第68話
――ミレイっていう留学生の子、知っていますか。
恋がその名前を口にした瞬間、生徒会室の空気が、ほんのわずかに変わった。
音が消えたわけではない。窓の外からは運動部の掛け声がかすかに聞こえ、壁の時計も変わらず秒を刻んでいる。机の上には書類が広がり、端末の画面にも文字が並んだままだった。
それでも、確かに何かが止まった。
鶴見秋臣は目を通していた資料から顔を上げ、不破廻はいつもの曖昧な笑みを浮かべたまま恋へ視線を向ける。壁際に立っていた雪代こよみも、端末を操作していた指をぴたりと止めていた。
そして何より、榊原藍がすぐには答えなかった。
恋には、その沈黙が一番引っかかった。
藍は、答えを知らない時ですら反応が早い。
知らないなら知らないと返し、その上で関連する情報を探し、可能性を整理して提示する。曖昧な質問を投げても、必要ならその場で意味を分解して答えを組み立てる。
少なくとも、恋はこれまでそういう藍しか見たことがなかった。
だからこそ、わずか一拍にも満たない沈黙が、妙に長く感じられた。
「……正直に言いますが」
藍は、普段より少しだけ慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。
「私は、その方の存在を知りません」
恋は息を止めた。
「……知らないんですか?」
「はい」
その返答は短かった。
けれど、恋の中では、それだけで十分だった。
榊原藍が知らない。
世界のありとあらゆる情報を常に把握し、必要であれば非合法的な手段をもって全てに目を通す彼女が、青葉第二の制服を着て普通に校内を歩いている少女を知らない。
今朝までなら、恋自身が考えすぎているだけかもしれないと思えた。
単に、自分が知らない生徒だった。
土曜日に二度見かけたのも偶然だった。
授業中に廊下を歩いていたのも、何か事情があったのかもしれない。
そういう説明で、どうにか片づける余地は残っていた。
だが、藍の返答によって、その余地が一気に狭くなった。
「やっぱり……」
声が少し掠れた。
恋は無意識に、自分の鞄の持ち手を握り直す。
「藍さんも、変だと思ってたんですか?」
「はい」
藍は静かに頷いた。
「本日、校内データベースを確認した際、私が認識していない生徒として『ミレイ』という人物情報が登録されていることに気づきました」
「今日?」
「正確には、本日午前七時四十二分に最初の不整合を検出しました」
「不整合……」
「はい。現在の校内データ上では、彼女は以前から青葉第二高等学校へ在籍していたことになっています」
恋は、椅子の背もたれへ手を置いた。
「なっている、ってことは……」
「金曜日時点では、その情報は存在していません」
藍の声は変わらず穏やかだった。
その穏やかさが、かえって恋には怖かった。
「金曜日にはいなかったのに、月曜日には前からいたことになってるんですか?」
「現時点で確認できている範囲では、その認識で合っています」
そこで、こよみが端末を操作した。
画面へ何かを表示しながら、恋へ向けて説明する。
「私の保存記録を照合しました」
「こよみさんの記録でも?」
「はい。金曜日の時点まで、青葉第二高等学校に『ミレイ』という名前の生徒は存在していません」
こよみは指先で画面をスクロールしていく。
「転入生名簿、留学生受入記録、短期交流者名簿、外部見学申請、編入手続き、特別聴講生登録。いずれにも該当記録はありませんでした」
「でも、今はあるんですよね」
「あります」
「どこに?」
「ほぼ全てです」
恋は思わず眉を寄せた。
こよみは淡々と続ける。
「生徒基本名簿、教員用出席管理、保健室の生徒情報、図書室利用登録、校内システムの学生アカウント、購買利用者情報、校内端末の認証一覧。現在はいずれにも『ミレイ』という生徒が存在しています」
「……全部?」
「確認した範囲では」
「そんな……」
恋は思わず会長席の机へ視線を落とした。
「ですが」
こよみが言った。
「登録状態には不自然な点があります」
恋は顔を上げる。
「不自然って?」
「データ上では、過去の時点から継続して在籍していたように整合性が取られています。しかし、私が保存している差分記録には、昨日以前の更新痕跡がありません」
「……どういうことですか」
「簡単に言えば」
こよみはわずかに間を置いた。
「現在の情報だけを見れば、以前から在籍していたように記録されています。しかし、更新履歴にはそれ以前の記録が存在しません」
恋はすぐに意味を理解できなかった。
頭の中で、こよみの言葉を順番に並べ直す。
現在は存在しており、前からいたことになっている。
けれど、その「前からいた」ことを証明する過去の記録がない。
「何ですか、それ……」
「現時点では不明です」
「不明……」
「はい」
「こよみさんでも?」
「はい」
こよみが分からないと言うだけで、恋の中の違和感が一段深く沈んだ。
藍なら分かるかもしれない。
こよみなら記録が残っているかもしれない。
そう思ってここへ来た。
その二人が、同じ人物を「把握していない」と言っている。
恋は、今度は藍へ視線を戻した。
「藍さんも、分からないんですか?」
「少なくとも、通常の転入や留学手続きでは説明できません」
藍は赤い瞳をわずかに細める。
「正規の方法で在籍情報が追加されたのであれば、複数の承認記録、文書、担当者の確認、外部機関とのやり取りが残るはずです。しかし、それがありません」
「じゃあ……何が起きてるんですか」
「仮説でよろしければ」
「お願いします」
恋がすぐに答えると、藍はわずかに間を置いた。
「学校全体が、何らかの認識阻害、あるいは認識改変を受けている可能性があります」
認識阻害。
認識改変。
その言葉を聞いた瞬間、恋は嫌な意味で納得してしまった。
普通なら、そんな馬鹿なと思う。
学校全体の認識が誰かに書き換えられているなど、日常会話で出てくる話ではない。
だが、今の恋は、それを完全には笑えなかった。
人工知能が生徒会長をしている。
アンドロイドが記録者として傍にいる。
人工的に改造された親友もいれば、暗殺者として育てられた生徒もいる。吸血鬼の血を引く先輩も、怪盗を名乗る令嬢も、すでに恋の学校生活の中に存在している。
そこへ新しく「認識改変」が加わったところで、今さら荒唐無稽だからと切り捨てることができなかった。
そのこと自体が、少し嫌だった。
「でも……」
恋はそこでいったん言葉を切り、生徒会室の中を見回した。
「どうして、私たちは分かるんですか?」
「私たち、というのは?」
「私も、藍さんも、こよみさんもです。ミレイって子が突然現れたって分かってる。でも、他の人は違いました」
朝、教室で交わした光里との会話が頭に浮かぶ。
「光里も普通に知ってました。『ミレイちゃんでしょ、留学生の』って。本当に、前から知ってる子の話みたいに」
藍の赤い瞳が、わずかに細くなった。
「古角光里さんも、彼女が以前から在籍していたと認識していたのですね」
「はい。でも、いつから知ってるのか聞いたら答えられなくて。何組なのかも曖昧で、どこの国から来たのかも思い出せないって」
恋はそこで少し息をついた。
「他のクラスメイトにも聞いてみました。みんな、ミレイって名前と、留学生だってことは知ってるんです。でも、詳しく聞くと誰も答えられない。なのに……」
朝から胸の奥に引っかかっていた違和感が、言葉にするほど鮮明になっていく。
「誰も、それを変だと思ってないんです。分からないことだらけなのに、『まあ、そんなものだよね』って感じで流してて」
恋は無意識に自分の腕を抱いた。
光里も、他のクラスメイトも、嘘をついているようには見えなかった。それが余計に気味が悪かった。
「認識改変の効力は、かなり強いと考えた方がよさそうですね」
藍が静かに言った。声はいつも通り穏やかだったが、その奥には先ほどまでよりわずかな硬さがあった。
「桜川さんだけが、その子を変だと思ったってこと?」
そこで、不破廻が机へ肘をついたまま口を挟んだ。
「……変って言い方は本人に失礼かもしれないけど」
「今、そこ気にします?」
「大事だよ。もし本人に悪意がないなら、最初から怪異扱いするのもよくないだろう?」
「それは……まあ、そうですけど」
不破は少し考えるように視線を上へ向けた。
「前世でいうなら、結界の外へ片足だけ出していた人に近いのかもしれない。皆が同じ景色を見せられている中で、一人だけ視点がずれている」
「不破先輩は、ミレイさんのこと知ってるんですか?」
「知っている気もするし、知らない気もするね」
「一番困る答えです」
「だろうね」
不破は悪びれもせず笑った。
「ただ、今世の記憶を辿っても、彼女と話した場面は思い出せないんだよ。顔を合わせた記憶も、たぶんない」
「じゃあ、知らないんじゃないですか?」
「でも、『ミレイ』って名前を聞いた時には、ああ、あの子か、と思った」
「それ、かなり影響受けてません?」
「かもしれない」
「軽い……」
「僕の場合、前世の記憶と今世の記憶が混ざっているからね。どこまでが自分の記憶で、どこからが後から紛れ込んだものなのか、こういう時は特に判断しづらいんだ」
恋は何とも言えない顔になった。
普段なら不破の前世記憶は、何かしらの手掛かりになることもある。
けれど今回は、その曖昧さ自体が問題に巻き込まれているようだった。頼りになるのか、ならないのか、ますます分からない。
鶴見が、そこで眼鏡を押し上げた。
「私からすると、今回の問題は非常に不愉快です」
「鶴見先輩からすると?」
「「ええ。生徒名簿、購買利用履歴、図書室登録、備品割当、教室座席表には、ミレイという生徒が以前から在籍していたように情報が追加されている」
「はい」
「ただ、整合性が後付けで調整されているにもかかわらず、会計関連の支出記録には対応する数字がない」
「興味の方向がそこなんですね」
「そこが一番重要だろう」
鶴見は机の上の資料を一枚めくった。
「留学生を一人受け入れれば、学校側には何らかの金銭記録が発生します。制服や教材、校内端末の貸与、交流事業費、学生証の発行。制度によって内容は変わりますが、何も発生しないというのは考えにくい」
「でも、それがない?」
「確認できる範囲では」
鶴見は淡々と続けた。
「数字が合わない以上、それを正しい情報として扱うことはできない」
「会計的に?」
「会計的に」
恋は少しだけ頭を抱えたくなった。
だが、鶴見の言っていることは意外と重要だった。
人の記憶や名簿は変えられても、会計処理のように複数の数字が別々の場所で連動する仕組みまでは、完全に辻褄を合わせきれていない。
「生徒会室は、校内の情報が最も集積している場所の一つです」
藍が再び口を開いた。
「今の鶴見さんの話も含め、ここには通常の生徒が接触しない種類の記録が複数存在します」
「情報の種類が多いから、誤魔化しきれなかったってことですか」
「可能性としては」
藍は頷いた。
「例えば、一般生徒が一人のクラスメイトを認識するために必要な情報は多くありません。顔、名前、所属、以前から存在していたという漠然とした記憶。それらだけが整っていれば、日常生活の中では大きな矛盾を感じにくい」
恋は光里の反応を思い出した。
「しかし、生徒会の記録には、その一人が存在することで連鎖的に発生する情報が多数あります。それらすべてへ矛盾なく存在を追加するには、多数の記録へ同時に干渉する必要があります」
「だから、ところどころ穴が残っている?」
「その可能性があります」
「でも、だとすると私は?」
「恋は他の生徒よりも相対的に生徒会室にいる時間が長い。ここに存在する大量の記録と日常的に接することで、無意識のうちに情報上の矛盾を検出していた可能性があります」
「私、そんな高性能じゃないと思いますけど……」
「意識的な分析能力の話ではありません」
「そうなんですか」
「何かがおかしい、と感じるために、必ずしも原因を言語化できる必要はありません。かつてあなたが私を初めて見た時と同じように」
藍の言葉に、恋は入学式で藍に抱いた違和感を思い出した。
理由は分からなかった。
ただ、あまりにも整えられすぎていたと言うべきか。言葉では説明できない違和感がそこにあった。今思い返せば、まさか人間ですらなかったとは思いもしなかったが。
「恋の場合、そうした小さな齟齬を無意識に拾っていた可能性があります」
納得できないが、納得するしかない。現に桜川恋はミレイを異物として認識できている。それは変えられない事実だ。
「……怖いですね」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
誰かに聞かせるつもりで言ったわけではない。
しかし、その一言の後、生徒会室は少しだけ静かになった。
藍は否定しなかった。
「はい、危険です」
恋は藍を見る。
「危険なんですか」
「現状では、非常に危険な存在であると判断せざるを得ません」
いつも通りの丁寧な声だった。
それなのに、恋の背中が少し伸びた。
「ミレイさんが何者なのか分かりません。何を目的として学校へ入り込んだのかも、どのような手段で認識や記録へ干渉しているのかも不明です」
「でも、今のところ誰かを襲ったりはしてないですよね」
「確認されていません」
「だったら……」
「危害を加えていないことと、安全であることは同義ではありません」
藍の声は穏やかなままだった。
「少なくとも、学校内の多数の人間へ影響を及ぼし、それを本人たちに自覚させていない時点で、能力の規模は無視できません」
「……そうですよね」
恋は、昼間の光里を思い出す。
嘘をついていたわけでも、操られているようにも見えなかった。
いつもの光里だった。
その光里が、ごく自然に存在しなかったはずの少女を友人のように呼んでいた。
本人が気づかないまま、当たり前だけが変わっている。
もし自分も影響を受けていたら、何もおかしいとは思わなかったのだろうか。
今日、生徒会室へ来ることすらなかったのかもしれない。
そう考えると、喉の奥が乾いた。
「でも、調べなきゃいけないですよね」
「はい」
藍は頷いた。
「まず、ミレイという少女の正体、目的、能力の範囲を特定します」
「どうやって?」
「最初は接触せずに調査します」
こよみが端末を操作する。
「校内カメラ記録の再精査、移動経路の推定、授業参加状況、周囲の人物との接触履歴、改変前後のデータ差分を比較します」
「カメラには映ってるんですか」
「映っています」
「……普通に?」
「はい」
こよみは少し間を置いた。
「ただし、それも確認が必要です」
「どういうことですか」
「現在確認できる映像が、撮影当時から存在していた映像である保証がありません」
恋は返事ができなかった。
「映像まで……書き換えられてるかもしれない?」
「可能性です」
「じゃあ、何を信じればいいんですか」
思わず口から出た。
自分でも少し強い言い方だったと思う。
こよみは黙り、藍が恋を見た。
「一つの情報を信じるのではなく、複数の異なる情報源を比較します」
「……異なる情報源」
「はい。学校のデータ、こよみの内部記録、私が外部へ保存している記録、紙媒体、会計資料、校外の情報。改変されていない可能性の高いものを一つずつ照合します。他に違和感に気づいた人間がいるか調査し、その者の証言を取るのも良いでしょう」
藍は机上の端末へ目を落とした。
「そして、矛盾そのものを手掛かりにします」
その言葉に、恋は黙った。
「そのため、恋」
「はい」
藍の赤い瞳が、まっすぐこちらへ向いた。
「可能な限り、ミレイさんへ単独で接触しない形で情報収集をお願いします」
「分かりました」
恋はすぐに頷いた。
「校内で見かけた場合も、話しかけない方が良いですよね」
「必要がない限り、追いかけないでください」
「はい」
「逆に、向こうから話しかけられた場合は?」
「会話を拒絶する必要まではありません。ただし、二人きりになることは避けてください。会話内容も、可能な範囲で覚えておいてください」
「分かりました」
「また、違和感を覚えた場合はすぐに私かこよみへ知らせてください」
「はい」
返事をしながら、恋は何度も頷いた。
今回ばかりは、反論する気にもならない。
知らない相手。
金曜日まで存在しなかった少女。
月曜日には、誰もが以前からいたと思っている少女。
人の記憶だけでなく、学校の記録まで書き換えているかもしれない存在。
そんな相手へ、自分一人で近づく勇気などあるはずがない。
少なくとも――
この時の桜川恋は、心の底からそう思っていた。




