囲の音をすべて押し退けて恋の耳へ届いた。
胸の奥へ硬いものを突き込まれたように、息が止まる。
「……何、言ってるんですか」
ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
藍は振り返らない。
「藍、さん……?」
「恋」
名前を呼ばれた。
普段と変わらない呼び方だった。
それだけで、足が藍の方へ踏み出しかけた。
「あなたは、不破さんと戻ってください」
「嫌です」
返事は、考えるより先に口から出ていた。
「嫌です。どうしてそんなこと言うんですか。藍さんも一緒に戻るんですよね? こよみさんも外にいるんです。まだ何か、何か方法があるはずで……」
「ありません」
「あります」
「恋」
「あるに決まってます!」
叫んだ拍子に喉がひどく痛んだ。
呼吸がうまく続かず、声が途中で裏返る。視界の中で藍の背中がぼやけ、周囲の黒と紫が滲んでいった。
目に涙が溜まっているのだと気づいた時には、もう頬まで流れ落ちていた。
「不破先輩、やめてください。私は行きません。藍さんを置いていくなんて、そんなの無理です」
「桜川さん」
不破の手が、恋の腕へ触れた。
いつもの飄々とした調子はなかった。指先には熱があり、強く握っているはずなのに、微かに震えている。
「ごめん」
「やめてください!」
恋は腕を振りほどこうとした。
もう片方の手で不破の手首を掴み、爪が食い込むほど力を込める。それでも不破は離さなかった。普段なら力任せに誰かを押さえるような人ではないのに、今は残された力のすべてを恋の腕へ集めているようだった。
「放してください! 私は行かない! 藍さんと一緒に残ります!」
「それはできない」
「どうしてですか!」
「不破さん」
藍の声がした。
「お願いします」
不破は目を伏せた。
「……分かっているよ」
「分かってない!」
恋の声が亜空間へ響いた。
「何も分かってないです! 藍さんがここに残ったら、死んじゃうんですよ! 消されるんですよ! それなのに、どうしてそんなに普通に話せるんですか!」
藍へ手を伸ばす。
数メートルしか離れていない。
けれど、いくら腕を伸ばしても届かない。
不破に掴まれた身体はそれ以上前へ進めず、指先だけが空を掻いた。
「嫌だ……」
声が震えた。
喉の奥から何かがせり上がり、息を吸うたびに胸がひきつる。
「嫌です、藍さん……」
涙で藍の輪郭が崩れていく。
鼻から息を吸えず、開いた口から短い呼吸が何度も漏れた。
「嫌だよ……!」
声が完全に崩れた。
「藍さん、死なないで……! 置いていかないでください! 私も、私もここにいますから……!」
言葉が途切れるたび、しゃくり上げる音が喉から漏れた。
頬を伝う涙を拭うこともできない。視界が滲んで藍の姿が見えなくなりかけるたび、恋は何度も瞬きをして、その背中を探した。
「不破先輩、お願いです……放して……」
今度は叫びではなく、縋るような声になった。
「一人で行かせないでください。藍さんを一人にしないで……お願いだから……」
不破は答えなかった。
恋の腕を掴む指だけが、さらに強くなる。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ……!」
恋は首を振り、足を床へ踏ん張った。
転移に備えているのか、不破の周囲に淡い光が滲み始める。それを見た瞬間、本当に連れていかれるのだと身体が理解した。
もう藍のそばへ戻れない。
次にこの場所を見た時には、藍が消えているかもしれない。
その光景が頭へ浮かび、恋は声を上げて泣いた。
「やだぁっ……!」
息が詰まり、喉から獣の鳴き声のような泣き声が漏れた。
不破の腕を叩き、指を引き剥がそうとし、足をばたつかせる。普段なら恥ずかしくて絶対にできないような姿だったが、そんなことを考える余裕はなかった。
「藍さん! 藍さん、こっち見てください!」
声を張り上げるたび、涙と鼻水で呼吸が乱れ、言葉が潰れる。
「ちゃんとこっち見てください! 最後みたいなこと言わないで! お願いだから……!」
藍は、しばらく振り返らなかった。
ミレイの腕の中央では、闇が球形へ膨らみ続けている。光だけでなく、音や熱までその中へ引き込まれているようで、周囲の空気が重く沈んでいた。
やがて藍は、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。
恋から見えたのは、血で赤く濡れた横顔だけだった。
額から流れた血が片目の周囲を覆い、鼻と口元には乾き切らない赤が残っている。それでも表情は崩れていなかった。
「恋」
また名前を呼ばれた。
「監査等委員長として、これまでよく務めてくれました」
恋の顔が歪んだ。
「なんで……」
喉が詰まり、言葉がうまく出てこない。
「なんで、そんな言い方するんですか……」
「あなたを選んだことは、私にとって大きな成果です」
「やめて……」
「あなたがいたことで、私は多くのことを観測できました」
「やめてください……」
「恋と過ごした時間は、私にとって――」
「やめて!」
恋は泣き叫んだ。
藍の言葉を最後まで聞けば、本当に別れになってしまう気がした。
「そんなこと、今言わないでください! あとで言ってください! ちゃんと戻ってから、生徒会室で言ってください!」
涙で息が詰まり、言葉の途中で何度も咳き込んだ。
「私、まだ何もできてないです……! 監査だって、藍さんに助けてもらってばっかりで、全然ちゃんとできてない! だから成果とか、終わったみたいに言わないでください!」
藍は静かに恋を見ていた。
「あなたは、十分に務めています」
「十分じゃない!」
「恋」
「私はまだ、藍さんと一緒にいたいんです!」
声が裏返った。
言った瞬間、胸の奥で何かが破れたように涙がさらに溢れた。
「もっと話したいし、もっと一緒に帰りたいし、生徒会室でまた変なことに巻き込まれて、文句言って……それで……」
次の言葉が出てこなかった。
口を開いても、泣き声しか漏れない。
「だから……だから死なないで……」
恋は不破に掴まれたまま、その場へ崩れ落ちそうになった。
「お願いです、藍さん……私を置いていかないで……」
藍の赤い瞳が、僅かに細くなった。
それがどんな反応だったのか、涙でぼやけた恋には分からなかった。
「どうか、生きてください」
藍は言った。
「あなたには、その価値があります」
「そんなのいらない!」
恋は首を振った。
「私だけ生きても意味ないです! 藍さんがいないなら、そんなの……!」
言葉の続きは、不破の手に力が入ったことで途切れた。
足元に滲んでいた淡い光が、少しずつ強くなる。
転移が始まる。
その事実に気づいた恋は、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
「待って! 待ってください! まだ駄目! 藍さん、来て! 早くこっちに来てください!」
不破の腕を叩く。
届かないと分かっていても、藍へ手を伸ばし続ける。
「藍さん! 藍さん! お願い、こっち見て! 置いていかないで! 私を一人にしないでください!」
藍は、それ以上振り返らなかった。
代わりに、ゆっくりとミレイへ向き直る。
「ミレイ・ブラッドフォールンさん」
「なに?」
「あなたは、非常に優れた魔法使いです」
ミレイの黒い目が僅かに細くなる。
「この状況で、まだそんなことを言う余裕があるのね」
「はい。認識改変、亜空間の形成、魔力制御。いずれも高度な技術です。あなたがこの世界へ現れたことは、私にとって極めて重要な観測でした」
「最後まで変な人形」
「よく言われます」
ミレイは、ほんの少し笑った。
その一瞬だけ、昨日生徒会室で話していた少女の顔に近づいたように見えた。
「あなたもすごかったわ。魔力が見えないのに、無理やり見えるようにするなんて。ショーマでも、そんな真似はできなかった」
腕の中央で、闇の球が震える。
周囲の空間が軋み、床の一部が少しずつ削られていく。
「じゃあ、さよなら」
「やめて……」
恋の口から、小さな声が漏れた。
藍の背中が、闇の前に立っている。
本当に、死ぬつもりなのだ。
「やめて……やめてよ……」
恋は泣きながら首を振った。
不破の転移光が足元を包み始めている。身体が僅かに浮くような感覚があり、藍との距離がますます遠くなったように感じた。
「藍さん……」
声がもうほとんど出なかった。
「嫌だ……」
ミレイの異形の腕が、一斉に前へ伸びる。
圧縮された闇が藍へ狙いを定める。
「嫌だああああああッ!」
恋は喉が裂けるほど叫んだ。
声になったのかどうか、自分でも分からなかった。
不破の転移の光が恋の身体へ絡みつく。
だが、それが完成するよりも早く、ミレイの攻撃が放たれた。
黒い波が走った。
それは通り道にあるものを照らさなかった。
ただ、存在を削り取っていった。床を消し、全てを飲み込む。
藍とミレイの間にあった距離そのものが、黒い照射によって抉り取られていく。
藍は避けなかった。避けられないのだと、恋にも分かった。
恋の手が虚空を掴む。
指先は何にも触れない。藍へは届かない。叫んでも、泣いても、伸ばしても、届かない。
黒い一撃が藍へ触れる、その直前だった。
「――――」
亜空間の中心に白い亀裂が走り、その向こうから一人の男が踏み込んできた。
制服を着た少年だった。
肩から鞄を下げ、伸びかけた黒髪を揺らしている。
右手には、無数の光の粒子が形を成したような剣が握られていた。
少年がその剣を持ち上げる。ただ、それだけだった。
藍を消し飛ばすはずだった黒い照射が、光の刃へ触れた瞬間、端から崩れ始めた。
圧縮された闇が、絡まった糸を解かれるように細くほどけ、霧のような粒子となって亜空間へ散っていく。
ミレイの背中の腕が、一斉に動きを止めた。
恋も呼吸を忘れた。
涙はまだ頬を流れ続け、喉からはしゃくり上げる音が漏れていたが、もう声を出すことができなかった。
少年は黒い魔力の残滓を払うように剣を下ろした。
その横顔を見た瞬間、ミレイの身体が僅かに震えた。
折れた首のまま、彼女の唇だけが何度も開閉する。
「……ショーマ?」
不破の腕から、少しだけ力が抜けた。
恋の足元に集まっていた転移の光も、いつの間にか消えている。不破は息を切らしながら、それでもどうにか口元を持ち上げた。
「――遅いよ、主人公」
少年は不破へ目を向けた。
一瞬、驚いたように瞳を揺らしたが、すぐに視線を正面へ戻す。
榊原藍の前へ立ち、光の剣を下げたまま、ミレイと向かい合った。
亜空間には、消え残った魔力の粒が静かに漂っている。
誰も動かなかった。
ショーマと呼ばれた男だけが、長い時間を越えてようやく辿り着いたように、ゆっくりと口を開いた。
「待たせたね、ミレイ」




