第76話
ミレイの背中から伸びた異形の腕が、再び榊原藍へ向けられた。
その先端に光は宿らず、空気が焦げる匂いも、電撃が弾ける音も、氷片が生まれる白い輝きもない。そこにはただ、黒い腕が藍へ狙いを定めたという事実だけがあり、攻撃の発生を知らせるものは何一つ見えなかった。
それでも藍は動いた。
魔力そのものを知覚できない以上、飛来する攻撃を見てから避けることはできない。
しかし、ミレイが攻撃を行うには、腕を向け、対象を定め、何らかの形で魔力を制御する必要がある。
腕の角度、刃のような指先の開き、肩に相当する節の収縮、黒く塗り潰された目が固定された位置。それらを直前までの攻撃パターンと照合すれば、発動の時機と狙われている場所を仮定することはできる。
確証はない。
藍は、その仮説だけを頼りに身体を右へずらした。
直後、何もないはずの空間が、彼女のすぐ脇を通り抜けた。
音も光も生じなかったが、足元の黒い床が局所的にへこみ、その先にある亜空間の境界が、水面へ石を投げ込んだように鈍く波打った。何かが確かにそこを通過し、外れたのだと、その結果だけが残された。
「……避けた」
恋は、かすれた声で呟いた。
隣では、不破も片膝をついたまま目を細めている。
「攻撃そのものではなく、ミレイくんの動きから軌道を読んだのか……」
その声には、隠しきれない驚きが混じっていた。
ミレイの顔が歪んだ。
「へえ。見えなくても、撃つ場所くらいは予測できるんだ」
折れた首を垂らしたまま、口元だけが楽しそうに持ち上がる。背中の腕はゆっくりと向きを変え、今度は藍が移動できる範囲そのものをなぞるように広がった。
「でも、いつまでもタイミングが同じだと思わないことね」
ミレイが腕を構える。
藍は即座に動いた。
腕の向きと視線から射線を推定し、攻撃が放たれる前にその場を離れる。判断に迷いはなく、最初に狙われていた位置からは完全に外れていた。
だが、何も起こらなかった。
一拍。
藍が回避を終え、次の動きへ移ろうとした、そのわずかな間を待っていたかのように。
不可視の衝撃が、横合いから叩き込まれた。
ミレイは最初から、藍が避けることまで読んでいた。最初に腕を向けた場所ではなく、その情報を信じた藍が移動する先へ、発動の時機だけを遅らせて攻撃を置いていた。
「――ぐ、ッ!」
短く潰れた声が、藍の喉から漏れた。
「藍さん!」
恋が叫んだ時には、すでに藍の身体は宙へ弾き飛ばされていた。
横から巨大な槌で殴り抜かれたように肩が跳ね、頭部が強く振られる。足は床を離れ、黒髪が大きく広がったまま、身体ごと亜空間の境界へ叩きつけられた。
先ほどよりも重い音が響いた。
背中が見えない壁へ沈み込み、裂けていた制服の布がさらに大きく破れる。内部フレームが軋む低い音が、衝撃に遅れて恋の耳まで届いた。
藍は壁に押しつけられたまま一瞬止まり、力を失ったように床へ落ちた。
片膝をつくことすらできず、肩から崩れ、そのまま横向きに倒れ込む。
「藍さん、もう……!」
恋は反射的に駆け出そうとした。
だが、不破の手がすぐにその腕を掴んだ。
「駄目だ」
「でも!」
「今動けば、君も狙われる」
「でも、藍さんが……!」
言葉を続ける間にも、藍は床へ片手をつき、身体を起こそうとしていた。
その手は一度滑った。
肩へ力が入らないのか、上半身が持ち上がりかけて再び沈む。数秒の遅れを挟み、ようやく顔だけが上がった。
額が裂けていた。
黒髪の隙間から赤い人工血液が流れ、眉を越えて片目の縁へ入り込んでいる。頬を伝った血は顎へ集まり、細い筋となって床へ落ちた。
「……来ないで、ください」
返ってきた声は掠れていた。
呼吸も浅く、言葉の間に不自然な空白がある。
それでも藍は恋を制止し、もう一度立ち上がろうとした。
その瞬間、藍の身体が大きく震えた。
「――っ、ぐ……」
鼻から、赤いものが一筋流れた。
最初は、それだけに見えた。
次の瞬間、堰が外れた。
大量の血が、藍の鼻から一気に噴き出した。
細く垂れるような量ではなかった。内部で圧力を受け止めきれなくなったものが出口を求めたように、鮮やかな赤が勢いよく溢れ、口元から顎、胸元までを瞬く間に濡らしていく。
藍は咄嗟に片手で鼻を押さえた。
しかし、止まらなかった。
指の隙間から血が次々と溢れ、手の甲を覆い、手首を伝って制服の袖へ染み込んでいく。鼻腔だけでは処理しきれなかったのか、藍が息を吸おうとした瞬間、喉の奥から湿った音がした。
「……ごほっ」
咳とともに、口から血が噴き出した。
赤い飛沫が床へ広がり、藍の唇からはさらに大量の血が溢れた。鼻から流れ込んだものだけではない。口腔の奥から押し上げられるように、何度も血が溢れ、胸元を赤黒く染めていく。
「藍、さん……」
恋の声が震えた。
顔の下半分はすでに血に濡れ、顎から絶え間なく赤い雫が落ちている。口を開くたび、唇の間から血が溢れ、呼吸へ混じって泡立った赤が喉元を伝った。
人工血液だと分かっている。
藍の身体が人間と同じではないことも知っている。
それでも、恋の目の前にいるのは、血を吐きながら立ち上がろうとしている少女だった。
藍の身体の内部で、何かが決定的に壊れ始めている。
外装やフレームだけではない。演算機構か、循環系か、それとももっと深い部分が、今の衝撃へ耐えきれず悲鳴を上げている。
恋には、そうとしか見えなかった。
「藍さん、やめてください……」
不破に腕を掴まれたまま、恋は縋るように呼びかけた。
藍は答えようとした。
けれど、口を開いた途端にまた血が込み上げ、喉の奥で言葉が潰れた。
「……問題、ありま……せん」
ようやく出た声は、血の混じった湿った音になっていた。
どう見ても、問題のない状態ではない。
ミレイは、その姿を見下ろしながら笑った。
「ほら」
黒い腕が愉快そうに揺れる。
「どれだけ賢くても、見えないものは避けられないでしょう?」
藍は答えなかった。
床へついた左手へ力を込め、ゆっくりと片膝を立てる。右肩はほとんど上がらず、背中を支える内部構造も正常に動いていないらしい。
立ち上がる途中で身体が大きく傾いた。
恋は息を呑んだが、藍は倒れなかった。
血で濡れた手を床から離し、僅かに震える脚でどうにか身体を支える。
額から流れる血は片目の周囲まで染め、鼻と口からは今も赤い筋が途切れず落ち続けている。白いシャツも制服の胸元もすでに色を失い、血を吸って重く張りついていた。
それでも、赤い瞳だけはミレイから逸れていない。
その光景を見た時、恋の中へ、はっきりと絶望が入り込んだ。
藍の身体は頑丈だ。
銃弾にも耐えられる。
普通の人間よりずっと壊れにくい。
けれど、目の前でその藍が血を噴き出し、立っていることさえ困難になっている。
恋の指先から感覚が薄れていく。
藍がもう一度攻撃を受ければ、今度こそ立ち上がれないかもしれない。その次は不破で、その次は自分なのだろう。
その順番まで見えてしまうことが、たまらなく怖かった。
そんな中で、藍が口を開いた。
唇の端から新しい血が垂れ、声を出す前に小さな咳が混じる。
「――解析を、完了しました」
あまりにも静かな声だった。
恋は、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
「……解析?」
ミレイも同じだったのだろう。
折れ曲がった首をさらに傾け、不愉快そうに藍を見つめる。
「何を言っているの?」
「あなたの……魔力攻撃です」
藍は口元の血を手の甲で拭った。
だが、拭ったそばから鼻と口へ新たな赤が滲み、完全には隠せない。
「見えてもいないくせに」
「先ほどまでは」
藍は、途切れがちな呼吸を整えた。
「今は違います」
ミレイの背中の腕が、苛立ったように蠢いた。
「なら、もう一度見せてあげる」
腕が藍へ向く。
恋の目には、やはり何も見えなかった。
光もない。
音もない。
先ほどと同じように、不可視の衝撃が放たれたはずだった。
けれど、藍は身体を僅かに傾けた。
予測して先に動いたのではない。
攻撃が放たれた後、その軌道を目で追ったかのような、滑らかな回避だった。
見えない何かが藍の肩先を通り過ぎ、背後の空間を歪ませる。
ミレイの表情が揺れた。
「……は?」
二撃目。
今度は発動の時機を遅らせた。
藍は待ち、放たれた瞬間だけ身体をずらした。
三撃目は軌道を変え、斜め上方から叩きつけられる。
藍は沈み込むように避けた。
身体能力が上がったわけではない。
負った損傷も消えていない。
右肩は下がったままで、動くたびに背部フレームから軋みが鳴る。鼻と口から流れる血も止まっておらず、回避するたびに赤い飛沫が床へ散った。
それでも、攻撃だけは当たらない。
不可視だったはずの魔力が、藍の目には明確な軌道を持つものとして映っているようだった。
「どうして」
ミレイの声が低くなる。
「どうして避けられるの。あなたは魔力を感じられない。ショーマと同じ、この世界の人間と同じで、見えるはずがないのに」
「私は人間ではありません」
藍は淡々と答えた。
「そして、人間と同じ方法で世界を知覚しているわけでもありません」
「何をしたの」
「私が知覚可能な要素を、すべて描画しました」
恋には、その意味が分からなかった。
だが、不破は目を見開いた。
「……正気かい」
「正気です」
藍は短く答えた。
「可視光、赤外光、紫外光、電磁波、熱分布、空気中の粒子変動、局所的な圧力差。この空間内に存在する、私が観測可能な情報をすべて同時に描画しました」
「全部……?」
恋は呆然と呟いた。
「見えるものを全部、一度塗り潰したのか」
不破の顔から、僅かに血の気が引いた。
「その上で、描画されなかったものだけを浮かび上がらせた……」
「はい」
藍は頷いた。
その拍子に鼻から新たな血が溢れ、唇へ流れ込む。藍は一度咳き込み、口元から赤い液体を散らしながらも、説明を止めなかった。
「魔力を直接観測したわけではありません。私に知覚できない要素を差分として抽出し、先ほどの攻撃時に生じた変動と一致するものを選別しました」
見えるものをすべて描き出す。
藍が認識できるあらゆる情報で世界を埋め尽くし、それでもなお残る空白だけを拾い上げる。
当然、その空白には魔力以外のものも混ざっている。
観測誤差、亜空間そのものの揺らぎ、現代の科学では説明することのできない未知の現象、処理しきれないノイズ。
本来なら意味を見いだせないほど膨大な情報の濁流だった。
藍は、その中から自分を打ち据えた一撃と一致するものだけを探し、近似した。
情報を照合し、無数のノイズの中から魔力と推定される変動へ輪郭を与えた。
魔力を感じ取れるようになったわけではない。
見えないものを、見える情報との差として無理やり定義した。
藍の鼻と口から噴き出した大量の血は、その代償だった。
人工身体の演算負荷が限界を超え、冷却系と循環系が一時的に破綻した。過剰な圧力が血管に相当する構造へ集中し、逃げ場を失った人工血液が、鼻腔と口腔から一気に押し出されたのだろう。
一歩間違えれば、演算機構そのものが焼き切れていたかもしれない。
それでも藍は、間に合わせた。
「そんなの……」
ミレイの声が震える。
「そんなの、無理やり見えることにしただけじゃない」
「はい」
藍は否定しなかった。
「その通りです」
「何なの、あなた」
「榊原藍です」
いつもの答えだった。
けれど、血に濡れ、身体の各所を損傷しながら立つ藍が口にすると、その名前は単なる自己紹介とは違って聞こえた。
ミレイは奥歯を噛み、背中の腕を一斉に動かした。
不可視の攻撃が、連続して放たれる。
恋には、何も見えない。
ただ、藍には見えていた。
大量のノイズに埋め尽くされた世界の中から、魔力の輪郭だけを拾い上げ、必要最低限の動きで攻撃を外していく。
一歩動くたび、身体が軋む。
血が散る。
呼吸が乱れる。
それでも不可視の一撃は、もう藍へ届かなかった。
魔力そのものを観測可能な差分へ変えてしまった榊原藍に対し、ミレイの不可視攻撃は、もはや不可視ではなくなっていた。




