第71話
生徒会室へ足を踏み入れたミレイは、部屋の中央で一度立ち止まり、物珍しそうに周囲を見回した。
壁際に並ぶ書類棚、机の上に積まれた資料、雪代こよみが手にしている端末、鶴見秋臣がいつも眉間に皺を寄せながら確認している帳簿、そして榊原藍の会長席。その一つ一つへ視線を向けているものの、驚き方はどこか控えめだった。
何も知らない場所へ連れてこられた人間の反応には見える。ただし、見慣れないものを警戒しているというより、この世界にある道具や仕組みを順番に確かめているような視線だった。
「こちらへ座ってください」
藍が促すと、ミレイは素直に椅子へ腰を下ろした。
まったく警戒していないわけではないだろう。背筋は伸びたままで、視線も部屋の中を静かに追っている。それでも、逃げようとする様子も、魔法を使う気配も今のところは見えなかった。
恋はミレイの向かい側へ座りながら、自分の心臓が普段より少し大きく鳴っていることに気づいていた。
廊下で突然呼び止められ、ショーマという人物を知らないかと尋ねられた直後には、魔法が効いていない理由まで問われた。その相手を、そのまま生徒会室へ連れてきたのである。落ち着けと言われても、すぐに平静へ戻れるはずがなかった。
藍は会長席へ戻らず、ミレイの正面に立った。こよみはその斜め後ろへ控え、端末を抱えたままミレイを見つめている。
「では、いくつか確認します」
藍が静かに切り出した。
「あなたの名前は、ミレイさんで間違いありませんか」
「うん。ミレイ」
「青葉第二高等学校には留学生として登録されています。その登録は、あなた自身が行ったものですか」
「トーロクっていうのが、よく分からないけど」
ミレイは少し考えるように首を傾げた。
「ここにいても、みんなが変だと思わないようにはしたよ」
あまりにも軽い言い方に、恋は思わず息を呑んだ。
名簿を直接書き換えたのか、人々の記憶へ手を加えたのか、それとも現実そのものを歪めたのかは分からない。ただ、ミレイが青葉第二の中へ自分の居場所を作ったことだけは確かだった。
それを彼女は、机の位置を少しずらした程度のことのように話している。
「そのために、魔法を使ったのですね」
「うん」
「目的は何ですか」
「ショーマを探すこと」
ミレイは迷わず答えた。
「そのショーマという方は、どなたですか」
藍が尋ねると、ミレイはわずかに目を伏せた。
先ほどまでの軽い雰囲気が、その瞬間だけ薄くなる。
「私の大切な人」
そこで一度言葉を切り、ミレイは静かに続けた。
「私の世界を救った勇者で、魔王を倒した人」
恋は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
勇者。
魔王。
世界を救った。
物語の中でしか聞かないような単語が、生徒会室という妙に現実的な場所で、あまりにも自然に並べられている。耳には入っているのに、意味だけがうまく頭へ届かなかった。
それでも、ミレイが冗談を言っているようには見えない。むしろ、その先を話すことに、ほんの少しだけ身構えているようだった。
「魔王、ですか」
藍は、確認するように聞き返した。
その反応があまりにも平静だったため、恋は思わず藍の横顔を見た。
そこは、もう少し疑うところではないのだろうか。
異世界から来た勇者が魔王を倒し、世界を救った。そんな話を真正面から聞かされて、どうして榊原藍は「魔王ですか」と、資料の記載内容でも確かめるように返せるのか。
もはや何も言うまい。
最近、恋が心の中でそう諦める回数は、明らかに増えていた。
「私は、こことは違う世界から来た魔法使い」
ミレイは静かに言った。
「私の世界に、ある日ショーマが迷い込んできた。最初は変な人だと思ったけど、ショーマには勇者の力に選ばれた。その力で魔王を倒して、私たちの世界を救った」
ミレイの声は淡々としていたが、ショーマという名前を口にする時だけ、ほんの少し柔らかくなる。
「ショーマは、私と一緒にいるって言った。私も、これからずっとショーマと生きるって決めてた。でも、ある日、元の世界に帰らなければならないって言って、私の前からいなくなった」
その言葉だけは、明らかに温度が違っていた。
恋には、ミレイがただ知人を探しているわけではないことが分かった。
彼女の中で、それは単なる失踪でも別れでもない。
守られるはずだった約束が、途中で置き去りにされたまま残っている。
「諦められなかった」
ミレイは俯いていた顔を上げた。
「ショーマが元の世界へ戻ったなら、私もそこへ行けばいい。だから、時空を越える魔法を作って、この世界まで来た」
「それで、こちらの世界へ?」
「うん」
「この学校を選んだ理由は何ですか」
「ショーマが持ってた服が、ここと似てたから」
ミレイは、自分が着ている青葉第二の制服の袖を軽くつまんだ。
「この世界に来てから、似たような服を着ている人がたくさんいる場所を探した。そういう場所なら、誰かがショーマを知ってるかもしれないと思ったの」
「その中でも、青葉第二高等学校を選んだのですね」
「うん。ここの服が、一番近かったから」
理由としては、あまりにも単純だった。
けれど、ミレイにとってはそれで十分だったのだろう。こちらの世界に学校という制度があり、似た制服を着ている者が大勢いる理由まで理解したうえで選んだわけではなく、ただショーマへ繋がる可能性だけを頼りに、ここへ辿り着いたらしい。
恋は、何とか話を整理しようとした。
「えっと……つまり、ミレイさんは異世界からショーマさんを探しに来て、それで、この学校に入り込んだんですよね」
「うん」
「魔法で、皆に自分を留学生だと思わせて」
「うん」
「今も、ショーマさんを探してる」
「そう」
会話は成立している。
内容も、言葉の上では理解できる。
それなのに、現実感だけがまったく追いついてこなかった。
恋は額を押さえたくなったが、藍は変わらず平然としており、こよみも端末へ記録を続けている。
「ミレイさん」
藍が話を戻した。
「あなたの魔法は、校内の生徒や教職員の認識へ干渉しています。影響する範囲と、持続時間を教えてください」
「範囲?」
「どこまで魔法の効果が及んでいるのか、という意味です」
「この学校の中にいる人たちには、だいたい効いてると思う。外へ出ると少し弱くなるけど、私を見た人は、私のことを変だと思わなくなるよ」
「記録類への干渉は?」
「キロク?」
「名簿やデータベースです」
「それはよく分からない」
ミレイは本当に分からないらしく、少し考えてから答えた。
「でも、私が使った魔法は、人の認識が変わると、勝手に辻褄が合うように色々なものが変わるところがあるから。多分その影響かな」
恋の背筋に、冷たいものが走った。
勝手に辻褄が合う。
それだけで済ませていい話ではない。
実際、生徒会室のデータベースには、ミレイという生徒が以前から存在していたような情報が追加されている。
ミレイ自身が機械を操作していないのなら、人々の認識が変わった結果として、周囲の記録まで引きずられるように書き換わった可能性がある。
そこまで考えたところで、恋はそれ以上深く考えるのをやめた。
怖すぎる。
「なるほど」
藍は静かに応じた。
「では、もう一つ確認します。あなたは、私たちが魔法の影響を受けていないことに気づいていましたね」
「うん」
ミレイは、藍とこよみへ順番に視線を向けた。
「そっちの子は、ちょっと変。あなたは、もっと変」
「私ですか」
「うん。あなた。そっちの小さい子」
こよみの眉が、ほんのわずかに動いた。
「私は小さい子ではありません」
「でも、小さいよ」
「身長の話ではありません」
「そうなの?」
「はい」
こよみは真面目に答えた。
この状況で、そこへ反応するのか。
恋はそう思ったが、同時に少しだけ肩の力が抜けた。こよみが普段通りであることは、今の恋にはありがたかった。
「では、私たちの何が変なのですか」
藍が尋ねる。
ミレイは何のためらいもなく答えた。
「あなたたち、生き物じゃないでしょ」
生徒会室が静まり返った。
恋は呼吸を止める。
藍は表情を変えず、こよみも端末を持ったまま動かなかった。
「……どうして分かったんですか」
恋は思わず口を挟んだ。
ミレイは、質問の意味が分からないというように首を傾げる。
「魔力がないから」
「魔力?」
「うん。生きているものには、必ず魔力がある。多いか少ないかは違うし、自分で使えるかどうかも別だけど、生きとし生けるものには誰にでもあるよ」
ミレイは片方の手を差し出し、掌を上へ向けた。
「魔力は、生命力の源みたいなものだから」
次の瞬間、その掌の上に小さな炎が灯った。
「えっ」
恋は反射的に椅子から身体を引いた。
炎は本物だった。
橙色の光が掌の上で揺れ、立ち上る熱によって周囲の空気がかすかに歪んでいる。ライターも、火種も見当たらない。それでも炎は、確かにそこに存在していた。
こよみの視線がすぐに消火器の位置へ動いたが、藍が片手を上げて制した。
ミレイは数秒で炎を消すと、今度は指先に青白い光を集めた。
ぱち、と乾いた音が鳴る。
細い電撃が、指先の間を走った。
恋はもう、声も出せなかった。
認識改変だけではない。
炎も、電撃も、本当に生み出せる。
「こういうのも、魔力を使ってる」
ミレイは何でもないことのように言った。
「でも、あなたたち二人には、それが全然ない。そこにいて、動いて、話してるのに、生きているものの魔力がない。だから、生き物じゃないって分かった」
ミレイの視線が藍へ向けられる。
「でも動いてるから、ガーディアンとか、ゴーレムみたいなものなのかなって。人が作った守護者みたいな」
「完全に外れた認識ではありません」
藍はそう答えた。
恋は藍を見る。
このまま隠すのか、適当に話を逸らすのか。あるいは、相手へ必要最低限の情報だけを与えるのか。
そう考えていた恋の予想に反して、藍はあっさりと口を開いた。
「私は人工知能です。人間ではありません」
ミレイが首を傾げた。
「じんこう、ちのう?」
「この世界の技術によって作られた知性体です。身体も人工的に構成されています」
「じゃあ、ガーディアン?」
「あなたの理解に近い表現へ置き換えるなら、そう捉えていただいて構いません」
「魔力で動いてるわけじゃないのに?」
「この世界では、魔力以外の仕組みでも存在を動かすことができます」
「へえ……」
ミレイは、心底不思議そうに藍を見つめた。
そこに嫌悪や恐怖は見えない。どちらかと言えば、未知の魔道具を見つけた魔法使いが、その仕組みを確かめようとしているような好奇心があった。
「じゃあ、そっちの子も?」
「はい」
こよみが答える。
「私はアンドロイドです」
「あんどろいど?」
「人工的に作られた身体を持つ存在です」
「ふうん。こっちは小さいガーディアンなんだ」
「小さいという評価は不要です」
「でも、小さいよ」
「記録します」
「何を?」
「あなたが、私を小さいと評価したことをです」
「それ、何か意味あるの?」
「あります」
ミレイが少しだけ笑った。
こよみは笑わず、端末へ何かを入力している。
奇妙な方向へ空気が緩みかけたことに、恋は戸惑いながらも少しだけ息をついた。
ただし、油断はできない。
ミレイはあまりにも自然に話している。
異世界から来たと告げ、魔法を実演し、藍とこよみが生物ではないことを見抜き、それでも明確な敵意を示していない。
けれど、それは安全であることを意味しなかった。
ミレイは自分の目的のために、学校全体の認識を変えられる。
それほどの力を持っている。
そして、その目的は、たった一人の人間を見つけ出すことだった。
「ミレイさん」
藍が改めて呼びかける。
「あなたの目的は、ショーマと呼ばれる人物を探すこと。現時点で、青葉第二高等学校の生徒や教職員へ危害を加える意思はありますか」
「ないよ」
ミレイは即答した。
「私はショーマを探したいだけ。邪魔されなければ、誰にも何もしない」
「邪魔された場合は?」
「それは、相手による」
その返答だけは、少し冷たかった。
恋は無意識に背筋を伸ばした。
目の前のミレイは、柔らかな顔立ちをしている。
話も通じる。こちらの質問にも答えている。
それでも、彼女にとって最優先なのは、ショーマを見つけることなのだ。
そのために一つの世界を越えてきた。
ならば、その前に立ちはだかるものをどう扱うのかは、まだ分からない。
藍も同じ点を見ているのだろう。赤い瞳は静かにミレイへ向けられたままだった。
「分かりました」
藍は落ち着いた声で言った。
「現時点では、あなたを排除対象とはしません」
「排除?」
「本校の生徒へ危害を加える可能性が確認された場合は、対応します」
「へえ。ガーディアンっぽいね」
「生徒会長ですので」
「生徒会長って、ガーディアンなの?」
「場合によります」
恋には、もう突っ込む気力がほとんど残っていなかった。
異世界の魔法使いが、生徒会長をガーディアンの一種として理解している。
明らかに間違っているのに、榊原藍に限って言えば、完全には間違っていないようにも思える。
青葉第二高等学校は、今日も恋の知っている現実の形を、静かに失い続けていた。
ただ、一つだけ明確になったことがある。
ミレイは、ショーマという人物を探している。
そのために世界を越え、学校全体の認識へ干渉し、青葉第二の制服を着て、以前から在籍していた生徒のように廊下を歩いている。
恋はその事実を少しずつ飲み込みながら、改めて目の前の少女を見た。
ミレイは椅子へ静かに座り、澄んだ瞳で藍を見つめている。
外見だけなら、恋とそれほど年齢の変わらない少女にしか見えない。
けれど、その内側には、異世界と、魔王と、勇者と、果たされないまま置き去りにされた約束がある。
その約束がミレイにとってどれほど重いものなのか、今の恋にはまだ想像することができなかった。




