第75話
ミレイの背中から伸びた異形の腕に、紫色の電光が絡みついた。
黒い甲殻のような表面を這っていた光が爪の先へ収束した、その直後。亜空間の暗がりを引き裂くように、太い雷撃が一直線に放たれた。
榊原藍は、雷が届くより先に身体を半歩だけ傾けていた。
轟音とともに紫電が目の前を通過し、長い黒髪が衝撃に煽られる。雷撃は藍の肩を紙一重で外れ、その背後に広がる闇の中へ消えていった。
「避けた……?」
ミレイの口から、低い声が漏れた。
藍の動きそのものは、決して速くなかった。
戌井涼のように、人間の限界を超えた速度で射線の外へ抜けたわけではない。雪代こよみのように、人工筋肉の出力へ任せて身体を強引に滑り込ませたわけでもなかった。
ミレイの腕が動いた瞬間、藍はすでに攻撃の発生位置を読んでいた。
指先へ電流が収束する角度。肩に相当する節の開き方。術式が成立する直前、周囲の空間に生じたわずかな揺らぎ。そして、ミレイが三人をまとめて仕留めようとするなら、どの射線を選ぶのが最も効率的か。
それらを同時に処理し、雷撃が放たれる頃には、命中するはずだった場所から身体を外していた。
速さではなく、予測。
反射ではなく、演算。
藍は魔法そのものを見切ったのではなく、それを放とうとするミレイの動作と意図を読んでいた。
「……っ」
ミレイの口元が歪んだ。
折れたように傾いた首はそのままに、背中から伸びた腕だけが次々と開く。一本が赤く染まり、別の一本の周囲では白い霜が渦巻き、さらに奥では新たな紫電が弾けていた。
炎が放たれる。
藍は左へ足を運んだ。
赤い火線が床を舐めるように走り、遅れて熱風が吹き抜ける。火炎は黒髪の先端だけを焦がし、亜空間の闇へ長い残光を残して消えた。
間を置かず、氷の礫が扇状に広がった。
今度の藍は後退せず、あえてミレイへ近づいた。発生源に近いほど氷片の間隔が狭くなるはずなのに、彼女は広がり切る前のわずかな空隙へ身体を滑り込ませ、頬の横を通過した氷の刃をやり過ごす。
続いて放たれた雷撃には、動かなかった。
ミレイは藍が回避を続けることを前提に、その移動先へ狙いをずらしていた。藍はそれを読み、その場で足を止めることで、先回りして放たれた紫電を外した。
炎も、雷も、氷も、恋の知る物理法則だけでは説明できない。
それでも、この空間へ現象として現れる以上、完全に何の前触れもなく発生するわけではなかった。魔力の収束には僅かな時間があり、腕の動きには癖があり、攻撃の方向には術者の意図が反映される。
藍は、そこに生じる小さな偏りを拾い続けていた。
不破の隣に膝をついていた恋は、息をすることさえ忘れたように、その光景を見つめていた。
藍が戦っている。
ただし、戦っているという言葉が適切なのかは分からなかった。
反撃はしていない。
反撃する手段も、おそらく持っていない。
榊原藍の人工身体は人間より頑丈に作られているが、もともと戦闘用ではない。戌井のように敵を斬り伏せる技術もなければ、こよみのように火器や高出力の人工筋肉で押し切ることもできない。
それでも藍は、ミレイが生み出す猛攻の隙間を縫いながら、ゆっくりと前へ進んでいた。
嵐の中で、次に雨粒が落ちる場所をすべて知っているような動きだった。
「どうして……」
ミレイの背中で、異形の腕が苛立つように床を擦った。
「どうして当たらないのよ!」
叫びに呼応し、すべての腕が大きく広がった。ミレイの周囲へ幾重もの光輪が浮かび、その内側で炎、雷、氷が同時に形を作り始める。
一つずつ回避されるなら、最初から逃げ場そのものを消してしまえばいい。
ミレイの考えは、恋にも分かった。
藍が頭上へ広がる無数の光を見上げ、赤い瞳をわずかに細める。
「恋。不破さんから離れないでください」
視線はミレイへ向けたまま、藍はいつもと変わらない声で告げた。
「は、はい……!」
恋は不破のすぐそばへ身を寄せた。
不破は片膝をついたまま、乱れた呼吸を整えようとしている。先ほど三人を転移させた負荷がまだ抜けていないらしく、額には汗が浮かび、顔色も明らかに悪かった。
「すまないね、桜川さん。情けないところを見せている」
「今、それを言う余裕があるんですか?」
「余裕がない時ほど、軽口は大切だよ」
「全然、軽く聞こえません」
恋はそう返しながらも、藍から目を離せなかった。
光輪が一斉に輝く。
次の瞬間、炎が床一面を走り、雷撃がその上を切り裂き、無数の氷槍が頭上から降り注いだ。
光と轟音が重なり、藍の姿が一度完全に見えなくなる。
「藍さん!」
恋が叫んだ直後、炎の幕の隙間から黒い影が飛び出した。
藍だった。
床を焼く火線と火線の間へ足を置き、頭上から落ちる氷槍をわずかな身体の傾きだけで避けながら、斜めに走った雷撃の直前で急に進行方向を変える。
あり得ないほど細い隙間だった。
それでも、すべてを無傷で抜けられたわけではない。
炎が制服の袖を焼き、焦げた布が腕へ張りついている。頬をかすめた氷片は人工皮膚へ細い傷を刻み、そこから覗く浅い裂け目が、藍の身体が人間とは異なる構造をしていることを露わにしていた。
長い黒髪もすでに乱れ、毛先の一部は熱で縮れている。
それでも藍の歩みは止まらない。
ただ、恋には分かった。
余裕があるわけではない。
一つ一つの回避は、許容範囲の端へ近づいている。一度判断を誤れば、あるいはほんの一瞬だけ処理が遅れれば、それだけで直撃を受ける。
藍自身が、その危険を誰より正確に把握しているはずだった。
ミレイは歯を食いしばり、黒く塗り潰された目を細めた。
「それなら……」
背中から伸びた腕のうち一本が、ゆっくりと前へ出る。
「これはどうかしら」
声の響きが変わった。
先ほどまでの攻撃とは違い、腕の先には何の光も集まっていない。
炎の熱もない。
雷の音も聞こえない。
霜が生じることも、空間が明確に歪むこともなかった。
けれど、藍はすぐに異常を察知した。
ミレイの腕がこちらへ向けられた瞬間、藍は右足へ力を移し、射線から外れるように身体を動かそうとした。
その判断は、遅くなかった。
ただし、その攻撃には、避けるために読むべき軌道そのものが存在しなかった。
「――っ!」
鈍い衝撃音が響いた。
何もない空間が突然藍の胸元へ叩きつけられ、制服の布が見えない拳に押し潰されたように大きくへこんだ。
「……これは――」
藍の声が、途中で途切れる。
身体がくの字に折れた。
足が床から浮き、黒髪が遅れて宙へ広がる。回避しようとしていた右足だけが空を掻き、そのまま数メートル後方へ弾き飛ばされた。
「藍さん!」
恋の叫びが、爆音に呑まれた。
藍の背中が、亜空間の見えない境界へ激突する。
硬いもの同士を叩きつけたような、低く鈍い音が響いた。
衝撃で背中側の制服が大きく裂け、人工皮膚の下から短い軋みが漏れる。人間の骨が折れる音とは違う。金属と複合素材で組まれた内部構造が、一瞬だけ許容範囲を超えて歪んだ音だった。
「……っ、ぐ……」
藍の喉から、押し潰されたような声が漏れた。
見えない壁へ叩きつけられた身体は、すぐには落ちなかった。衝撃に押しつけられるように一瞬その場へ留まり、やがて支えを失って床へ落下する。
肩から先に床へぶつかり、続いて腰と脚が投げ出された。
いつも姿勢を崩さない藍の身体が、力なく横たわる。
恋の喉が凍りついた。
攻撃の前兆らしいものは何もなく、藍の身体だけが唐突に吹き飛ばされた。
何が起きたのか理解できないまま、恋は立ち上がりかけた。
「藍さん!」
「……来ないで、ください」
床に伏せた藍から、途切れがちな声が返った。
いつもより僅かに低く、呼吸の間隔も不自然だった。それでも藍は左手を床へつき、身体を起こそうとする。
右腕がすぐには動かなかった。
肩から先が一度遅れて持ち上がり、肘の角度が不自然に揺れる。人工身体の内部で姿勢制御と損傷箇所の切り分けが行われているのか、藍は数秒間その姿勢のまま停止した。
「……右肩部の出力が低下。背部フレームにも損傷を確認しました」
独り言のように呟いた後、藍はゆっくりと片膝を立てた。
「ですが、まだ行動できます」
「そんな状態で……!」
「恋」
藍は顔だけをこちらへ向けた。
頬の傷は先ほどより広がり、裂けた制服の下から覗く人工皮膚にも細かな亀裂が走っている。
「こちらへ来てはいけません」
声は落ち着いていた。
しかし、立ち上がろうとした瞬間、藍の身体がわずかに沈んだ。
「……っ」
短く息を詰め、左脚へ重心を移す。普段なら一度で完了する動作に、明らかな遅れが生じていた。
「今のは……」
不破が低く呟いた。
ミレイは、床から起き上がろうとする藍を見下ろしながら、愉しそうに口元を歪めた。
「純粋な魔力を、そのままぶつけただけよ」
「魔力を、そのまま……?」
恋は藍の姿から目を離せないまま、呆然と繰り返した。
「炎や雷みたいな現象に変えず、魔力だけを直接叩き込むの。殺傷能力はそれほど高くないわ。せいぜい、巨大な拳で殴る程度」
ミレイの背中で、異形の腕がゆっくりと揺れる。
「鎧を砕きたいなら雷の方がいいし、跡形もなく消したいなら炎の方が早い。でも、魔力を見られない相手には、こっちの方がずっと厄介でしょう?」
ミレイは得意げに笑った。
「どこから来るのかも、いつ当たるのかも分からない。避けるための光も音もない。ただ、当たった瞬間に身体が壊れる」
藍はようやく立ち上がった。
ただし、完全に元の姿勢へ戻れたわけではない。右肩はわずかに下がり、背中を庇うように上半身が僅かに前へ傾いている。
「……前兆を、ほぼ排除した攻撃ですか」
藍が自分の胸元へ一度だけ視線を落とす。
制服の布は衝撃を受けた部分だけ不自然に歪み、その下の人工身体からは、ごく小さな駆動音が途切れ途切れに聞こえていた。
「予測精度を上げるための情報が不足しています。想定以上に厄介ですね」
「まだ強がるの?」
「事実を述べています」
藍は赤い瞳をミレイへ戻した。
声は普段と変わらないように聞こえたが、その直後、右肩が一度小さく震えた。
恋には、それだけで十分だった。
藍は確かに損傷している。
痛みを感じているのかは分からない。それでも、身体が正常に動かなくなり始めている。
「ショーマが言っていた通りね」
ミレイの声に、歪んだ陶酔が混じった。
「ショーマみたいに魔力が見えない人間は、魔力をそのままぶつけられる方が困るって。あの人は本当に賢かった。いつも私の魔法を見て、すぐに弱点を見つけてくれた」
彼が言った。だから正しい。
その信頼は、尊敬という言葉だけでは収まらないほど深く、同時にひどく歪んでいた。
藍の身体は、人間よりも遥かに頑丈に作られている。
銃弾程度であれば、致命的な損傷を受けることなく耐えられる。
だが、頑丈であることと、無敵であることは同じではない。
今の一撃は人工皮膚を傷つけ、内部フレームを歪ませ、右肩の駆動出力を明確に低下させている。同じ場所へもう一度受ければ、次は立ち上がれないかもしれない。
しかも、魔力そのものをぶつける攻撃には、藍がこれまで利用していた前兆がほとんどなかった。
ただ、ミレイが狙った場所へ、不可視の衝撃だけが発生する。
先ほどまで成立していた回避方法は、もう使えない。
藍は、誰より正確にその事実を理解していた。
現在の損傷状態。
次の攻撃を予測できないこと。
ミレイがまだ消耗した様子を見せていないこと。
不破がこれ以上転移魔法を使えば、命を落としかねないこと。
そして、恋を守りながら亜空間から脱出する手段が見つかっていないこと。
条件を並べれば、勝ち筋はほとんど残っていなかった。
「藍さん……」
恋が呼びかけると、藍はほんの少しだけ顔を向けた。
「問題ありません」
そう答えた直後、裂けた背中の内部から、再び小さな軋みが聞こえた。
どう見ても、問題がない状態ではなかった。
それでも藍は一歩を踏み出す。
右脚が僅かに遅れたが、倒れはしない。
「まだ、解析は終わっていません」
赤い瞳が、ミレイの異形の腕を静かに捉える。
回避できない。反撃する力もない。
長く戦えば、先に身体が壊れる。
だからこそ、榊原藍は残された条件の中から、成功率の低い選択肢を一つだけ拾い上げた。
それは安全策ではなかった。
確実な勝利へ繋がる手段でもない。
自らの損傷が深まることまで織り込んだ、ほとんど賭けに近い判断だった。
榊原藍は、その大きな賭けに出た。




