第70話
振り返った先に、ミレイが立っていた。
青葉第二の制服を身につけた、見慣れないはずなのに、周囲の誰もが以前から見慣れていたことになっている少女。こうして間近で向かい合うと、土曜日に遠目から見た時よりも、さらに整った顔立ちをしていることが分かった。
長い髪は乱れなく肩へ流れ、澄んだ瞳には柔らかな光が宿っている。呼び止めた声にも、表情にも、恋を脅そうとするような険しさはなかった。
少なくとも、見た目の上では。
それでも恋の背筋には、冷たいものがゆっくりと這い上がってきた。
藍から、一人で接触しないようにと言われていた相手が、自分のすぐ目の前にいる。しかも、こちらが近づいたのではなく、向こうから声をかけてきた。
どうするべきか考えるより早く、ミレイは不思議そうに首を傾げた。
「あなた、ショーマって人を知ってる?」
予想していなかった問いに、恋は息を止めた。
ショーマ。
おそらく人の名前なのだろうが、恋にはまったく心当たりがない。クラスメイトにも、これまで生徒会室で聞いた事件の関係者にも、そんな名前の人物はいなかったはずだ。
誰かを探しているのだろうか。
だとしても、なぜ自分へ尋ねるのか。
頭の中にはいくつもの疑問が浮かんだが、どれもすぐには言葉にならなかった。
ミレイは返事を急かすことなく、ただ静かに恋を見つめている。
廊下には部活動へ向かう生徒や、友人と話しながら帰る生徒が行き交っていた。それなのに、足を止めて向かい合う二人へ視線を向ける者は誰もいない。
まるで、恋だけが周囲から切り離され、異常の中へ取り残されたようだった。
ショーマという名前に心当たりがないのは確かだった。青葉第二には、恋がまだ顔も名前も知らない生徒が大勢いる。下の名前だけを聞かされれば、知っている人物であっても思い出せない可能性はあるだろう。
それでも、正体の分からない少女から突然尋ねられた名前としては、あまりにも唐突だった。
「……知りません」
迷った末、恋は正直に答えた。
下手に知っているふりをすれば、どこかで必ず矛盾が出る。そもそも恋には、こうした場面で即興の嘘を最後まで通せる自信がなかった。
返事を聞いたミレイは、何かを考えるように視線を落とした。
その仕草は、恋が身構えていたよりもずっと普通だった。答えが気に入らないと詰め寄ってくることもなければ、突然何かを仕掛けてくる様子もない。
「そっか」
小さく返した声には、わずかな落胆が混じっていたものの、怒りや疑いは感じられなかった。
「急にごめんね」
「あ、いえ……」
恋は反射的に答えてしまい、その直後、自分でも少し驚いた。
会話が成立している。
少なくとも、今のところは。
学校全体の認識を歪めているかもしれない謎の少女、という前提がある以上、警戒を解くことはできない。それでも目の前のミレイは、恋が想像していたよりもずっと自然に受け答えをしていた。
ひょっとすると、思っていたほど話の通じない相手ではないのかもしれない。
恋がそう考えかけた直後、ミレイは顔を上げた。
「じゃあ、もう一つだけ質問」
澄んだ瞳が、まっすぐ恋を捉える。
「――あなたに、私の魔法が効いていないのは何で?」
その言葉を聞いた瞬間、恋の心臓が一拍だけ止まったような気がした。
魔法。
たった一つの単語で、廊下に漂っていた空気がまるで別のものに変わった。
昨日、生徒会室で藍が口にした仮説が蘇る。
学校全体が、何らかの認識阻害、あるいは認識改変を受けている可能性。
ミレイは、それを自らの魔法だと言った。
しかも、その魔法が恋には効いていないことまで把握している。
気づかれていた。
恋がほかの生徒と同じようにミレイの存在を受け入れていないことも、突然現れた異物として警戒していることも、最初から見抜かれていたのだ。
「ま、魔法って……何のことですか」
恋は咄嗟にとぼけた。
口にした瞬間、自分でも苦しいと分かった。声はわずかに上ずり、視線も落ち着かない。これでは、知らないふりをしていると自分から告白しているようなものだった。
藍なら、表情を変えずに質問の意図を分析しただろう。
こよみなら、余計な反応を見せずに確認を重ねるはずだ。
鶴見なら会計上存在しないという一点から話を進め、不破なら前世の記憶へ話を逸らして、相手の方を混乱させるかもしれない。
だが、桜川恋は桜川恋だった。
知らないふりをしようとしても、嘘をついていることがすぐ顔へ出る程度には、普通の女子高生である。
ミレイは、そんな恋の顔をじっと眺めてから、小さく首を傾げた。
「隠さなくていいよ。あなた、私のことを変だと思ってるでしょ」
「それは……」
「この前も、今日も、ずっと私を見てた」
責めるような口調ではなかった。
ただ事実を確認するように、ミレイは静かに続ける。
「みんなは、私を前からいた人として覚えてる。でも、あなたは違う。あなたの中では、私は急に現れた知らない人になってる」
あまりにも正確だった。
恋の意識から、周囲の音が少しずつ遠ざかっていく。
廊下には、今も大勢の生徒がいる。話し声も足音も聞こえている。それなのに、ミレイが魔法という言葉を口にしても、恋が明らかに動揺していても、誰一人としてこちらへ目を向けない。
二人の周囲だけ、透明な膜で切り取られているようだった。
「ねえ」
ミレイの声は柔らかい。
けれど、その問いから逃げられるような隙はなかった。
「どうして?」
恋は答えられなかった。
本当に知らないからだ。
生徒会室へ頻繁に出入りしていたからなのか。藍やこよみの近くにいたことが関係しているのか。それとも、恋自身に何か特別な理由があるのか。
昨日、藍たちと考えた仮説は、どれも可能性にすぎない。
自分にも分からないと正直に言ってよいのかさえ、恋には判断できなかった。
目の前の少女は、魔法という言葉をためらいなく使っている。その魔法で、学校中の人間の認識や記録を変えた可能性がある。
もし恋が、その魔法から外れた唯一の例外だとしたら。
ミレイにとって、恋は自分の正体を見抜く邪魔な存在なのではないか。
そこまで考えた瞬間、喉が固まり、声が出なくなった。
「恋」
背後から、静かな声が届いた。
丁寧で、落ち着いていて、いつもと変わらない声だった。
恋は振り返るよりも先に、身体から少しだけ力が抜けていくのを感じた。
廊下の向こうから、榊原藍が歩いてくる。
長い黒髪を揺らし、制服姿を少しも乱すことなく、まるで最初からこの場へ来ることが決まっていたかのように、落ち着いた足取りで近づいてきた。
その姿を見た瞬間、恋は自分が思っていた以上に追い詰められていたことへ気づいた。
「藍さん……」
「一人で接触しないようお願いしたはずですが」
「すみません。向こうから声をかけられました」
「そのようですね」
藍は恋を責めることなく、その隣へ並んだ。
立ち位置が変わっただけで、恋の背後にあった逃げ場のない感覚が少し薄れる。
ミレイもまた、藍をじっと見ていた。
やがて、その瞳がわずかに細くなる。
そこにあるのは敵意ではなく、興味に近かった。あるいは、自分の予測と合わないものを見つけ、確かめようとしているようにも見える。
「ふうん」
ミレイが小さく呟いた。
「あなたにも効いてないんだ」
藍は表情を変えなかった。
「効いていない、とは?」
「私の魔法。ちゃんと皆にかけたつもりだったんだけど」
「そうですか」
「驚かないんだね。魔法を見たことあるの?」
「いいえ。ただ、現在の状況からある程度は推定していました」
「へえ」
ミレイは遠慮する様子もなく、藍を頭から足元まで眺めた。
相手が生徒会長だと知っていれば、普通の生徒なら多少は態度を整えるものだろう。だが、ミレイには校内での立場や上下関係を気にする様子がなかった。
「あなた、何?」
その問いに、恋の背筋が再びわずかに強張った。
榊原藍は何者なのか。
人間なのか。
人間ではないなら、何のためにこの学校にいるのか。
これまでにも形を変えながら、何度も藍へ向けられてきた問いだった。
そして今度は、ミレイの魔法が効かなかった存在として尋ねられている。
藍は、いつものように静かな声で答えた。
「榊原藍です。青葉第二高等学校の生徒会長を務めています」
「そういう意味じゃないんだけど」
「現時点では、それ以上の自己紹介は不要と判断します」
ミレイは少しの間、何も言わなかった。
やがて、口元へわずかな笑みを浮かべる。
「変な人」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「はい」
二人の会話は、表面上は穏やかに成立していた。
それでも、恋には一瞬たりとも気を抜けなかった。
魔法で人々の認識を変えた少女と、その魔法の影響を受けなかった人工知能。
どちらも静かな口調で話しているが、その間に流れているものは、普通の女子高生同士の会話ではない。
そして恋は、その二人のすぐ横に立っている。
自分の位置については、あまり深く考えたくなかった。
「ミレイさん」
藍が呼びかける。
「せっかくですので、生徒会室でお話ししませんか」
「生徒会室?」
「はい。あなたに確認したいことがあります」
「私、別に呼び出されるようなことはしてないと思うけど」
「青葉第二高等学校の生徒として登録されている以上、生徒会長から確認を受けること自体は不自然ではありません」
ミレイは藍の言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「まるで、私が本当はここの生徒じゃないって疑ってるみたい」
「疑っているというより、確認している段階です」
「正直だね」
「嘘をつく必要がありませんので」
ミレイはすぐには答えなかった。
その沈黙の間、恋は息を詰めたまま二人を見ていた。
もし拒否されたら、どうなるのだろう。
ミレイがここから逃げるのか。それとも、魔法を使って藍や恋の認識まで変えようとするのか。あるいは、もっと直接的な手段に出るのか。
考えたくない可能性が、次々と頭へ浮かんでくる。
だが、ミレイの返事は驚くほどあっさりしていた。
「いいよ」
恋は思わず瞬きをした。
「私も、あなたたちには少し興味があるから」
「ありがとうございます」
「でも、変なことをしたら怒るよ」
「こちらも同じです」
「ふふ。やっぱり変な人」
ミレイは楽しそうに笑った後、恋へ顔を向けた。
「あなたも来るの?」
恋は返事に詰まった。
行きたいかと聞かれれば、できることなら行きたくない。
この場を藍に任せ、自分だけ教室か自宅へ戻れるなら、その方がずっと安心できる。
けれど、ミレイの異常に最初に気づいたのは恋だった。最初に声をかけられ、ショーマという名前を聞かされたのも恋である。
ここで背を向ければ、きっと後から気になり続ける。
何より、自分だけ逃げることが正しいとも思えなかった。
「……行きます」
声はわずかに震えていたが、恋はそう答えた。
藍が一瞬だけこちらを見る。
無理をする必要はないと言われるかと思ったが、止められはしなかった。
「では、行きましょう」
藍が先に歩き出し、恋はその隣へ並んだ。ミレイは少し距離を空け、二人の後ろをついてくる。
廊下にいる生徒たちは、やはり誰も三人を気に留めていなかった。
生徒会長が、正体の分からない留学生を生徒会室へ連れていこうとしている。隣を歩く恋は緊張を隠せず、ミレイは周囲から浮くほど整った容姿をしている。
それでも、すれ違う生徒たちは何事もなかったように会話を続け、三人の横を通り過ぎていく。
その光景が、恋にはひどく不気味だった。
生徒会室へ向かう途中、恋は背後から聞こえるミレイの足音へ意識を向けていた。
軽く、規則的な足音だった。
歩幅も速度も、ごく普通の少女と変わらない。
けれど、その存在は青葉第二高等学校の日常へ開いた、小さな穴のように思えた。
誰も気づかないまま、その穴を昔からそこにあったものとして受け入れている。
そしてこれから、恋たちはその向こう側に何があるのかを確かめようとしている。
恋は隣を歩く藍の袖へ、ほんの一瞬だけ目を向けた。
掴みはしなかった。
ただ、藍がそこにいることを確かめたかった。
藍は前を向いたまま、普段と変わらない足取りで歩いている。
やがて廊下の先に、生徒会室の扉が見えてきた。
榊原藍はその前で立ち止まり、いつものように落ち着いた手つきで扉を開けた。
「どうぞ」
ミレイは、ためらう様子もなく中へ入った。
桜川恋は、その背中を見ながら、小さく息を呑んだ。
ミレイという少女の正体を探るための会話が、今から始まろうとしていた。




