第73話
その日の生徒会室は、普段よりも早く人の気配を失っていった。
恋はしばらくの間、こよみと並んでミレイに関する記録を整理していた。校内データベースへ追加された在籍情報と、それ以前に保存されていた資料を見比べていたものの、作業を続けるうちに何度も同じ箇所を読み返すようになり、ついには鶴見から書類越しに顔を覗き込まれた。
「もう帰った方がいい。顔色の様子が帳簿の赤字より悪い」
それが心配なのか、会計担当者なりの警告なのかは分からなかった。
恋は曖昧に礼を言い、こよみに作業の続きを任せて生徒会室を後にした。鶴見もほどなくして、各委員会から集めた会計資料を抱え、職員室へ確認に向かうと言って退室する。
こよみはミレイの登録情報と校内データベースに残る差異をさらに詳しく照合するため、隣接する資料室へ入った。扉が閉じられると、端末を操作する小さな音まで聞こえなくなり、生徒会室には急に広い静けさが残された。
その中にいたのは、会長席へ戻った榊原藍と、窓際に立つ不破廻だけだった。
窓の外では、日が傾き始めた校庭を運動部の生徒たちが行き交っている。遠くから響く掛け声やボールの弾む音はまだ残っていたが、厚い窓ガラスを通すと、どれも別の場所から聞こえてくるようにぼやけていた。
不破は外を眺めたまま動かない。
藍は会長席に座り、しばらくその背中を見ていた。
「不破さん」
「何かな、会長」
「あなたは、以前からミレイさんを知っていましたね」
不破は振り返らなかった。
ただ、その肩がほんのわずかに揺れた。
「どうして、そう思うんだい?」
「ミレイさんについて初めて話した際、あなたの反応だけが他の生徒会役員と異なっていました。認識改変の影響を受けている人間とも、影響を受けていない人間とも一致していません」
「僕の反応なんて、いつも大体曖昧だと思うけれど」
「はい。ですが、今回は曖昧さの質が違いました」
「曖昧さにも質があるのか。会長にはかなわないね」
不破はそう言って、ようやく窓から離れた。
振り返った顔には、いつもの掴みどころのない笑みが浮かんでいる。それでも、藍を見る目だけは、普段よりも遠い場所へ向けられているようだった。
「ああ。知っているよ」
不破はあっさりと認めた。
「――遠い前世の話だけれどね。僕にとっては、懐かしい顔だ」
藍の表情は変わらなかった。
「あなたが、ショーマさんなのですか」
「違う」
返答は早かった。
そこには、不破らしい冗談も、逃げ道を残すような曖昧さもなかった。
「誓って言うけれど、僕はショーマではない。少なくとも、ミレイくんが探しているその人物ではないよ」
「では、ミレイさんとはどのような関係だったのですか」
「面識があった。その程度かな」
不破は答えた後、すぐに小さく首を振った。
「いや、それも正確ではないかもしれない。彼女と顔を合わせたのは、今の僕ではないからね」
「前世のあなたですか」
「そういうことになる」
不破は苦笑しながら、自分の掌へ目を落とした。
「あの子は、今の僕を見ても気づかないだろう。顔も、身体も、名前も違う。僕の中に残っている記憶だって、前世そのものではなく、そこから剥がれ落ちた断片みたいなものだ」
「それでも、あなたはミレイさんを覚えていた」
「少しだけね」
「ショーマさんについても?」
「断片的には」
不破は再び窓へ近づき、薄暗くなり始めた校庭へ目を向けた。
「勇者ショーマ。異世界へ迷い込んだ少年で、魔王を倒した英雄。そういう話は僕の記憶にも残っている。ミレイくんの顔も、声も、彼女が使っていた魔法も、確かに見覚えがある」
「では、ショーマさんが現在どこにいるのかも分かりますか」
「それは分からない」
不破は静かに答えた。
そのまましばらく外を眺めていたが、やがて何かを決めるように小さく息を吐いた。
「ただし、僕ならショーマを呼べるかもしれない」
藍の赤い瞳が、わずかに細くなった。
「呼ぶ、とは?」
「言葉通りの意味だよ。もしショーマが、この時空のどこかに存在しているなら、僕の中に残っている記憶を媒介にして、向こう側へ続く縁を辿れるかもしれない」
「成功する可能性は?」
「低い」
不破は迷うことなく答えた。
「かなり分の悪い賭けだ。そもそも、ショーマがこの時代、この世界に存在している保証がない。すでに死んでいるかもしれないし、まだ生まれていないかもしれない。ミレイくんが辿ってきた世界と、ショーマが帰った世界が同一だとも限らない」
「世界線そのものが異なる可能性もありますね」
「あるだろうね。異世界を越えるということが、単純な場所の移動とは限らない。時間や因果までずれていれば、僕がどれだけ縁を辿っても届かない」
「それでも、試す価値があると考えているのですか」
「ここまで来た以上、ほかに手掛かりがない」
不破の声から、いつもの軽さが少しずつ消えていた。
「ミレイくんをこのまま探し続けさせれば、いずれ捜索範囲を学校の外へ広げるかもしれない。彼女自身に悪意がなくても、認識改変の範囲が拡大すれば、それだけで被害になる」
藍はしばらく答えなかった。
不破の横顔を見つめたまま、数秒の沈黙を置く。
「なぜ、ミレイさんがいた時に、そのことを話さなかったのですか。先ほどあなたは意図してこの場にいなかったようにも見えましたが」
「本人の前では言えない話だからだよ」
「理由を聞かせてください」
不破は窓ガラスへ映る自分の顔を見た。
「それを実行すれば、僕はミレイくんに殺されるかもしれない」
外から聞こえていた掛け声が、一瞬だけ遠ざかったように感じられた。
生徒会室には、時計の針が進む小さな音だけが残る。
「どういうことですか」
藍の声音は変わらない。
いつも通り丁寧で、静かだった。
それでも、曖昧なまま話を終わらせることを許さない響きがあった。
不破は困ったように笑った。
普段のような冗談めいた笑みではなく、何かをすでに受け入れている人間の表情だった。
「それは、明日になれば分かる」
「不破さん」
「会長」
不破は藍へ向き直った。
その目からは、いつもの掴みどころのなさが消えていた。
「ここまで来た以上、もうこの方法しかない。ミレイくんを、何も知らないままショーマを探し続けさせるわけにはいかないし、青葉第二の皆をいつまでも彼女の魔法の中へ置いておくこともできない」
「危険を伴います」
「分かっている」
「ミレイさんだけではありません。あなた自身にも危険が及びます」
「それも分かっているよ」
不破は一度目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「でも、前世の残骸を抱えている人間が、それを使うべき時があるとしたら、たぶん今なんだと思う」
藍は何も言わず、不破を見ていた。
彼の言葉にどれほどの確信があるのか。
どこまでが覚悟で、どこからが諦めなのか。
表情や声だけでは判断できなかった。
「明日、何をするつもりですか」
「ショーマを呼ぶ」
「実施場所は?」
「屋上がいい。閉鎖された室内より、外へ開けた場所の方が都合がいいからね」
「理由は、召喚に必要な空間の確保ですか」
「召喚というほど大層なものではないけど。まあ、理由の一つかな。ほかにも少しね」
不破は詳しく説明しなかった。
藍も、その場ではそれ以上追及しなかった。
「分かりました」
藍は静かに頷く。
「明日の放課後、生徒会室で準備を行います。こよみには記録と周囲の監視を担当させます。恋にも事前に共有します」
「桜川さんにも?」
「はい。彼女はすでに当事者です」
「そうだね。巻き込まれたというより、もう中心に近いところまで来ている」
「不破さん」
「何かな」
「ミレイさんが、あなたへ危害を加えようとした場合は止めます」
「頼もしいね」
「冗談ではありません」
「分かっているよ」
不破は小さく笑った。
今度の笑みは、少しだけいつもの彼に近かった。
それでも、完全に元へ戻ったわけではない。
遠い前世で見た、懐かしい顔。
ショーマを呼び寄せるための方法。
そして、それを実行すればミレイに殺されるかもしれない理由。
不破はそのすべてを明かさないまま、再び窓の外へ目を向けた。
夕暮れの校庭では、まだ部活動の声が響いている。
いつもと変わらない青葉第二の放課後だった。
その日常のすぐ上に、異世界から来た少女の願いと、前世の記憶を抱える副会長の決意が、誰にも気づかれないまま静かに重なり始めていた。




