第9話
休日の駅前は、平日とはまるで別の街みたいだった。
人が多い。
家族連れも、買い物帰りの学生も、どこかへ遊びに行くらしい若いグループも、みんな好き勝手な方向へ流れている。信号が変わるたびに人波がほどけて、また別の場所でまとまり直す。その雑多なざわめきの中を、桜川恋は古角光里と並んで歩いていた。
私服で出かけるのは、別に珍しいことではない。
ただ、今日は少しだけ疲れる。
「で、最近どうなの」
タピオカでもクレープでもない、ごく普通のアイスコーヒーを片手に、光里がいかにも軽い調子で聞いてくる。
「何が」
「何がって。生徒会の方。会長に呼び出されて、雪代こよみちゃん――だったっけ、よく分からん資料を渡されて、よく分からない役職にまで就いた人の近況」
「言い方が悪い」
「だって実際そうじゃん」
そうなのだが、そうまとめられると余計にひどい。
恋は駅ビルのガラスに映る人混みをぼんやり見ながら、小さく息を吐いた。
監査等委員長になってからというもの、光里には以前より確実に探りを入れられる回数が増えた。もちろん、悪気があってではない。単純に気になっているのだろうし、恋が妙に隠し事をするタイプではないことも知っているから、余計に反応が見たくなるのだと思う。
問題は、今回ばかりは本当に言えないことが多すぎることだった。
榊原藍がAIであること。
雪代こよみが人間ではないこと。
生徒会室の奥にあるあの監視じみた別室のこと。
校内のシステムが高校の生徒会としては頭がおかしいくらい整備されていること。
言ってはいけないというより、言ったところで意味が分からなすぎる。
「まあ、忙しいは忙しい」
なるべく曖昧に答える。
「へえ。ちゃんと仕事してるんだ」
「その言い方だと私が普段何もしてないみたいじゃん」
「してないとは言ってないよ。してなさそうとは思ってるけど」
「最悪」
光里は笑う。
その笑い方は昔から変わらない。からっとしていて、変に追い詰めてこない。今の恋にとっては、ありがたいような、ありがたくないような距離感だった。
「でもさ、実際どうなの。会長とか、やっぱ怖い?」
どきりとする。
恋は顔に出さないよう努めながら、ストローをくわえた。
「……怖いっていうか」
「うん」
「何考えてるのか分かんない」
「それは分かるかも」
光里はあっさり頷いた。
「入学式の時から、ちょっと近寄りがたい感じあったしね。綺麗すぎる人って、なんか逆に人間味薄いっていうか」
「……」
一瞬、返事に詰まりかける。
危ない。
今のは本当に危なかった。
そのまま勢いで「実際人間じゃないし」とか口走ったら終わりだった。脳内で自分の口を引っぱたく。
「恋?」
「いや、何でもない」
「変なの」
光里は怪しみつつも、それ以上は突っ込まなかった。
助かった。
最近こういう瞬間が増えた気がする。頭の中にある情報が普通じゃなさすぎて、会話の流れでうっかり漏れそうになる。しかも厄介なのは、知ってしまった側からすると、その異常さが段々前提になってしまうことだ。榊原藍がAIで、雪代こよみがアンドロイドで、鶴見秋臣が数字で軽く発狂して、不破廻が前世を語る。それがもう、自分の中で最近の日常の一部になりかけている。
怖い話だった。
「で?」
光里がじっとこちらを見る。
「何か他にもあるでしょ、その感じ」
「ない」
「絶対ある」
「ない」
「あるって顔してる」
「顔に出てるなら放っておいて」
「放っておいたら気になるじゃん」
面倒くさい。
だが、こういうところも昔からだ。光里は恋が本当に嫌がっているときは引くくせに、まだ少し余裕があると見ると遠慮なくつついてくる。
人混みを抜けて、駅前のショッピングモール前まで来る。
休日の通りには、春物の服を提げた人や、カップルや、部活帰りらしい学生が溢れていた。風が少し強く、看板の旗がはためいている。
そのときだった。
恋の視界の端に、見慣れた黒髪が映った。
心臓が、一拍だけ変な跳ね方をする。
振り向いた先にいたのは、榊原藍だった。
「――え」
思わず声が漏れた。
光里が「どうしたの」と言いかけて、その視線の先を追う。
榊原藍はショッピングモールの入口近くに立っていた。隣には、白い長髪の雪代こよみもいる。
藍は淡い色のブラウスに、膝下まである落ち着いたスカートを合わせていた。派手さはない。けれど整いすぎている顔立ちのせいで、シンプルな私服なのに妙に目を引く。いかにも私服姿の美少女、という感じではなく、もっとこう――きちんとしている。制服では隠れていた鎖骨のラインが見えていて、人間の身体と同じ骨格をしているのだと妙に実感した。
一方のこよみは、いつもとほとんど変わらなかった。
白い髪に青い瞳、小柄な体格、整いすぎた顔立ち。制服が私服に変わっただけで、それ以外は何も変わらない。柔らかい色のワンピースを着ているのに、纏っている空気は良くも悪くも、『雪代こよみ』だった。
「うわ」
光里が素直に言う。
「本当に会長だ。……隣、こよみちゃん?」
そう言うや否や、光里はためらいなく片手を上げた。
「会長ー!」
やめて、と恋が口に出す前に、向こうがこちらに気づく。
藍の赤い瞳が、一瞬だけ恋を捉えた。
その瞬間、何かのスイッチが入れ替わるのを見た気がした。
「こんにちは、古角さん」
藍は小さく会釈して、穏やかにそう言った。
その声音に、恋は目を瞬く。
違う。
生徒会室で聞く声とも、屋上で向けられる声とも、少し違う。
丁寧なのは同じだ。敬語なのも同じ。けれど、もっと柔らかい。もっと普通の真面目な女子高生に近い温度で整えられている。
その隣でこよみも頭を下げた。
「こんにちは、古角さん。桜川さん」
こよみは、やっぱりいつも通りだ。
「やっぱりそうだ。会長たちも買い物ですか?」
光里が屈託なく聞く。
藍はごく自然に微笑んだ。
「ええ、少しだけ。必要なものを見に来ていました」
「へえ。会長もこういうとこ来るんですね」
「来ますよ」
その返答の仕方すら自然だった。
自然すぎて、恋は逆に混乱する。
何だこれ。
本当に同じ人なのかと思うくらい、角がない。いや、角がないというより、対人用にきれいに磨かれた表面を出している感じだ。学校で遠巻きに見ている生徒からすれば、たしかにこう見えるだろう。少し真面目で、近寄りがたいけれど感じのいい美人の生徒会長。それ以上でも以下でもない。
そりゃ普通の人は気づかない。
恋は内心でそう思った。
気づけるわけがない。こんなふうに振る舞われたら、違和感なんてほとんど残らない。入学式や、教室での立ち姿や、他人への応対。全部、今のこの延長線上にあったのだ。
「お二人は、お出かけですか?」
藍が光里へ向けて尋ねる。
この尋ね方すら、いつもの恋へのそれとは違う。ちゃんと相手が答えやすいように、少しだけ明るさを足してある。押しすぎず、引きすぎず、絶妙に普通だ。
「そうそう。ちょっと見たい店あって。恋が付き合わされてる」
「光里が連れ回してる、の間違いでしょ」
「えー。会長、聞きました?」
「今のところは、古角さんがやや優勢に見えます」
「ほらね」
「何で会長がそっち側なんですか」
光里がけらけら笑う。
自然すぎる。
何もかもが自然すぎる。
こよみは横で静かに立っている。こちらもこちらで、相変わらず表情の動きは小さいが、それでも周囲に溶け込めていないわけではない。もともと年下に見えるせいか、ちょっと不思議な子くらいで処理されるのだろう。
そうか。
これが他者と関わる時の榊原藍なのだ。
恋はようやく理解する。
自分と話している時とは、微妙に違う。
ほんの少しだけ感触を変えて、相手に合わせた普通を出している。だから周囲は誰も疑わないし、違和感を抱いても「会長ってちょっと独特だよね」で済んでしまう。
そこまで考えて――恋の頭の中で、別の疑問が立ち上がった。
いや、待って。
じゃあ、自分に対しては?
恋は無意識に藍を見る。
藍は光里の話に穏やかに頷いている。真面目で、礼儀正しくて、少し近寄りがたいだけの女子高生。外側から見ればそうとしか映らない。
なのに、自分に対しては。
最初の屋上から、あんな感じだった。
温度は低めで、言葉は妙に正確で、必要以上に取り繕っていなかった。もちろん全部を最初から明かしていたわけじゃない。けれど、少なくとも今みたいな普通の顔ではなかった。
何で。
どうして、自分には最初からあれだった?
「恋?」
光里に呼ばれて、はっとする。
「え」
「何ぼーっとしてんの。会長たち、もう行くって」
「あ、うん」
慌てて視線を戻すと、藍がこちらを見ていた。
その赤い瞳は、光里の前にいるときのちょっと真面目な女子高生のものだった。けれど、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、そこにいつもの静かな温度のなさが混じった気がした。
「では、お二人ともよい休日を」
藍は自然にそう言って、軽く会釈する。
「また学校で」
こよみもぺこりと頭を下げる。
「はい、また来週ー」
光里が手を振る。
二人はそのまま人混みの中へ歩いていった。白い髪と黒い髪が並んで遠ざかっていく。私服なのに目立つのは、たぶん顔がいいからだけじゃない。立っているだけで輪郭がはっきりしているのだ。
「いやー、会長って私服もちゃんとしてるねえ」
光里が感心したように言う。
「なんか想像通りだった」
「……そう」
「こよみちゃんは逆に想像そのまんまだったけど」
「うん」
恋は半分上の空で返す。
「でも、やっぱ会長ってちゃんとしてるよね。なんていうか、いいとこの真面目なお嬢さん感ある」
「……そう見えるんだ」
「見える見える。恋は何その反応」
何でもない、と言いかけて、うまく声が出なかった。
頭の中がぐるぐるしている。
普通の人が気づかない理由は分かった。
分かったのに、それで余計に分からなくなった。
他の誰かに対しては、ああやって普通の顔をしている。なのに、自分には最初からそうじゃなかった。少なくとも、屋上に呼び出された時点で、もうだいぶ素だった。連絡先の取得を「必要でしたので、確認しました」とか言ってくる時点で、かなりあれだった。
あれは何だ。
手を抜かれていたのか。
それとも逆に、最初から自分には隠す必要がないと判断されていたのか。
いや、その前から。
入学式の時点で目が合った気がした、あれは。
最初から、見られていた?
違和感を抱いたから?
自分が普通の人たちの側じゃなかったから?
「恋、ほんとにどうしたの」
光里が怪訝そうに覗き込んでくる。
恋はようやく我に返って、慌てて首を振った。
「いや、別に」
「別に、の顔してないって」
「ちょっと考え事」
「会長のこと?」
「……まあ」
光里は少しだけ意外そうに目を丸くして、それからニヤッと笑った。
「へえ」
「そのへえやめて」
「だって、恋がそんなに他人のこと気にするの珍しいし」
「そういう意味じゃないから」
「じゃあどういう意味?」
「説明しづらい」
「ますます気になるなあ」
説明できるわけがない。
目の前にいるその生徒会長はAIで、隣の白髪の子も人間じゃなくて、しかも他人に対する時だけ妙に普通っぽく振る舞っていて、なのに自分には最初からそうじゃなかった、なんて。
言えるはずがない。
恋はストローの残りをぐしゃりと潰しかけて、慌てて力を抜いた。
「……何か、思ってたより面倒なことになってる気がする」
「それは最初からじゃない?」
光里があっけらかんと言う。
その通りすぎて、恋は反論できなかった。
最初から面倒だった。
ただ、その面倒の質がまた少し変わっただけだ。
榊原藍はAIだ。
その事実はもう変わらない。
けれど、そのAIが自分にだけ最初から少し違う顔を見せていたらしい、という事実まで追加されると、話が急にややこしくなる。
なぜ。
どうして。
何を基準に。
頭の中で問いが何度も回る。
そのどれにも、まだ答えはない。
「ほら、行くよ」
光里が恋の袖を軽く引いた。
「次の店、こっちだから」
「……うん」
歩き出しながらも、恋は一度だけ振り返る。
もう藍たちの姿は人混みに紛れて見えなかった。
それでも、さっき見た普通の女子高生みたいな榊原藍の姿だけが、妙にはっきりと頭に残っている。
そしてその残像の隣に、生徒会室で見る静かな赤い瞳が並ぶ。
どちらも榊原藍なのだ。
たぶん、どちらも本物なのだろう。
だからこそ厄介だった。
桜川恋は胸の奥に引っかかったその違和感をうまく飲み込めないまま、光里の隣で休日の人混みへ紛れていった。
桜川恋と古角光里の姿が人混みに消えたあとも、榊原藍はしばらくその場を動かなかった。
ショッピングモールの入口脇、植え込みの影。休日の人波は絶えず流れているが、二人の少女に注意を払う者はいない。
さっきまで光里に向けていた穏やかな表情は、もうどこにもなかった。




