第74話
翌日の放課後、桜川恋は榊原藍に呼び出され、青葉第二高等学校の屋上へ来ていた。
呼び出された理由は、不破廻がショーマを呼び出すためだという。
普通なら、その説明を聞いた時点で何を言っているのか分からなくなるはずだった。
しかし、青葉第二で藍の近くにいると、理解の追いつかない話が、理解されないまま予定として成立してしまうことがある。今回もまさにそれで、異世界から来た魔法使いが探している勇者を、前世の記憶を持つ生徒会副会長が何らかの方法で呼び寄せるらしい。
そこまで説明を受けた恋は、いよいよ自分の高校生活がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。
「不破先輩の前世って、本当に本物だったんですね……」
屋上を吹き抜ける風に髪を押さえながら呟くと、不破はいつものように軽く肩をすくめた。
「本物という言い方が正しいかは分からないけれどね。何百何千とある前世のうち、一つに関する話だよ」
「何千……?」
「たぶんね。きちんと数えたことはないし、同じ人生を別々の前世として二度思い出している可能性もある」
「やっぱり、どこまで本当なのか分からないです」
「僕も分からない」
「本人がそれを言うんですか」
「本人だからこそ、無責任に断言できないんだよ」
不破は笑っていた。
けれど、その笑みはいつものように軽いだけではなかった。
フェンスの近くに立ち、風に髪を揺らしている横顔には、わずかな緊張が滲んでいる。口調こそ普段通りだが、これから行うことを本人も安全だとは思っていないらしい。
屋上にいるのは、恋と藍、不破、そして雪代こよみだった。
こよみは屋上扉のそばに立ち、端末を抱えながら周囲の映像と各種数値を記録している。万一に備えた監視なのだろうが、その万一が具体的に何を意味するのか、恋には知らされていない。
分からないまま警戒だけを求められることが、かえって不安を膨らませていた。
「それで、どうやってショーマさんを呼ぶんですか?」
恋が尋ねると、不破は屋上の中央へ目を向けた。
「簡単に言えば、目印を作るんだ」
「目印?」
「魔力を流して、ショーマがこちらへ気づけるか確かめる。かなり原始的な方法だけれどね」
「不破先輩にも、魔力があるんですか」
「あるよ。ミレイくんの説明が正しければ、生きている人間なら誰にでもある。もっとも、今の僕が持つ魔力は、前世に比べれば一般人と大差ないけれど」
「一般人でも使えるものなんですか?」
「扱い方を知っていれば、ほんの少しならね。炎を放ったり、雷を落としたりするのは無理だけれど、暗い場所に小さな灯りをともす程度ならできる。今回必要なのも、大きな魔法じゃない。魔力の流れに、ショーマだけが気づける偏りを作ることさ」
そう言って、不破は屋上の中央へ歩いていった。
そこには、こよみが事前に用意したらしい図形が描かれていた。
白いチョークに似た素材で描かれた大きな円。その内側を、幾何学的な直線と弧が複雑に横切っている。
魔法陣。
恋の頭には真っ先にその言葉が浮かんだが、口にする前に不破が苦笑した。
「これは、ほとんど気休めだよ。正確な術式を描く材料もないし、今の身体で大掛かりな魔法を扱うこともできない。ただ、前世の記憶を引き出すには、形があった方がやりやすい」
「記憶を引き出す……」
「前世の僕が知っていた方法を、今の僕が外側から真似る。そういう意味では、かなり無理をしているね」
「本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だと言いたいところだけれど、正直あまり自信はない」
「直前に不安になることを言わないでください」
「嘘をついて安心させても仕方ないだろう?」
不破はそう言いながら円の中央へ入り、足元の線を踏まないよう位置を整えた。
少し離れたところでは、藍が腕を下ろしたまま、その動きをじっと観察している。
「不破さん」
「何かな、会長」
「身体に異常が生じた場合、即座に中断してください」
「分かっているよ」
「本当ですか?」
「会長は疑い深いね」
「あなたは、自身の危険を軽く見せる傾向がありますので」
「それは否定できないな」
不破は小さく息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
その直後、屋上を流れていた空気が変わった。
最初、恋には何が起きたのか分からなかった。
魔力を見ることなどできないし、ミレイのように生物の内側にある生命力を感じ取る力もない。それでも、何かが始まったということだけは、肌に触れる空気の違いで分かった。
風が、不自然に止まった。
完全な無風ではない。それまで規則なく流れていた風が、屋上の中央を避けるように向きを変え、そこだけが静かに切り抜かれたようになっている。
床へ描かれた白い線には、やがて淡い光が滲み始めた。
蛍光灯のような明確な光ではない。夕暮れの空気の底に小さな熱が溜まり、その熱が細い線に沿って透けて見えているような、今にも消えそうな明かりだった。
不破の額に、じわりと汗が浮かぶ。
「……なるほど」
目を閉じたまま、不破が苦しそうに笑った。
「今の身体だと、これだけでも随分重いね」
「中断しますか」
藍がすぐに問いかける。
「まだ大丈夫」
不破は短く息を継いだ。
そして、誰もいない空間へ呼びかけるように口を開く。
「ショーマ。聞こえるかい、この声が」
声は、間違いなく今の不破廻のものだった。
けれど、響きだけが少し違っていた。
屋上で発されたはずなのに、もっと遠く、もっと古い場所を通り抜け、長い時間の底から戻ってきたように聞こえる。
「僕はもう、君の知る僕ではない。それでも、もしこの記憶に残る縁がまだ切れていないのなら――」
恋は息を詰めた。
不破廻という一人の人間の内側に、本当に別の人生が眠っている。
これまで前世の話を聞かされても、どこかでは不破特有の冗談や掴みどころのなさと同じものとして受け止めていた。だが今は、その曖昧だった前世が、目に見えない重みを持って屋上へ滲み出している。
その直後だった。
「……何をしているの?」
屋上の扉が開いた。
こよみが即座に振り向き、端末を構える。
扉の向こうに立っていたのは、ミレイだった。
青葉第二の制服を身につけたまま、息を乱すこともなく、最初からこの場所を知っていたかのように屋上へ足を踏み入れてくる。
「魔力の流れがしたから……」
ミレイはそう言いながら、不破へ視線を向けた。
次の瞬間、その足が止まった。
「――ッ」
表情から、柔らかさが消えた。
目が大きく見開かれ、頬から血の気が引いていく。唇だけが何かを確かめようとするように震え、焦点の合わない瞳が不破の姿へ縫いつけられた。
恋は、ミレイがここまで明確に動揺する姿を初めて見た。
「……アトラス」
掠れた声が漏れた。
恐怖にも聞こえた。
憎悪にも聞こえた。
けれど、そのどちらか一つではなく、過去に押し込めていたものが一度に喉元までせり上がり、混ざり合ったまま外へ漏れ出したような声だった。
「アトラス……」
ミレイの唇が引きつる。
「どうして」
一歩、前へ出る。
「どうして、どうして、どうしてお前がここにいる?」
声が少しずつ高くなり、最後には叫びへ変わった。
「アトラス! 貴様、なぜここにいるッ!」
屋上全体が震えるほどの怒声だった。
不破は魔法陣の中央で身体を揺らし、片膝をつきかけながら荒い息を吐いている。慣れない身体で魔力を使ったせいか、顔色はすでに悪かった。
それでも、彼は口元へわずかな笑みを浮かべた。
「久しぶりだね」
呼吸を整えながら、ゆっくりとミレイを見る。
「ミレイ・ブラッドフォールン将軍」
将軍。
その呼び方を聞いた瞬間、恋の思考が止まった。
ミレイ・ブラッドフォールン。
昨日、生徒会室でミレイは、自分をショーマを探して世界を越えてきた魔法使いだと語っていた。
けれど、不破は今、彼女を将軍と呼んだ。
「どういうことですか――」
恋は聞こうとした。
だが、その声は最後まで続かなかった。
ミレイの身体が、奇妙に揺れたからだった。
「……うふ」
小さな笑い声が漏れた。
口元だけが笑っており、目は笑っていなかった。
むしろ瞳の奥から、何か別のものが急速に浮かび上がり、少女の表情を内側から押し潰していくように見えた。
「う、ふふ……」
ミレイの肩が、小刻みに震え始める。
それが笑いによるものなのか、怒りを抑えているのか、恋には分からない。
ただ、その震えは次第に全身へ広がり、人間の身体が耐えられる範囲を越えて不規則に跳ね始めた。
「ふふふ……ああ、そう」
ミレイが両手で自分の顔を覆う。
「そういうこと。そうだったんだ」
指の隙間から覗く口元が、引き裂かれるように大きく開いた。
「またお前が邪魔をするのか」
低く呟いた直後。
――ごきり。
乾いた音が、屋上に響いた。
ミレイの首が、真横へ折れた。
「ひっ……」
恋の喉から、短い悲鳴が漏れた。
少し傾いた、という程度ではない。頬が肩へ触れそうな角度まで頭部が倒れ、首の骨が完全に外れたような姿勢になっている。
人間なら、その場で崩れ落ちているはずだった。
それなのに、ミレイは立ったままだった。
折れた首を戻そうともせず、銀髪を垂らしながら、不破へ向けて口だけを動かしている。
「うふふふふふふふふふ」
笑い声が続く。
一息で出しているとは思えないほど長く、喉の奥で何人もの声が重なっているような音だった。
「アハ」
肩甲骨のあたりが、不自然に盛り上がった。
「アハハ」
制服の背中が内側から押し上げられ、布地が何かに耐えるように軋む。
「アハハハハハハハハッ!」
次の瞬間、背中の中心が裂けた。
血は出なかった。
その代わり、破れた制服の奥から黒い何かがぬるりと這い出してきた。
腕だった。
人間の腕を無理やり引き伸ばし、骨の節を増やし、皮膚を硬い甲殻へ置き換えたような異形の腕。
一本目が背中から伸びきる前に、二本目がその脇を押し広げる。さらに三本目、四本目が折り重なるように生え、互いを踏みつけるようにして空中へ広がっていく。
長い指の先には、爪というより刃に近い黒い突起が並んでいた。
腕同士がぶつかるたび、硬い金属を擦り合わせたような音が鳴る。
ミレイの身体は、その中心で力なく揺れていた。
少女の身体から腕が生えているというより、巨大な何かが、ミレイという外皮を背中から破ってこちら側へ出ようとしている。
そんな光景だった。
「アハハハハハハハハハハハハハハッ!」
笑い声がさらに高くなる。
呼吸のための間がない。
口は開き続けているのに、胸はほとんど動いていない。
それでも笑いだけが止まらず、屋上の空気を引っ掻くように響き続ける。
折れた首のまま、ミレイの顔がゆっくりと持ち上がった。
目からは、すでに光が消えていた。
白目も虹彩もなく、眼窩の中すべてが墨を流し込んだような黒で塗り潰されている。その奥に何もないはずなのに、見られているという感覚だけが鋭く突き刺さってきた。
「なに、これ……」
恋は一歩後ずさった。
足が震え、屋上の床へ靴底が引っかかる。
藍がすぐに恋の前へ出た。
同時に、扉の近くにいたこよみも端末を下ろし、一歩前へ進む。
「彼女は、ミレイ・ブラッドフォールン」
不破が荒い呼吸の合間に言った。
「魔王軍の幹部だよ」
「魔王軍……」
恋の頭の中で、昨日聞いた話が音を立てて崩れ始めた。
勇者ショーマ。
魔王を倒した英雄。
世界を救った人物。
一緒に生きると誓った相手。
そこへ魔王軍の幹部という言葉が加わっただけで、それまでの物語はまるで違う意味を持ち始める。
「ミレイくんは、魔王軍の最高幹部としてショーマと戦った」
不破は魔法陣へ手をつき、どうにか身体を支えながら続けた。
「僕……いや、アトラスとも、何度も殺し合った。昨日、君が聞いた話が全部嘘だったわけじゃない。彼女は確かにショーマと共に魔王を倒すために動いた」
苦しそうに息を吐き、それでも目だけはミレイから逸らさない。
「ただし、その始まりは違う」
背中から伸びる異形の腕が、一斉にゆっくりと広がった。
その中心で、折れた首を垂らした少女の口が動く。
「黙れ」
昨日までのミレイの声だった。
けれど、音の底には別のものが混じっている。
低い唸り。
耳の奥へ直接爪を立ててくるような、濁った響き。
「アトラス……」
黒く潰れた目が、不破へ向く。
「お前が」
口元が大きく歪む。
「お前がまた、ワタシとショーマの邪魔をするのか」
「僕は、邪魔をしたいわけじゃない」
「嘘をつけ!」
叫びと同時に、異形の腕の一本が屋上へ叩きつけられた。
轟音が響き、コンクリートが大きく陥没する。
砕けた破片が弾丸のように飛び散り、恋の足元へ細かな欠片が降りかかった。
「ショーマはワタシを殺さなかった!」
ミレイの声が割れる。
怒鳴っているのに、途中から笑い声が混ざり、語尾が不自然に跳ねた。
「あの人だけが、ワタシを魔王の道具として見なかった! 敵だったワタシを、ワタシとして見た! 名前を呼んだ! 手を差し伸べた!」
異形の腕が、空中で痙攣するように蠢く。
「だからワタシは魔王様を裏切った! 道を開いた! 殺すべき兵を見逃した! ショーマが進めるように、仲間を焼いた! それなのに――」
折れた首の角度が、さらに深くなる。
骨が軋む音がした。
「それなのに、お前たちはあの人をワタシから奪った!」
「奪ったわけではない」
「同じだ!」
黒い腕が床を引っ掻き、深い溝を刻む。
「お前たちが吹き込んだんだろう、アトラス! 使命だ、世界だ、帰還だと! ショーマがワタシを置いていくように!」
不破は目を伏せた。
「……彼の意思を止められなかった」
「止めなかった、の間違いだ!」
叫びに呼応するように、ミレイの背中がさらに膨れ上がった。
新たな腕が、すでに生えている腕の隙間を押し裂いて現れる。黒い節が絡み合い、巨大な蜘蛛の脚のように屋上へ突き立てられた。
そのうち二本が床を踏みしめると、ミレイの身体がゆっくりと宙へ持ち上がった。
両足は力なく垂れ下がっている。
少女の身体そのものは、もはや立ってすらいなかった。
背中から生えた巨大な腕だけが彼女を支え、操り人形のように空中へ吊り下げている。
「なら、お前は敵だ」
ミレイが言った。
折れた首のまま、黒く潰れた両目が不破を見つめている。
「ショーマとの再会を邪魔するものは、全部敵」
一つずつ確かめるように、腕の先端が動く。
「アトラス、お前も」
別の腕が藍へ向く。
「そこの人形も」
さらに一本が、恋を指した。
「そこの小娘も」
恋の身体が硬直した。
自分も明確に排除の対象へ含まれた。
その事実が少し遅れて頭へ届き、指先から全身へ冷たさが広がっていく。
「ミレイさん」
藍の声は静かだった。
「私たちには、あなたとショーマさんの再会を妨害する意図はありません」
「信じない」
「では、話し合いを――」
「黙れ」
ミレイの背中から伸びた腕が、空間そのものを掴むように大きく広がった。
その瞬間、屋上の景色が歪んだ。
夕暮れの空が、縦に裂ける。
校舎も、フェンスも、遠くの街並みも、薄い布へ描かれた絵のように引き伸ばされ、黒い亀裂の向こうへ吸い込まれていく。
部活動の掛け声も、風の音も、一息の間に途切れた。
足元が沈む。
屋上の床へ立っているはずなのに、身体だけが別の方向へ落ちていくような感覚に襲われる。
恋は藍の背中へ手を伸ばそうとしたが、その指が届くより先に視界が黒く塗り潰された。
次の瞬間、恋たちは見知らぬ空間へ立っていた。
暗い。
けれど、完全な闇ではなかった。
上下左右の感覚が曖昧で、足元には屋上の床に似た硬さがある。それなのに、その少し先からは地面の輪郭そのものが失われ、黒と紫が混ざった空間だけが果てなく広がっていた。
遠くでは、星に似た光が音もなく割れ、細かな破片となって消えていく。
何か巨大な生き物の内側へ飲み込まれたような閉塞感があるのに、空間の端はどこにも見えない。
「逃がさない」
ミレイの声が、四方から響いた。
どこにいるのか確認する前から、耳元で囁かれているように聞こえる。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
「亜空間への転移ですか」
藍が周囲を見回した。
「座標情報を取得できません。元の空間との接続も確認不能です」
こよみの声はなかった。
恋が慌てて周囲を見る。
ここにいるのは、恋、藍、不破、そして宙に吊られたミレイだけだった。
こよみは屋上へ残されたのか。それとも、転移の途中で別の場所へ切り離されたのか。
考える時間はなかった。
ミレイの背中から伸びた腕が、一斉に三人へ向いた。
刃のような爪の先に、赤黒い炎が灯り、別の腕には、青白い電撃が這い回る。
光が重なり、周囲の黒い空間まで歪ませながら、膨大な魔力が集まり始めた。
「恋!」
藍の声が響いた。
直後、世界が横へ滑った。
爆音。
熱。
視界のすぐ横を、巨大な炎の槍が通り過ぎる。
恋には、何が起きたのか理解できなかった。
足元が一度消え、身体が乱暴に引かれたと思った次の瞬間には、先ほどいた場所から数メートル離れたところへ移動していた。
隣では、不破が恋と藍の腕を掴んでいる。
「今の……」
「転移魔法だよ」
不破は肩で息をしながら答えた。
「ただし、今の僕には、これが限界に近い」
「限界って……」
「この空間の外へ出るには、魔力が足りない。できても、内部で位置を少しずらす程度だね」
不破の顔色は、屋上にいた時より明らかに悪くなっている。
額から汗が落ち、指先も微かに震えていた。
ショーマを呼ぶために魔力を使った直後、三人を同時に転移させたのだ。長くは持たないことくらい、恋にも分かった。
「アトラス!」
ミレイの叫びが空間を揺らす。
異形の腕が、次々と別の魔力を収束させた。
赤黒い炎。空中へ並ぶ氷の槍。腕と腕の間を跳ね回る紫色の雷。
さらに足元の闇からは、黒い鎖に似たものが無数に伸びてくる。
何が何だか分からない。
ただ、どれか一つでも触れれば死ぬ。
そのことだけは、説明されなくても理解できた。
不破がもう一度手を上げようとした。
けれど、指が大きく震え、途中で止まる。
「不破先輩……!」
「まだ、大丈夫」
「大丈夫じゃないです!」
恋は思わず叫んだ。
不破は笑おうとしたが、口元が少し動いただけで、いつもの笑みにはならなかった。
その時、藍が静かに一歩前へ出た。
「恋」
あまりにも落ち着いた声だった。
周囲では異形の腕が蠢き、いつ攻撃が放たれてもおかしくない。それなのに、藍の声音には普段の生徒会室とほとんど変わらない静けさがあった。
「ここで不破さんを見ていてください」
「……藍さん?」
「彼は、これ以上連続して転移魔法を使えません。次に無理をすれば、生命活動へ重大な影響が生じる可能性があります」
「待ってください」
恋は藍の腕へ手を伸ばしかけた。
しかし、藍はすでにミレイの方を向いている。
黒い腕を広げ、いくつもの魔法を収束させ、今にもこちらを焼き尽くそうとしている少女へ、正面から歩き始めていた。
「何をするつもりですか」
恋の声は震えていた。藍は振り返らず、
「私が対処します」
そう告げると、榊原藍は一人でミレイの前へ進んでいった。
それを見たミレイの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
折れた首のまま、少女の顔に不釣り合いな笑みが広がった。
「へえ」
いくつもの腕が、藍へ狙いを定める。
「人形のくせに、仲間意識でも芽生えたつもり?」
「仲間意識、ですか」
藍は一度だけ考えるように目を伏せた。普段と変わらない仕草だった。
異形の魔法使いを前にしても、榊原藍は榊原藍のままだった。
「少なくとも、仲間であることは確かです」
赤い瞳が、まっすぐミレイへ向く。
「彼は、青葉第二高等学校生徒会の副会長ですので」
「あら、そう」
ミレイはひどくつまらなそうに答えた。
背中から伸びる腕のすべてが、藍だけへ向けられる。
炎が大きく膨らみ、雷が腕の間で弾け、氷の槍が音を立てて回転を始めた。
「なら、そのお仲間意識に免じて」
黒く塗り潰された目が、愉しそうに細められる。
「あなたから、一人ずつゆっくり嬲り殺しにしてあげる」




