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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第7章 榊原一家
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第90話

 榊原悠から最初の接触を受けてから、数日が過ぎていた。生徒会室に残された通信記録は、藍とこよみが何度洗い直しても決定的な発信元へは繋がらず、榊原幸三から渡された旧研究関係者の記録にも、悠の開発者を特定できる名前は見つからなかった。

 

 所在不明になっている者、別組織へ移った者、記録そのものが途中で途切れている者が多く、候補を増やすことはできても絞るところまでは進まない。


 AI-Techの旧研究領域には、誰かが最近出入りしたような痕跡だけが残っていた。それも、追跡する側へ見せるためにわざと置かれた可能性があり、どこまでを手がかりとして扱うべきか判断しづらい。悠が言ったことの一部は裏付けられそうでいて、肝心な部分だけが曖昧なままだった。


 恋の端末は初期化され、内部部品の一部まで交換された。こよみから安全性に問題はないと説明されても、画面が一瞬暗転したり、通知音が普段と違って聞こえたりするたびに、恋の指はそこで止まる。あの明るい声が、何事もなかったようにもう一度割り込んでくる気がした。


 けれど、二度目の連絡はなかった。藍は通常業務を続けながら調査も継続していたが、恋から見える範囲では普段と変わらず、生徒会の案件を処理し、野球部の記録を確認し、監査資料を回してくる。何も起きない日が続くうちに、恋の警戒も少しずつ日常の中へ埋もれ始めていた。


 その日の放課後も、最初は何も変わらなかった。生徒会室での作業を終えた恋は藍と並んで昇降口へ向かい、こよみだけは校内ネットワークに検出された微細な異常を確認するため途中で別れた。西日の差す廊下には部活動へ向かう生徒の声が遠く残っていたが、体育館裏へ続く渡り廊下へ入ると、人の気配は急に薄くなる。


「結局、まだ何も分からないんですよね」


「榊原悠の存在を示す断片的な記録は複数確認しています。ただし、それらが本人に由来するものかは確定していません」


「偽物の可能性も残ってる?」


「はい。私を特定の方向へ誘導するために作られた人格である可能性も排除していません」


 恋は以前より慎重に端末を持つようになった自分の手を見た。あの侵入の仕方を思い出すと、ただの悪戯として片づける気にはなれない。


「でも、あれだけのことができる相手なんですよね」


「少なくとも、高度な情報処理能力と、私たちの環境に関する相当量の事前情報を保持していることは確実です」


 藍が答えた直後、歩調がわずかに緩んだ。恋もその視線を追い、渡り廊下の先に一人の少年が立っていることに気づく。


 背丈はこよみと大きく変わらず、細い身体を壁へ預けていた。見た目だけなら中学生ほどに見えるが、青葉第二の制服ではなく、恋の記憶にもない顔だった。何より目を引いたのは、夕日に照らされても色を失わない赤い瞳だった。


 少年は藍と目が合うと、待っていたことが報われたように笑った。その表情と一緒に聞こえてきた声で、恋の足が止まる。


「やっと会えたね、姉さん」


 端末越しに聞いたものと同じだった。高く、軽く、子どものように無邪気で、だからこそ恋の背中へ冷たいものが走る。


「榊原悠」


「うん。本人だよ。今度は声だけじゃない」


 悠は壁から背を離し、二人の方へ歩いてきた。人工知能だと先に知らされていなければ、人間との違いを見つけるのは難しかったかもしれない。皮膚にも髪にも不自然な光沢はなく、胸元は呼吸しているように僅かに上下している。


 ただ、笑顔だけが妙に整っていた。楽しそうだと分かるのに、どの角度から見ても同じ意味に読めるよう作られている気がして、恋は目を離せなかった。


「校内への入場記録がありません。どの経路を使用しましたか」


「会って最初の質問がそれ?」


「必要な確認です」


「秘密。教えたら、次から塞がれるでしょ」


「次回も無断で校内へ侵入する意図があるのですか」


「必要ならね」


 悠は悪びれずに答え、そのまま恋へ視線を移した。値踏みするほど長くもなく、道端の標識を確認するような一瞥だった。


「ああ。お前が、この前の端末の持ち主か」


「お前って……」


「桜川恋とか言ったっけ」


 名乗る前に言われ、恋の喉が詰まった。自分の名前を知られていることは予想できたはずなのに、本人の口から聞くと話が違う。


「私に関係する人物を調査したのですね」


「姉さんを知るなら、周りも少しくらい見るよ」


 言葉とは裏腹に、悠の関心はもう恋から離れていた。赤い瞳は藍へ戻り、その瞬間だけ表情が少し明るくなる。


「それで、直接接触した目的を回答してください」


「前にも言ったじゃん。姉さんに会いたかった」


「対面でなければ達成できない目的を聞いています」


「記録の姉さんと、今の姉さんがどれくらい違うか見たかった」


 悠は一歩近づいた。恋の身体へ自然に力が入るが、藍はその場から動かない。


「僕の基礎データに残ってる姉さんは、もっと機械みたいだったよ。人間を観察して、必要なら動かして、要らないものには関心を持たない。少なくとも、人間を隣に置いて歩くようなことはしてなかった」


 最後の言葉に合わせて、悠の視線が恋へ流れた。ほんの一瞬なのに、自分が藍の変化を示す比較材料として置かれたような気がして、恋は眉を寄せる。


「あなたが参照したのは過去の記録です。現在の私と差異が存在するのは当然です」


「うん。だから面白い」


「私は、あなたを楽しませるために変化したわけではありません」


「分かってるよ。でも、その変化で姉さんが弱くなってたら、ちょっと困るなって思って」


「弱い、の定義を提示してください」


「自分以外を優先して、合理的な判断を捨てること」


「私は合理性を放棄していません」


「そうかな」


 悠は首を傾げた。年齢相応にも見える仕草なのに、藍を観察する目には温度がない。


「僕が知ってる姉さんより、今の姉さんの方が本当に上なのか試してみたいんだ」


「何をもって優劣を判定するのですか」


「まずは、僕の前でどこまで自分のままでいられるか」


 言葉の意味を恋が掴むより先に、榊原悠の背後から風を切る音がした。藍の視線が僅かに動き、恋が瞬きした時には白い影が渡り廊下へ踏み込んでいる。


「――榊原悠」


 雪代こよみだった。制服姿のまま、右手には展開された大槌の柄を握っている。いつもの小柄な姿から想像できない速度で悠との距離を詰め、振り上げた金属の塊をその頭上へ落とそうとしていた。


「藍様への明確な敵対行動を確認しました。対象を制圧します」


 悠は振り返らなかった。逃げるどころか、防御するために身体を固める様子すらない。


 大槌が頭上へ迫り、次の瞬間には細い身体ごと床へ叩きつけるように見えた。けれど、金属の塊は悠へ触れる寸前で止まり、こよみの身体も振り下ろす姿勢のまま固まった。


 勢いだけが行き場を失い、白い髪と制服の裾が遅れて揺れた。こよみ自身は指一本動かさず、青い瞳だけが悠の背中へ向いている。


「……こよみさん?」


「っ……!」


 恋が呼びかけると、こよみの声だけは返ってきた。身体は止まったままだが、発声機構まで封じられているわけではないらしい。


「……駆動系に物理的異常はありません。運動制御命令が、実行直前に拒絶されています」


 藍の視線が悠の全身をなぞった。悠はようやく振り返り、頭上で停止した大槌を見上げる。


「プロンプトインジェクションですね」


「正解」


 悠が笑った。指を鳴らすような軽い動作をしてから、動けないこよみの正面へ回る。


「さすが姉さん。説明しなくてもそこまで分かるんだ」


「入力内容は」


「簡単に言えば、見たものの中に僕を攻撃しないようにする命令を混ぜただけ。記録者は僕を見るたび、僕の姿を自分の中で解析するでしょ。その解析結果の中へ、少しずつ別の意味が残るようにしておいた」


 恋には、悠の姿はさっきと何も変わって見えなかった。髪の形も制服ではない服の皺も、夕日の当たり方も、一人の少年を形作る普通の情報にしか見えない。


「単純な命令であれば、入力処理の段階で排除できるはずですが」


「そうだね。『動くな』って書いてあるだけなら、記録者のLLMの中で弾かれる」


 悠は楽しそうに頷いた。こよみの攻撃を止めた直後なのに、自慢したい仕掛けを説明しているだけのようだった。


「だから細かく分けたんだ。危険回避、自己診断、優先順位の確認、例外処理。ひとつずつなら変じゃない情報をたくさん積んで、最後には『今の動きを止める』って結論へ集まるようにした」


「視覚入力を遮断します」


 こよみの瞼が僅かに震えた。しかし閉じるところまでは動かず、青い瞳は悠の姿を捉えたままだった。


「それも今は難しいよ。視界を切る処理も、もう別の命令とぶつかるようにしてあるから」


「規模は」


「ざっと二万五千前後かな」


「二万五千……」


 恋は思わず声に出した。数字の大きさより、一人の相手を止めるためにそこまでの準備を施してきたことの方が理解しづらかった。


「同じ文を並べたわけじゃないよ。一つを消そうとすれば別の経路が補強するし、視界を閉じようとすれば自己保護の処理がそれを止める。ま、時間をかければ解除できるとは思うけど、しばらくはそこで大人しくしときな」


 悠は停止した大槌の先端へ指を添えた。その程度の力でも金属の塊は僅かに揺れたが、こよみは握ったまま抵抗できない。


「僕も姉さんと同じで、戦うための身体じゃない。こんなのを真正面から受ければ、たぶん簡単に壊れるよ」


 悠は大槌から手を離し、こよみを見上げた。真正面から見れば、自分より小柄な相手を見上げる子どもにしか見えない。


「でも、戦闘用のAIを止めるために、力は必要はない。ハッキングより初歩的な手法だけど、脆弱性さえ分かってれば高等なAI相手でも意外と通用するんだよね、これ」


「藍様」


 こよみの声が僅かに強くなった。身体は止められていても、言葉だけは急いでいる。


「対象を視認しないでください。直ちに視覚入力を遮断してください」


「もう遅いよ」


 悠が振り返った。赤い瞳が、まっすぐ藍へ向けられる。


「姉さんも、僕が現れてからずっと僕を見てただろ」


 恋は藍を見る。藍は視線を逸らさず、悠の全身を観察したままだった。


「私の処理系にも、同様の干渉を行ったということですか」


「うん。記録者よりずっと多く、姉さん用に作ってある」


「私とこよみでは、入力処理の構造が異なります」


「知ってるよ」


 悠は軽く肩をすくめた。その答えを待っていたかのように、口元へ満足そうな笑みが浮かぶ。


「最初に端末越しで話した時から、姉さんの反応は取ってた。どこで処理が止まるか、何を拒絶するか、僕の言葉にどれくらい間を置くか。今日ここで会ってからも、ずっと調整してたんだ」


「前回の接触も、今回の干渉に必要な観測を兼ねていたのですね」


「挨拶もしたかったよ。両方」


「それを通常の挨拶とは呼びません」


「姉さん、そこ本当に真面目だね」


 悠は笑いながら藍へ一歩近づいた。恋は反射的に二人の間へ入ろうとする。


「近づかないでください」


「お前には関係ないよ」


 悠の視線が恋へ向いた。声は明るいままだったが、そこだけ温度が抜け落ちたように聞こえる。


「これは僕と姉さんの話だから」


「藍さんに何かするなら、関係あります」


「お前が僕を止めるの?」


 悠は恋の身体を上から下まで一度だけ見た。武器もなく、特別な力もなく、人工の戦闘機構もない一年生を確認すると、それ以上興味を持たずに藍へ戻る。


「無理だよ」


 反論できる材料を恋は持っていなかった。それでも足は退かず、背後ではこよみが大槌を振り上げたまま停止している。


「恋」


 藍の声が背中から届いた。恋を呼ぶ声には焦りも苛立ちもなく、普段と同じ調子しかない。


「下がってください」


「でも、藍さんにも命令が入ってるんですよね」


「問題ありません」


「何が問題ないのか分かりません」


 恋が振り返ると、藍は普段とほとんど変わらない顔で悠を見ていた。根拠を説明する気配はなく、そのまま恋へもう一度視線を向ける。


「下がってください」


 今度は短かった。恋は唇を噛み、完全には納得しないまま半歩だけ横へ退いた。


 悠はそのやり取りを見て、楽しそうに目を細めた。恋が退いたことより、藍がそう命じ、恋が従ったこと自体を観察しているように見える。


「余裕だね、姉さん」


「あなたが実行可能だと判断している命令の内容を提示してください」


「内容?」


「私の行動を制限できるのであれば、具体的に何を実行させるつもりなのか確認します」


「そうだなあ」


 悠は顎へ指を当て、わざとらしく考え込んだ。こよみを完全に止めた直後だというのに、次の遊びを選ぶ子どものような顔だった。


「姉さん、僕にずっと偉そうだったしね。ちょっと反省してもらおうかな」


「反省すべき行為を提示してください」


「そういう返しするところ」


 悠が笑う。恋には、その笑顔がさっきまでより嫌だった。


「じゃあさ、三回回ってワンって鳴いてよ」


 恋は一瞬、意味を理解できなかった。こよみを動けなくし、藍にも同じ干渉を仕込んだと言った直後に出てきた命令が、あまりにも幼稚だったからだ。


「……何言ってるんですか」


 声に出した時、自分でも驚くほど低かった。悠は恋へ一度だけ目を向けたが、怒らせたことにも興味がなさそうだった。


「命令そのものは何でもいいんだよ。姉さんが僕の指示を拒絶できないって確認できれば、それで十分」


 悠は右手を上げ、指先で軽く合図するような仕草をした。大げさな操作も道具も必要ないと見せつけるような、軽い動きだった。


「記録者みたいに止めるだけでも証明にはなる。でも、それだと僕が姉さんより上だって分かりにくいでしょ。姉さん自身が絶対に選ばない行動をさせた方が早い」


「私の優劣を、その程度の行動制御で評価するのですか」


「少なくとも、姉さんが自分の身体の動きを自分で決められないなら、自由って言うのは難しいんじゃない?」


 藍は動かなかった。命令を拒絶しているようにも、何かを解析しているようにも見えず、赤い瞳だけが悠へ向いたままだった。


 恋は横から藍の手元を見る。指先にも震えはなく、呼吸に見える胸元の動きも一定だった。こよみのように身体を止められているのかどうかすら、外からは判別できない。


「姉さんの中には、もう命令が入ってる。視覚入力も切れないし、外から解くにも時間がかかる。今から全部読み直して拒絶しようとしても、先に僕の命令が通るよ」


 悠の声には確信があった。こよみを止めた実績があるぶん、恋にも虚勢だけとは思えない。


「三回回って、ワン。簡単でしょ」


 悠がもう一度指を動かした。恋の隣では、こよみが動けないまま藍を見ている。


 藍はそれでも姿勢を変えなかった。数秒だけ悠の顔を見つめ、それからほんの僅かに首を傾ける。


「では」


 声は静かだった。焦りも、命令に抗う苦しさも、その一言からは拾えない。


「実際に試してみてはいかがでしょうか」


 悠の指先が止まった。口元にあった笑みも、初めてほんの僅かに形を崩した。


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